其の七 六花将は平原に干城殺陣を敷き、鶺鴒は臨淄に昔日の幻影を視る
魔軍に包囲された臨淄を救うため、朝顔たち華将は魔軍の拠点・平原を攻め、攻囲軍を撤退させることに成功する。
そして魔軍殲滅を期して、沼沢地に決戦場を求めた智将・菊の意図とは?
【幕前】
大陸の東にある大国、大秦帝国。
皇帝・姫節の8年目に、大きな流星群が帝国を襲った。
その後2年、帝国は干ばつや洪水などの自然災害だけでなく、どこからともなく現れた妖魔たちの跳梁に苦しんでいた。
辺境、村落、都市と場所を選ばず出現する妖魔に、帝国も対応の術を失いつつあった時、稀代の方士と呼ばれる楊天権は、古の応竜と六花将の復活を感じ取った。
この物語は、運命に縛られた青年・姜黎則天と、六花将・朝顔を中心とする物語である。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
華将・芍薬は用心深い。
彼女は『四霊筆頭・応竜の眷属たる鬼神』という自分たちの力を決して過大評価していなかった
「花王殿、平原にいかほどの兵力があるか調べはついていますか?」
緋色の髪の下に強い光を放つ瞳を、華将・椿に向けて訊く。
椿は、紅の瞳を持つ眼を細め、静かに答えた。
「平原には3師・7千5百の兵がいます。三人の魔軍校尉がそれぞれ1師ずつ率いているようですね。守備は北門が最も手薄です。濁河に依託しているからでしょうね」
「物資を集積している場所は分かっていますか?」
芍薬の問いに答えたのは、黄土色の髪をしたまだ子ども子どもした華将・菊だった。
「乾門の一角が軍需物資を集積している倉庫になっているようじゃ。北門を無視するなら、西門が最も近いの」
それを聞いて、芍薬は
「では、私は西門に、花王殿と花剣は東門に、そして君子は北門に攻撃目標を振り当てます。まず私が西門から掛かりますから、頃合いを見て君子、あなたも攻撃を開始してください」
薄く笑顔を浮かべたまま、芍薬はそう言う。
「偽撃転殺の計か。それもいいだろうが敵も北門に弱点があることは重々承知しているはずだ。易々と引っ掛かってはくれないだろう」
『花剣』と呼ばれる華将・菖蒲が言うと、椿は首を振って
「花相殿はそれも想定の内みたいです。
私たちは敵が西と北に兵力を集め出したら攻撃を開始すればよいのでしょう、花相殿?」
そう、ほとんど不吉とさえ言えるような笑顔を作って言う。
芍薬もそれに負けず劣らずの笑顔で答えた。
「さすがは花王殿、そのとおりです。こちらの花精はまだ全力発揮は難しいですが、敵に舐められないよう派手に戦ってください。
この戦いで我ら華将の復活の狼煙を上げるとともに、応竜様に安心していただくのです」
芍薬の言葉に、他の三人もうなずいた。
平原の都城の中では、二人の魔軍校尉が暇を持て余していた。
「せっかく暴れてやろうと思っていたのに、留守番なんてついていないぜ。おまけに班伍州、お前のような意気地なしと一緒だなんてぞっとしない話だぜ」
カマキリに似た男が、目の前に突っ立った赤ら顔のサルのような男に悪態をつく。班伍州と呼ばれた妖魔サルは、そんな悪態も聞こえないように
「まあそう言いなさんな、甘持宝の旦那。旦那が前回張り切り過ぎたんじゃないんですか。
それより鉄豺狼様がいよいよ臨淄の攻略にかかるみたいですよ? 臨淄が落ちたら、どうせ後片付けに呼び出されるんですから、早めに物資をまとめておいた方がいいんじゃないすかね?」
そう、黄色い歯をむき出して笑う。
甘持宝は、班伍州の笑顔を見て虫酸が走ったように背中の羽根を震わせて怒鳴るように言う。
「お前から指図を受ける筋合いはねえ! こっちもそのくらいの準備は進めている。
そんなことよりお前が守る西門は物資の集積地に一番近いんだから、不覚を取って門を抜かれたりするんじゃねえぞ!?」
「何を言い合ってるんだい?」
「あ、廉孔雀様」
甘持宝も班伍州も、部屋に入って来た人狼を見て口をつぐむ。人狼は黙ってしまった二人の顔をかわるがわる眺めると、呆れたように肩をすくめて言った。
「アンタたちが宋の攻略戦以来しっくりいってないことは知ってるけれど、同じ鉄豺狼様率いる魔軍に所属していることは忘れないでおくれよ?」
「はい、それは言われるまでもなく……」
甘持宝が汗を拭きながら言うと、廉孔雀はそれにかぶせ気味に
「だったら、こんな所で言い争いなんかしていないで、持ち場に就くんだよ! 西門と北門に変な力を偵知したんだ。今、北方諸州でアタシたち妖魔を手にかけている方士かもしれないから、油断するんじゃないよ!」
そうまくしたてると、
「アタシは南門を動けないから、甘持宝、アンタの部隊の一部を北門に回しな、いいね?」
そう指示すると、二人の返事も待たずに部屋を出て行った。
「……誰が来やがったか知らねえが、いい退屈しのぎになるぜ。班伍州、西門は抜かれるなよ?」
甘持宝は立ち上がると、班伍州を蔑むようにそう言った後、彼もまた慌ただしく部屋を出て行った。
「俺もこんな所でぼーっとしているわけにはいかないな」
甘持宝の後姿を憎々し気に見ていた班伍州も、そうつぶやくとゆっくりと自分の部隊へと足を向けた。
「私は察慎郷の住人、華将六花の水将、花相・芍薬。平原を妖魔の手から奪回し、世の安寧を取り戻すために参りました。
汝ら妖魔よ、速やかに門を開き平原を解放して魔界に戻れ。さもなくば応竜様の名のもとに、汝らを悉皆消除せん!」
西門の前で、華将・芍薬が名乗りを上げた。彼女は袖の開いた袍を着て、地面に届くくらい丈の長い裳を穿いている。
その上から袖の付いた革鎧と直垂を着け、手には大身の穂先が付いた手槍を持っている。
そして彼女の後ろには、彼女と寸分違わぬ恰好をした戦士たちが槍や弓、長剣を携えて整列していた。その数5百人。
遠い昔の『蚩尤の大乱』、あるいは『魔寇』と呼ばれた戦いを経験した者や、その話を聞いたことがある者だったら、芍薬の名乗りを聞き、彼女の引き連れた花精部隊を見て、早々に抗戦を諦めたかもしれない。
しかし生憎なことに、平原西門にいた妖魔たちは誰一人、『魔冦』のことを知っている者はいなかった。2千年も前のことだから仕方ないことではあるが。
そして、西門を守っていた班伍州も
「相手はたかだか1旅(5百人)だ、目にもの見せてやる」
そう言うと、麾下の2千5百挙げて城外に討って出て、芍薬に名乗りかけた。
「俺は青州魔牧・鉄血豺狼様の麾下で魔軍校尉の班員字は伍州。
精鋭ぞろいの我らに対して、わずか1旅で攻め寄せるとは無謀にも程があるぞ。
妖魔とて憐憫の情はある。そこから軍を返せば命だけは助けてやる!」
槍を身体の右側に立て、胸を張ってそういう姿は、班伍州の生涯で最も輝いた瞬間だったかも知れない。
芍薬は班伍州の口上を聴くと、片頬で笑って答えた。
「古の大乱のことも知らぬ黄口児が、一人前の口を利くものですこと。そなたは次に生まれてくる時、『温故知新』という言葉の意味をよく考えたがいいですね」
そう言うと、緋色の髪に見え隠れする琥珀色の瞳を光らせて、手槍の石突をドンと地面に突き立てながら、仙力を開放する。
「柔水却殺」
ドバン! ブシャアアッ!
「あがっ!?」
班伍州は、足元から突きあげて来た水流に身体を貫かれ、それだけではなく体幹は水の圧力を内側から受けて風船のように弾け飛んだ。
「……水は柔弱に見えて却って人を殺すもの……奔流の力、身をもって味わいたくなければ、そこを退きなさい」
芍薬が手槍を持ち直し、花精たちに突撃を命じようとした時、
ジャーン、ジャーン!
城内から退き鐘が鳴った。
それを聞いた妖魔たちは我先に城内へと駆け込み、城門をピシャリと閉じてしまった。
「……いい指揮官がいるようですね。君子の方はどうなっているかしら?」
妖魔たちの撤退を見た芍薬は、そうつぶやいて北門に視線を向けた。
北門には、菊が掛かった。
「拙は貴君郷の住人で華将六花の沢将、君子・菊。おとなしく降伏したほうが身のためじゃと思うがの」
水干と臙脂色の袴を身に付けた菊は、自らの身長を超える長弓を引き絞り、
「拙の可愛い花精たちを一輪たりとも無駄にしとうない。汝ら妖魔よ、動くでないぞ。澱水!」
と、仙力を込めた矢を天空に向けてひょうと放つ。
「あのちび、どこに矢を射てやがる」
城壁の上にいた妖魔たちは、菊の矢がどう見ても自分に当たりそうもないと見て取ると、余裕で菊を嘲り始めた。
だが、その余裕は、菊の矢が落下を始めると驚愕に変わった。菊の矢は落下を始めると数百、数千に分裂し、まさに雨のように妖魔たちの頭上から降り注いできたのだ。
「うわあっ!」
「何だこの矢は!?」
妖魔たちは矢から逃れようと右往左往している。そんな妖魔たちに矢は容赦なく降り注いだ。
ズシャシャシャシャッ!
「あ、あれ?」
妖魔たちは、矢が確かに自分を貫いたと思ったが、死ぬわけでもなく、痛みもないことに気付いて怪訝な表情をする。しかし次の瞬間、彼らは菊の『澱水』が持つ厄介な効果を知ることになった。
「か、身体が動かない?」
「どうしたことだ? 別に痺れてもいないのに」
妖魔たちが騒ぐ中、菊は再び矢をつがえ、
「奴らにはいろいろと使い道がある。拙の駒になってもらうとしようかの。落水!」
バシュン!
『澱水』の仙力によって動けなくなった妖魔たちの上から、網をかぶせるように矢を放つ。それは先ほどと同じように、敵の頭上で数千もの仙力の矢に分裂して襲いかかった。
ドシュドシュドシュッ!
「うえっ!」「むううっ!」
妖魔たちは、再び矢に捉えられたが、今度もまた痛くもかゆくもなく、死にもしないことに恐怖を覚えた。
(あの鬼神が使う仙力は、自分たちに効かないのではなく、鬼神の思いどおりに自分たちを動かすためのものだ)
そのことに気付いていたからだ。
案の定、矢を受けた妖魔たちは、恐怖も不安も感じなくなり、いや、何も考えられなくなってしまった。
敵の妖魔たちから『自我』が消えたことを感じ取った菊は、にんまりと笑って
「ふふふ、計画通りじゃな。さてと……」
そうつぶやくと、後ろに控えた花精5百人に、
「敵は動けぬ。今のうちに突入して城門を開けるのじゃ」
晴れ晴れとした顔で命令した。
「北門が抜かれただと!? お前たちは何のために北門に遣わされたか分かっているのか? たった5百の小部隊に門を明け渡すなんて、やる気はあるのか!?」
東門を守っていた甘持宝は、逃げのびてきた部下から華将・菊部隊の北門制圧を聞いて嚇怒した。
赫怒しながらも、このままでは西門も物資も危ないと感じた彼は、舌打ちしながら部下を糾合する。
「ちっ! これから北門を奪還し、城内に入り込んだネズミを駆除する。みんな俺に続け!」
甘持宝はとりあえず5百の手勢を連れて北門に向かった。
菊は、西門がまだ芍薬の手に落ちていないことを知ると、
「西門の敵は花相殿とのにらみ合いで動けぬじゃろうが、東門からの援軍が来る可能性は高いの」
そう言って、先ず捕虜にした甘持宝部隊の兵士たちの前に行き、
「そなたたちを釈放するが、拙はそなたたちの働きに期待しておるぞ。皆の者、拙の可愛い駒たちに報酬を前払いしてつかわせ」
そう命じると、菊と寸分違わぬ5百の花精たちは無表情に妖魔たちに近づき、一人一人に接吻して回る。
妖魔たちは、花精のくちづけを受けると、ぼうっとした表情で城の東門へと歩き出した。
「いかに策とはいえ、拙と同じ顔の花精たちがあのような者どもに接吻するのを見るのは複雑な気持ちがするもんじゃの。拙のくちびるはやはり、応竜様に捧げたいものじゃ」
菊はそんなことを言いながらも、妖魔たちの群れを半眼にした鋭い目で見つめていた。
そんな事とは知らず、甘持宝は進撃の最中で北門から逃げて来た部下たちと出会い、その数が5百に上ることから、
「お前たち、無事だったか。これで北門を取り返すのは造作もないことだ」
彼らを部隊に加えて上機嫌で進撃を再開した。
そして、菊が守備を固めている北門に着くと、
「俺は青州魔牧・鉄血豺狼様の麾下で魔軍校尉の甘言、字は持宝。妖蟲の恐ろしさを身をもって味わってもらおう。覚悟せよ!」
そう名乗りを上げた。
菊は幼い顔をほころばせながら、自分の背丈を超える長弓を携えて陣頭に立つと、
「拙は貴君郷の住人、華将六花の君子・菊という者じゃ。わざわざ首を授けに来るとはそなたも奇特な魔物じゃな。拙の駒たちよ、褒美に見合う働きを見せよ!」
「なにっ!?」
菊の言葉を聞き、背後からの殺気を感じた甘言が振り向くと、先ほど部隊に加えた者たちが物も言わずに仲間たちに斬りかかって行くのが見えた。
「何だ貴様ら! 落ち着け、同士討ちをするな!」
甘言が叫ぶが、もはや事態は収拾できないほど混乱の度を増してきた。
正気を保っている部下たちも降りかかる火の粉は払わねばならず、本意ではないにしても仲間を倒さねばならないと腹を括っているようだった。
「くそっ! これが華将のやり方か!?」
裏切り者を突き伏せながら歯噛みして言う甘言に、菊は矢をつがえながら答えた。
「戦じゃからな。勇あるものは勇を揮い、智あるものは智を絞るだけじゃよ」
ヒョンッ! ズブシュッ!
「が!?」
甘言は菊の矢で真額を射抜かれ、一声上げると目を見開いたまま仰向けにどうと斃れた。
班員が討ち取られた西門を辛うじて守ったのは、平原の守備を任されていた魔軍校尉・廉孔雀だった。彼女は寄せてきた敵が華将と聞き、
「相手は2千年前、蚩尤様を封じた応竜の眷属と聞く。班員や甘言では手に余るだろう。場合によっては一時的にこの城を敵手に委ねるもやむなしだね」
そう考えていたのである。
そのため、芍薬の攻撃前に班員の残存部隊を撤収させ、西門を閉じたのは成功だったが、北門の菊による奪取、それに続く甘言の戦死と部隊の壊滅、さらに東門からの菖蒲と椿の突入を聞き、
「もはやこれまでだね。いったん鉄豺狼様の部隊と合流し、捲土重来するよ!」
と、5千ほどの兵を連れて南門から脱出してしまった。
「敵の大方は逃げ散ってしまったが、牽牛朝顔や山茶花は大丈夫だろうか?」
東門の上で菖蒲がつぶやくのに、菊は笑って答えた。
「心配要らぬ。魔牧の本隊を引きずりだすのがこの城を奪還したもう一つの目的じゃからの。そこでおんしと花王殿に頼まれてほしいんじゃが」
★ ★ ★ ★ ★
邯鄲城外では、朝顔と山茶花が暴れまくっていた。
二人とも華将六花きっての対複数の接近戦を得意とする華将だが、その戦い方はやはり違う。
「消如松露・散!」
朝顔の仙力が半径2里(この世界で約5百メートル)の紫紺色の瘴気に満たされた空間を創る。
「おがああっ!」
「か、身体が融ける!?」
その空間内にいる妖魔は、ことごとくその瘴気によって消滅するのだ。
朝顔は仙力を空間に作用させ、空間そのものを罠として戦っているのに対し、
「せっ! やっ!! はあーっ!」
バムッ! ドガッ! ズブシュッ!
山茶花は両手に大小の刀を閃かせ、物理的攻撃を主体にする。
もちろん彼女も仙力を使うが、それは自身の身体を覆う火焔となって発現する。この状態を山茶花は『焼尽之舞』と呼んでいる。
「鉄豺狼様、呉滴蘭が討たれました! ここはいったん退き、態勢を立て直しましょう」
友軍随一の闘将、魔軍校尉・呉操の戦死を聞いた妹の呉歓は、本陣の横に部隊を動かして大将たる魔牧・鉄血に兄の戦死を告げた。
「……」
鉄血は黙って前線を見つめている。魔軍校尉が討たれたからといってその部隊が壊滅したわけではない。現に呉操隊は多少押し込まれはしたが、まだ呉歓の指揮で戦っている。
勝敗は兵家の常とは言え、下の文字を使ったことがなかった鉄血は、部下が戦っているうちに陣を下げるのを潔しとしなかった。
しかし、その彼女を動かす事態が生起した。
魔軍校尉の夜蛾は『呉滴蘭の戦死』以上に重大な報告を受け取り、すぐさま本陣の大将たる魔牧・鉄血に意見を述べる。
「臨淄どころではない報告が入りました。我が本拠の平原が敵に奪取され、物資をすべて奪われました。すぐに奪回せねば、わが軍は立ち枯れてしまいます」
この報告を聞き、鉄血は頭を鈍器で思いっきり殴られたように一瞬よろめいたが、すぐに立ち直り、
「何たることだ! 守兵は何をしていた!? 7千5百もいて平原を守れなかっただと?」
憤激して夜蛾に訊くのであった。
夜蛾は静かに、
「判明していることだけ申し上げますと、相手は約2千ですが、とんでもない強さだったそうです。留守を任せていた魔軍校尉の甘持宝と班伍州はあっという間に討ち取られたと、生き残った廉孔雀が言っておりました」
そう言うと、いきり立つ鉄血をなだめるように、
「鉄豺狼様、私は廉孔雀の話を聞いて、相手は華将なのではないかと思っています。
ご存じのとおり華将は昔、蚩尤陛下が天下の権をほぼ手中に収めた時、最後の土壇場でそれをひっくり返して蚩尤陛下を封印した応竜の眷属たる鬼神。
もし彼女らが目覚めたのだとしたら、当然応竜も目覚めているはずです。ここは臨淄を諦めてでも本拠を奪回し、幽州の魔牧・業電解殿や并州の砕群狼殿、兗州の髑餓狼殿、徐州の崔志権殿と連携し、できれば北部魔王の周恋愛様にもご出馬を願った方が良いかと考えます」
そう献策する。
鉄血は夜蛾の言葉を聞き、怒りを鎮めて眉を寄せていたが、
「……兵はいかほど残っておるか?」
夜蛾に訊くと、彼女はすぐさま答えた。
「ここに2万5千、廉孔雀が連れてきた兵が5千ございます」
すると鉄血は臨淄の城壁を血走った目で睨んでいたが、
「よい! 華将とやらを始末すれば、いつでも手に入る城だ。夜蛾、すぐに平原に向かうぞ。華将とかいう鬼神の風上にも置けぬ奴らを叩きのめし、本拠を奪回するのだ」
そう吐き捨てるように言った。
「魔軍が退いていくぞ!」
邯鄲の城壁上から朝顔たちの戦いを見守っていた黄洪は、鉄血部隊がゆっくりと西へ移動を開始するのを見逃さなかった。
「隊長、追撃をかけますか?」
部下の兵士たちが勢い込んで訊くが、黄洪は
「いや、敵の撤退ぶりを見ると、敵にはまだ余力がありそうだ。華将のお二方の指示を待ってからでも遅くはない」
そう言って、軽々しく敵を追撃しようとはしなかった。
そこに朝顔と山茶花が戻って来た。二人もまた、急追を避けたのだった。
「おっ、敵に追撃をかまさんと城を守ってたんはさすがやな。あいつらは平原が陥ちたことを知って急いで引き返しただけやさかい、追ったら酷い目に遭うとこやったで?」
朝顔がニコニコ顔で言うと、山茶花も微笑んで
「朝顔ちゃんの言うとおりです。それより、早く関・呂の2将軍に連絡を取り、臨淄の防御を固めることをお勧めします。平原付近で魔軍が敗れたと聞いたら、残敵掃討はお任せいたします」
そう、黄洪に言う。
黄洪はうなずくと
「分かりました。お二人のことを州牧に伝える時に、併せてお二人からのお言伝として報告しましょう」
そう言って笑うと、真剣な顔で二人を礼拝する。
「誠にお二方は臨淄の救世主でございました。州牧・徐秋穂、校尉・高致遠に代わってお礼申し上げます」
「そ、そんなんええって。うちらかて応竜様の命令で動いとるだけなんやから、改まってそない言われると背中がくすぐったいやんか」
朝顔が照れながらそう言うと、山茶花も桃色の髪を指でいじりながら
「そうです。私たちがどれだけ奮闘しようと、そもそもあなた方人間が臨淄を諦めていたなら、どうしようもなかったのです。あなた方の努力が報われたってことですよ?」
そう言うと、朝顔に笑顔を向けた。
「じゃ朝顔ちゃん、あたしたちはそろそろ奴らを追撃よ。お姉さまたちの仕掛けた罠を閉じて差し上げないとね?」
「臨淄の戦況はどうなっているでござろう?」
姜黎は鶺鴒に支えられながら、曲阜城の城壁の上に立っていた。毒に冒された身体は命の危険こそなくなっていたが、完全復活まではまだほど遠い状態だったのだ。
「姜黎さま、そんなに心配なさることはございません。朝顔も山茶花も一騎当千の華将です。それに比べて妖魔の方は主だった者が討ち取られたら途端に統率を乱してしまうでしょう。姜黎さまはそんなに朝顔のことが信じられませんか?」
鶺鴒は朝顔に対する妬ましさを感じながらも、努めて平静を装って言う。
姜黎は左の腰に佩いた『青海波』の鞘を撫でながら、首を振って言い訳がましく言う。
「い、いや、朝顔たちを信じていないわけではござらんが、なにせ今回は彼我の戦力差が余りにも大きい故、心配なのでござるよ」
「姜黎さま、芍薬殿や菊殿はそのために作戦を立てられていたのではございませんか?
こと作戦が動き出したなら事態の推移に注意を払うべきだと、わたくしの兄弟子も申しておりましたので、翔鶴と瑞鶴に情報を入手するよう伝えております。
お心を悩ませるのは、情報が手元に届いてからでも遅くはございませんよ?」
鶺鴒は手回しが良かった。天権のもとで仙人修行をしていた彼女であったが、
『仙道修行の神書より、兵書や歴史書の方が読んでいて面白かったです』
そんなことを姜黎にも語ったことがある鶺鴒だった。
「……分かったでござる。鶺鴒殿がそこまで手を打っておられるのであれば、拙者はもう少しおおらかな気持ちでいることといたそう」
姜黎がそう言ったまさにその時、朝顔が姿を現した。
「あっ、応竜様。ちゃんと牀に横になっとかんとあかんやん。鶺鴒、アンタもアンタや。ちゃんと応竜様を見張っとかんと、応竜様ってばすぐに無茶すんねんで?」
突然現れた朝顔を見て、姜黎は喜ぶと同時に心配も萌して訊く。
「おお、朝顔。臨淄の戦況はどうでござるか? 山茶花殿はいかがいたした? まさか戦況が思わしくないので、拙者たちに後詰の依頼にでも?」
朝顔は破顔一笑して答えた。
「イヤやなぁ、応竜様ってば。うちたち華将があないな敵に苦戦するはずがないやん?
うちは山茶花から言われて、応竜様たちに臨淄へ移ってほしいちゅうことを伝えに来たねん。臨淄を囲んでた敵はうちらが追っ払ったさかい、安心して臨淄に来てほしいねん。
奴らはすでに青陵の険を過ぎて平原に向かっとるさかい、曲阜が襲われる心配はなくなったで」
それを聞いて、姜黎はホッとした顔をすると
「さようでござったか、それは何よりでござる。しかし妖魔軍の主力はまだ健在であろう? 拙者も加勢致そうか?」
そう、朝顔に訊く。
朝顔は嬉しそうに笑ったが、すぐに笑顔を納めて首を振った。
「えへっ、菊ちゃんは応竜様がそう言うやろうなって言うとった。
せやけど応竜様、今回はまだ応竜様の出番やないねん。妖魔の軍を蹴散らすのんはうちら華将の役目。そして妖魔の魔力の残滓を封じ、場を浄化するのが応竜様の仕事や」
そして朝顔は鶺鴒を見て、ちょっぴりうらやましそうに言う。
「……ということや。鶺鴒、応竜様のこと頼んだで? うちが華将やのうてあんたみたいな仙人やったら、ずーっと応竜様から離れへんのやけど」
「……朝顔……」
鶺鴒は朝顔の顔を見て、ちょっと言葉に詰まったが、すぐにうなずいて
「分かりましたわ、姜黎さまのことはご心配なく。あなた方華将の応竜たる存在、わたくしも天権様のお名前にかけてしっかり守って見せます」
そう言うと、朝顔はニッコリと笑って
「おおきに、あんたにそう言うてもらうとうちはなーんも心配せんと戦えるねん。応竜様、うちらは婁陵付近で妖魔たちを叩き潰す予定やから、心配せんと待っといてんか」
そう言って、現われた時と同じように唐突に姿を消した。
「……朝顔は妖魔たちを婁陵で待ち伏せするつもりですわね」
朝顔の姿が消えると、鶺鴒がそうつぶやく。
「拙者たちも行くでござるよ」
姜黎が居ても立っても居られない様子で言うのを、鶺鴒は優しくなだめた。
「わたくしたちが行っても邪魔になるかもしれません。それより、朝顔が言ったとおり、臨淄の『場』を整えることが先決だと思います」
鶺鴒は姜黎を落ち着かせるように耳元でそう言うと、目をしっかりと見て付け加える。
「華将はあくまでも鬼神、魔を祓えても魔を改心させて魔に包まれた空間を解除することはできません。それができるのは、応竜たる姜黎さま、あなただけなのです」
碧眼を細めて考え込む姜黎に、鶺鴒は止めを刺すように笑って言った。
「姜黎さま、ここは朝顔たち華将を信じて、臨淄でご自分しか出来ないことをしていただきますようお願い申し上げます」
★ ★ ★ ★ ★
ここで一旦、戦場を概観してみる。
青州の州都である臨淄を中心に見ると、曲阜は南西約720里(約180キロメートル)の位置にあり、平原は臨淄の北西480里(約120キロメートル)である。
姜黎と鶺鴒が曲阜から臨淄へ移動を開始したころ、華将・芍薬をはじめ菊、菖蒲、椿たちは平原から南東80里(約20キロメートル)ほど進出した婁陵の沼沢地に陣を構えていた。
婁陵は東西2百里(約50キロメートル)、南北8百里(約2百キロメートル)にも及ぶ大沼沢地で、遠目にはだだっ広い平原としか見えない。ここからは遠く濁河やその支流である徒該河が見え、天候の具合によっては臨淄の南東を託する仰天山すらうっすらと見えることもあった。
「じゃからこそ、この葦が生い茂った沼沢地は恰好の罠となりえるのじゃ」
華将・菊は、葦を揺らして吹き過ぎる初夏も近い風に黄土色の髪をなぶらせながら言う。
「古来、陣は水を得やすい乾いた高みに敷くを吉とし、疫病が潜む沼沢地を避けるのが基本です。兵法に明るい君子のことですから、採算があって敢えてここで敵を待ち受けるのでしょうが、諸将のために作戦の玄機を説明してもらえませんか?」
芍薬が言うと、菊は可愛らしい顔をくしゃくしゃにして笑い、
「そうじゃな。この後の展開もみなに知っておいてもらわねばならん。湿原の木道を歩きながら話そう」
そう言うと、先に立って湿原へと歩き出した。
菊は、沼沢地を通行するために造られた木道を歩きながら言う。木道は大秦帝国の2代皇帝であった太宗姫策が初めて造成した。以後歴代皇帝によって補修や改造が行われ、今では水面からの高さ3尺(約90センチ)、幅3間半(約6・3メートル)になっている。
「この木道のおかげで、通行に難儀しておったこの沼地も馬車で通れるようになった。
この道は臨淄と平原を直線に結んでおる。一刻を争う妖魔たちは、この木道を必ず通る。婁陵を迂回するとなれば百里から2百里も遠回りせねばならんからのう」
菊はそう言うと三人を見た。椿がうなずいて言う。
「臨淄を囲んでいた敵が平原を救うためにここを通るという君子殿の意見には賛同します。そして付け加えるなら、敵がここを通るのは真夜中でしょう」
「なぜ、そんなことが判る? 沼沢地はただでさえ部隊の移動には向かない。ここに着いた時夜中なら沼沢地の入口、すなわち東側で野営陣地を張るんじゃないか?」
菖蒲が不思議そうな顔で訊くと、菊はにかっと笑って答える。
「夜間、行動を制限される沼沢地がある場合は、それを背にするのはセオリー違反。菖蒲は華将きっての将帥じゃからそう思うのじゃろう、それが正解じゃからな。
敵に菖蒲のように考える将が一人でもおったら拙の作戦はおじゃんになるところじゃが、ここで拙らに有利に働くのが『沼沢地の位置』と『沼沢地の通過時間』じゃ」
「確かに、3万もの軍が通過するにはかなりの時間を要するだろうな。それで『沼沢地の位置』とは?」
菖蒲が訊くと、菊ではなく椿がうなずいて菖蒲に訊いた。
「花剣殿、仮にあなたが魔軍の将として、平原をどう攻めたいですか?」
菖蒲は言下に答えた。
「夜襲か黎明の奇襲だな。数が多いと言っても華将を相手にするなら不意を突く方が、こちらの損害も少なくなるだろうからな」
そしてすぐに気づいてうなずく。
「なるほど、だったら攻城準備や部隊展開の時間を稼ぐため、通過に時間がかかりそうな沼沢地は早めに渡っておいた方がいいな」
菊もうなずいて続ける。
「うむ、ここから平原まで80里(20キロ)。妖魔じゃから80里は半時(1時間)もあれば移動できよう。
じゃったら6点(午前6時)の黎明に城壁に取りつくには朝餉は5点(午前4時)には準備したいじゃろう。80里も離れていたら、城からは敵の炊煙に気付けんじゃろうしな」
「……婁陵の沼沢地渡渉中、我らの攻撃があるとは思わないのでしょうか?」
三人の話を聞いていた芍薬が訊くと、椿が微笑みながらうなずいて言った。
「芍薬殿、君子殿が平原の城頭にあるだけの旗を並べられたのはそのためです」
「なるほど、我らは華将といえども多勢に無勢。魔軍との野戦を諦めて籠城戦をすると思わせたのですね?」
「その通りじゃ……おお、ここは恰好の場所じゃな」
一行は、いつの間にか沼沢地の中にある小さな島までやってきた。そして菊は島の中央にひときわ背の高い木を見つけると、自分の頭の上辺りの樹皮を剣で削って、
「花相殿、気の毒な敵将の名は何と申したかな?」
そう笑って訊いた。
「急げ! 平原を取り戻し、華将などという鬼神の風上にも置けぬ奴らの首を城門に並べてやるんだよ!」
臨淄の攻略を心ならずも放棄せざるを得なかった魔牧・鉄血は、3万の軍の尻を叩いて遮二無二平原を目指していた。すでに最も危険が予想された濁河や徒該河も思いの外すんなりと渡り、
「次の難関は婁陵の沼沢地。そこを越えれば平原は指呼の間にある」
後陣にいた鉄血軍の軍師ともいうべき魔軍校尉・夜蛾は、額にある五つの目で茫洋と広がる沼沢地を見てつぶやく。先頭を承った魔軍校尉の廉鳳が率いる1万はもう沼沢地の入口に到着しようとしていた。
「沼沢地には葦がつきもの。木道を長く伸びた隊形で渡る軍には火計に嵌る恐れがある。周囲を丁寧に偵察せよ」
夜蛾はそう言うと、数千のヤママユガを放って婁陵の沼沢地や平原城を入念に偵察させた。その結果、
「平原城には敵の旗が林立し、多くの兵士たちが守備に就いています。こちらの兵力は知っているでしょうから、籠城を選んだのかもしれません」
「婁陵の沼沢地には敵影なし!」
最も欲しかった敵情が判明し、夜蛾は少し愁眉を開いた。
彼女は早速、偵察情報を持って鉄血のもとを訪れ、夜間の婁陵踏破を勧めた。
「婁陵は最も狭い所で80里(20キロメートル)、部隊が平原側に渡り切るまで2時(4時間)はかかります。
今、1点(午後8時)ですから、いったん大休止し、疲れを取ったうえで木道を進めば遅くとも4点(午前2時)には渡り切ることができるでしょう」
夜蛾が言うと、鉄血も
「そうだね。そして6点(午前6時)の黎明時に攻撃開始っていうわけだね? くくっ、甘言や班員の仇はすぐに取ってやるさ」
そう言って豪快に笑った。
魔軍3万は、婁陵の東で半時ほど休憩を取ると、月の光の中、木道に足を踏み入れた。
「万が一敵の攻撃があった場合を考えて、鉄豺狼様が最初にお通りください」
軍師の夜蛾はそう言って、廉鳳、鉄血、夜蛾の順で進んでいた魔軍の順番を鉄血、夜蛾、廉鳳に替えた。
こんな場合、主に中軍が敵に狙われる。大将は中軍にいるのが普通だからだ。そこで夜蛾はわざと鉄血を先鋒に置いた。
「これで先ずは鉄豺狼様の安全を確保できたはず。
仮に敵が火計を仕掛けてきた場合、廉鳳が敵を抑えている間に鉄豺狼様と共に一目散に出口を目指す。敵は討ち捨てになさい」
夜蛾は硬い顔でそう言うと、念のためにヤママユガを部隊側面に展開させた。
「のこのこと入って来たようですね」
魔軍が婁陵の沼沢地にかかったことは、華将・椿が最初につかんだ。
「現状はどのようですか?」
華将・芍薬が訊くと、椿は半眼にしたまま婁陵の沼沢地を見つめ、
「最初の部隊は沼沢地の中ほどまで来ています。隊列の長さは最後尾まで10里ってところかしら。大まかに3つの部隊に分かれているわ」
そう、つぶやくように言った。
「敵の大将はどの隊にいるでしょう?」
芍薬が誰ともなしに訊くと、華将・菊はじれったそうに椿に問いかけた。
「花王殿、前・中・後、それぞれ何か特徴的なものは見えんか?」
「少し待ってください……中軍の側面には蛾が飛んでいるようですね。後軍にいるのは平原を守っていた魔軍校尉ですね」
椿の言葉を聞いて、菊はにぱあっと笑って芍薬に耳打ちする。芍薬は聞きながら目を丸くしていたが、菊が自信たっぷりに
「大丈夫じゃ。やはり魔軍は拙の目を欺けぬようじゃ」
そう言うので、うなずくと菖蒲と椿に言った。
「では出撃準備をしてください。目標は敵の先鋒、そこに敵将鉄血がいます。鉄血だけでなく、できれば二人の魔軍校尉も討ち取り、華将陣第三段・干城殺の恐ろしさを魔軍に知らしめて差し上げましょう」
そのころ、臨淄から敵軍に付かず離れず平原を目指していた朝顔と山茶花は、宵闇が忍びよる頃触接を打ち切り、一散に婁陵を目指した。
「早う芍薬たちに合流せんと、今度の『干城殺』は山茶花がメインやから作戦に支障が出てまうで?」
朝顔が焦ったように言うが、山茶花はにこにこ笑いながら、
「だーいじょうぶ、お姉さまが時間調整してくださるから。お姉さま、あたしがいる所をちゃんと分かっていらっしゃるわ。
それにあたしたちなら、どこからでも奴らの後ろに行けるじゃん?」
そう言うと、星の動きを見ていた。
悠然とした山茶花の態度に、朝顔も持ち前の暢気さが頭をもたげてきたのか、
「せやな、どうせ目一杯暴れなならんのやったら、今のうちにゆっくりせぇへんとな? ほなら、うちはちょこっと寝たろうかな?」
そう言ってごろんと横になる。
「ちょ、朝顔ちゃん! たぶん居眠りする時間なんてないよ? 今ちょうど3点(正子)だから、一時もすれば攻撃開始のはずだよ」
山茶花が慌てて言うが、朝顔はまったく頓着せず、
「かまへんかまへん。うちは半時も寝れればええんや。芍薬や菊ちゃんから連絡きたら起こしてんか、頼んだで?」
そう言ってすうすうと寝息を立て始めた。
山茶花は幸せそうな朝顔の寝顔を呆れたように見つめていたが、フッと笑うと
「まったく朝顔ちゃんったら、あの頃とちっとも変わってないんだから。でも、なんか少しオンナっぽくなってるように見えるのは、あたしの気のせいかな?」
そう言うと、満天の星空を見上げた。
★ ★ ★ ★ ★
「妖魔たちの最後尾が婁陵の中間を過ぎました。先頭はあの島の近くまで来ています」
深夜3点半(午前1時)、鉄血部隊の監視を続けている華将・椿が静かに口を開いた。
「花相殿、今から展開すれば鉄血があの木の下に来る頃に捕まえられる。出撃の指示を」
菊がそう言うのを聞いて、芍薬は椿や菖蒲に命じた。
「出撃します、目標は敵将鉄血。静かに敵を包囲し、松明の光を見たらそれを目がけて矢をたらふくお見舞いしてあげなさい。私が赤い信号を打ち上げますから、君子は火矢を放ち、花王殿と菖蒲は斬り込んでください」
「逃げる敵はどうしますか?」
菖蒲が訊くと、芍薬は笑って答えた。
「牽牛殿や燎原にも少しは敵を残しておいてあげなければ、二人が文句を言うでしょうね」
その頃、山茶花はぐっすりと眠りこけている朝顔に向かって
「朝顔ちゃん、気持ちよく眠ってるところ悪いけれど、そろそろお姉さまたちが行動を起こす時間よ。起きて」
そう声をかける。
朝顔は眼をこすりながら起き上がると、大きく背伸びをして山茶花に訊いた。
「う~ん、よう寝たで。山茶花、いま何時や?」
山茶花は星を見ながら
「そろそろ3点半よ。あたしたちは敵の後ろから近付いて、お姉さまたちの攻撃で後ろに下がってくる奴らを殲滅するのが与えられた任務だから、そろそろスタンバっておかないといけないわ」
心なしかウキウキした声で言う山茶花だった。
朝顔は立ち上がると、可愛らしい顔に酷薄そうな笑みを浮かべて
「そやな。ほんならそろそろ行こか」
そう言いながら、右肩を回した。
「朝顔ちゃん、今度の戦場は湿地帯の中央だから、少し動きづらいと思うけど、何か考えはある?」
山茶花が訊くと、朝顔はにぱあっと笑って答える。
「相手にも蟲妖がおったな。ほんならうちたちも地べたを這いつくばらんと空中戦をせなあかんのとちゃうか? せやないとせっかく罠にはめた敵を殲滅なんてできひんさかいな」
「分かった。それじゃあたしは郷天から花精たちを呼び出すね?」
山茶花はそう言うと印を組み、何かを口の中で唱えだした。
「ええいっ! もっと早く行進できんのか?」
青州の魔軍は、思ったよりも沼沢地の通過に手間取っていた。
「もう3点半だ。予定ではもう沼沢地は越えているはずなのに、何を手間取っている?」
先頭の部隊では魔牧・鉄血が幕僚の妖魔に怒鳴り散らしていた。
「当初出ていた月が隠れたので、進軍速度を落とさざるを得なかったのです。もう沼沢地も5分の4を過ぎましたから、あと四半時(30分)もすれば対岸に着きます」
幕僚がそう言ってなだめていると、先頭の隊から
「前方におかしなものが見えます」
と注進の使者が本隊に駆け込んできた。
「何だい、お前は先遣隊の隊長じゃないか? 部下の指揮を放り出して何やってんだい?」
鉄血が渋い顔をして訊くと、隊長は平伏して、
「すみません。が、余りに妙なものですので、念のため本隊にもお知らせした方が良いかと思いまして」
そう緊張した声で言う。
鉄血はため息をつくと、さっきよりは優しく訊く。
「仕方ないね……で、妙なものって? 敵かい?」
隊長は頭を振って答える。
「敵ではないようですが、何やらぼうっと白く光るものが浮いているので、部下が気味悪がって。敵の罠ではないかと」
途端に鉄血はまた不機嫌な声で
「何言ってんだい!? 妖魔が気味悪がっててどうするんだい?」
そう言うと幕僚たちを振り返り、
「アタシがそれを確認するよ。あんたたちもついておいで!」
そう怒鳴ると、そして隊長にも
「案内しな。つまらないことで進軍を止めたんだったら承知しないからね?」
そう命令した。
鉄血は幕僚たちと共に、
「どけ! 鉄豺狼様のお通りだ!」
木道に5列縦隊で止まっている兵たちの列をかき分けて、先頭までやって来た。
「あれです。あんな感じに光るモノなど見たことがありませんので、みな戸惑っているのです」
隊長が指さす先を見ると、なるほど確かに20間(この世界で約40メートル)ほど先に、白くぼうっと光るものが見える。
鉄血は何も言わずにしばらくそれを眺めていたが、その『光るモノ』が微動だにしないので、薄く笑って言った。
「人間の中にも悪知恵が働く奴がいるんだよ。アタシたちを戸惑わせて進撃を遅らせようって魂胆だろう。さっきから見ていてもちっとも動かないところを見ると、蛍光石でも塗っているに違いない。近くで確かめるよ」
そう言うと、鉄血は幕僚を連れてずんずんと前に進み、やがて『光るモノ』が木の皮を剥がされたものであるのを見ると、
「見てごらんよ。これがあんたたちが怖がっていたものの正体さ。まったく、つまらないことで貴重な時間を無駄にしちまったよ」
そう隊長を怒鳴りつけていた時、その木の裏側を見た幕僚の一人が鉄血に言った。
「鉄豺狼様! こちらに何か書いてあります!」
鉄血は隊長を叱るのを止めて訊く。
「何て書いてあるんだい?」
「暗くてよく見えません」
鉄血は隊長を見て
「松明を持ってきな! 早く!」
そう蹴飛ばすように言うと、自分も木の裏側へと足を運んだ。なるほどこちら側も木の皮が剥がされている。白い幹に何か書いてあるのは解ったが、暗くてよく見えない。
「鉄豺狼様、松明をお持ちしました」
「火を点けな」
鉄血の後ろで何本かの松明が灯され、書かれた文字が見えた時、鉄血は蒼くなって叫んだ。そこには『鉄血豺狼、この木の下に死す』と書かれていたからだ。
「罠だ! 火を、火を消しな!」
ザアアアアアアっ!
鉄血の叫びと共に、周囲から水鳥が一斉に羽ばたくような不気味な音が響いた。
「放てっ!」
暗闇の中に松明の光を見た華将・芍薬、菊、椿そして菖蒲は、間髪を入れず配下の花精に命令を下す。4隊で2千人になる花精部隊から、一斉に2千の矢が魔軍目がけて飛んで行った。
「敵襲だよ! 戦闘態勢を取りな!」
鉄血は叫んだが、
ドシュシュシュシュッ!
「アガッ!」「ヴェッ!」「ギャッ!」
首を絞められた鳥のような声が、魔軍のあちこちから聞こえ始める。
その喧噪をつんざいて、澄んで落ち着いた名乗りが轟く。
「私は察慎郷の住人で華将六花の水将、花相・芍薬。そもそも幽冥を異にせし者どもよ! 破魔の矢に業障を払除せよ!」
名乗りに続いて、
「連続6斉射! 息をつかせるでないぞ!」
芍薬の澄んだ声が響く。魔軍は雨と降る矢に統制を失いつつあった。
「がっ!」「ギャッ!」「うげっ!」
次々と矢を受けて動かなくなる兵たちを見ながら、
「矢を斬り払って木道の下に潜り込め!」
鉄血が下知を飛ばす。しかし木道の下の沼沢地は彼女が思ったより水深があった。
「鉄豺狼様! 水が深くて鎧を着たままでは溺れてしまいま、うげっ!」
ドシュン!
幕僚たちも矢の雨の中、あるいは地面に突っ伏し、あるいは水面に浮かんで動かなくなるのを見て、
「くそっ! ここは地獄かい?」
唇をかんでそうつぶやいた鉄血だったが、漆黒の闇に赤い光が閃き、それと同時に星が墜ちるかのように火矢が飛び交い、周囲の葦をぼうっと燃え上がらせるのを見て、
「もはやこれまで。華将なんぞに名を成さしめるとは!」
悔しげにそう叫ぶと、自らの剣で首を刎ねた。
魔軍3万は壊滅した。
主将たる魔牧、鉄血豺狼は自害。
副将として後軍を率いていた廉鳳孔雀は朝顔に、部将の虎英鏑歌と呉歓讃丰はそれぞれ山茶花と菖蒲に討ち取られ、わずか2千に満たない敵兵が、魔軍校尉・夜蛾薫泉に連れられてこの場から逃走できたに過ぎなかった。
朝の光が白々と戦場を照らし始める頃、芍薬は六花将の面々と共に一面の焼け野原となった婁陵の沼沢地を眺めていた。
「……初戦としてはまずまずの戦果です。けれど、この戦いが妖魔たちの中に広がれば、妖魔を統率する者が黙ってはおりますまい。
華将の目覚めは応竜様の目覚め、妖魔たちは応竜様を狙って総力を挙げて戦いを仕掛けて来るに相違ありません」
芍薬はそう言うと、朝顔の顔を見て微笑む。
「牽牛殿、急ぎ臨淄におられる応竜様を守り、平原に伴ってもらえませんか? 私たちは平原で花精軍を調えてお待ちしていますから」
朝顔は満面の笑みを浮かべ、
「了解や。芍薬、今度の戦い、ええ感じやったで? うち久しぶりにあの頃を思い出したねん。またあの頃みたいに連戦連勝で妖魔たちをヒイヒイ言わせたいもんやな」
そう言うと、虚空に消えた。
「……朝顔ちゃんがいると、雰囲気が明るくなりますね、お姉さま?」
山茶花が言うと、椿は何か真剣な顔をしている芍薬に声をかけた。
「花相殿、今回はあの頃と随分違う……そうお考えですね?」
椿の言葉に、芍薬はあいまいな笑いを浮かべて首を振り、静かな、けれど厳然とした決意を感じさせる声で言った。
「ええ、けれど私たちが目覚めたと言うことは、この世界が私たちや応竜様を必要としていると言うことです。準備が整っていないなどという言い訳や泣き言を言っている暇はありません。ただ私たちは華将としての全力を尽くすだけです」
★ ★ ★ ★ ★
姜黎と鶺鴒が臨淄に入ったのは、朝顔や山茶花が魔軍を追って出撃してしばらくしてからだった。
臨淄は東海で最も大きな町であり、塩の集積地として平原に並ぶ重要な場所であった。
「……平原を押さえた魔軍が狙うのも、故ないことではないでござるよ」
都城を貫く大通りを歩きながら、姜黎は隣を歩く鶺鴒に言う。鶺鴒は琥珀色の瞳を持つ眼を細め、周囲を眺めていた。
それが警戒のためではなく、何かを思い出そうとしているようにも見えた姜黎は、
「鶺鴒殿、ひょっとしてそなたは臨淄に何か見覚えでもござるか?」
そう訊くと、鶺鴒はハッとした顔で姜黎を見て、
「え? そ、そうですわね。わたくしは一度も臨淄を訪れたことはないはずですが、どことなく懐かしい思いがして、つい眺めてしまいました」
そう慌てたように答える。姜黎は優しい瞳をしてうなずくと言った。
「既視感というものでござるかな? けれど、あるいは本当に鶺鴒殿は臨淄を知っているのかもしれないでござるよ。拙者のことは構わぬ故、気になる所があるのなら行ってみるといいでござる」
「え? でも姜黎さまにご無理させるわけには参りません」
さらに慌てて言う鶺鴒に、姜黎は温かな春風のような声で言った。
「思い出が鶺鴒殿にとって重荷となるのであれば、真実を知ったが良いこともあるでござる。鶺鴒殿にとって思い出が心温まるものでござったら、あえて真実を追わないでおくのも一つの選択でござろうがな」
「え?」
鶺鴒は一瞬ぽかんとしたが、すぐに険しい顔をして
「それはわたくしの幼少の頃についておっしゃっているのですね? 朝顔がしゃべったのですね?」
睨むように姜黎の顔をのぞき込みながら訊いた。
姜黎は哀しそうな顔をしながら、済まなそうに言う。
「鶺鴒殿の心に土足で踏み込むような真似はしたくはないでござるが、放っては置けない気がしたのでござるよ。
朝顔も悪気があって拙者に鶺鴒殿のことをしゃべったわけではござらんし、むしろ心配していたでござる。
それでも余計なお世話だと言われればそのとおりでござる。鶺鴒殿が気を悪くしたなら謝るでござるよ」
鶺鴒は姜黎の顔を見て、だんだんと怒気を鎮め、
「……いいえ、感情的になってすみません。ただ、わたくしにとって幼少時はいい思い出ではございませんので、誰にも触れられたくないのは確かです。
でも、姜黎さまが『放っておけない気がした』とおっしゃってくださったのはとても嬉しいです。わたくしもいつかは天権様のもとを離れて人間界で暮らすことになるでしょうが、姜黎さま、その時はわたくしに……」
頬を染めてそう言っているとき、白い道士服の上から袖付きの革鎧を着込んだ男が、何人かの部下とともに駆けてきた。
男は、姜黎と鶺鴒の前で立ち止まると、きびきびとした態度で訊いてくる。
「卒爾ながらお聞きするが、そなたは『追儺面の狂戦士』と呼ばれている御仁ではないか? 俺はこの城で方士隊を任されている黄洪、字は白鷺という者だ」
姜黎は黄洪の容姿を見て、『おや?』と思った。顔の造りや雰囲気がどことなく鶺鴒に似ていたのだ。
姜黎は一つうなずくと、静かに名乗った。
「いかにも拙者は姜黎、字は則天と申す。黄白鷺殿、拙者に何のご用事でござるか?」
すると黄洪は、人の好い笑顔をして答えた。
「今回の妖魔との戦いで、臨淄は華将という鬼神の助けを得られました。その一柱である朝顔殿から、姜則天殿のことをお聞きしていたのです。華将を従える仙力をお持ちだとか。一献差し上げたいので、ぜひ我が陣においでいただければ幸いです」
そして彼は鶺鴒を見て、一瞬戸惑いの色を見せたが、すぐに如才なく
「そちらのお嬢さんは、則天殿のお仲間でしょうか?」
そう言った。その彼の笑顔は、姜黎の言葉で凍りついた。
「こちらは楊天権様のお弟子で、黄鶺鴒殿と申される仙人にござる」
驚愕にも似た表情を浮かべる黄洪に、鶺鴒は静かに名乗った。
「初めまして、わたくしは楊天権が弟子、黄杏、字は鶺鴒。仙号を風塵不留真君と申します。以後よろしくお願いいたします」
鶺鴒は名乗りながらも、黄洪の態度に訝しい表情をしている。姜黎はそんな鶺鴒にうなずくと、黄洪に問いかけた。
「どうされたでござるか、黄白鷺殿? 鶺鴒殿に何か訝しいことでもおありかな?」
すると黄洪は、何かの呪縛が解けたかのように太いため息をつくと、姜黎を見て首を振って答えた。
「いえ、姜則天殿、何でもございません……」
そして澄んだ瞳を鶺鴒に向けて、屈託なく笑って言った。
「風塵不留真君と申されたかな? 実は俺も楊天権様といささか所縁がある者です。天権様はご息災でしょうか? 近況を聞かせていただければ嬉しいが」
「まあ、さようですか。それで天権様とはどのようなご縁が?」
鶺鴒が訊くと、黄洪は遠くを見る目をして
「ある娘を探して天興山に迷い込んだことがありましてね。その時に天権様や杜仲謀殿にお世話になりました。もう5年も前のことですが」
そう言った。
(其の七 了)
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
今回の菊が採った作戦は、春秋戦国時代に孫臏が龐涓を破った「馬陵の戦い」を参考にしました。
僕は個人同士が戦う描写よりも、部隊が知略を巡らして雌雄を決するような描写が好きなので、勢い姜黎や朝顔の戦闘描写が少なくなりがちなんです。
でも、古代中国は指揮官同士の戦いがその場の勝敗を分けることもしばしばあったようですので、そんな感じの書き方になってくると思います。
次回もお楽しみに。