其の参 石家庄の魔窟に姜黎が消え、六花の共鳴は朝顔を照らす
応竜を探す少女・黄鶺鴒と出会った姜黎と朝顔。
石家庄に不穏な空気を感じた姜黎は、魔物が出るという地域を探索する。
桃の花が散り、花の盛りが梅へと移り行く中、薊から邯鄲を結ぶ街道を急ぐでもなく歩く青年がいた。
彼の身長は175センチ程度、黒い戦袍の上から緋色の狩衣を着て緋色の括袴を穿いている。鎖帷子らしきものは着込んでいないようで、左腰に80センチほどの剣を佩き、右腰に雑嚢をぶら下げただけの軽装である。脚にはしっかりと脛当てをして、革の沓を履いていた。
ただ、髪の色は日の光を受けて金色にも見え、瞳の色は深い海の色であった。
彼はそよ風の中に舞い踊る梅の花びらを、飽くこともなく眺めていたが、
「白桃花去移紅梅(白桃の花は去り紅梅に移ろう)
吾今年聴鶯聲流(われ、今年も鶯の声の流るるを聴く)
請君莫問吾幽冥(君に請う、われに幽冥を問うなかれ)
人乞冥理知悲哀(人は冥理を乞いて悲哀を知る)」
そうゆっくりと詩を吟じた。朗々として、澄んだいい声だった。
するとどこからか、優しく甘い声で
「白雲巡宇河流内(白雲は宇を巡り、河は内を流る)
是也悠久之真実(これ悠久の真実なり)
豈有要問君幽冥(あに、君に幽冥を問う要あらんか)
乞冥理唯為仁愛(冥理を乞うは、ただ仁愛のため)」
そんな詩が聞こえて来た。
「……いったい誰でござるか?」
青年はびっくりして辺りを見回し、
「朝顔、ひょっとしてそなたが今の詩を吟じたのでござるか?」
そうつぶやくと、
「応竜様、自慢やあらへんけど、うちには詩を吟ずるっちゅう才能も趣味もないねん」
そう言いながら、一人の乙女が姿を現した。
朝顔と呼ばれた乙女は17・8歳くらい。青く見える亜麻色の髪を長く伸ばし、首の左側で結んで身体の前に垂らしている。深い海の色をした碧眼が印象的だった。
「そうでござったな」
青年があっさりと納得すると、朝顔は機嫌を損ねたらしく、
「応竜様、酷いねん。そこは『そうでもないでござるよ、朝顔』なんて言葉でうちをフォローするとこちゃうねんか!?」
そう、頬を膨らませて横を向く。
彼女は朝顔の文様が刺繍された裾の長い振袖のような着物を着て、同じく朝顔の模様が入った帯で緩く留めている。
留め方が緩いから着崩れて蓮っ葉な感じがしないでもなかったが、着物の下には筒袖で翠の服を着て、同じく翠の半袴……つまり短パンを穿いている。
だから着物の間から見える日焼けしてすらりとした脚や、裸足につっかけた黒い木履も相まって、娘を健康で活発そうに見せていた。
そんな彼女が、幼い子供のようにすねる様は、はた目から見たら可愛いものだったが、青年にとっては厄介事の最たるものだったらしく、慌てて彼女の機嫌を取るように言う。
「い、いや、拙者が言いたかったのは、朝顔の普段の心情とは違った詩でござるなということだったでござるよ。決してそなたが風流を解さない者というわけではござらん」
けれど朝顔は、青年をジト目で見てそっぽを向き、
「今さら遅いねん。うちは傷ついたねん」
そう、ますます頬を膨らませる。
その時、
「あら、道の真ん中でお熱いですこと」
そう言いながら、肩に長弓をかけた美少女が現れた。
彼女は浅黄色の袍を着て褐に革の靴を履き、黄色の瞳と黄色のメッシュが入った黒髪をしている。
「そなたは? 拙者の名は……」
青年が救われたように少女に声をかけると、少女はみなまで言わせずに、
「あなた様は姜黎、字は則天。伝説の巫女であり剣士でもあった姜月、字は翡翠様のご子息にして『応竜』たる存在……そうですわね?」
自分の名乗りや母の名を言い当てられ、姜黎は蒼い瞳を持つ目を細め、ゆっくりと左足を引いて訊く。
「いかにも拙者は姜則天でござる。それでそなたは?」
するとその乙女は、肩から長弓を外し地に伏せると、片ひざをついて名乗った。
「お初にお目にかかります。わたくしの名は黄杏、字は鶺鴒。楊天権様の弟子にして『風塵不留真君』の仙号も賜っております」
そう一息に言うと、顔を上げニコリと笑って続けた。
「もっとも、わたくしは涿郡鳳翼里でのこと、すべて見分させていただきました。魔軍校尉雷漠との戦い、お見事でございました」
そう言うと、箙から1条の矢を取り出して姜黎に指し示す。その矢羽はキセキレイの尾羽であった。
「この矢! そうか、あの時そなたが加勢してくれたのでござるな?」
姜黎は、自分を襲った妖魔の手に突き立った矢を思い出してそう訊くと、鶺鴒は首を振って
「いえ、わたくしなんかの加勢は応竜たる姜則天様には無用でございましたわね? 出過ぎた真似をいたしまして申し訳ございません」
そう、微笑んで言う。
姜黎もまた微笑んで、
「いや、ご謙遜痛み入る。貴殿はさすがに楊天権殿のお弟子だけあって、きらめくような気の流れをしてござる」
そう言うと、いぶかしげな顔をして訊いた。
「それはそうと、前の詩でござる。あれは鶺鴒殿が吟じられたものでござるか?」
鶺鴒は頬を染めてうなずくと、
「わたくしのことは杏と呼び捨てにしていただきたく存じます」
そう驚いたことを言う。
大秦帝国の人々は、普通字で呼び合う。真実の名、つまり諱には魂が宿ると信じられているため、他人に対して諱で呼びかけることは失礼とされていた。それを口にできるのは原則として親や本人、そして主君に限られる。
けれど、稀に諱で相手を呼ぶこともある。それは偕老同穴を誓った夫婦や、特に信頼し合った仲間などである。ただこの場合、何十年と苦楽を共にしたとか、幾つもの死線を共にくぐった、とか言う場合がほとんどである。
鶺鴒のように初対面の相手に諱で呼んでほしいなどということは余程の好意を表したものだろうが、同時に非常識でもあった。
絶句した姜黎に代わり、朝顔が鶺鴒に食ってかかった。
「はぁ? アンタ、初対面の応竜様に何バカなこと言うてんねん? そもそもうちの応竜様を付け回すなんてキモイやん。何がしたいねんか?」
「……そ、そうでござるな。話を聞けば拙者たちを涿郡よりも前から追って来ていたようでござるが、そもそも拙者にどんな用事があるかをお聞きしたいでござるよ」
不意打ちから立ち直った姜黎が訊くと、鶺鴒は澄ました顔で答える。
「手もなく妖魔を討ち取る凄腕の方士とその式神の話を青州で聞きました。兗州や冀州でもその噂が高く、これは天権様から捜索を承った『応竜』に違いないと感じたので幽州へと足を延ばしたのです」
「こらっ、誰が式神やねん!? うちは六花将の一人でれっきとした鬼神なんやで? もっと崇めんかい!」
ムッとした顔で朝顔が詰め寄ると、鶺鴒はチラリと彼女を見てクスリと笑い、
「あら、仮にも六花将なら、もっと冷静で風流というものを理解しているものではございませんこと? あなたを見ていると、知性の欠片も感じられませんわよ?」
そう口に手を当てて笑う。
「あんた初対面やのにご挨拶やな? うちにケンカ売っとるんか?」
朝顔が強面で言うと、鶺鴒はサッと姜黎の背中に隠れるようにして言う。
「則天様、本当のことを言われて怒る人って手に負えませんわ。助けてくださいませ」
「朝顔、鶺鴒殿は天権様のお弟子だ。乱暴は致すまいぞ」
姜黎はとりあえず朝顔にそう言って押し留め、鶺鴒に向き直る。その時初めて、姜黎は鶺鴒の身体から白檀のような香りがすることに気が付いた。
「鶺鴒殿、そなたは仙人かもしれぬが、朝顔は正真正銘の華将でござる。鬼神を挑発することでその実力を測ろうとするのはお勧めしないでござるな」
真っ直ぐ姜黎を見つめていた鶺鴒は。その言葉を聞くとぺろっと舌を出し、姜黎を上目遣いに見て言う。
「うふふ、さすがは則天様。あなた様がそうおっしゃるのであれば、ご忠告には従いましょう」
そして朝顔に頭を下げて謝る。
「朝顔殿、先ほどからのご無礼はお許しください。あなたの仙力が、わたくしの師匠から聞いていた華将のそれと比べて少し物足りない気がいたしましたので、少し試してみたいという気になってしまったのです」
朝顔は腕を組み、鶺鴒をジト目で見ていたが、
「うちの仙力がまだ十分やないことは分かっとるねん。六花将は六人そろってはじめてそれぞれの仙力が完全開放されるんやからな」
そう言うと、両手を腰に当ててため息と共に訊く。
「はぁ、あんたが悪い女やないってことは分かったわ。それで、天権はなんで応竜様を探してるねんか?」
鶺鴒は朝顔だけでなく、姜黎の顔も見て答えた。
「それは、妖魔跳梁の世を終わらせるためです。大きな魔に対抗するには、大きな存在が必要。天権様は応竜を探し出し、自分に報告せよとおっしゃりました」
「……だったら早く天権に報告したらんかい。天権も待っとるやろ?」
朝顔が厄介払いするように言うと、鶺鴒は顔を赤らめて
「そ、その、こう言うと則天様や朝顔殿に失礼に聞こえるかもしれませんが、天権様に報告した後で人違いだったとなるといけませんので……」
鶺鴒が言いたいことを敏感に察知した朝顔は、再び気分を害したように刺々しい声で言った。
「なんや? やっぱりアンタは失礼な女やな? うちの応竜様がニセモノいうんか!?」
「い、いえ、ただわたくしは応竜なる存在を詳しくは知りません。則天様が応竜だというのも、わたくしの直感みたいなものですので、もう少しハッキリとした心証がほしいのです。
しばらくの間、わたくしも一緒に旅をさせていただけませんか? 則天様」
鶺鴒がそう頼んでくるのを、朝顔がにべもなく拒絶する。
「お断りや! 応竜様の証拠言うんなら、華将たるうちが自分の郷天を出ても消えへんのが証拠や! アンタみたいな失礼な女と一緒に旅をする理由はないねん」
けれど姜黎は、朝顔をなだめて言う。
「待て待て朝顔。拙者もそなたから応竜と奉られてはいるが、本当に応竜などというたいそうな存在か否かは自分でも自信がないでござるよ。
鶺鴒殿も天権様に迂闊な報告もできないでござろう、彼女の気が済むようにさせてあげてはいかがでござろう?」
「そやかて、応竜様が応竜様やってことはうちが一番よく知っとるねんから、応竜様も自信持ってほしいんやけど……まあええわ、今回は天権も関係することでもあるし、特別にアンタの顔を立ててやることにするわ」
朝顔はかなり不満そうであったが、それでも不承不承、鶺鴒が共に旅をすることに同意した。
★ ★ ★ ★ ★
姜黎たちの故郷である涿郡と邯鄲の間に、石家庄という町がある。この町は生糸と薬の生産で有名であり、都城の中にある大路には商店や露店が軒を連ね、商売人たちの声が飛び交っていた。
そのざわめきの中、姜黎と鶺鴒はゆっくりと歩を進める。
姜黎は蒼い瞳を細めて町の息遣いを感じ取るように、
「これだけ人が多いと、どこか安心するでござるな」
そう、のんびりした声で言うが、鶺鴒は顔を固くしたままむっつりと押し黙っている。
鶺鴒の顔色が心なしか悪いのを見て取った姜黎は、
「鶺鴒殿、どこか具合でも悪いでござるか?」
心配そうな顔で訊くと、鶺鴒は首を振って答える
「いえ、ただ、人混みに酔っただけです。静かな場所でゆっくりしたら、そのうち良くなります」
姜黎は微笑とともにうなずいて、
「さようでござるか。では早いところ宿を見つけないといけないでござるな」
そう言いながら、周囲を見回す。
「うむ、やはり少し小さい通りに入らないといけないでござるかな?」
普通、都城の中央にある大通りには商店や両替店などが立ち並んでいて、宿屋の類は少し裏通りに入らないと見つけられない。
姜黎は鶺鴒の顔色がますます悪くなっていくのを見て、
「朝顔、すまないが鶺鴒殿の様子を見ていてくれまいか?」
そう朝顔に頼む。
「任せといてや」
朝顔は姿を現すと、頼もしげにそう言って胸をたたいた。
姜黎は、すぐに宿屋を見つけて戻って来て、鶺鴒を朝顔と一緒に支えて宿屋へと運ぶ。その時にはもう、鶺鴒は肩で息をし、傍から見ても辛そうにしていた。
「鶺鴒殿の様子はどうでござるか?」
自分の部屋にいる姜黎は、朝顔がやって来たことを感じて訊くと、彼女は姿を現して、
「心配あらへん。本人がゆうとったとおり、ただの人酔いや。ゆっくりしとったら自然と良くなるで」
そう言うと、にっこりと笑って付け加えた。
「鶺鴒も具合悪い時は素直なんやな? なんか、かわいく思えて来たで」
姜黎はクスリと笑った。朝顔は人の好き嫌いがはっきりしているが、『好き』と『嫌い』の評価を容易くひっくり返す。悪く言えば気まぐれだが、良く言えばそれだけお人好しということでもある。姜黎は笑いを含んだまま訊いた。
「仲良くすることはいいことでござる。それで、朝顔は鶺鴒殿の何が気に入ったのでござるか?」
朝顔はすぐに答えた。
「鶺鴒、小さい時に大興山に捨てられたそうやねん。それからずっと天権に育てられて下界に降りたことなんて数えるほどしかないらしい。人に慣れとらんのも納得やで」
「そんな弱みを話せるということは、鶺鴒殿は朝顔が思っているほどそなたを毛嫌いしているわけでもなさそうでござるな」
朝顔はそれを聞いて、うなずいて笑う。
「そうやな。応竜様には内緒やゆうとったけど、応竜様の前では強がっとったんかと思うと、なんやいじらしゅうてな? あれが鶺鴒の素なんやったら、うちは鶺鴒のことはキライじゃないねん」
姜黎も微笑んでそれを聞いていたが、不意に表情を引き締めて訊く。
「ところで朝顔、そなたが言っていた『気になる気配』についてでござるが……」
「ああ、それなら都城に入ってから感じっぱなしや。ええもんも悪いもんもな?」
朝顔の答えを聞いて姜黎は少し考えていたが、やがて立ち上がると言う。
「妖魔はまだこちらに気付いておらんでござる。
けれど、おっつけ拙者たちの存在に気付くでござろうゆえ、そなたのいう『ええもん』について調べを進めるなら今のうちでござるな。拙者が行って来よう、そなたは鶺鴒殿が良くなるまで側で守っておいてほしいでござるよ」
「え? 応竜様一人ではアカンで? 何かあったら大事や、うちも行く」
朝顔はそう言ったが、姜黎は笑って首を振った。
「大丈夫でござる。それより鶺鴒殿は仙人とはいえ今は無防備な状態。天権様のお弟子を危険な状態でほっぽっておくわけにも参らぬでござるよ。
閏7点(午前10時)までには戻るでござるから、それまでに鶺鴒殿が回復していたら、朝顔たちも来てくれると助かるでござる」
姜黎の言うことももっともだと思った朝顔は、渋々それに同意して念を押すように言う。
「分かった、けど無茶はアカンで? うちが気配を感じているのは都城の南西や。そこにええもんも悪いもんもおる。裏鬼門やから鬼神たるうちら華将が守る場所でもあるねんけど、それ以上に妖魔たちが集まる場所でもあるねんから、気を付けてや?」
「分かっているでござるよ」
姜黎はそう言うと『青海波』の吊り金具を確かめ、朝顔の頭を撫でて出て行った。
頭を撫でられた朝顔は、顔を赤くしてボーッとしていたが、我に返るとドキドキする胸を押さえながら思った。
(なんや? いつもと違うで。うちは何が不安なんや?)
姜黎が向かった都城の南西は、石家庄でも最も貧しい人たちが居住する区画であった。
石家庄の都城は東西16里(4キロ)、南北24里(6キロ)に及ぶ。城主が起居する北の内城付近は、臣下たちや商人、鍛冶職などの居住区域として治安も良かったが、南に下るにつれて家はまばらとなり、ここいらで最も大きな建物は兵舎となる。
南西地区には今日を過ごすのがやっとという人たちが、掘立小屋のようなものを建てて住み着き、区域内では怪しい薬や盗品の絹が取引されているとの噂もあった。
近くに兵舎があるため、表向きは大きな事件こそ起こってはいないことになっていたものの、その実、人さらいや恐喝、果ては殺人まで、いつ何が起こっても不思議ではないとも言われている。
もちろん、もう4年も天下を経巡った姜黎は、一見華やかで整然とした都城の中にもそんな『闇の部分』があることはよく分かっていた。
(ふむ、この辺りは北地区と比べると雰囲気も暗いし、空気も重いでござるな。陰の気がこの辺り一帯に溜まってしまっているかのようでござる)
姜黎は周囲を見回しながら、ゆっくりと歩いている。周りにはぼろのような着物をまとった男たちが、うつろな目をして地面に腰かけたり、寝そべったりしている。
時が止まったような路地裏で動くものと言えば、残飯やごみをあさる野良犬か、油断ならない目つきをした子どもたちばかりであった。
(甘ったるい匂いでござるな。これが把瑠須から流れ込んできている阿芙蓉とかいう麻薬でござろうな)
姜黎が眉をひそめた時、目の前に数人の男たちが立ち塞がり、さらにその眉は険しくなった。男たちは強面でニタニタ笑っており、一目で堅気の者ではないと分かったからだ。
「兄さん、ここいらでは見かけない顔だな。どこから来なすった?」
正面にいる一番態度も身体もでかい男が、ふんぞり返って訊いて来る。姜黎が若く、きゃしゃな身体つきをしているため完全に見くびっている風だった。
「拙者は風の向くままに旅をしている者でござる。そんな拙者にとって見聞を広めることが出来るのは無上の喜び、この界隈も一度は見ておきたかっただけでござるよ」
姜黎はそう言って男たちに背を向けたが、そこには数人の破落戸たちが横並びに立っていた。皆、麻の野良着を着て頭を布で覆っている。気が早い者は懐から短刀を取り出し、手で弄んでいた。
姜黎は最初の男たちに向き直ると、人懐っこい笑顔をして言う。
「拙者は別に追捕使の類ではござらん。官憲の捜査と勘違いしているのなら、違うとはっきり言っておくでござる。道を開けるよう、そなたから手下に命令してはくださらんか?」
姜黎の堂々たる態度に、今度は男の方が眉をひそめる番だった。
「兄さん、あんた……」
男がそこまで言いかけた時、
「兄貴ーっ、子龍の兄貴ーっ!」
そう叫びながら、数人の男たちが駆けてきた。みんな引きつったような顔をして、真っ青だった。
「何だ、元検。今俺は忙しいんだ。何があったって言うんだ?」
子龍と呼ばれた親分が訊くと、元検はつばを飲み込んで息を整え、
「美麗鬼の姐御がやって来やす! 早く隠れないと大変ですぜ!」
それを聞いて、子龍も慌てて言う。
「何ッ!? まだお出ましの時期じゃねえってのに! おいテメェら、相手は鬼神だ。俺たちの手には負えねぇ、早くずらかるんだ」
すると手下たちは我先にと逃げだす。子龍も逃げようとしたが、そこにまだ姜黎が立っているのを見て、
「おい、兄さん。おんなじ人間のよしみで教えてやる。今からこの辺りは鬼神の通り道になる。命が惜しければ早くこの地域から出て行くんだな」
そういうと、
「元検、お前ん家はこの近くだったな。姐御のお通りが済むまでお邪魔するぜ」
「合点で! 兄貴」
元検という手下と共に駆けだした。
一人残された姜黎は、通りの向こうからおぞましい空気が流れて来るのを感じ取って、
「美麗鬼とは、ご大層な名前でござるな」
そうつぶやいて苦笑したが、
「いや、春月や朝顔の例もござったな。鬼神だからと言って美麗でないとは言い切れないでござるか」
そう言うと笑いを収め、『青海波』の鞘に左手を当てて、やって来る鬼たちを待ち受けた。
★ ★ ★ ★ ★
宿では、そろそろ中天に差し掛かって来た太陽を眩しそうに眺め、
「……おかしいなぁ、もうあんなに日が高うなっとんのに、応竜様から何の連絡もあらへんなんて……」
朝顔がそうつぶやいて、鶺鴒がいる自分たちの部屋に戻って来た。
鶺鴒は寝台に身体を起こし、入って来た朝顔を見ると心配そうに訊く。
「則天様、遅いですね。朝顔殿、則天様は閏7点には戻る、そうおっしゃったんですよね?」
そう訊かれた朝顔は、不安を押し殺すように答える。
「そうや。確かに応竜様は閏7点には戻る、それまでに鶺鴒が回復していたら合流してくれると嬉しい。そう言うとった」
「でも、もうすぐ閏7点半(午前11時)です。朝顔殿ならともかく、あのかっちりとした則天様が約束の時間に半時(1時間)も遅れるなんて、今までなかったことです。何か不測の事態が起こったのではないでしょうか?」
心配で八つ当たり気味になる鶺鴒に、
「うちがズボラみたいな言い方せんといてんか!? ちょっと気分がようなるとすぐツンツンするんは、あんたの悪い癖やで? そんなことやから性悪って言われるんや」
朝顔も負けずに言い返す。
しばらく二人はにらみ合っていたが、
「……ふう、こうしていても則天様の安否が判明するわけじゃございませんわね。
朝顔殿、たしか則天様は城の南西に行ったとおっしゃいましたね? わたくしたちも行ってみましょう」
鶺鴒はそう言って立ち上がると、壁にかけられた長弓を肩にかけた。
朝顔もうなずくと、
「せやな、言い合っていてもらちが明かへん。応竜様がなんか困った事態になっとんやったら、手を貸すのが華将としての務めやさかいな」
そう言うと、彼女もまた立ち上がって
「ほな、うち先に行っとくから。あんたは地面を走って来いや」
と、鶺鴒が何か言うより早くその場から消えた。
一人残された鶺鴒だったが、
「ふん、わたくしを置いて行ったつもりでしょうけれど、どっちが性悪なのかしら? まあいいわ、まだつぼみの華将に、天権様の法力をとくとご覧に入れて差し上げますから」
可愛らしい唇の片方だけを持ち上げて皮肉そうに笑うと、目を閉じ、右手で剣印を結び、
「我、天権の名において風の精霊に啓す。冀わくば我に翼を与え、華将鬼神の下へと我を運ばんことを!」
そう呪文を唱え、一陣の風に乗って飛び去って行った。
さすが華将というべきか、朝顔は都城の北部にある宿から、南西部の貧民窟までほぼ一瞬で移動してきた。
そして、周りを見渡して絶句する。
「なんや……これは?」
南西地区は掘立小屋が地割を無視してごたごたと立ち並んでいる。その雑然さから、道路も狭く、通りにはゴミや汚物、果ては動物の死骸が転がっているのは珍しくない。
けれど、朝顔の眼前に見えたのは、叩き壊された家屋や、無残に引き裂かれた人間の遺体だった。その数も尋常ではない。まさに通りを覆いつくさんばかりの数だった。
「いったい何が起こったっちゅうんや? まるで戦の後みたいやん」
朝顔はまるで瘴気のように地面から湧き上がってくる臭気に、鼻を押さえながら言う。
(これはひょっとしたら、うちが感じていた妖魔の仕業かもしれへん。死体の状況から見て、襲撃からまだ一時(2時間)は経ってへんな)
被害の状況をつぶさに観察しながら朝顔が通りを歩いていると、
「おい、お前。そこで何をしている!?」
そう言いながら、二人の男が駆け寄って来るのが見えた。
一人は体格がよく、腰に短剣、背中に長剣といういでたちで、革製の胸当を付けている。
もう一人は、体格こそ普通であったが、普通より短めの剣を2本差しにしていた。双剣使いかもしれないなと朝顔は見当をつけた。
男たちは朝顔から5間(約9メートル)ほど離れたところで立ち止まり、二人とも剣を抜いてゆっくりと問いかけて来た。朝顔のこの場にそぐわない、青く見える亜麻色の髪や着崩れた感じの装いに違和感を覚えているに違いない。
「俺はこの地区に住んでいる岳雲、字は子龍という者だ。お前ひょっとして胡人か? それとも妖魔か?」
『胡人』というのは、大秦帝国以外の場所で生まれた、あるいは秦の民族に属さない者のこと……いわゆる外国人という意味である。朝顔の常人と違った頭髪や瞳の色を見て、そう勘違いしたのも無理はない。
「何勘違いしとんねん? うちは胡人とも妖魔ともちゃうで? うちの名は朝顔っちゅうんや。それよりあんたら、この町の惨状はどないなっとんねん?」
朝顔が訊くと、子龍はその独特の言葉遣いに一瞬戸惑ったようだったが、『しゃべる存在には怪しいものは少ない』というこの国のことわざを思い出したのだろう、
「少なくとも、お前は妖魔じゃないようだ。妖狐の類かもしれんがな」
そう言うと、先ほどの問いを繰り返した。
「お嬢さん、ここは見てのとおりの状況だ。ここで何をしているのかは知らないが、お嬢さんのような人がいていいところじゃない。早く家に帰った方がいいぜ」
朝顔は、笑みを浮かべて答えた。
「そりゃあうちも、こないなところからは早う出て行きたいで? そやけどうち、人を探してんねん。兄さんたち、髪の毛が金色で目が青い男の人、見ぃへんかった?」
すると子龍と元検は顔を見合わせてうなずき、朝顔に訊き返す。
「お嬢さん、あの兄さんと知り合いか? あの兄さんはいったい何者だ?」
「……ということは、アンタら会うたんやね? どっち行ったか教えてんか」
朝顔は目を据えて訊く。その顔は研ぎ澄まされた剣尖に似て、息を飲むほどの美しさだった。二人は朝顔の気迫に押され、
「あ、あの兄さんは美麗鬼の魔窟に行っちまった」
と、姜黎の行き先を告げる。
「美麗鬼? なんやそいつは?」
朝顔が柳眉を逆立てて訊くと、元検が蒼白な顔で説明する。
「1か月ほど前、突然妖魔たちを率いてこの町に踏み込んできた鬼神です。この南西地区を完全に支配しようとしているようで、たまに現れては住民をなぶり殺して去って行きます」
「その結果がこれなんやな? でも城主は何しとん? 仮にも住民が酷い目にあってんやで?」
朝顔が訊くと、子龍は
「美麗鬼はその名のとおり、見た目は絶世の美女だ。それで城主に近づいて篭絡しているのさ。賄賂を渡しているとの噂もある。おまけに城内で暴れるのはこの貧民窟でだけだ。
言っちゃ悪いが城のお偉いさんたちから見たら、俺たち貧民は穀潰しの邪魔者で、いっそいない方がスッキリするんだろうよ。
けれど仮に城主が美麗鬼を叩こうとしても無駄だと思うぜ。奴は性格が酷薄で腕も立つ。そして妖魔たちを従えてるんだ。誰も刃が立たねえ」
そう呻くように言って、朝顔を見つめ、
「が、あの兄さんは違った。俺は妖魔をあんなに苦も無くぶった斬れるお人に、今までお目にかかったことがない。あの兄さんは何者だ?」
そう再び訊いてきた。
「兄さんは『方士』や。せやから妖魔退治はお手のものなんや」
朝顔は、姜黎を『応竜』としてではなく『方士』と紹介した。いろいろ説明するのも面倒くさかったからだが、それが結果的に二人を救うことになる。
「うちも方士や、加勢せなあかんねん。その魔窟の場所、教えてんか」
すると元検が指さして言った。
「美麗鬼の魔窟は、この城の南西を守る坤門に出入口があるそうです」
「分かった! おおきに!」
一散に駆けて行く朝顔を見送った子龍と元検は、顔を見合わせて笑うと、二人の身体から瘴気が噴き出し、その姿は魔物に変わった。
『また一人、紀深海様の餌が手に入ったな』
子龍だった妖魔が言うと、元検だった妖魔は少し訝し気に言う。
『けれど兄貴、今の女といい、さっきの男といい、本当にただの方士かな? あの男、人間にしてはえらく強すぎると思わないか?』
すると子龍だった妖魔は、大声で笑って言った。
『がっはっは、そんなこと気にしなくていいさ。俺たちの仲間を次々と討ち取っている方士がいるという噂だが、あの男がそうなのかもしれん。
けれど仮にそうだったとしても、魔軍司馬たる紀深海様に敵うわけがない』
そう言うと、子龍は
『さあ、次の餌を探して差し上げないと。今の時期、紀深海様は人の生き胆を二時に一つは食べないとご機嫌が悪くなるからな』
と、元検と共に歩き去って行った。
★ ★ ★ ★ ★
一方の鶺鴒は、朝顔に遅れることわずか半刻(7・8分)で、南西地区に到着した。
そして朝顔と同様、町の惨状を空から目の当たりにした彼女は、できるだけ死体が少ない所に着地する。それでも町の空気は臭気と共によどみ、鶺鴒の鼻を刺激した。
「うっわ、なにこれ? 戦でもあったっていうのかしら?」
鶺鴒は眉をひそめ、いそいで鼻と口の周りを錦で覆った。ただの気休めだが、
「こうしないと戻しちゃいそうだわ。それにしても……」
鶺鴒は弓を肩から外し、念のために矢をつがえていつでも放てる準備をしながら、南西の方向へと歩き始める。その歩みは慎重で、ともするとおっかなびっくりと見えなくもなかった。
それも仕方ないところはあった。いたるところの掘立小屋が壊れていて、材木や藁が散乱し歩きづらい上に、
「やんっ!」
鶺鴒は、頭の半分が吹き飛んで脳がはみ出している死体を見て、声を上げて目を背ける。あちこちに散らばる死体は、ほとんどが原形を留めておらず、正視できるものではなかったからだ。
仙道を修行し天権から仙人として認められた彼女ではあったが、これだけ近くでこれだけ無残な死体を見たことは今まで一度もなく、ギリギリの攻防で勝敗が決まるような命のやり取りにも慣れていなかった。
そのため、わずか半里(約120メートル)を進むのにたっぷり10分はかかるという状態だった。
「やだもう、こんなの地獄じゃない。小伯様や仲謀様は、よくこんな気味の悪い戦場を平気な顔で疾駆できるわね。尊敬いたしますわ」
鶺鴒がそう言いながら歩みを再開した時、前方に妖魔の気配を感じて、
(何者!?)
思わず身体を固くする。その時、無意識に漏れ出た仙力が、前方にいる妖魔たちに感知された。
「兄貴」
「ああ、すげえ仙力だぜ。これはさっきのお嬢さんと言い、俺たちはツイてるな」
鶺鴒の漏らした仙力を感知したのは、子龍と元検に化けていたあの妖魔たちだった。彼らは互いに顔を見合わせると、
「さて、また紀深海様へのお供え物だ。丁重にお迎えしようぜ」
子龍の言葉で、二匹は鶺鴒へと駆け出した。
もちろん、鶺鴒ほどの術者が、妖魔の接近に気が付かないはずはない。
「何か得体の知れない妖気ね……」
彼女は妖魔たちの妖気に反応し、
「南斗北斗三台玉女、左青龍避万兵、右白虎避不祥、前朱雀避口舌、後玄武避万鬼、前後扶翼急々如律令!」
四神召喚呪を唱え、仙力を開放する。
先制したのは鶺鴒だった。
「風よ、すべてを浄化する乾坤の摂理に則り、瘴気を払除せよ!」
シュッ!
鶺鴒の願文と共に放たれた矢は、よどんだ空気を斬り裂くように薄い黄色の痕跡を残して飛んで行き、
ドスッ!
「ゔえ!?」
元検の姿をしていた妖魔の顔面に突き立ち、
バフンっ!
「おがっ!?」
その顔を爆砕した。
「まずい! 奴もやはり方士か?」
手下の無残な最期を目の前で見た妖魔は、とっさに瘴気を納め、妖気を隠した。そして再び岳雲の姿を取って鶺鴒に近づいて行った。
「おおーい!」
妖魔岳雲は、鶺鴒の姿が目に入ると、先に手を振って呼び掛け、
「あんた、この距離で妖魔を仕留めるなんて凄いな。おかげで助かったぜ」
そう言いながら鶺鴒に近づく。
鶺鴒も、相手が人間の形をしていて、妖気も感じなかったことで警戒を緩め、弓を下ろしながら訊いた。
「私は黄杏、字は鶺鴒。一体この町で何があったのですか?」
男は一つ頭を下げると説明する。
「ご丁寧に。俺は岳雲、字を子龍と言います。この地区には美麗鬼という妖魔が巣食っていて、住民たちを襲って来るんです」
「美麗鬼? ずいぶんと大げさな名前ですわね。どんな妖魔かしら?」
鶺鴒が鼻で笑いながら訊くと、岳雲は
「笑い事じゃねえんだ。見た目は絶世の美女だが、妖力も強いし腕も立つ。人間じゃ相手にならねえ」
怖気をふるうように言う。それを聞いて鶺鴒は濃い黄色の瞳をキラリと光らせ、
「ふうん、それじゃ、わたくしがその妖魔、見事調伏して見せましょう。その妖魔がいる所を知っているなら案内してくださらないかしら?」
そう言うと、岳雲は大仰に両手を振って止める
「え? 姉さんが? それは止めたがいい。命あっての物種だぜ?」
しかし鶺鴒は、仙力を再び開放して、
「心配無用よ。わたくしは天権様の弟子にして風塵不留真君とも呼ばれる仙人。妖魔ごときに後れは取らないわ」
そう、眉を寄せて言った後、不意に笑顔を見せて、
「それに恐らく則天様もその妖魔と戦っていらっしゃるはず。わたくしも行ってご加勢申し上げねばなりませんし」
坤門へと歩き出す。
岳雲は真っ青になった。
(いけねえ、この女が仙人だとしたら、さっきの嬢ちゃんも仙人に違いないし、あの男も仙人を従えるほどだから鬼神の類に違いない。俺としたことが、そんな奴らをわざわざ紀深海様の所に送っちまうなんて)
岳雲は先に立って歩く鶺鴒の背後に近づくと、気取られないように剣を抜く。そして鶺鴒に斬りかかろうとした時、
ドムッ!
「ごっ!」
突然、岳雲の胸から鋭い切っ先が飛び出した。
「何事!?」
鶺鴒は、背後の異変に気付き、とっさに4・5間ほど前に跳んで振り向いた。
「あなたも妖魔だったとはね……」
鶺鴒は、背後から胸を貫かれた岳雲が瘴気の渦と共に消えて行くのを見て、苦虫を噛み潰したような顔でつぶやく。まんまと騙されて、不意打ちを食らうところだった自分を嫌悪しているような顔だった。
そして、妖魔岳雲がチリとなって消えた時、薙刀を構えている女性に声をかけた。
「あなたは?」
その女性は、身長165センチ程度で、紫の長い髪をしていた。鶺鴒同様、細身の身体に胡服を模した服を着て、褐を穿いている。
違うのは鉄の胸当と脛当てを付け、紫地の長い陣羽織を着ていたことだった。
その女性は、紫の瞳をした切れ長の目を鶺鴒に当てて、薄い唇を開いた。
「なんだ、牽牛朝顔の仙力だと思っていたが、人違いか」
その中性的な声と瞳の冷たさに、鶺鴒は思わず身震いしたが、
「わたくしは楊天権様の弟子で黄杏、字は鶺鴒と申します。仙号は風塵不留真君。助けていただきお礼申し上げます」
鶺鴒がお礼かたがた名乗ると、相手は無表情でうなずき、
「なるほど、仙人なら気が牽牛朝顔に似ていたのも頷ける」
そうつぶやくと、薙刀を身体の横に立て、
「我は華将菖蒲。久しくこの地で眠りについておったが、牽牛朝顔の気配を感じて郷天から出て参った」
そう自己紹介すると、鋭い目で鶺鴒を見て訊いた。
「そなたの周りに牽牛朝顔の気を感じる。彼女が今どうしているかをご教示願いたい」
そして周りを見て
「このありさまの説明も、併せてお願いする」
そう付け加えた。
★ ★ ★ ★ ★
朝顔は坤門の前で腕を組み、青い瞳で空間を見据えていた。
(どこかにあるはずや。美麗鬼とかいうふざけた妖魔の郷天に通じる穴が)
鬼神や妖魔の中には仙力や妖力で時空を操作できる者もいる。そんな鬼神たちが自分のために編み上げた時空間を『郷天』といい、創設者の意思でこの世界とつながったり切り離したりできる。
朝顔が探している『穴』とは、二つの時空間をつないでいる結節点のことだった。
「そりゃこれだけのことをしでかす奴やから、郷天への入り口を簡単に探し出せるとは思ってへんけど」
朝顔はそう言いながら右手を広げ虚空にかざし、念を集中し始める。
(応竜様、待っててや。すぐうちが助けに行くさかい)
朝顔の掌から、いくつものアサガオの花弁が次々と湧き出し、朝顔の周囲を漂い始めた。やがてそれは、何かに引っ張られるように空中のある一点に集まり始める。
「そこやな!」
朝顔は小太刀を抜くと、花弁が集まった場所に跳躍して斬り付けた。
ズバン! キーン!
鋭い音が響き空間に火花が散ると、アサガオの花弁が消えゆく中、傷口が開くようにぱっくりと空間が黒く裂けた。
「応竜様、いま行くで。待っててや!」
朝顔が勇躍して空間の裂け目に飛び込もうとしたとき、不意に彼女は空間の裂け目から強い力で引っ張られるのを感じた。
「えっ!? なんや?」
不審に思った朝顔が目を凝らすと、彼女が目の前に広がる空間の裂け目の向こうに見たものは、すべてを蒸発させるほど煮えたぎった溶岩の海だった。
「あかん! 罠やった!」
すでに半身を裂け目に吸い込まれていた朝顔は、一瞬唇をかんでそう叫んだが、すぐに観念したように目を閉じた。
(これからっちゅう時やったのに、何も力になれんで済まへんかったな応竜様。堪忍してや?)
朝顔がそう思い、自分を待ち受ける地獄の熱さに身構えた時、誰かが彼女の足首をつかんで、空間の裂け目から引きずりだした。
「汝のおっちょこちょいは治っておらぬようだな、牽牛朝顔」
朝顔は空中に逆さ吊りにされたまま、声の主の顔を見る。青い長髪で細身の女性が、青い瞳を彼女に向けていた。
「なんや、アヤメやないか? やっぱりこの町に華将がおったんやな? わっ!」
朝顔は菖蒲がいきなり手を離したので慌ててとんぼ返りを打って着地する。
「なにすんねん!? せっかく助けてくれて感謝しとったのに、またうちを地獄に叩き込むつもりなんか?」
朝顔が頬をふくらまして言うと、菖蒲は腕組みをして冷たい目で言う。
「我の名は菖蒲、アヤメではない。何度言ったら分かるのだ?」
そこに鶺鴒が追い付いて来て、
「ああ、よかった。まだ朝顔殿も菖蒲殿もいてくれたのですね? 早く則天様のもとに参りましょう」
そう、急かすように言った。
「せやった! うちは応竜様のとこに行かなならんかったんや! せやけど郷天の結節に別の次元空間を挟み込むなんて、美麗鬼っちゅう奴もなかなか隅に置けへんな」
朝顔のボヤキに似た言葉に、空間をじっと見ていた菖蒲はフッと笑うと、
「その程度は時空操作の基礎、引っ掛かった牽牛朝顔の学習能力が無いだけ……行くぞ!」
カッとした朝顔が何か言うより早く、菖蒲は薙刀で虚空に斬り付けた。
ジャッ! パーン!
菖蒲の薙刀は時空を歪ませ、さっきとは違って薄く光を放つ空間を出現させた。
「牽牛朝顔、仙人殿、いざ参ろうか」
菖蒲は亜空間に半身を乗り入れながら、二人を振り返って片方の頬で笑った。
灼熱の世界である。煮えた空気は肌にまとわりつき、肺の中を溶鉱炉のように燃え立たせていた。
地面は熱く焼け、足を留めれば10秒としないうちに沓の裏から煙と炎が立ち昇る。
そんな世界で、姜黎は無数の妖魔たちと斬り合っていた。
姜黎の剣術は、通常のそれと少し変わっている。斬る、突く、払うなどと言った剣を使った型ももちろん存在するが、剣を左右の手に持ち替えたり、空いた手や足までも攻撃や防御に使ったりする、剣術と体術を合わせた戦い方だった。
「たっ!」
ガスン!
姜黎は前から飛びかかって来た妖魔を蹴り払うと、その動きを利用して振り向きざま、
「はっ!」
バシュンッ!
「ぐおーっ!」
後ろから彼を狙っていた妖魔を上下二つに斬り裂く。
足を止めることはできない。そんなことをすれば、すぐに沓から燃え上がってしまうだろう。
(止まれないのは奴らも同じ。むしろ動き回った方が下手な包囲を受けずとも済むでござるよ)
まるで舞でも舞うように戦う姜黎を、遠くから女性が見ていた。
その女性は空中に浮かんでいることから妖魔であることは間違いなかったが、剣や槍を持って彼女の周りを警護している妖魔たちと違い、見た目は人間と変わらない……むしろ長く伸ばした艶やかな黒髪や、切れ長で黒目がちな双眸、そして形がよく品の良い紅色の唇と言った部分を見れば、女性としては魅力にあふれた容姿であるとすら言えた。
女性はクスリと笑って、周りにいる配下に命じる。
「面白い男じゃ、攻撃を止めてここに連れて来よ」
「しかし姫様、あやつは見ての通り人間離れした方士。姫様は州牧の業電解様の信頼も厚い参謀、何かあったら取り返しがつきませんが」
すぐ隣にいる身体中が鱗に覆われた部下がそう言うと、女性は薄く笑って、
「あやつがただの方士ではないことは先刻承知じゃ。じゃが人間は心の持ちようで鬼にもなれば蛇にもなるもの。あれほどの妖力を持った存在、始末するのは惜しいものじゃ」
そう言うと、重ねて部下に命令した。
「何をしておる? 早うあの男をここに連れて来んか」
「はっ!」
女性の催促を受けて、2・3人の妖魔たちが姜黎のもとに飛び去った。
姜黎は寄せ来る妖魔たちを次から次へと屠っていた。
バシュン!
「うがっ!」「おごっ!」
今も、左右から同時にかかって来た妖魔を、姜黎はただ一太刀で斬って落とす。鬼神もかくやと思わせる水際立った姜黎の剣術だった。
(妖魔たちの陣が厚くなってきたでござるな。こちらに『美麗鬼』がいるのは間違いなさそうでござる)
姜黎が『青海波』を血振りしてそう思った時、今まで相手にしてきた妖魔たちより一回りも二回りも大きな妖魔が立ち塞がった。
「我は魔軍校尉・螣憫、字は瞬快。小僧、これ以上先に進めると思うなよ」
螣憫は袖付きの革鎧を身にまとい、大長刀を構えていた。身体中いたるところが鱗で覆われており、冷たい眼光を放つ眼には瞼がなかった。
「ふむ、蛇身族でござるか。話には聞いていたが、手合わせするのは初めてでござる」
姜黎は螣憫の巨体に気圧されもせず、静かに笑ってそう言うと『青海波』を握り直した。
「小僧、先に教えといてやるが、俺たち蛇身族の皮膚には槍も刀も通らぬぞ。それを分かったうえで、命が惜しくないならかかって来い」
ふんぞり返ってそういう螣憫を冷ややかに眺めながら、姜黎は『青海波』を鞘に戻し、居合の体勢を取ってつぶやく。
「それはこちらのセリフでござるよ」
その言葉と共に、姜黎は必殺の居合、『青海波』を放った。
パチン! ドムッ!
「ぐあっ!?」
螣憫は、右の肩口を斬り割られ、血しぶきを飛ばしつつ呻く。姜黎は居合の体勢のまま、螣憫に言った。
「今お見せしたとおり、拙者の『青海波』に斬れぬものはござらん。それを分かったうえで、命が惜しくないならかかって来るがよいでござろう」
「ふ、ふざけやがって!」
自分が言ったことをそっくりそのまま返された形になった螣憫は、顔を真っ赤にして叫んだ。そして大長刀を振り上げると、無謀にもそのまま突っ込んでくる。
「テメエみたな小僧に負ける俺じゃねえ!」
姜黎は再び『青海波』の鞘を握ると腰を落とし、ゆっくりと右手を柄にかけながら刀禁呪を唱える。
「吾是天帝所持金刀、非凡常刀百錬之鋼、是百錬之刀也、一下何鬼不走、何病不癒……」
「小僧、死ねえっ!」
螣憫が大長刀を振り下ろそうと弾みをつけた時、
「……千妖万邪皆悉暫済除、急々如律令!」
ジャッ! ドバン!
「うげっ!?」
再び螣憫のうめき声が響き、突進が止まる。その目は『信じられない』とでも言いたげに見開かれ、姜黎がゆっくりと『青海波』を鞘に戻す様子を見ていた。
パチン。
ドバッ!
「ぐあーっ!」
『青海波』の鍔鳴りと共に、螣憫の革鎧は真っ二つに斬り裂かれ、そこから瘴気を含んだ赤黒い血が噴出する。
「そ、そんな……し、信じられねえ……」
螣憫はそうつぶやくと、どうとうつぶせに倒れた。
隊長が倒れるのを見た妖魔たちが、逃げ崩れようとした時、
「姜則天殿と申されたかな? 我が主がそなたと話をしたいと仰せになっている。しばし剣を納めて休戦といたさないか?」
4・5人の妖魔たちがそう言って、側に寄って来た。全員、剣を後ろに回し、すぐには抜けないようにしている。
姜黎は左手を『青海波』の鞘にかけたまま訊いた。
「そなたらの主とは、『美麗鬼』と呼ばれている存在のことか?」
すると、妖魔たちで最も手前にいた蛇身族の男が、うなずいた。
「そうだ。姫様はそなたを討つに忍びず、胸襟を開いて話したいとのことだ。姫様のご慈悲に感謝しつつ、我らについて来るが、うがっ!」
ズバンっ!
言いかけている男を抜く手も見せずに斬って捨てた姜黎は、『青海波』の切っ先を残りの妖魔たちに向け、
「姜則天、妖魔に憐れみをかけられるほど落ちぶれてはおらぬ。無礼にも程があろう!」
身体から白い仙力を燃え立たせてそう言うと、妖魔たちはなすすべもなく固まった。
そこに、
「確かに、先ほどは我が部下の物言いが無礼であった」
そう言いながら、袖口が開いた着物に裳を穿いた女性が姿を現して言う。女性は黒髪を風になびかせ、漆黒の瞳で姜黎を眺めつつ言う。
「わらわは紀鸞、字は深海。この冀州をはじめ、幽州、兗州の司馬を兼ねておる」
「河北では軍事的に重きをなす御仁というわけでござるな。拙者は姜黎、字は則天。訊くのも野暮というものでござろうが、せっかく深海殿が話をしたいと言われるのなら、拙者は石家庄の貧民街で何を企んでいるのかを訊きたいでござるな」
姜黎がそう言うと、紀鸞は口に手を当てて笑い、
「うっふふふ、そう急ぐでない。わらわは螣憫や士刻と言った勇士を手もなく討ち取ったそなたの仙力に興味があるのじゃ。今まで見たこともない能力をしておるようじゃが、その力、いずこで手に入れた?」
そう、妖艶な目で姜黎を見て言った後、ハッとした顔をしてつぶやく。
「この仙力は、六花将。なるほど、わらわはいい時にいい人物の存在を知ったというわけじゃな」
そして、周囲の妖魔たちに大声で命令を下す。
「撤収じゃ! 李回、劉連、部下を連れて幽州に退けっ!」
そして、あっけに取られている姜黎を見て微笑と共に言い、消えた。
「姜則天、今日は魔将を連れておらぬ故いったん退くが、いつかはそなたと雌雄を決する日が来るじゃろうな。そなたが真に華将六花を率いるべき存在か否か、わらわは楽しみに見ておるぞ」
気が付くと、姜黎は石家庄の都城から2里(約5百メートル)ほど離れた丘の上にたたずんでいた。目を上げれば坤門が夕陽に照らされているので、かなり長い間戦っていたらしい。
「魔軍司馬・紀鸞深海か……なかなか手強そうな相手でござったな」
(河北軍の司馬と言ったでござるな。とすると、少なくともあと河南軍、四川軍はあるということでござろう。妖魔たちも段々と大きな組織にまとまりつつあるようでござる)
姜黎が考えをまとめていた時、
「あっ、おったおった。おーい、応竜様~!」
元気な声が聞こえたので姜黎がそちらを見ると、朝顔たちが手を振って駆けて来るところだった。朝顔は姜黎の側までやって来ると、息を整えるのももどかしそうに言う。
「お、応竜様、無事やってんな? 急にあの郷天が消えくさったから、どっかに飛ばされはせえへんかと、うち心配したで」
鶺鴒も、心底ほっとした様子で姜黎に笑いかけ訊いた。
「美麗鬼の郷天には思ったより妖魔が多くいてびっくりしました。則天様、美麗鬼を仕留められましたか?」
姜黎は首を横に振ると
「そなたたちの気配を感じて逃げたようでござる。ところで朝顔、そのお人は?」
姜黎が訊く。すると朝顔は思い出したように
「せやった。応竜様、うちと同じ華将の菖蒲や。やっぱりこの町に居ってん」
その朝顔の言葉と同時に、紫の長い髪をした女性が前に出てきた。
その女性は、身長165センチ程度。細身の身体に胡服を模した服を着て、褐を穿いている。鉄の胸当と脛当てを付け、紫地の長い陣羽織を着ているので、朝顔と違って戦士然としていた。
彼女は、紫の瞳をした切れ長の目を真っ直ぐ姜黎に当てて、薄い唇を開いた。
「我は華将菖蒲。雷将、震将にして信貫郷の住人です。牽牛朝顔の招きにより応竜様のもとに馳せ参じました。以後よろしくお願いいたします」
姜黎は、菖蒲の直截な物言いと中性的な声にかえってどぎまぎして答えた。
「こ、こちらこそ。拙者が応竜などという大それた存在であるかどうかは、自分でも正直微妙でござるが、魔を祓うことが拙者の存在意義であることは確かでござるゆえ、華将の力を借りられるのは非常に力強いことでござる」
菖蒲はゆっくり首を振ると、紫の瞳を持つ目を細めて力強く言った。
「牽牛朝顔の人を見る目は確か。彼女があなた様のことを応竜様というなら、応竜様で間違いない」
(其の参 了)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
鶺鴒と出会い、天権とのつながりができた姜黎ですが、今後どうなっていくのでしょうか?
今回、六花将の一人、菖蒲が加わりましたが、彼女たちの目覚めと姜黎との出会いがどんな意味を持つのかも楽しみです。
次回もお楽しみに。