表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六花の乙女たち〜大秦帝国退魔志演義  作者: シベリウスP
3/11

其の弐 友情の花は涿郡に咲き、滅砕の剣は調伏の風を呼ぶ

母との思い出が残る生家を訪ねた姜黎は、幼なじみと再会する。だがどことなく彼女に違和感を覚えた姜黎だった。その違和感の正体は……。

姜黎の旅の始まりと、親友との心のふれあいを描きます。

 春3月、桃の花が咲き、風は甘い香りと共に薄いピンク色の花びらを散らす。

 花弁は風に乗って、つぼみを膨らませかけた菜の花畑の上を飛び、川面へと落ちていく。


 のどかな風景だった。


 村の中央にある広場では、十数人の大人たちが舞台をこしらえたり、提灯を下げるための柱を設置したりと、忙しく働いていた。


 その様子を対岸から浮かない表情で眺めている子どもがいた。


(もうすぐ村の春祭りでござるか、いいなぁ……)


 少年は麻の野良着を着て、同じく麻でできた褐を穿いている。どちらも洗いざらしでつぎが当たっていたが、さっぱりとしていた。


 けれどその少年が他と変わっているのは、髪の毛が金色で、瞳の色も海のように真っ青だったことだ。


 少年は畑を耕す手を止め、鍬に寄りかかりながら汗を拭くと、自嘲気味につぶやく。


「でも、拙者が祭りに行くと、村の大人たちがまた文句を言うんでござろうな」


 少年は、しばらく川向こうの様子をうらやましそうに眺めていたが、


「……仕事しなきゃな」


 そうつぶやくと、斜面になっているやせた畑をまた耕し始めた。


 日が高くなったころ、少年は近くに生えている桃の木の下に腰かけて、水筒から水を口に含む。畑からは石ころなどはすっかり取り除かれ、きちんとした畔も作られていた。


 ふと少年が対岸を見ると、村祭りの会場はすっかり支度が整ったのだろう、大人たちは一人もいなくなっていて、吊り下げられた提灯が春の風に手持ちぶさたに揺れていた。


則天そくてん、野良仕事は終わったか?」


 少年が一息ついていると、そう言いながら一組の少年少女が坂を上って来た。


 二人とも流行りの胡服を模した絹の着物を着ていて、少年は腰に短い剣を佩いている。


 少年は曹桓そうかん、字は孟宏もうこう、少女は曹蛾そうが、字は春月しゅんげつと言い、少年の親友と呼べるただ二人だけの存在だった。


「ああ、孟宏と春月でござるか。いや、ひと休みしているところでござるよ。ちょうどよかったでござるな」


 すると春月と呼ばれた少女が小走りにやって来て、則天と呼ばれた少年の隣にふわりと腰かける。かすかに甘い香りがした。


姜黎きょうれいさま、お疲れ様です。はい」


 少女は袂からみずみずしい桃を取り出して姜黎に差し出す。彼が戸惑っていると、追い付いてきた曹桓も、袂から桃を取り出して笑って言う。


「遠慮する必要はない。屋敷の庭でとれた桃だ。君と一緒に食べようと思って持ってきたんだ」


 そして、優しさのこもったからかいの言葉を続ける。


「則天、受け取ってくれ。小蛾しょうがは君に自分で渡したいと大事に持ってきたんだぞ?」


 それを聞いて、姜黎はゆっくりと春月から桃を受け取った。頬を真っ赤にして姜黎を見つめる春月の、黒曜石のような瞳が印象的だった。



「美味しかったでござるよ。いい桃でござった」


 桃を食べ終わった姜黎がそう言いながら立ち上がり、畑仕事に戻ろうとした時、曹桓がおもむろに言った。


「今年は、僕の家が春の祭りを取り仕切る」


 姜黎は曹桓を見て、


「それは大儀なことでござるな。けれど孟宏の家は涿郡でも指折りの名家、村の人たちが祭りの宰領を頼みに来る気持ちもよく分かるでござるよ」


 そう笑って言うが、曹桓は真剣な顔で首を横に振った。


「話はそう単純じゃない。宰領役を実質的に取り仕切るのは僕なんだ」


「15・6でそのような大役を言いつかるとは、名誉なことではござらんか? 孟宏は博学かつ深慮する質でござるから、心配せずともきっとうまくやれると思うでござるよ」


 姜黎が励ますように言うと、曹桓は意外なことを口にした。


「いや、宰領そのものについては心配していない。僕がいつも書物に埋もれているから、実務的なことも経験させようとの父の思惑だろうが、あいにくと僕はこんな仕事はとても好きだし興味もある。問題はそこじゃないんだ」


 すると、姜黎が何か訊くより早く、春月が必死の面持ちで言った。


「姜黎さま、私を助けてください」


「はて、助けろとは?」


 面食らった姜黎が訊くと、春月は立ち上がり、姜黎の目を真っ直ぐ見つめて言った。


「私、聞いてしまったんです。父上は今度の祭りで私の婿を探すつもりです。私、結婚相手を勝手に決められるのなんて嫌です」


 姜黎は、春月の顔が余りに近くにあるので、少しどぎまぎして言う。


「そ、それは、春月もまだ13だからそうだろうと思うが……曹不疑(お父上)どのも、ちと気が早いでござるな」


 姜黎の言葉にじれったくなったのか、春月は姜黎の胸に顔をうずめて言った。


「私、姜黎さまのことが好きなのです。姜黎さまだけが好きなのです。ほかの男の所になんか行きたくありません」


 慌てた姜黎が顔を赤くして曹桓を見ると、彼はうなずいて言った。


「そう言うことなんだ。僕としても妹の気持ちは大切にしたい。ましてや小蛾が好きなのが君だと知ったならなおさらだ」


 そして何か言おうとする姜黎を手で押さえて、曹桓は続けた。


「君がただの農夫ではないことはよく知っている。君の知識や剣術はそこいらの男どもとは一線を画する。僕ですら君の才能に嫉妬する時があるんだ、同じ15歳とは思えないと」


 そして彼は、春月の肩に手を置いて、姜黎を見ながら言う。


「君の母上は県令の主簿である姜思永きょうしえい殿の娘、郡の校尉たる我が家とも釣り合わぬ家柄ではない。則天、明日の祭りにはぜひ参加してくれないか。嫌だと言ったら小蛾をこのまま君の家に残して帰るつもりだ」


「せ、拙者はまだ15でござる。まだ自分を鍛えねばならないと考えているでござるよ。結婚など考えたこともござらんし、正直、早すぎるというのが本音でござる」


 慌てて姜黎が言うと、曹桓はそれにもうなずいて、


「ああ、よく分かるよ。僕自身、今父上から嫁をめとれと言われたら反対するだろう。小蛾にしても君にしても、お互いがまだ若いってことは僕も同感だ。

 けれど君の小蛾に対する気持ちくらいは聞かせてくれないか? それで小蛾も少しは安心するだろう」


 そう言うと、姜黎は自分の胸に顔をうずめて震えている春月を見る。春月は顔を上げて、期待と不安と羞恥が入り混じった眼差しで彼を見上げた。


 姜黎はそんな春月に、小さな声で訊く。


「拙者は父を知らない。村の人たちは拙者のことを『妖魔の子』と呼んでござる。そんな拙者と一緒にいても、いいことはないと思うでござるが?」


「そんなこと関係ありませんし信じてもいません。姜黎さまが優しくて賢い人であるのは、私も兄さまも知っています」


 凛とした顔で言う春月に、曹桓も


「人の価値は生まれでは決まらない、この世の中でどう生きて何をするかだと思う。僕は君の知遇を得て親友となったことを後悔したことは一瞬たりとてない。だからこそ君に小蛾を託そうとも思えるんだ」


 そう言って笑った。



 曹桓と春月が村に戻るのを見送った姜黎は、畑仕事を終えると家へと帰った。日が山の端近くまで落ちてきていた。


「遅かったですね。曹桓殿と曹蛾殿ご兄妹の姿が見えましたが、何か特別なことでもあったのですか?」


 姜黎が土間の上り口に腰かけて足を拭いていると、奥の部屋から明かりを持った女性が出てきて訊く。


 女性は30歳前後だろうか、みすぼらしい麻の着物を着て裳を穿いていたが、その表情や言葉遣い、そして所作にはえも言われぬ風格があり、それなりの家で育った女性であると容易に想像ができた。


「はい、今年の村祭りの宰領を孟宏がすることとなったそうなので、拙者にも祭りに参加してほしいとお誘いがございました」


 姜黎が答えると、女性は頬を緩め、


「そうですか。曹桓殿はお父上に似て優秀な若者、祭りの宰領などは彼の能力からすれば役不足かもしれませんね」


 そう言いながら明かりを点けた女性は、土間に降りると姜黎が持ち帰って来た野菜を井戸で洗い始める。


「あ、母上、夕餉の支度なら拙者がいたします」


 姜黎が言うと、女性は優しく微笑み、


「力仕事で疲れたでしょう? 食事の支度くらい母がします。その間に湯を使っておいでなさい」


 そう言うと、野菜を刻み始めた。


「分かりました」


 姜黎はそう言うと、部屋に上がって着替えを取りに部屋へと向かった。



 やがて湯から上がった姜黎は、母と共に夕食を食べ始めた。


「ニンジンや春ナスイモは旬のようですが、玉葉菜はもうトウが立ち始めているようですね?」


 母がそう言うと、姜黎はうなずいて、


「はい、最後に植えた玉葉菜も今日で収穫し終わりましたからね」


 そう言うと、小皿に載った菜の花とタケノコの炒め物を見て、


「これは母上が?」


 そう訊く。


「ええ、敷地内を散策していたら見つけました。春という季節は黄砂だけではなく、このような気の利いた贈り物をしてくれます。黎と共に楽しみたいと、悪いとは思いましたが少し摘んで持って帰ってきました」


 母はそう言うと、少女のような顔で笑った。


「ところで黎、母の見間違いかもしれませんが、曹蛾殿があなたに抱き着いていたように見えたのですが、何かあったのですか?」


「は、母上、ご覧になっていたんですか? 母上もひとが悪い……実は……」


 いきなりそう訊かれて、姜黎は顔を赤くすると正直に答えた。


 母は、茶色の瞳を持つ切れ長の目を細めて姜黎の話を聞いていたが、話が終わるとため息を一つつき、目を伏せて


「曹桓殿はあなたには過ぎた友です、大事になさい。

 それと曹蛾殿の気持ちも分かりますし、あなたをそれほどまでに好いてくれていることは、母として嬉しく思います……」


 そう言うと、今度は力強い目で姜黎を見て驚くべきことを告げた。


「けれど黎、あなたは祭りに参加してはなりません」


「どうしてですか母上? 拙者はすでに孟宏や春月と約束したのですが?」


 母は、驚いて訊く姜黎を鋭い目で見ながら立ち上がると、


「試しの時が来ました。木剣を持って外に出なさい、黎」


 そう言うと、自分も身支度をしながら木剣を執り先に家を出る。姜黎は訳が分からなかったが、母の言うとおり木剣を執ると母の後を追った。



 姜黎が外に出ると、既に母は目を閉じて気息を整えていたが、


「黎、いつも申しているとおり、私を母とは思わず、一個の剣士と思って剣を向けなさい」


 そう言うと、カッと目を見開き、


「では、姜月きょうげつ、字は翡翠ひすい、参るっ!」


 いきなり姜黎へと斬りかかる。


「母上、わっ!」

 ヒョンッ!


 姜黎はたじろぎながらも、姜月の鋭い斬撃をかわして跳び下がる。


「避けるだけでは勝てませんよ、黎。あなたには私が教えられることはすべて教えたつもりです。それを思い出してかかって来なさい」


 そう言って再び向かって来る姜月を見て、姜黎はうなずくと一つ息をした。


 姜黎が姜月から教え込まれたのは、一風変わった剣だった。


 普通の剣術のように、斬り、突くという動作があるのはもちろんだが、それに空いた手や足まで使った、まるで体術のような剣法だったのである。


 姜黎は姜月から放たれた殺気に反応し、本気を出して母と渡り合った。


 ガッ!

「たっ!」


 姜黎は姜月の剣を受け止めると、すかさず右足で蹴りを放つ。けれど姜月はそれを見透かしていたかのように左腕で蹴りを受け止め、剣を引いてその足に斬りかかる。


「はっ!」

 ブンッ!

「たっ!」


 姜黎は右足を引くと同時に剣を左手に持ち替え、そのまま姜月の顔面に突きを放つ。


「ぬっ!?」

 ガツッ!


 慌てた姜月は、斬り下ろしかけていた剣を逆に摺り上げるようにして姜黎の剣を弾く。


 だが、姜黎はそのとき姜月が作った隙を見逃さなかった。


「はっ!」

 シュパッ!


 姜黎の右手が手刀となって空気を斬り裂く音が聞こえ、


「見事です、黎」


 斬り裂かれた服の胸元を押さえながら、姜月が満足そうに笑った。


   ★ ★ ★ ★ ★


「……それで、応竜様はその後どないしてん?」


 どこまでも広がる黄色い大地に伸びる街道を一組の男女が歩いていた。


 男の方は年の頃20歳前後、身長は175センチ程度で黒い戦袍の上から緋色の狩衣を着て緋色の括袴を穿いている。


 鎖帷子らしきものは着込んでいないようで、左腰に80センチほどの剣を佩き、右腰に雑嚢をぶら下げただけの軽装である。脚には脛当てをして、革の沓を履いていた。


 ただ、髪の色は日の光を受けて金色にも見え、瞳の色は深い海の色であった。


 男に問いかけた女性の方は年の頃17・8歳、青く見える亜麻色の髪を長く伸ばし、首の左側で結んで身体の前に垂らしている。深い海の色をした碧眼が印象的だった。


朝顔アサガオ、拙者の名は……」


 何か異議をとなえようとした男の先を取って、朝顔と呼ばれた乙女は笑いながら言う。


「……『拙者の名は姜黎、字は則天』って言いたいんやろ? 分かっとるがな。何度も聞いて耳にタコができたわ」


 そして姜黎の顔をのぞき込むようにして


「せやけどな、応竜様はうちにとって応竜様以外の何者でもないねん。だから好きに呼ばせてんか?」


 そうその名のとおり花のような笑顔を咲かせる。姜黎はため息と共に答えた。


「はぁ、そなたの好きにするとよいでござるよ。それで、母上と『試し』をした後のことでござるな?」


 すると、朝顔はうなずいて、どことなく心配そうな顔色をして訊く。


「せや、その後、応竜様はどないしてん? その、春月とか言うオンナと一緒に祭りを楽しんだ、って言わへんやろな?」


 すると姜黎は、薄く笑って答えた。


「いや、拙者は母と『試し』をした後、すぐに里を出たでござるよ。母から拙者の生い立ちと『運命』とやらを聞き、この『青海波』を受け継いで」


 どことなく翳のあるその表情を見て、朝顔はそれ以上のことを訊くのを憚った。彼女はすぐに話題を変える。


「そ、そうなんや。じゃ応竜様は15の時からうちに会うまで、3年間もこの国をほっつき歩いとったってわけやね? うちに会うまで何しとったんや?」


 姜黎は、


(ふふ、拙者の顔色を見て心の奥まで踏み込んで来ないところは、さすがに気が利くでござるな)


 そう思いながら、簡単に答えた。


「最初の2年は、母の言葉に従ってあちこちを回ったでござるよ」


「あちこちって?」


 朝顔が興味津々な顔で訊く。姜黎はそんな朝顔を横目に見ながら、


「そうでござるな、まずは太原たいげん、そして漢中を経て蜀を訪ね、長江の流れに乗って荊州けいしゅうまで行った後、樊城はんじょうに立ち寄って滎陽れきように至る……ってところでござるな。

 朝顔と出会ったのは滎陽からすぐの所でござったな」


 すると朝顔は嬉しそうに答える。


「せや、うち、応竜様が妖魔と戦っているところを見てすぐにピーンと来たんやで?『この人こそうちの探す応竜様に違いない』ってな。それから1年一緒に旅をして、今ではうちのカンに間違いはなかったって確信してるねん」


 彼女は朝顔の文様が刺繍された裾の長い振袖のような着物を着て、両手を頭の後ろに組んでいる。袖がずり落ちて白い二の腕が見えているが、恥ずかしがる様子もない。


 そして帯の方も、留め方が緩いから着崩れて蓮っ葉な感じがしないでもなかったが、着物の下には筒袖で翠の服を着て、同じく翠の半袴……つまり短パンを穿いている。


 だから着物の間から見える日焼けしてすらりとした脚や、裸足につっかけた黒い木履も相まって、彼女を一層活発そうに見せていた。


「ところで、応竜様が言った『莫逆の友』って、さっきの曹孟宏って人のことなん? 今どうしているか応竜様は知っとるん?」


 朝顔の問いに、姜黎は首を振って答えた。


「いや、拙者は一度も里に戻ってはござらん。旅の途中で拙者の里も妖魔に襲われたと風の噂で聞いたことはござるが、その後どうなったかは不明でござる」


 けれどそう言った後、姜黎は眉を寄せて続けた。


「しかし曹孟宏の家は郡の校尉であり、当主の曹不疑殿も孟宏もかなりの手練れであった。そう簡単に里が妖魔に屈するとは思えないでござるよ」


「ほんなら、早く応竜様の故郷に行かんと……春月言うオンナがまだおったら、うちとしてはフクザツやけど……」


 後半はごにょごにょと言葉を濁す朝顔であった。


「? 朝顔、後の方が聞こえなかったが、何と言ったでござるか?」


 怪訝な顔で訊く姜黎に、朝顔は顔を赤くしてつっけんどんに


「何でもあらへん、乙女の秘密や! ほら、早う行くで!」


 そう言うと、ずんずんと歩き出す朝顔であった。



 2日後、二人は姜黎の住んでいた屋敷の前にいた。


「応竜様、里に立ち寄らんでもええんか?」


 朝顔が訊くと、姜黎は対岸の里を見つめて答えた。


「ここから見る限り、大きな被害は出ていなさそうでござる。下手に立ち寄ると、妖魔の襲撃を拙者のせいにしたがる里人が出てこないとも限らないでござるからな」


 そう言った後、姜黎は改めて屋敷の周囲を眺めてみた。


 低い築地に植えられた生垣は、多少荒れてはいたが枯れたものはなく、閉じられた門も壊れた様子は見えない。


 それに、ここから見る限り、屋敷の敷地も木や草花が生い茂っている様子はなかった。


 姜黎は心の中で不思議に思いながら、万一に備えて腰の『青海波』に左手を添えると、


「朝顔、生垣を跳び越えるでござる」


 そう言って、築地も含めて8尺(約2・4メートル)はある生垣を軽々と跳び越えた。


「これは……」


 敷地に降り立った姜黎は、辺りを見回して目を細める。敷地は4年間もほったらかしにしていたとは思えないほど整っていたからだ。


「応竜様、あれが応竜様の育った家やね?」


 朝顔が20メートルほど先に建っている平屋で瓦ぶきの家を指さして言う。瓦も落ちていないし、壁も崩れたようには見えなかった。


「注意して近づくことといたそう。4年も誰も住んでいない家屋敷とは思えぬ」


 姜黎は朝顔にそう言うと、辺りを警戒しながら一歩一歩近づいて行った。


 玄関前に立った姜黎は玄関や窓、そして壁をつぶさに観察しながらいぶかしそうにつぶやく。


「……玄関のかんぬきは新しいものだ。壁も漆喰しっくいが一か所たりとも落ちていない。この様子では、誰かがこの家を手入れしてくれているみたいだが、一体誰がそのような奇特なことを?」


 そして、いつまでも考えていても仕方ないと思い直した姜黎は、


「朝顔、ついて来るでござる」


 そう言うと、家の裏手へと歩き出した。


 家の外周の半分を見て回ったことになるが、少なくとも二人が大きな破損個所を目にすることはなかった。


 やがて姜黎は、祭壇のような碑の前で立ち止まる。そこでも姜黎は眉をひそめた。まだ新しい花が供えられていたからだ。


(この萎れ具合なら、ここに供えられてからまだ3日というところでござるな)


 花を見てそう思っている姜黎に、朝顔が訊いて来る。


「応竜様、これは何の石碑なんや?」


 姜黎は碑を見つめたまま答えた。


「拙者の母上の墓でござるよ」


「えっ!?」


 びっくりした声を上げる朝顔を振り返ると、姜黎は哀しそうな顔で続けた。


「あの日、母は、拙者の心が自分の存在によって弱まることがないようにと自害したでござる。拙者は母の命によってそれを見届け、母の遺言に従ってそのままこの里を出て行ったのでござるよ」


 朝顔も哀しそうな顔で姜黎の話を聞いていたが、右手でぐっと涙を拭くと、石碑に笑いかけた。


「応竜様のお母様、凄い人やってんな? うち、お母様から認めてもらえるよう、全力で応竜様にお仕えするさかい、見守っといてんか?」



 二人が玄関まで戻って来てみると、そこには年の頃は17・8歳の乙女が立っていた。


 乙女は豊かな黒い髪をお団子にし、絹でできた丈の長い上着を着ている。上着の側面は腰から下がスリットになっていて、下半身には足首まである絹の裳を穿いていた。


 その乙女は、姜黎の顔を見て一瞬びっくりしたように口元を両手で覆い、やがて両目を見る見るうちに潤ませて、


「あなたは……姜黎さま、姜黎さまですね?」


 そう可愛らしくか細い声で言うと、姜黎のもとに駆け寄ってくる。彼女が一歩進むたびに、チャリンチャリンと金属がこすれ合う音がした。


 彼女は姜黎の目の前で立ち止まると、上目遣いに彼を睨んで言う。


「姜黎さま、約束を破って何も言わずに出て行くなんて酷いです。おかげで私、一週間も泣き暮らしちゃいました」


「春月……」


 姜黎はそう言いながらも、何か違和感を覚えていた。確かに目の前の乙女は春月には違いない。4年前の面影は残っていたし、自分に向けられるあけすけな好意もあのころのままだ。姜黎は


(春月も成長したんだ。4年の空白が拙者に違和感を覚えさせるのでござろう)


 そう思うことで違和感を押し留めた。


「姜黎さま、お母さまのお墓には?」


 静かに訊いて来る春月に、姜黎は


「あ、ああ、もう額づいて来たでござる。その節は春月にも世話をかけたでござるな?」


 そう言うと、春月はうつむいたまま首を振った。


「いえ、私は姜黎さまが祭りに来てくださらなかったショックで寝込んでいました。兄さまがすべてを取り仕切られたのです。

 その時、兄さまからお母様のお手紙を見せていただいて、姜黎さまが里を出られた理由を知りました」


 姜黎は黙ってうなずいた。話におかしいところはない。やはり違和感は自分の思い過ごしだったかと姜黎が思った時、不意に春月が眉を寄せて訊いてきた。


「姜黎さま、さっきから気になっていたのですが、姜黎さまの後ろにいる女性は何者でしょうか?

 まさか私というものがありながら、旅の途中で他の女と結婚なさったとか言うことはございませんよね?」


 姜黎は思わず反射的に否定して言う。


「いや、彼女は拙者の仲間で、決してやましい関係ではござらん」


 けれど春月は凄い目で朝顔を睨みつけながら


「そうですか? とても美人なので、てっきり姜黎さまが浮気されたかと思ってしまいました」


 そう言う。朝顔はにかっと笑って春月に言った。


「うちのこと美人やなんて、嬉しいこと言うてくれるやん。せやけどうちはその人の言うとおり、ただの仕事仲間やねん。

 こないな美人に手え出さへんから、てっきりその人は男の方が好きなんちゃうかと思うとったけど、アンタみたいな可愛い想い人が故郷におるんやったら納得やで」


 すると春月は機嫌を直して、


「そうでしたか、姜黎さま、疑ってすいませんでした」


 そう言うと、ニコリと笑って


「では私はお母様のお墓にお参りして参ります。私が戻ってくるまでここにいてくださいね、姜黎さま?」


 そう言うと、家の裏手へと駆けだす。またチャリンチャリンという音がして、姜黎の心に違和感がぶり返す。駆け去る春月は虚空に融けそうな感じがした。


「ふ~ん、うちはただの仲間なんや?」


 違和感の正体を突き止めようとしている姜黎を、朝顔は腕を組んでジト目で見つめて言う。不満たらたらの声だった。


「まあ、あれだけ可愛い子から『好きです』なんて言われたら、応竜様かて男やからそうなるんやろな?」


 やっかみ混じりの言葉を吐く朝顔だったが、姜黎の


「ああ、朝顔。話を合わせてくれてかたじけなくござった。

 しかし、拙者はどうも違和感を拭えないでござるよ。あの春月は確かに春月本人でござった。けれど違和感は増すばかりでござる」


 その言葉に、呆れたような顔をすると、ニヤリと笑って言った。


「はあ、応竜様ほどのお方でも、美人の元恋人が相手やったら目ん玉も濁るんやな? 応竜様、うちは今もさっきも、ずーっと隠形しているんやで?」


「そうか! それではあの音は六道銭……しかし、それだったら春月は……」


 雷に打たれたような顔をして姜黎がつぶやいた時、門の外で閂を外す音がして、それから


 ギギィィーッ


 金属がこすれる音と共に、重々しく門扉を開く音が響いた。


「……この屋敷を管理してくれている人物の登場でござるな」


 姜黎がそうつぶやいて門の方に向き直った時、門から一人の男が入って来た。彼だけが頭に冠を被っている。


 その男は絹の黒い袍を着て、下には浅葱色の絹の着物を着込んでいる。そして足首まである褐を穿いて腰には剣を吊るし、革の沓を履いていた。


 いや、入って来たのはその男だけではなかった。2・3人の明らかに兵士と思われる身のこなしをした男と、後は7・8人の麻の作業着を着た男たちだった。


 冠の男は、


「お前たちは敷地内の樹木を剪定せよ」


 とか、


「お前たちは屋敷を清掃しがてら検分し、必要な修理や補修をいたせ」


 などと指示を出していた。


 そして人夫の一人が姜黎に気付き、冠の男に注意を促す。冠の男は腰の刀に手を当てて姜黎を見ていたが、やがて急に笑顔になると


「そこにいるのは則天ではないか? いつこの里に戻って来た?」


 そう言うと懐かし気に駆け寄って来た。


 姜黎は笑って答えた。


「ついさっき戻ったばかりでござる。4年もの間、屋敷を管理していてくれたようでござるな。かたじけない、恩に着るでござるよ孟宏」


「君と僕の仲じゃないか。お礼なんて水臭いことはよしてくれ。それより君には大きな使命があるはずだろう? どうしてここに戻って来た?」


 男は姜黎の親友とも言うべき曹桓、字は孟宏だった。曹桓が不思議そうに訊くと、姜黎は曹桓を見て答える。


「この幽州にも妖魔が跋扈していると聞いたでござる。この里も昨年一度襲われているはずでござろう? だからけいへと足を延ばす途中で様子を見に来たのでござるよ」


 すると曹桓は喜びを顔に表すと、しんみりした表情となって言った。


「それはありがたい。確かに昨年、この里は妖魔に襲われて大きな損害を出した。父上も戦いで受けた傷がもとで世を去ったし、君のおじい様たる姜思永殿も戦いの中で散華された。それと小蛾も……」


「春月なら、先ほど会ったでござるが?」


 姜黎が言うと、曹桓は息をのみ、しばらくして呻くように言った。


「……小蛾は妖魔たちに殺されたのだ。すでにこの世にはおらぬ。則天、君は僕を苦しめるつもりか? それともからかっているのか?」


 それを聞いて、姜黎は合点がいったようにうなずいた。


「……やはりそうであったか……孟宏、春月のお墓はどこでござるか?」


 その言葉に曹桓が答えようとした時、


「ああ、姜黎さま、約束どおり待っていてくださったのですね? 小蛾は嬉しいです」


 そう言いながら、春月が駆け寄って来た。あのチャリンチャリンという音を響かせながら……。


「……小蛾……お前……」


 春月の姿を目の当たりにして、曹桓は目をむいて立ち尽くす。彼は春月が殺されるところを実際に見て、その葬儀や埋葬まで執り行ったのだ。信じられないのも無理はない。


 春月は、茫然としている曹桓を見て、ニコリと笑った。生前とは比較にならない妖艶な笑みだった。


『応竜様、これはちょっと厄介な相手やで?』


 朝顔のつぶやきが姜黎に聞こえる。言われるまでもなく、彼にはもう春月の正体は判っていた。


(だが、なぜ春月がこの世に舞い戻って来たのか、その理由が分からないでござる。単に未練があったのか、怨恨が残っているのか、それとも……)


 春月は、そう考えている姜黎の方に向き直り、妖艶でじっとりとした眼差しを彼に当てて言った。


「姜黎さま、私は姜黎さまだけを愛していました。やっと帰って来てくださったのですから、小蛾はもう離れたくありません。こちらにおいでください」


「よせ、則天。小蛾は死んだんだ、死霊の招きに乗るんじゃない」


 曹桓が必死に止めるが、姜黎は薄く笑って彼に答えた。


「それが拙者の仕事でござる。春月の思いを見届けて参るから、孟宏は自宅で供養の支度をしていてもらえまいか?」


 姜黎はそう言うと、幸せそうな笑みを浮かべる春月と共に歩き去った。折から不思議な霧が出て二人を包み、霧が晴れた時には二人の姿はなかった。


「……則天、君は魔道を糺す方士になったと聞いたが……皆の者、則天が申していたとおり、小蛾の供養をいたす。急ぎ屋敷に戻るぞ」


 曹桓は我に返ると、鋭い瞳で二人が消えた空間を見つめながら命令した。


   ★ ★ ★ ★ ★


 一面の白い世界だった。


 姜黎は、春月に導かれて霧の中をただ歩いていた。しっとりとした霧は身体中を包み、手足を動かすにも水の中にいるような、空気がまとわりつく感覚がある。


「春月、どこに向かっているのか訊いてもいいでござるか?」


 姜黎が静かに言うと、春月はクスリと笑って逆に問いかけて来た。


「姜黎さまは、お兄さまから私が既に死んだことをお聞きになられたのでしょう?」


 その声には、寂しさと共に幾分かの嘲りの響きがあった。姜黎はそれに気づいたが、ただうなずくことで答えに替える。


 春月は、振り返りもせずに言う。


「それでも私について来てくださったということは、姜黎さまも私のことを愛してくださっていると思ってもいいのですね?」


 姜黎は辛そうなため息と共に、首を横に振った。


「拙者は、春月が何者にも縛られず、行くべき所に行けるよう願っているでござるよ。拙者の大事な存在であった曹蛾春月という女の子の幸せのために」


 その言葉を聞くと、春月は立ち止まり、感情のない声で訊いた。


「……そのご返答は、私とずっと一緒にいてはくださらない……という意味でしょうか?」


「幽明を異にする者は一緒に留まることはできないでござるよ。

 しかし、いつか拙者も運命によってそちらの世界に行くことになるでござろう。長いようだが一瞬のことでもある、待つことは叶わぬでござるか?」


「そんな、酷い……私は3年も、いえ、物心ついてからずっと姜黎さまをお待ちしていたというのに、さらに長き時を待てとおっしゃるのですね?」


 姜黎の答えを聞き、春月は顔を覆い、肩を震わせて泣いていたが、やがて泣き止むと10間(約18メートル)ほど先へと跳躍した。


「……私はずっとあなたを待っていました。妖魔たちに追いかけられた時も、あなたの名を息が切れるまで叫び続けていました。妖魔に嬲り殺されるときも、あなたのお顔を意識が途切れるまで思い浮かべていました」


 そう静かに言うと、春月は身の回りに瘴気をまとわせつつ姜黎を振り向いた。その顔は彼の知っている春月のそれではなく、怒り、恐怖、愛憎、そして哀しみという感情が入り混じった『夜叉』のそれだった。


 夜叉は、狂ったように笑うと、刺し殺すような視線で姜黎を見て憎々しげに言った。


「待てだと!? あれだけ待たせておいて、さらに待てだと!?

 お前がこの里を出て行かなければ、あの時約束どおり祭りに来てくれたならば、私は妖魔に汚されることもなく、殺されることもなく、幸せに暮らせていたはずなのに!」


 夜叉の放つ瘴気はさらに激しくなり、それは妖気と混ざり合って姜黎を包み込もうとするかのように大きく膨らんでいく。


 しかし姜黎は、『青海波』の鞘に左手をかけたまま、目をつぶって立ち尽くしていた。


 夜叉春月は、両手の鋭い指を伸ばすと、キッと姜黎を見据え、


「妖魔に汚された者には冥婚の相手すらおらぬ。私の苦しみや恐怖、そして愛しさという地獄を癒せるのはお前だけだ。私を夜叉に堕とした元凶たるお前を、私の地獄に呼んで何が悪い!」


 そううそぶくと、


「姜黎さま、私と一緒に暮らしてください!」


 その叫びと共に突進してきた。


 その様を見ていられなくなった朝顔は、隠形を解き姜黎の前に立ちふさがって言う。


「何勝手なこと抜かしとるねん! 死んだもんは死に安息すべきとちゃうか!?」


 すると姜黎は目を開けて言った。


「朝顔、手を出すな」


「えっ? せやかて応竜様」


「手は出すな。拙者に送らせてほしいでござる」


 朝顔は、姜黎の眼差しが悲しみに満ちているのを見て、


「……分かった、無理はせぇへんといてな?」


 そう言って姜黎の前から身を引く。


 姜黎は、狂ったような叫びを挙げて突っ込んでくる夜叉春月を見据え、右手を『青海波』の柄にかけてゆっくり抜剣しながら、


「吾是天帝所持金刀、非凡常刀百錬之鋼、是百錬之刀也、一下何鬼不走、何病不癒……」


 そう、刀禁呪を唱え始める。


 呪が進むにつれて、姜黎の身体から白い炎が燃え上がり、それは『青海波』をも包み込んで風を集め始めた。


「姜黎、こちらに来いーっ!」


 突進してきた夜叉が鋭い爪を振り下ろすのと、


「……千妖万邪皆悉暫済除、急々如律令!」


 姜黎が『青海波』を振り抜くのが同時だった。


 チュイーン、ドバッ!


 鋼を切断する甲高い音と、肉を断つ鈍い音が同時に響いた。


 その瞬間、姜黎と朝顔の想念の中に、春月の最期の様子が浮かんできた。



 襲い来る妖魔、必死に逃げる春月、


『姜黎さま、お兄さま、助けて!』


 けれど遂に彼女は追い詰められ、妖魔にのしかかられた。


『いやっ、姜黎さま、助けて、いやッ!』


 彼女はその命が尽きるまで、叫び続けていた。



「なんて酷いことなんや……」


 朝顔のつぶやきで我に返った姜黎は、春月を見た。彼女はゆっくりと姜黎の方に歩みながら、


「くっ……わ、わたし、私は……」


 そうつぶやいている。


 姜黎が『青海波』を鞘に納めると、春月は傷口から真っ白い霊気を噴き出し、それは彼女を包んでいた瘴気を浄化して行く。


 浄化が進むにつれ、夜叉であった彼女は、人間の姿に戻って行った。


「私……怖かった……悔しかった……」


 春月は姜黎に手を差し伸べ、よろよろと歩きながら瞳を潤ませてそう言う。


 姜黎は、そんな彼女をそっと抱き留めると、春月はうつろな目で


「……さびし、かった……」


 そうつぶやく。


「……辛かったでござるな。側にいてやれなくて慙愧の念に堪えぬ……」


 姜黎の言葉に、春月は


「……さびし、かった……」


 そうつぶやき返す。


「拙者には運命がござる。けれど拙者の最も心に残る女性は春月、そなただ。拙者はそなたのことを忘れぬ、拙者が幽明の境を越えた時、また会おうぞ」


 その言葉を聞いた時、春月はハッとした顔をして、


「……嬉しい……」


 その言葉と共に、チリとなって消えて行った。



 何かを考えて立ち尽くす姜黎に、朝顔がおずおずと声をかける。


「お、応竜様って、優しいんやな? うちにもいつかそないな言葉」


 そう言いかけた朝顔におっかぶせるように、姜黎が鋭い瞳をして言う。


「分かったぞ!……朝顔、今度はそなたの出番でござる」


「へ? 何のことや?」


 びっくりした顔で問い返す朝顔に、姜黎は腰の袋から白くて四角い、二本の角と四つの黄色い目を持つ仮面を取り出しながら言う。


「この霧の先に奴らがいる。春月の恨みを晴らすため、奴らに春月と同じ目を味わってもらうでござるよ。遠慮なしに暴れてもらえぬか、朝顔」


 朝顔は、姜黎が仮面を被り、その身に白い炎と赤い瘴気をまとうのを見て、


追儺面ついなめんを被るなんて、応竜様は心底怒っておるんやな。相手の妖魔が気の毒やで)


 そう思いながら、腕をまくって答えた。


「もちのろんや! 妖魔たちが泣きべそかいて、ちびるまでやってやるで!」


   ★ ★ ★ ★ ★


 姜黎たちが妖魔の軍団を壊滅させ、曹家にやって来た時、ちょうど春月の供養が終わったところだった。


「よく来てくれた、則天。小蛾は無事に冥界へと旅立てたようだ」


 憔悴しきった様子でやって来た姜黎を、曹桓は温かく出迎えて開口一番そう言う。


「……それはよかったでござる」


 つぶやくように言う姜黎に、曹桓は


「儀式の途中、また春月が姿を現したが、そなたに礼を言っていた。晴れ晴れとした顔だったから、恐らく小蛾の未練や障碍は無くなったのだろう。そなたのおかげだ、則天」


 そう、親友を拝して言う。


 けれど姜黎は


「そもそも、春月を迷わせた原因の一つは拙者にもあるでござるよ」


 そう疲れた声で言うと、曹桓を見て訊いた。


「それに春月の未練については、まだ完全には解消していないでござる。彼女のお墓はどこにあるでござるか?」


 曹桓は、疲れ切った姜黎を労わるように言う。


「後で案内しよう。君はとても疲れているようだ、少しここで休んでから墓に詣でてもらうわけにはいかないか?」


 姜黎は首を振って答えた。


「拙者には運命がござる。拙者が長らく留まると孟宏にも迷惑がかかることになろう。すぐに案内してもらえぬか?」


 曹桓は何か言いたそうに口を開いたが、姜黎の瞳を見て口をつぐみ、うなずいた。



 曹家の墓は、姜黎の自宅のすぐ側にある。


 姜黎の自宅もかなりの敷地を持っていたが、曹家の墓所はこの里を代表する名家の一つに相応しく、その広さは姜黎宅の敷地を少し越えるほどのものだった。


 曹桓は、供回りも最小限にし、しかも彼らを前後かなりの距離を置いて配置していた。何か姜黎と二人きりの話がしたいようだった。


「君の運命について、詳しいことは知らないが……」


 足を引きずって歩く姜黎を労わるように、ゆっくりと足を運びながら曹桓が口を切った。


「僕は君の出奔について、君の母上が遺していた手紙で大まかなことは理解した。

 けれど、あの手紙には天地の玄機に触れることが書いてあった。残していたら後々問題になりかねないと思ったので焼き捨ててしまったが、その内容はそらんじている」


 そして彼は、姜黎を見て言う。


「君が学んだ仙法、君が受け継いだという仙刀、それらはすべて降魔のためだけに、ただそれだけを目的として創られた法術であり道具だ。それを扱っていれば君は天寿を損なうだろう」


「それでも構わぬ。それが拙者が母から聞いた運命であり、拙者がこの世に生を享けた理由の結果であるなら、拙者にはそれを厭う理由はないでござるよ」


 姜黎は首を振って言うと、笑って続けた。


「それに今の世は妖魔を祓う者がいないと困るでござろう? 拙者がやがて妖魔の根本を断ち切ることができるとしたならば、拙者の人生は望外の充足と言うべきでござろうな」


「ふむ、君がそう思うのならば、僕は止めはしないし止められない。

 けれど僕は君に忘れないでいてほしいことがある。妖魔の災厄が終息したら、君という親友と共に平和を謳歌したいと望む者がいることをね」


 それきり二人は黙って歩き、やがて新しい墓の前で立ち止まった。

 蓮華の台座に丸く磨き上げられた大理石が積まれ、その表面には『清澄院春月貞愛大信女』『青龍神護3年10月15日歿 享年17歳』と刻まれていた。


 墓を見て、曹桓は泣き出した。春月が命を落とした場面を思い出したのだろう。


「僕は妹すら守れなかった。小蛾は最後まで……」


 涙声で言う曹桓に、姜黎は


「孟宏、辛いことは思い出さなくてもいいでござるよ。拙者は全部見て来たでござる」


 そう言うと、『青海波』を抜いて、髪を束ねている錦を外すと、自分のもとどりをぶつりと切った。


「おい、則天、何を?」


 驚いて言う曹桓の声を聞きながら、姜黎は自分の髪を墓前に捧げると言った。


「春月は『妖魔に汚された者には冥婚すらない』と言っていたでござる。春月と新たな約束もしたことでござるし、今度の約束は破るわけには参らぬのでな」


 そう言うと、ざんばら髪を風になびかせて立ち上がり、


「ふふ、結髪も良いが、蓬髪もなかなか頭がスッキリしていいでござるな。では、孟宏、拙者はもう行くでござる。達者でな」


 そう言って歩き出した姜黎に、曹桓は慌てて問いかけた。


「則天、どこへ行くんだ? この里で暮らすんじゃないのか?」


 すると姜黎は、肩越しに曹桓に答えた。


「薊に妖魔の拠点の一つがあると聞き出したでござるよ。しばらくの間、薊への道は使わぬ方がいいでござろうな」


 そう言って姜黎は遠くを見る目をした。先程までの激闘を思い出すかのように……。



 姜黎は、妖魔の真っただ中にいた。


 そいつらは、人間と見た目は変わらなかったが、かかとがない、『虎人』という妖魔の一派だった。


 方相氏の追儺面を被り、恐れげもなく突っ立っている姜黎が一言も発しないのを臆したと見たか、ひときわ身体が大きい虎人が揶揄するように言う。


「貴様は方士だな? まったく近ごろは身の程知らずな人間が増えて困ったもんだ」


 姜黎は、周囲を取り囲んだ数百の妖魔を仮面越しに見て、皮肉を込めた声で言う。


「確かに、拙者も近ごろ身の程を知らぬ妖魔を退治するのにもいささか飽きてきたところでござるよ」


「何ッ!? 人間の分際で、我ら妖魔に敵うと思っているのか!?」


 最初に声をかけた親玉と思われる虎人が鼻白んで言うのに、


「貴様がこのゴミたちの親玉でござるか?」


 姜黎が訊くと、親玉は真っ赤になって吼えた。


「おお、我こそは妖魔の校尉、雷漠らいばく、字は猛虎もうこ。俺たちを馬鹿にして、生きて帰れると思うな!」


「一つ訊きたい、昨年、涿郡の鳳翼里ほうよくりを襲ったのはそなたらか?」


 姜黎が静かに問うと、雷漠は笑って答えた。


「ああ? ちっちゃな里の一つ一つを覚えているものか。だがな小僧、確かに涿郡は荒らして回ったぜ」


「……そうか」


 姜黎がそうつぶやくと、次の瞬間彼の身体は雷漠の背後にあった。


 バムッ!

「うがっ!?」


 姜黎の抜き打ちは音を置き去りにした。雷漠の身体が着込んでいた革鎧と共に弾け、血を噴き出したのは、姜黎が『青海波』を鞘に納めた後だった。


「があっ! これしきのことで俺が参ると思うなっ! 野郎ども、こいつをなますにしちまえっ!」


 雷漠がそう叫び、手下たちが武器を握り直した時、


「がっ!?」

 ドムッ!


 再び雷漠の悲鳴が響き、彼の首が宙を舞った。


「妖魔のくせにイキがったらあかんで? 騒がしいばかりでちっとも怖ぁないさかい」


 そう言いながら、小太刀を左逆手に構えた朝顔が姿を現し、親分の突然の討ち死にに固まっている手下たちをぐるりと眺めて名乗った。


「うちは華将六花かしょうりっか艮将ごんしょう、朝顔や! 乙女の無念を晴らしに来たで。みんな観念しいや!」


 そしてひときわ妖魔たちが蝟集している場所に突っ込むと、当たるを幸いになぎ倒し始める。


「おらっ、やあっ、どうやっ!」

 ドスッ、バムッ、ブシュッ!


 妖魔たちは慌てて散開し、朝顔を包み込もうとするが、何しろ指揮官を最初に討ち取られているので適切な命令を下す者もおらず、さらには、


「拙者は姜黎、字は則天。ある乙女の意趣を返しに来た。全員覚悟せよ!」


 そう叫んで、溜めに溜めた猛気を噴き出しながら姜黎が躍りかかって来た。


 姜黎は、『青海波』で突き、斬るだけでなく、舞でも舞うかのように空いた手や足をも使って妖魔たちに的確な攻撃を繰り出す。


「があっ!」


 姜黎に隙ありと観た妖魔が、後ろから斬りかかって来たが、


「甘いっ!」


 護符を顔に叩きつけ、怯んだ妖魔を斬り捨てる。


「これは?」


 姜黎は斬り捨てた妖魔を見て眉をひそめ、周囲を見回した。朝顔以外の味方はいない。


「では誰がこの矢を射て、拙者を助けようとしてくれたのでござろう?」


 姜黎は倒れた妖魔の右手に突き立ったキセキレイの羽の矢を見てつぶやいた。



 一方の朝顔は、


「いちいち相手するのはめんどいさかい、ちょっとまとまってーや」


 そう言うと右手で剣印を結んで、


「『釣瓶取花つるべとるはな・縛』!」


 術を発動すると、地面から生えて来たアサガオの蔓に、妖魔たちが絡めとられる。


「いい感じや。ほんなら次や、『消如松露しょうじょしょうろ・散』!」


 次の術を発動すると、朝顔を中心に半径1里(この世界では約250メートル)が紫色の瘴気に満たされ、その中にいるすべての妖魔が崩れて消えて行く。


「なんや、手応えのない奴らやなぁ」


 朝顔がそう言いながら右肩を回し、姜黎の方を見ると、姜黎は白い猛気を噴き出しながら、次から次へと妖魔をなで斬りにしているところだった。


 朝顔は姜黎の戦いぶりを感心したように眺めていたが、姜黎が『青海波』を鞘に納め直し、居合の体勢を取ると慌ててつぶやいた。


「あかん、応竜様はオーバーキル気味や。あないな奴らに『青海波』なんて使うのもったいないやん」


 朝顔の心配も知らず、妖魔たちは姜黎が剣を鞘に納めるのを見て、


「よし、あいつを仕留めるのは今だ!」


 そう叫んで、数十の妖魔が姜黎へと突進した。


 姜黎は追儺面の下で瞳を輝かせ、


「道理を知らぬ妖魔め、わが晃刀の一閃で散れっ! 『青海波』っ!」


 シャキンッ!


 ただ一閃、空を切る鋭い音が響くと、


 ズババン!

「ぐあああっ!」


 突進していた妖魔たちは、姜黎まで半分も近寄らぬうちに全員が真っ二つにされてしまった。


「あ、あいつは人間じゃない。とても敵わない」


 運よく生き残った数匹が、這う這うの体で逃げ出したが、姜黎は彼らを目ざとく見つけるとその前まで一瞬で移動し、『青海波』を突きつけながら問う。


「雷漠は魔軍校尉だと言ったな? 上長たる魔牧はどこにいて、何という名でござるか?」


 妖魔たちは人間離れした姜黎の機動を見て、戦う気も失せ震えて言う。


「い、言えば助けてくれるか?」


「命だけは助けてくれ、お願いだ」


 口々に言う妖魔に、姜黎は『青海波』をぐっと突き出して


「静かにしろ! 質問に答えたら助けてやらんこともないでござる」


 そう静かに感情のない声で問うと、妖魔たちは口々に、


「お、俺たちの親分は、幽州ゆうしゅうの魔牧、業蹄ごうてい、字は電解でんかいと言うんだ」


「業電解様は馬頭鬼の軍団を率いています。移動速度はどんな魔牧の軍団より速いです」


「業電解様は、司隷州の魔牧、突骨とっこつ、字は雷音らいおん様と友だちです。お互いに敵に対しては軍団を派遣し合って助け合っています」


「そうか」


 姜黎はそう短く言うと、


 ドバッ!


 『青海波』を無造作に一振りした。4・5体の妖魔が首と胴を異にして斃れる。


「ひっ!」


 ドバッ! バシュッ! ドムッ!

「がっ!」「げっ!」「うごっ!」


 姜黎は眉一つ動かさず、妖魔たちを斬り倒していく。


「だ、騙したなっ! 正直にしゃべれば助けてくれるんじゃなかったのか!?」


 最後の一匹がそう言うと、姜黎は冷たい声で言い放った。


「拙者は『助けてやらんこともない』と申した。今回は助けないと決めたでござる」


 バシュッ!

「ぐあっ!」


 姜黎が最後の妖魔を斬り伏せた時、朝顔が駆け寄って来た。


「応竜様、ケガはしてへん?」


 姜黎は追儺面を外す。すると彼を覆っていた白い炎は消え、姜黎に物凄い疲労感が襲ってきた。


「くっ」

「大丈夫?」


 よろめいた姜黎を、朝顔が慌てて支えて訊くが、姜黎は薄く笑って


「大事ないでござる。それよりこの辺りの妖魔の親玉が分かった。孟宏の家に立ち寄ったら、すぐに征伐に行くでござるよ」


 そう言うと、二人は支え合いながら霧の中に消えて行った。



「魔牧を倒せば、その上にいる妖魔たちを操っている存在のことが分かるかもしれないでござるな」


 姜黎は、はるかに遠くなった自分の生家と、曹家の墓所を眺めながら言う。そんな姜黎に、朝顔は不満げに言う。


「魔牧をやっつけることに反対はせぇへんけど、春月っちゅうオンナとの約束を守ったみたいに、うちとの約束も守ってや?」


「分かっているでござるよ」


 やや煩げに姜黎が言うと、朝顔はムッとした顔で姜黎の右袖をまくって言う。


「分かっとらへん! なんやこれは!?」


 姜黎の右腕には、肘から二の腕にかけてどす黒いあざが浮かんでいた。姜黎は慌てて腕を引っ込めようとしたが、途端に激痛が走った。


「つっ!」


 朝顔は、そんな姜黎を見て怒りとも哀しみともつかない顔をして、優しく彼の腕をさすりながら言う。


「隠しても無駄や。それは業障、妖魔や死人の残した念とか、この世間の汚濁が凝り固まったもの。

うちの願いを本気でかなえへんと、遠からず業障は応竜様を食らいつくしてしまうで? そうなったら、うちかて困るんや」


 哀しそうな目で自分を見つめる朝顔に、痛みが軽くなった姜黎は


「……さようでござったな。拙者の願いは拙者の運命を全うすること。そのための時間がこの業障のせいで少なくなるというのなら、そなたの願いにももっと本気で向き合わねばならないでござるな」


 そう言うと、朝顔の頭をくるっと撫で、軽く笑って言った。


「ありがたいことに、そなたの手当ては拙者に良く効くようでござる。

 このまま薊に飛び込むのはちと不安がござるゆえ、拙者の体調を回復させる間にそなたの気になる場所に立ち寄るのもいいでござるな」


「なら……」


 朝顔はまだ姜黎の腕をさすりながら言った。


「うち、邯鄲かんたんが気になるんや。それに曲阜きょくふ臨淄りんしにも気になる気配があるねん。せっかく来た道を引き返すのもなんやけど、遠回りして海への道を進んで薊へと行ったらあかん?」


 おずおずと上目遣いに訊く朝顔に、姜黎は優しく笑って答えた。


「拙者の身を案じての献言でござる。朝顔の言うとおり、まずは邯鄲に向かうことにするでござる」


(其の弐 了)

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

姜黎の出自はまだはっきりとはしませんが、朝顔や鶺鴒、そして他の華将などとの関わりの中で少しずつ明らかにしていこうと思っています。

『キャバスラ』の設定や整合性の確保についてはもうすぐ終わる見込みですが、『青き炎の魔竜騎士』については、もう少しお時間を頂かないといけないかなと思います。

暫くは本作1本、9月以降は『キャバスラ』との2本立てで投稿していくことになるでしょう。

次回もお楽しみに。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ