其の五 妖魔は大軍で臨淄を囲み、花王燎原の双子は召命を探索す
妖魔に包囲された臨淄を救うため、朝顔たちが動き出した。
そしてその臨淄に眠っていた二人の華将が目覚める。
華将椿と山茶花の登場。
邯鄲城外に巣食っていた、魔軍校尉・顎喚に率いられたムカデの大群を退治した姜黎と華将たちは、それから1週間ほど邯鄲の宿屋から動けなかった。顎喚と戦った姜黎が毒に冒されていたためである。
「おお、菖蒲。応竜様のお加減は如何?」
部屋の真ん中にある卓で木簡を読んでいた女性が、部屋に入って来た女性に声をかけた。菖蒲と呼ばれた女性は、青い髪に青い瞳をしている。胡服に褐を穿いて、革鎧と膝当を着け、陣羽織を着ていた。
「ずいぶんと良くなられた。顎喚は猛毒を持つムカデが妖となったもの。その毒をまともに吸い込んでおられたから一時は危なかったらしいが、あの鶺鴒という仙人は医薬の心得もあるようだな。
牽牛朝顔は探索に出る寸前まで則天様のことを気にかけていたから、これで彼女も安心するだろう」
「そうですか、よかった」
菖蒲が言うと、問いかけた乙女は安どのため息を漏らし、紅の髪に見え隠れする琥珀色の瞳をやや伏せ気味にして言う。
「探索に出てもらうのは、牽牛殿にとって悪いとは思いましたが、応竜様のためにも次の目的地である曲阜の情報を集めておく必要がございました。
けれど今いる華将で探索向きなのは牽牛殿と君子だけ。私としても苦渋の決断だったのです。牽牛殿が戻ってきたら、好きなだけ応竜様と一緒にいてもらいましょう」
そして、袖口が開いた服の襟を正すと、おもむろに立ち上がる。彼女が穿いていたのは床に届くほど丈の長い裳だった。
「芍薬殿、どちらへ?」
菖蒲が尋ねると、芍薬は胸元から鉄扇を取り出して顔の前で広げて答えた。
「私は華将六花のまとめ役。私たちの主である応竜様がお世話になったのです。看病をしてくれた仙人にも、一言お礼を申し上げなければなりません。花剣、ついて来てください」
邯鄲の中央大通りから二筋ほど東にある通りに面した宿屋の2階。
東に向いた部屋の中で、姜黎は牀に身を横たえていた。紅蓮の狩衣と括袴は桁に掛けられ、黒い戦袍と半袴だけを身に着けている。
姜黎は、大秦帝国のほとんどの者が結髪であるのにも関わらず、ざんばら髪、いわゆる蓬髪だった。
その髪は、差し込んでくる朝の光の中で金色に輝き、白く整った顔立ちも相まって、彼を胡人のようにも見せていた。
そんな彼の横で、乙女が椅子にもたれて眠っている。
彼女は浅黄色の袍を着て短い褐に革の靴を履き、黄色の瞳と黄色のメッシュが入った黒髪をしている。ここ何日かろくすっぽ寝ていなかったようで、目の下には薄く隈ができていた。
彼女は、すうすうと軽い寝息を立てていたが、何かの拍子でがくりと前のめりになり、はっと目を覚ます。
「あ……つい寝入ってしまいました」
そうつぶやくと彼女は目をこすって椅子に座り直し、姜黎の額に手を当ててホッとため息をつく。
「よかった、熱はすっかり下がったみたいですわね」
そう言うと部屋の隅に向かって笑いかけた。
「則天様にもう心配は要りません。熱も昨日以降下がったままですし、息遣いも落ち着いておられます」
芍薬と菖蒲はうなずきながら顕現すると、
「確かに、ここから見ても応竜様の気の流れが通常通りになっているのが分かります。黄鶺鴒殿、本当にありがとうございました」
芍薬が静かに礼を言うと、鶺鴒はゆるく首を振る。さらさらとした髪が絹ずれのような音を立てた。
「則天様は天権様が探されていた応竜。わたくしには則天様を天権様との邂逅の日までお守りする役目がございますから」
「それにしても、君はもうまるまる三日は寝ていない。食事だってろくろく摂っていないだろう? 則天様の容態が落ち着いたのなら、少し休んだらどうだ?」
菖蒲が心配して言うが、鶺鴒は疲れた顔で微笑んで答えた。
「ご心配には及びません。則天様をお世話している時間は、わたくしにとって至福の時間でございました。則天様がお目覚めになられてから、ゆっくり休みます」
その言葉と表情に、鶺鴒の決意と安らぎを感じ取った芍薬は
「……分かりました。それでは引き続き鶺鴒殿に応竜様の看病をお願いいたしますが、くれぐれも無理はしないでください。お目覚めになった時あなたが倒れていたら、応竜様はきっと悲しまれますから」
そう言うと、菖蒲とともに姿を消した。
芍薬と菖蒲が最初いた部屋……芍薬の『郷天』に戻ると、身長140センチくらいの、どう見ても13・4歳の少女が待っていた。
彼女は琥珀色の瞳を二人に向けると、
「その様子では、応竜様の容態は良くなっているようじゃな」
「ああ、菊か。則天様の熱もすっかり下がったそうだ。今見てきたが、気の流れも元どおりだった。安心してくれ」
菖蒲がそう言って微笑む。
「君子、曲阜の様子はどうでしたか? それと、牽牛殿は一緒ではないのですか?」
芍薬が琥珀色の瞳を持つ目を細めて訊くと、菊は不思議そうな顔で訊き返した。
「牽牛殿? はて、まだ戻っておらんのか? 彼女は拙と同時に曲阜から撤収したはずじゃが?」
それを聞いた芍薬は眉をひそめたが、
「牽牛朝顔のことだ、探索ついでに少し先まで索敵しているんじゃないか? 何せ彼女は則天様のためなら何でも一生懸命になるからな」
優しい顔で言う菖蒲の言葉で、
(そうね、心配するにしても、もう少し様子を見てからでも遅くないわね)
と、考え直したのだった。
「では君子、曲阜の様子を聞かせてくれないかしら?」
芍薬が言うと、菊はうなずいて話し出した。
「曲阜には妖魔の気配を感じぬが、その先の臨淄は大変なことになっているようじゃのう。確かに拙も、かなりの妖気を感じた。
敏感な牽牛殿のことじゃ、あの妖気に気付いて、調べに行ったのかもしれんて」
それを聞いて芍薬は朝顔の心配と同時に、妖魔たちとの戦略的な位置関係を即座に計算した。
(臨淄が妖魔たちの手に落ちる可能性があるのなら、曲阜は是非ともこちらが押さえるべきだわ……牽牛殿の報告を聞きたいけれど、どうも事態は一刻を争うみたいね)
そう考えた芍薬は、真剣な顔で菊に訊く。
「……曲阜は先にこちらが押さえたいけれど、我らで制圧し確保できるでしょうか?」
「現状の曲阜なら拙だけでも制圧可能じゃが、臨淄を囲んだ妖魔たちがどれくらいの勢力を持っているか不明じゃ。できれば牽牛殿の帰りを待って作戦を立てたがよかろうのう」
菊はそう答えると、早くも薙刀を取り出した菖蒲を見て、
「菖蒲、確かにおんしが往けば拙が行くより確実に曲阜を制圧できるじゃろうし、妖魔が攻め寄せても長い間抵抗もできるじゃろう。
けれど、制圧と確保は違う。妖魔を折伏したら、二度と妖魔が湧いて出られないよう場を浄化せねばならん。今、それができるのは応竜様だけじゃ」
そう言うと、芍薬に琥珀色の瞳を向けて沈痛な面持ちをした。
「応竜様の全快か牽牛殿の帰還、そのいずれか後でないと、動いても成功をつかむのは難しいと思うぞ」
姜黎は、夢を見ていた。それが夢であることは分かっていた。なぜなら、今はこの世にいるはずのない母が笑っていたからだ。
(ああ、これは鳳翼里での最後の夜でござるな。母上は微笑みながら拙者に『運命』とやらを紐解いてくださった)
『黎、あなたがこの里を出てゆく時が参りました。今まで教えた仙法や退魔の技、それをさらに磨き上げ、やがて来る妖魔跳梁の時に備えなさい』
姜月は静かにそう言った。優しいが断固とした声だった。
姜黎は、突然の母の言葉に動揺を隠せずに訊く。
『母上、どうして拙者は母上の許から去らねばならぬのでしょうか? 今までどおり、母上のお側で修行するのではいけないのでござりますか?』
あどけなさの残る顔で不安そうに尋ねる姜黎を、姜月は愛おしそうに眺めていたが、自分を叱るように彼女は一振りの刀を取り出すと、姜黎の目の前に突き付けて言った。
『黎、この刀は母がそなたの父上からお預かりしたもの。そなたが13、15、17、19になった時『試し』を行い、合格したならばその時点で授けよと申しておられました』
それを聞いて姜黎の脳裏に、13歳の時の情景が蘇って来た。朝早くに叩き起こされた姜黎は、雪が積もった庭で『試し』を受けた。その時は母の変幻自在の体術になすすべもなく惨敗した彼だった。
姜黎がその刀を受け取ろうと手を伸ばした時、姜月は真剣な顔で言った。
『黎、この刀はただ退魔のために鍛えられた刀。この『青海波』を使うことはあなたの寿命を削ることと同義です。その覚悟があれば、この刀を受け取りなさい』
伸ばしかけた手をびっくりして止めた姜黎に、姜月は厳しい表情のまま
『どうしました? 先程私はあなたにあなたの運命を話して聞かせたばかりではありませんか? あなたは妖魔の跳梁を終わらせるために生まれてきたのだと。
あなたの父上がそうおっしゃったから、私はこの身を運命に任せる決意をしたのです。方士は才能と力量だけでは務まりません。運命を受け入れ、運命の命ずるままに生きる覚悟がなければ、どんな道具も才能も、宝の持ち腐れです』
そう、姜黎を祈る様な眼で見ながら言った。
『分かりました、母上』
姜黎が『青海波』を受け取ると、姜月は積年の重荷を卸したように心からホッとした顔で微笑み、
『これで、私もあの人との約束を果たせました。あとは黎、あなたの努力次第です。
けれどどんなに辛く、苦しいことがあったとしても、あなたは選ばれて生まれてきた存在です。そのことを常に念頭に置き、決して驕らず、倦まず、諦めずに前へ進んで行きなさい。いつかあなたを助ける者たちが集ってくるはずです』
そう静かに言うと、懐から短刀を取り出して自分の首の血脈を切り裂いた。
『母上!』
姜月の突然の行動に、姜黎は一瞬何が起こったのか理解できなかったが、驚愕の光景を脳が理解した時、彼は慌てて母を抱きとめ、首の傷をふさごうと手で押さえた。
『うろたえてはいけません。あなたが活躍すれば、妖魔たちはいつか私に眼をつけるでしょう。私も人間、歳を取れば技も鈍るし、寄せ来る妖魔たち全部に勝てるという自信もありません。
私が妖魔に囚われれば、あなたの邪魔になります。それを避けるためと、役目を全うしたら自分のもとに来いと父上から言われていましたので、私は先に行きます』
姜月は姜黎の腕の中でそう言い終えると、しっかりとした瞳で姜黎を見つめ、
『いつの間にか、立派になりましたね、黎。あなたの活躍を冥府から見守っていますよ』
それが姜月の最後の言葉だった。
『母上!』
姜黎は、冷たくなっていく母を抱きしめながら、男泣きに泣いた。運命が否応なく回り始めたのを感じながら。
(誰の、声だ?)
悲しさと喪失感に囚われていた姜黎の耳に、澄んだ歌声が聞こえてきた。
遠く、近く、耳元に母の優しい声が聞こえてくる。その声は若かりしころの母の声だった。
『黎、私はあなたを誇りに思います。私はあの方に見染められ、あなたを授かりました。
巫女である私が身ごもったことで、いろいろな人から後ろ指を差されましたが、あなたの母となったことを後悔したことはありません。それが私の運命ですから。
黎、あなたも運命に負けず、真っ直ぐに光の下を歩いて行ってください』
母はまだ若かった。そして美しかった。月の光の下でハッとするほど白い顔が、無心に眠る赤子を見つめている。その顔には言葉どおり、誇らしさと愛おしさがあふれていた。
(母上は拙者のことをこんなにも大切に思ってくださっていたでござるか……)
「ははうえ」
姜黎は自分の声で目が覚めた。そしてぼんやりと天井を見つめる。
最初の夢で感じた喪失感は、次の夢で聞いた母の慈愛の言葉で満たされ、心が甘く疼いていた。
ふと横を見ると、黄色のメッシュが入った黒髪の少女が、牀に突っ伏して寝ている。
「……鶺鴒殿」
姜黎はつぶやくと、混沌とした頭の中から前後の記憶を取り出そうとするように緩く頭を振る。
姜黎の動きを感じたのか、鶺鴒はぱちりと目を覚まし慌てて起き上がると、
「そ、則天様。お目覚めになられましたね?」
姜黎が目を開けているのに気付き、嬉しそうな声を出した。
「……拙者は、どうしたでござるか?」
姜黎が訊くと、鶺鴒は安堵を顔に表して答える。
「毒のせいで記憶が混乱されていらっしゃるようですわね?
大ムカデは芍薬殿と菊殿が、雑魚は菖蒲殿と朝顔が残らず討ち取りました。邯鄲には一匹たりとも侵入を許してはおりませんのでご安心ください」
そう言われて、姜黎ははっきりとあの戦いを思い出した。
「そうか、それは良かった。ところで鶺鴒殿、拙者はどのくらい眠っていたでござるか?」
「1週間です。昨日の明け方までは高い熱が続いて、わたくしも華将の皆さんも心配しておりました」
姜黎は鶺鴒の目に隈ができていることと、その笑顔に疲労の色が濃く出ているのを見て取って、すまなそうに言う。
「拙者の不覚でそなたにも迷惑と心配をかけたでござるな、かたじけない。
あまり寝ていないのでござろう? 拙者はもう大丈夫でござるゆえ、鶺鴒殿にはゆっくり休んでほしいでござるよ」
その言葉と、姜黎の笑顔を見た鶺鴒は安心したように笑うと立ち上がって、
「いいえ、大事に至らなかっただけでも看病申し上げた甲斐がございました。則天様、あまり無理をなさいませんようお願い申し上げます」
そう言うと部屋から出て行った。
姜黎は牀からゆっくりと起き上がると、
「菖蒲、それと芍薬殿と菊殿だったか? ご覧のとおり拙者はもう大丈夫でござる。何か話があるのでござろう?」
部屋の隅に向かって声をかけた。
★ ★ ★ ★ ★
臨淄は、大秦帝国でも10位以内に入る大都市である。
人口は約20万人で、青州牧の徐栄、字は秋穂が政務を執るまちでもあった。
その臨淄に妖魔の大軍が押し寄せたのは、1週間ほど前のことである。
妖魔の軍勢約3万を率いていたのは、鉄血、字は豺狼と名乗る魔牧だった。
当時、臨淄に駐屯していた野戦部隊はたった1師(2千5百人)に過ぎなかったが、徐栄はよく守って城門を抜かせなかった。妖魔の跳梁を受けて、軍内に方士隊1旅(5百人)を編成していたことが大きいだろう。
「だが、完全に包囲されていては、援軍なき限りいつかは落城する。誰か即墨にいる関杜宣と郲にいる呂鮮念に連絡を取る者はいないか?」
徐栄は帷幕で部下にそう問いかけるが、誰も顔を上げる者がいない。実はこの戦が始まった次の日に、敵陣を突っ切る使者として徐栄配下では随一を謳われた剛の者、華桓寧仁が城外に出たが、あえなく討ち取られていたのだ。
(華寧仁すら討ち取られるのだ、人間が敵う相手ではない)
大方の者がそんな諦めの気持ちだったのだ。徐栄としては方士隊の奮戦に望みをつなぐしかなかった。
(みんなよくやってくれている。けれど何とか城壁を持ち堪えているのは、妖魔側が本気になっていないからに過ぎない)
そんなことを考えながら臨淄の高い城壁を見回っている男がいた。
彼は身長180センチ弱、白い道服の上に革鎧を着込み、黒髪を白い兜巾で覆っている。鋭い目つきで腰に剣こそ佩いているものの、どことなく兵士らしくなかった。
「お疲れ様、変わったことはないか?」
彼は10名ほどの若者たちに声をかける。全員、彼と同じように白い道服に鎧を着込んでいた。
「あっ、黄隊長。奴らは城壁の側までやっては来ましたが、いつもどおり悪態をつくだけついて引き上げて行きました。どうやら奴らは隊長がおっしゃるとおり、ぜんぜん本気で掛かって来ちゃいないようですね」
若者の一人が、黄と呼ばれた隊長に答える。
隊長は城壁からわずか半里(約130メートル)ほどの所にたむろする魔軍を見ながら、苦々しげに言う。
「奴らは完全に俺たち人間をなめ切っているんだ。陣地も作らずただ包囲するなんていうふざけた行動がそれを証明している。この臨淄はいつでも落とせる自信があるんだろう」
そして、仲間の方士たちを見ると、ニヤリと笑って続けた。
「まあ、俺たち方士隊なんてものがあるとは妖魔たちも想像もしちゃいないだろう。奴らが本気になったとき、こっちも本気で叩いてやろうぜ」
隊長はこんなふうに、城壁に張り付いている方士隊を激励して回っていた。
そして、最後の班を激励した後、ふと見ると二人の少女が城壁の上にいるのが見えた。
(誰だ、あんなところにいるのは? 方士隊ではないようだが)
黄隊長は急いでその場所に向かう。
この戦いでは少なからず一般兵士の戦死者も出ている。父親を喪った子どもたちかも知れず、その場合は変な気を起こさぬよう説得しなければならないし、いたずらや好奇心で城壁に登ったのなら、きついお灸をすえてやる必要がある。
しかし、隊長はその娘たちを見て、すぐに
(この子たちは人間じゃない!)
そう見抜いた。
そこにいたのは双子のようだった。どちらも身長155センチ程度で、どう見ても15・6歳である。一人は髪と目の色が朱色で、もう一人は桃色だった。
そして二人とも水干と袴という同じ格好をしていたが、朱色の髪をした方の袴は朱色でやや長めの刀を一本差しにし、桃色の髪をしている方の袴は桃色で大小二本の刀を差していた。
「お前たち、何をしている? ここはいつ戦いが起こってもおかしくない場所だぞ?」
隊長がやや強い口調で言うと、少女たちは隊長に視線を向け、
「あなたは方士隊の黄白鷺隊長さんね?」
桃色の髪をした娘がそう言って笑う。隊長は黒い瞳をした目を細め、袖の下で印を結んで訊く。
「確かに俺は黄洪、字は白鷺だが、お嬢さん方は何者だ? 見たところ妖魔ではないようだが」
すると桃色の髪をした娘は、にこにこしながら
「あたしたちは応竜様の気配がしたから目覚めたの。でもこのまちが妖魔たちに包囲されてるから、あいつらのどこを突破しようかって姉の椿と相談していたのよ」
と、驚くべきことを言った。
朱色の髪をした娘もうなずいて言う。
「山茶花の言うとおり」
黄洪は夢を見ているような思いで二人に言う。
「バカなことを言うもんじゃない。相手は妖魔なんだぞ?」
「相手が何者であろうと、我ら華将の行く手を阻めば蹴散らすのみです」
椿と言われた少女が言うと山茶花もうなずいて
「姉の言うとおりです。あたしたちは六花将、四霊の一柱たる応竜様の眷属にして鬼神の端に連なる者です。心配は無用ですよ?」
(な、何だ? この娘たちは華将だと?)
当惑した黄洪だったが、さすが自身も方士としての修行を超えて来た彼である。少女二人を包む気の流れを見て、彼女たちが人間ではないことを理解した。
「……もし君たちが華将という存在なら、一つ相談がある」
黄洪が言うと、椿は鷹揚にうなずいて
「即墨と郲への使者を守ってくれ、そうですね?」
さも既知のことのように言う。
黄洪は驚きもせずうなずいた。
次の日、黄洪は徐栄と密かに面会し、方士隊から使者を出すことを献策した。
徐栄は喜びながらも、
「寧仁でさえ簡単に討ち取られたこの任務、部下たちの中にも成功すると考えている者は少ない。どうするつもりだ?」
そう心配して訊く。黄洪は確信ありげに答えた。
「秘密保持のため詳細は申し上げられませんが、使者の護衛にうってつけの人物を見つけ出しました。明日黎明時、城の西門から出発させます」
それを聞いて、徐栄は憂鬱な顔で言う。
「城内に魔物と通じている者がいると?」
「はい。寧仁殿を討ち取った敵の動きは、事前に出撃を知っていなければできない芸当です。生き残った者の話では、罠まであったそうですから」
「ふむ、必勝の信念がない者にとっては、現状は絶望的に見えるのだろうな。妖魔側に内通したくなる気も分からんではない。ところでなぜ西門から? 即墨も郲も東側だが」
徐栄の問いに黄洪は薄く笑って答えた。
「護衛の者たちの献策です。妖魔たちの目を晦ますためと、こちらの意図を誤解させるためです。西から出れば、妖魔たちは我々が他州に援軍を要請するものと考えるでしょう」
「分かった。何もしないで逼塞し士気を落とすよりは遥かにいい。そなたたち方士隊に任せるぞ」
そう言って、徐栄は黄洪の作戦実施を許可した。
黄洪は徐栄の許諾を得ると、その足で西門に向かった。そこには彼が使者に指名した方士たち五人と、あの不思議な二人の少女がいた。
「許可は取れたようですね?」
紅の髪をした椿が微笑むと、桃色の髪をした山茶花が、佩刀の柄を叩きながら言う。
「では出発することといたしましょう。明日になれば妖魔たちの準備が整ってしまうでしょうから」
「州牧には明日黎明に出発と申し上げた。なんだか騙したようで気が引けるが」
スッキリしない顔で黄洪が言うのに、山茶花は笑って諭した。
「あら、『壁に耳あり障子に目あり』って言うじゃありませんか。情報は筒抜けって考えたら『敵を騙すには、まず味方から』ですよ?」
「君の部下の危険を減らすためです。州牧にはよしなに」
椿が真剣な顔で言うので黄洪も腹を決め、五人の部下に言った。
「即墨と郲の来援があるか否かは臨淄の運命を決める。援軍が既に発していた場合は速やかに臨淄へと誘導せよ。援軍の発出を迷っているような場合は説得せよ」
五人の部下がうなずくのを見て、黄洪は続けて椿たちを見ながら言う。
「途中まではこのお二人が諸君を護衛してくださる。妖魔は無視し、一刻も早く即墨や郲に着くことを優先せよ。頼んだぞ」
★ ★ ★ ★ ★
こちらは、探索に出ていた朝顔である。
彼女は芍薬から『曲阜を探索してほしい』と頼まれた時、最初は渋った。姜黎は彼女や鶺鴒の献身的な看病の甲斐もあり、やっと熱が下がったところだったのだ。
『そりゃあ探索専門の華将である椿ちゃんや山茶花がおらへんから、菊ちゃんやうちが出なあかんちゅうことは分かるねんけど、せめてもう一日待ってくれへん?』
朝顔は芍薬にそう頼んでみたが、芍薬は残念そうな顔で首を横に振り、
『東方の妖魔が騒がしいのです。はっきりした情報は入っていませんが、臨淄が妖魔に囲まれたと言う噂もあります。
本当だとしたら、それに対応するため早急に曲阜を制圧する必要が出て来ます。
臨機応変に物事に対応することにかけては、あなたの右に出る者はおりません。応竜様を心配しているあなたに頼むのは心苦しいのですが、出撃してもらえますか?』
そう、辛そうな顔で朝顔を見つめて言った。
朝顔は迷った。できれば姜黎が目を覚ますまで一緒にいたいというのが本音だ。それに自分がいない間は、姜黎と鶺鴒が二人きりになるというのも、モヤモヤする原因だった。
顔を赤くし、頬を膨らませて黙ってしまった朝顔に、芍薬は優しく微笑んで言った。
『心配しないで、あなたがいない間は、私や菖蒲もできるだけ応竜様の様子を見に行くようにしますから』
『……それ、ホンマやな?』
朝顔がしばらくして芍薬を上目遣いに見て聞くと、同じく探索に出る準備をしていた菊が笑って言う。
『牽牛殿、応竜様の頭の中は妖魔調伏で一杯じゃ。まるでそのことのためだけに生まれてきたとでも言うようにな。
拙もまだ応竜様の深い部分は知らぬが、今まで見たところ応竜様は『姜黎則天』と言う人物の中に閉じ込められ、縛られているような感じが拭えぬ。
『姜黎則天』と言う人間を縛っておるものがあるなら、早くそれを解いてやらねばならん。そのためには妖魔を一日も早く殲滅することじゃ。そうは思わんか?』
朝顔はその言葉で出撃を決めた。
(そう言えば応竜様を見てたら、ときどきうちもえらい哀しゅうなる時はあったなぁ。
それに応竜様は趣味言うても詩をつくるくらいで、それで人生楽しいんやろかって思うこともあったなぁ)
曲阜へ向かう街道を歩きながらそう思った朝顔が
「菊ちゃんってやっぱり凄いなぁ。こんなモヤモヤした思いを言葉にするなんて、うちにはようできひんわ」
そうつぶやいた時、朝顔の顔が急に鋭くなった。
「……おるな。けど曲阜からは何も感じられへんちゅうことは、この力は臨淄からってことやね」
その時、朝顔の脳裏に芍薬の言葉が蘇った。
『東方の妖魔が騒がしいのです。はっきりした情報は入っていませんが、臨淄が妖魔に囲まれたと言う噂もあります』
(曲阜は今んところ無事や、詳しい話は菊ちゃんが報告するやろ。うちは思い切って臨淄を偵察してみよか)
そう決めた朝顔は、今までとは打って変わってかなりの速度で走りだした。
姜黎は牀からゆっくりと起き上がると、
「菖蒲、それと芍薬殿と菊殿だったか? ご覧のとおり拙者はもう大丈夫でござる。何か話があるのでござろう?」
部屋の隅に向かって声をかけた。
「私たちが気配を消していてもなお存在を感知なさるとは、確かにお具合は良くなられているようですね?」
芍薬が薄く笑って言うと、姜黎は険しい瞳で三人を見て訊く。
「朝顔はどこにいるでござるか?」
すると菖蒲が碧眼を細めて言う。
「その朝顔のことも含めて、則天様にご報告とご相談がございます」
姜黎は三人の顔を均等に見て、ただならぬものを感じ取った。
「分かった、聞こう」
姜黎がうなずきながら言うと、菖蒲が
「実は、昨夜牽牛朝顔と菊が曲阜の偵察に出発しました。
戻って来た菊によると、曲阜には別段異常は見られなかったそうですが、さらに東の臨淄から異様な力を感じ取ったそうです」
そう報告して菊を見る。菊もうなずいて
「臨淄は妖魔たちに囲まれたという話も聞こえていましたので、十中八九、妖魔の攻勢を受けていると思われます」
そう言う。
姜黎はうなずくと、
「周囲の状況は分かったでござる。それで、朝顔はどうしているでござるか?」
再び朝顔の所在と安否を訊いた。
菖蒲が口を開こうとしたとき、
「牽牛殿は私の依頼によって曲阜を探索に出撃したもの、私がご説明いたします」
芍薬がそう菖蒲を抑えて言うと、姜黎を真っ直ぐ見て
「牽牛殿は君子と共に昨夜2更(午後10時~正子)、曲阜に向け出発いたしました。作戦命令によれば本日の6点半(午前7時)に帰投予定でした。
君子は予定より少し遅れた6点半2刻過ぎ(午前7時30分ごろ)に戻ってまいりましたが、牽牛殿は今に至るも戻って来ていません」
そう報告した。
姜黎は鋭い声で訊く。
「菖蒲、今の時刻は?」
「ええと……8点半(午後1時)です」
「とすると、帰投予定より6時間も遅れているでござるか」
姜黎はそう言って牀から立ち上がり、桁に掛かっていた括袴と狩衣を身に付けると、『青海波』を佩いて言った。
「朝顔のことでござる。妖魔の気配か何かを感じ取って臨淄の方まで探索しているのでござろう。今から拙者たちも行って朝顔を収容し、曲阜を確保するでござるよ」
慌ただしい気配を感じたのだろう、部屋の戸が開くと、血相を変えた鶺鴒が飛び込んできた。
「いけません則天様、則天様はまだ完調ではございません。せめてあと半日は安静にしていただかないと、わたくしや朝顔の看病が無駄になってしまいます」
鶺鴒は琥珀色の瞳を真っ直ぐ姜黎に当てて言う。
姜黎は、まだ隈が残る鶺鴒の顔をじっと見つめていたが、
「拙者の心配をしてくれるのはありがたいことでござるが、話によれば妖魔たちはまだ曲阜まで手を伸ばしてはいないようでござる。
さればまず曲阜を確保し、そこを拠点に朝顔を収容することが、今取りえる最善の策だと思うのでござるよ。決して妖魔との戦いを望んでいるのではござらん。
鶺鴒殿、聞き分けてくださらんか?」
姜黎は、静かな声で鶺鴒の右手を取って言う。
その様子を見て芍薬が、優しく鶺鴒に
「鶺鴒殿の心配はよく分かります。私も君子も花剣も、できることなら応竜様はあなたにお任せして牽牛殿を収容しに参りたいと思っています……」
そう言うと、菊がその後を引き取って
「しかし、残念じゃが現状は応竜様がおっしゃったように、曲阜を制することが今後の妖魔との戦いにおいても、濁河流域に暮らす人々の安全を守るうえでも重要になって参る。
そのためには応竜様のお力がどうしても必要なんじゃ」
と、すまなそうに言う。
鶺鴒は、顔を赤くして横を向き、うつむいている。そんな鶺鴒を見ながら芍薬が言った。
「……とはいえ、私たち華将も応竜様にご無理を申し上げるわけには参りません。
それゆえ応竜様には曲阜に留まっていただき、牽牛殿の収容と妖魔への対応は、我ら華将がいたします。
鶺鴒殿、応竜様が本復なさいますまで、お側で看病と護衛をお任せしてもよろしゅうございますか?」
鶺鴒はうつむいたまま小さくうなずくと、左手で涙を拭く仕草をし、姜黎に視線を戻して言った。
「すみません、少し取り乱してしまいました。ではわたくしは先行して、則天様の本陣となる場所を確保いたしましょう」
「私と花剣も同行いたします」
鶺鴒は芍薬の言葉を聞いて右手を名残惜しそうに離し、流雲借風術を発動すると、芍薬や菖蒲と共に曲阜へと向かった。
鶺鴒たちがいなくなると、姜黎は太いため息を漏らして牀に腰を下ろす。その様を見ていた菊は、彼女にしては感情のこもった声で訊いた。
「応竜様、まだ本調子ではないようじゃのう。拙はああ言うたが、ギリギリまでここで身体を休めてもらってもよいのじゃ。その方が良いなら、あの仙人を呼び戻すが?」
姜黎は顔を両手で覆って菊の言葉を聞いていたが、ゆっくりと顔を上げて答えた。
「拙者は大事な時は華将のもとにいたいでござるよ。それに拙者が朝顔を出迎えてやらぬと、彼女はガッカリするであろう?」
曲阜に向かう途中、芍薬は鶺鴒に気になっていることを訊いてみた。
「鶺鴒殿、そなたは誰から仙術を学ばれたのでしょうか? その若さでこれほどの仙法を使いこなすのは、どれだけ本人に才能があっても至難の業。よほど優れた師匠についたのでしょうね?」
「わたくしは楊天権様に仙術を手解きしていただきました」
鶺鴒が言葉少なに答える。
芍薬はその答えを聞いて納得したようにうなずいた。
「そうですか、中有推命雷桜帝君に……それならあなたの仙法がこれほどなのはうなずけます」
そう言いながらも芍薬は、鶺鴒の顔に翳が差すのを見逃さなかった。
(鶺鴒殿が仙人になったのには、何か触れられたくない事情があるみたいですね。その事情とやらも、必要な時期が来たら話してもらわねばならなくなるのでしょうね)
芍薬はため息をつきながらそう思う。心が重かった。
芍薬は他人の心の中に踏み込むのを嫌う。どんな思いも言葉や形になる時期というものがあり、どんな秘密も露わになる時が来る……。
人の思いや秘密を知りたければ、その『機』が熟すのを待てばよい、そんな考えを持っているからだ。
だから芍薬は、鶺鴒が何らかの事情を抱えていることを見抜きながらも、敢えてそれ以上何も問わなかったのだ。
一方で鶺鴒も、芍薬の問いで幼い時分の記憶が蘇っていた。
天興山の森は暗く、細く険しい道はまだ幼い鶺鴒の行く手を何度も阻んだ。それでも彼女は、傷だらけになりながらも山肌にしがみつくようにして山頂を目指していた。
(山頂に行けば助かるという確証なんてなかった。わたくしはただ、何かから逃げたかったんだ……)
鶺鴒は何も覚えていない。父母の顔も、自分の名前も、どこに住んでいたのかも、そしてなぜ天興山に捨てられたのかも……。
いや、誰が彼女を天興山に連れて来たのかすら覚えていない。気が付いた時には、彼女は天興山の中腹にある大岩に座って、ぼーっと空を眺めていた。下着の上から血だらけでボロボロになった袍ただ一枚を身に付けただけで。
彼女は身体のあちこちに打ち身や擦り傷を作りながらも、ひたすら山頂を目指した。天興山の山頂は全面が『百尺屏風』と呼ばれる30メートルほどの絶壁となっており、大人ですら登攀は命懸けであった。
7歳の鶺鴒は唸り声を上げながら登攀を続け、遂に『百尺屏風』を登り切った。彼女は仰向けになってしばらくぜえぜえと荒い呼吸をしていたが、息が整うとゆっくり立ち上がり、おぼつかない足取りで山頂へと歩き始めた。
(わたくしはそこが天興山であることは知らなかった。けれど人が行けないほど険しい山には仙人様が住んでいると信じていた。わたくしはあの時、仙人に会うことで何を期待していたのだろう……)
けれど、頂上に着いても仙人の家はなく、ただ石を積み上げた碑があるだけだった。鶺鴒は落胆の余り、顔を覆ってしくしくと泣き出したが、やがて疲れが出たのか石組みの風下側で寝入ってしまっていた。
それから半時(1時間)ほど過ぎたころ、山頂に四人の人影が現れた。
その先頭にいた白髪で翠の瞳をした少女が、目ざとく鶺鴒を見つけ、後ろにいる三人に声をかけた。
「李甫、杜章、あそこに誰ぞ倒れているぞ」
それを聞いた14・5歳の少年二人は、サッと鶺鴒に近づくと、白髪の少女を振り返って言った。
「天権様、女の子です。まだ息はあります!」
「甘露、あれが女児でしかも救護を必要としておるのならそなたの出番じゃ。手当をしてわらわの山荘に連れて行け」
天権と呼ばれた少女は、傍らに控える赤い髪の少女に言う。
「承知いたしました。それで天権様はどちらに?」
甘露という12・3歳の少女が問うと、天権は鋭い光を湛えた目で鶺鴒を見つめ、
「年端も行かぬ童がこんなところにいるのも解せぬが、あの童の服についておるは明らかに人間の赤汗じゃ。少し調べ物をしてくるじゃに、あの童の世話は頼んだぞ」
そう言うと、雲を呼んでその中に消えて行った。
「おい、季姫、俺たちにこの子を押し付けて、天権様はどこに行かれたんだ?」
がっちりした身体つきに太い眉が印象的な李甫という少年が甘露に訊くと、もう一人の茶色の髪をした線の細い少年が笑って言った。
「小伯兄貴よ。ボクたちはとりあえずこの子を山荘に運ぼうぜ。お師匠様がこの子の服に付いている血の理由をお調べになっている間にさ」
その日以降、鶺鴒は天権のもとで育てられることになったのだ。
(天権様に見つけていただけたのは幸せだった)
鶺鴒は改めてそう思うと
「……思い出に浸っている場合じゃございませんね。先ずは則天様が落ち着ける場所を探さなければ」
そうつぶやき、遥かに見えてきた曲阜でやるべきことに思考を巡らせた。
★ ★ ★ ★ ★
臨淄を密かに抜け出した椿と山茶花は、濁河に通じる川の畔まで来ると、護衛している五人の方士たちに言った。
「そなたたちは、ここから船で濁河に出て郲、即墨に行くとよかろう」
椿の言葉で不安そうな顔をした五人を見て、山茶花は慌てて補足する。
「あ、心配無用よ? あなたたちが見つからないように船には結界を張っておくし、あなたたちの身代わりを創って連れていくから、妖魔たちはあたしたちを追いかけてくるはずよ。言葉足らずの姉でごめんなさいね」
そう説明されてホッとする五人に、椿がつっけんどんに言う。
「そなたたちの『影』を創る。そこに並んでくれ」
五人がビクビクしながら横一列に並ぶと、椿はゆっくりと差料に手をかけ、目を閉じた。椿の周囲の空気が一瞬沸き立ち、潮が引くように鎮まって行く。
それは抜刀の潮合を図っているのだと、並んでいる五人の者にも分かった。
やがて突然、椿は目をカッと見開き、その刀が一瞬の光芒を放つ。
「閃刃不見!」
ピーン!
「おおっ」
澄んだ鍔鳴りと共に、五人の目の前に自分たちと寸分変わらない人影が湧き出るのを見て、彼らは感嘆の声を上げる。
椿は五人の方士たちを見て、薄く笑うと
「わたしたちはこの『影』と共に曲阜を目指す。そなたらも早くわたしたちから離れたがよかろう」
そう言って『影』たちを連れて歩き出す。そこに山茶花もやって来て、にこやかに五人の方士たちに告げた。
「あっ、皆さん、あちらに皆さんのための船を準備しています。皆さんが乗り込んだら周りからは見えなくなりますのでご安心を。どうぞお気を付けて行ってらっしゃいませ」
方士たちを見送った山茶花が追い付くと、椿は不機嫌な顔で言う。
「山茶花、そなたは誰にでも愛想が良すぎる。わたしたちがお仕えすべきお人は応竜様ただ一人。変な男に変な勘違いをされたら面倒くさいことになるぞ」
山茶花はにこやかに笑って言い返す。
「あら、優しくしてもらって気分が悪い人なんていないと思うよ?
だいたい姉様こそ無愛想過ぎるのよ。せっかくあたしみたいに美人なのに、肝心の応竜様にすら無愛想極まりない態度をしちゃったらどうするの? 今から応竜様に甘えるお稽古をしたらどう?」
そう言われて、椿は顔を赤らめながら
「そうは言われてもだな、優しく話すとか甘えるとか、余りにもわたしの性格とはかけ離れていてだな。牽牛殿のように自然に甘えることができればいいのだが……」
ボヤキに似た言葉であった。
「分かる! あたしも朝顔ちゃんくらい天然だったら、もっともーっと可愛いのにって思うもん。姉様、あたしたちの目標は『打倒! 朝顔ちゃん』だよ?」
「いや、わたしたちの使命は妖魔調伏だぞ? そこを忘れてはダメだぞ山茶花」
呆れたように椿が言うと、山茶花は桃色の瞳を黄土色に変え、片頬で笑い言った。
「大丈夫、それは忘れてないわ。漆黒の闇に住まいし者どもに浄土の光を当て、未敷蓮華の花の香で諸霊を悔悟せしめ、もって瑠璃光世界を荘厳せん! 花王、来やがったぞ!」
山茶花はそう叫ぶと、腰の両刀を抜き放ち、
「あたしの右手を疼かせるのは、どこのどいつだい!? 双眸郷の住人、華将六花の火将・燎原山茶花、冥途の土産にあたしの名くらい覚えて逝きな!」
山茶花は双刀を回しながら、突然現れた妖魔の大軍に突っ込んで行った。
臨淄を囲んでいた魔軍の大将、青州の魔牧を称する鉄血、字は豺狼が臨淄からの救援要請を携えた方士たちの出発に気付いた時は、椿たちが出発してすでに半日以上が過ぎていた。
椿が心配していたとおり、青州牧・徐栄秋穂の側には魔軍に通じていた臣下がおり、そいつは事前に
「明日払暁、救援要請の使者が出発する」
との情報を魔軍側に流していたのだ。
しかし椿の機転により、既に前日使者が出発したことが分かると、
「使者を探せ! 即墨や郲に行かせてはならん!」
と、大慌てで捜索を開始したが、まさか東の味方に救援を乞う使者が西門から一旦西に進路を取っているとは夢にも思わず、なかなか魔軍は使者を見つけることが出来なかった。
今、椿や山茶花が遭遇した魔軍は、『もしかしたら』の思いで西を捜索していた部隊で、臨淄周辺の魔軍の密度はかなり薄くなっていた。
閑話休題、
「あれだ、やっと見つけたぞ!」
魔軍は、遠く二人の剣士と五人の方士の姿を見つけると、勇んで椿たちを包囲しにかかった。魔牧・鉄豺狼の命令では、彼ら七人は一人残らずなぶり殺しの憂き目に遭わねばならなかった。
この部隊の指揮官は、『虎人』という妖怪の女性だった。彼女は獲物を見つけた時、
「これで私は鉄豺狼様の覚えがさらにめでたくなるわね」
とご満悦だったが、その期待は華将の出現であっさり裏切られた。
「あたしは華将六花の火将・山茶花。あたしの右手の疼きは、あんたたちの血を見ないと収まらないよ!」
二刀流を操りながら突っ込んできた山茶花一人の衝撃力で、魔軍の先鋒隊はあれよあれよという間にぶち破られてしまった。
「オラオラオラオラオラーっ!」
ズシャ、ブシュ、ドムッ、バスッ、チュイーン
山茶花はその可愛らしい見た目からは想像もできない叫び声と共に、両手の刀を縦横無尽に振り回す。飛燕のような刀が閃くたびに敵の得物を弾き飛ばし、妖魔たちの首や手足が血煙を上げて宙を舞う。
「きゃっほー! あたし、盛り上がって来たよ!」
ドバスン!
「ガアアッ!」
山茶花の哄笑と共に振り抜かれた双刀は、周囲にいた妖魔4・50匹をいっぺんに斬り裂いた。
すでに返り血で真っ赤になった山茶花は、双刀にしたたる血をぺろっと舐めて、
「うふふ、負け犬の血ってウォーミングアップで渇いた喉を潤すのに持って来いね」
そう言うと、山茶花の凄まじい姿にたじたじとなっている第2陣の妖魔たちを見て
「ここからは『半分本気モード』よ。瑠璃光浄土の未敷蓮華が芳香を放ち、あんたたちを待っているわ。覚悟しなさい、この豚野郎ども!」
全身を紅蓮の業火で包んで、山茶花は魔軍に躍りかかった。
一方、椿の方は
「閃刃不見!」
ピーン!
中性的で涼やかな声と、澄んだ鍔鳴りを響かせながら、五人の『影』を守って戦っていた。山茶花があらかたの敵を始末していたので、彼女たちに向かって来る妖魔はかなり少なくなってはいたが、それでも椿はひっきりなしに刀を振っていた。
「ふむ、これでは埒が明かないわね」
椿はそうつぶやくと、
「風陣塞栓!」
ビュゴウッ!
五人の『影』を旋風の結界の中に封じ込め、
「やれやれ、『居合が抜いちゃお終い』というのですが、致し方ないですね」
そう風の仙力を開放すると、彼女の刀は風を集め始める。
そこに、この魔軍部隊を率いている女の虎人が、第3陣たる本隊を連れてやって来た。先鋒や第2陣はひどく叩かれていたが、使者たちの首を獲ったら勝ちは決定……そう思っていたのだ。
指揮官は、分厚い青龍刀を持って陣前に出ると、飄々として立つ椿に名乗りかけた。
「アタイは魔牧・鉄血豺狼様の配下で魔軍校尉の虎蘭、字は堅果。その使者をこっちに寄こしな! でないとアンタの首を月まで飛ばしちまうよ?」
椿は、紅の髪を自らの身体から発する風になぶらせながら、静かに答えた。
「わたしは陰徳郷の住人、華将六花の風将・花王椿。妖魔調伏の使命を持つわたしが、妖魔ごときの戯言を取り上げるとでも?」
「ふん、じゃ力ずくで行くしかないね。者ども、かかれっ!」
わああっ!
椿は、周囲から押し寄せて来る妖魔の群れを、紅蓮の炎のような瞳で見つめていたが、
「益体もない……飛刃不聴!」
長刀を一振りすると、
ズババンッ!
「うがっ!」「おげっ!?」「ごあっ!」
斬撃波が、先頭を走ってくる妖魔たちをまとめて横一文字に薙ぎ払った。
「くっそう! 負けるもんかい!」
「おっ!?」
ガキン!
椿は、青龍刀を振り上げて迫って来た虎蘭の斬撃を、長刀で受け止める。
「へっ! 刀が振れなきゃアンタなんて怖くないさ。みんな、こいつの刀はアタイが封じておく。周囲から斬るなり突くなり好きにしてなますにしてやんな!」
体重をかけてそう叫ぶ虎蘭の声を聞きながら、椿は焦りと共に、
(不覚、避ける暇がなかった。わたしも未熟だわね)
そう思って周囲を見回す。虎蘭の部下たちが得物を構え直して包囲を縮めて来るのが見えた。そのとき、
「椿ちゃん、珍しゅう苦戦してんなあ? そないな敵、必殺技でエイヤッていてこましたればええやん?」
そう言いながら、青く見える亜麻色の髪を長く伸ばし、首の左側で結んで身体の前に垂らした少女が姿を現した。深い海の色をした碧眼が印象的だった。
「牽牛殿、そなたやはり目覚めていたのですね?」
椿が叫ぶと、少女はぐるりと周囲を見回して、腰の後ろから小太刀を引き抜くと、
「話は後や。雑魚はうちが引き受けるさかい、椿ちゃんはそのでかいのを仕留めたらええ」
椿にそう言い、妖魔の群れに突っ込みながら名乗りを上げた。
「うちは淡恋郷の住人、華将六花の艮将、牽牛朝顔や! 覚悟しいや!」
朝顔は右手で剣印を結ぶと、妖魔の群れに仙力を開放する。
「鶴瓶取花・縛!」
ガアアッ!
魔物たちはアサガオの蔓に絡め取られ、蔓を引きちぎろうともがくが、そうすればするほど、蔓はしっかりと身体を締め付けてゆく。
朝顔は、動けなくなった半数の妖魔たちを尻目に、残りの妖魔たちの真っただ中に躍り込んだ。
「やっ!」
ドシュッ!
「はっ!」
ズバン!
朝顔の戦い方は独特である。小太刀を左右で扱うが、基本的には左逆手に持って敵の間をすり抜けながら、相手の首の血脈を掻き斬るのである。
もちろん、鎧や兜などの防具のせいで首筋を狙えない場合もあるが、そんな時は喉を狙うか、あるいは
「あー、ぎょうさん居るからいちいち相手すんのめんどくさくなったわ。あんたらまとめてあんじょうしいや、消如松露・散!」
朝顔は再び剣印を結ぶと、彼女を中心とした半径1里(この世界で約250メートル)の範囲が群青色の瘴気のような靄に覆われ、それが晴れた時、範囲内にいた妖魔たちは一匹残らずグズグズに崩れ果てていた。
「そんな、アタイの可愛い部下たちが……」
魔軍校尉・虎蘭は、朝顔の見た目に似合わぬ戦いぶりに、恐怖すら感じてつぶやく。
「ふふ、牽牛殿は我が妹・山茶花と共に、対複数敵の接近戦を最も得意とする六花将。あの程度では腹ごなしにもならないでしょうね」
虎蘭の青龍刀を受け止めながら、椿は左手を後ろに回しながら冷たい声で言った。
「……さて、せっかく牽牛殿がああ言ってくれたのです。わたしもそろそろ決着をつけましょう」
虎蘭は朝顔の戦闘に目を奪われ、椿を押し付ける力が緩んだ。その隙を突かれたのだ。
ドシュッ!
「ぐ!?」
虎蘭の右手に小柄が突き立ち、椿はその隙に間合いを空けて長刀を鞘に納めた。
「くっ! させないよ!」
虎蘭が椿を真っ二つにしようと青龍刀を振り上げた時、
「閃刃不見!」
ピーン!
鋭い鍔鳴りが澄んだ音を響かせ、虎蘭の動きが止まった。
椿は居合の体勢をゆっくりと解いて、深いため息をつく。ありったけの仙力を一瞬に凝縮して爆発させた後の、崩れ落ちそうな疲労感が椿を覆っていた。
椿のため息と共に、虎蘭の青龍刀が二つに斬れて、鈍い音を立てて地面に突き立つ。そして虎蘭の額から頤にかけて細く赤い線が浮かんだ。
その線は見る間に太くなり、プツプツと赤い玉をいくつも浮かべたが、赤い玉が大きくなって互いに繋がった時、
ブシャアアアアッ!
傷口がぱっくりと割れ、血を噴き出しながら虎蘭の身体は左右に分かれた。
「やったな椿ちゃん、相変わらずエグイほどの技の冴えやで」
朝顔が満面の笑みでそう言うと、先鋒隊と第2陣を壊滅させた山茶花も戻ってきて、
「さすが姉様です……姉様? 姉様!?」
姉を褒め称えるが、椿が青白い顔で膝をついたため、急いで駆け寄って肩を貸す。
「大丈夫ですか姉様? 目覚めて間もないうちに激しい戦闘が続きましたからお疲れなのでしょう」
「せやな、これだけの妖魔を相手にしたんや、ちっとゆっくりせなあかんで? 椿ちゃん、山茶花、実は応竜様や芍薬たちが曲阜におんねん。
臨淄も救わなあかんし、今後のこともあるから、いったん曲阜に行かんか?」
朝顔が肩を貸しながら言うと、椿はハッと顔を上げて朝顔を見つめ、
「……そうですね、行きましょう」
そう答えた。
(其の五 了)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ついに華将六花が揃いました。
今後は、姜黎の過去や使命、六花将それぞれの掘り下げ、そして天権サイドの動きなど物語は多岐にわたって行きます。
先ずは臨淄の防衛と魔軍の殲滅が焦眉の急ですが、次回はその辺りを書いていこうかなと思います。お楽しみに。