其の拾 応竜は鉅鹿の野に吼え、魔軍校尉は背水の陣に散る
鉅鹿を包囲した芍薬たち華将軍は、まず人質の救出のための作戦を展開する。
そのころ姜黎と朝顔は、ただ二人で幽州からの援軍3万を鉅鹿北方の安平で迎え撃った。
鉅鹿の戦いの幕が開ける。
【幕前】
大陸の東にある大国、大秦帝国。
皇帝・姫節の8年目に、大きな流星群が帝国を襲った。
その後2年、帝国は干ばつや洪水などの自然災害だけでなく、どこからともなく現れた妖魔たちの跳梁に苦しんでいた。
辺境、村落、都市と場所を選ばず出現する妖魔に、帝国も対応の術を失いつつあった時、稀代の方士と呼ばれる楊天権は、古の応竜と六花将の復活を感じ取った。
この物語は、運命に縛られた青年・姜黎則天と、六花将朝顔を中心とする物語である。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
鉅鹿の郊外に陣を敷いた華将たちは、案に相違してなかなか動かなかった。
一つは、主将たる芍薬が慎重な性格で、徐州や幽州から魔軍の増援が見込まれる中での性急な攻城を押し留めていたことと、鶺鴒・黄洪部隊と姜黎・朝顔の展開完了を待っていたことによる。
しかし、鉅鹿城内で華将軍の攻撃発起を今か今かと待ち構えている魔軍にはそんなことは分からない。彼らは着陣して5日が経つのに一向に芍薬たちに動きがないことをいぶかしみ始めていた。
「この城を便々と囲んでいたら幽州や徐州からの援軍が来ることは分かり切っているはずなのに、陣を敷いて以降一度も攻め寄せて来ないのは面妖ですね。何か敵には動けない事情があるのでしょうか? それとも援軍を叩くのが目的だとでも言うのでしょうか?」
鉅鹿の守りを任された魔軍校尉の夜蛾は、信頼する部下の呉傑と一緒に城壁の上から華将たちの陣を望見しながらつぶやく。
呉傑も、瞳のない緑色の目を細めて敵陣を見やりつつ、
「俺の部下に何度か敵陣の偵察を試みさせましたが、みんな余りの仙力の強さに半里(この世界で約120メートル)まですら近づけませんでした。敵陣を絶えず見張って出入りを監視し、旗や炊煙の様子を見て状況を推理するしか手がない状態です」
そう苦々し気に言う。
夜蛾は額にある五つの目を細めながら、ふと思いついたように顔を上げて独り言ちる。
「我のヤママユガたちも敵の結界内へ侵入することは叶わなかった……どうやら妖力を持った存在はすぐに察知されるようですね。では、妖力を持たない存在ならどうでしょうか?」
「残念ですが、俺の部下が妖力を隠して潜入しようとしましたが失敗しています」
夜蛾の独り言が聞こえたのだろう、呉傑はそう言って首を振る。そんな彼に、夜蛾は幼児にものを教えるように説明した。
「妖力を隠すのと持たぬのは違いますよ? 我が言っているのは、もともと妖力を持たぬものを間者として敵陣に送り込んだらどうか? と言うことです」
「もともと妖力を持たない存在……まさか校尉殿は」
驚いたように目を見開く呉傑に、まさに不吉といっていいような笑顔を向け、夜蛾は大きく頷いた。
「我の考えを分かってくれたようですね? そうです、この城に閉じ込めている人間たちを使ったらどうでしょう?」
「確かに人間ならば妖力を持たないので華将たちも受け入れるでしょうし、この城から逃げて来たと言えば内情を知るために側近くに呼ぶでしょう。
けれど妖力が使えないなら洗脳も遠隔操作も出来ません。裏切られたら俺たちの情報は敵に筒抜けで、敵の情報はまるっきり分からず、おまけに大切な人質を失うことになりかねませんが?」
呉傑は少し考えてから、穏やかにそう心配を口にした。
夜蛾は呉傑の心配をはねのけるように、
「大丈夫です。人間は弱い生き物、その者が最も大切にしている家族が我らの手にあるうちは、敢えて裏切ったりはしないでしょう。
呉傑、すぐに間者に仕立てる人間を吟味せよ。できれば若い妻か幼い子どもを持つ者が望ましいの」
そう笑って命令した。
一方で、鉅鹿を囲んでいる芍薬たちも、ただ無為に日を過ごしているわけではなかった。
芍薬は偵察が得意な華将・椿と山茶花に、それぞれ徐州と幽州方面を偵察させるとともに、自らは眷属である蛟を放って鉅鹿城内の情報を集めていた。
もちろんその情報は、彼女らの軍師である華将・菊のもとに送られることになる。いきおい菊は雑多な情報から有用なものを拾い出し、分析を加えて作戦へと昇華させることに没頭し、寝食も忘れてしまうこともしばしばだった。
芍薬はそんな彼女を心配し、日に何度も菊の幕舎を訪れている。この日も、芍薬が菊のもとを訪ねると、菊は竹簡、木簡が山と積まれた大きな文机に頭を突っ付していた。
「君子! どうしました!?」
芍薬は驚いて菊に駆け寄る。激務が続いた菊がとうとう倒れてしまったのかと思ったようだった。
実際、芍薬が側まで来たとき、菊は竹簡の束に額を付けてうつ伏せになっていた。各所からの報告に印を付けていたのだろう、右手の側には筆が転がり、朱墨が点々とこぼれている。
「君子、菊、しっかりしてください! 目を開けて!」
すっかり動転してしまった芍薬が菊の背中を激しく揺すると、菊はビクンとして跳ねるように起き上がった。あどけない顔の中で琥珀色の瞳をした目は大きく見開かれ、鼻の頭には朱墨がついている。
「ふえっ!……ああびっくりした。どうしたのじゃ芍薬どの、『花相』の名に似合わぬ慌てぶりではないか。何ぞ不測の事態でも起こったのかのう?」
菊は飛び起きると、自分を揺すり起こした芍薬の姿を認め、その顔がいつもに似ず心配で青くなっているのを見て静かに訊き質す。
芍薬の方は、菊が目の周りに隈こそ作ってはいるが、案外いつもと変わらぬ様子でものを言うのを聞いて少し落ち着いたのか、2・3度深く呼吸をすると菊の側に腰かけ、威儀を取り繕って口を開いた。
「お、おほん、あなたは私たちの司令塔です。ただでさえ作戦前には無茶をするあなたが机に突っ伏しているのを見たら、誰だって慌ててしまいます。
あなたにもしものことがあったら、応竜様も非常に悲しまれます。ちょっとは自愛して、食事時くらいは顔を見せてください」
芍薬の言葉をニヤニヤしながら聞いていた菊だったが、姜黎のことが話題に上ると笑いを消し、真面目な顔になって芍薬に問う。
「のう、花相殿。そなたはあの姜則天と言う人物、本当に応竜様じゃと思っておるか?」
芍薬は突然の問いかけに一瞬言葉を無くしたが、
「君子、あなたは牽牛殿が信じ切っている姜黎と言うお人が応竜ではない、と言いたいのでしょうか?」
逆にそう訊き返す。
菊は眠いのか少しの間目をしばたたかせていたが、
「……そうじゃのう、拙は彼が応竜であると信じたいのう。でなければ拙らが今目覚めておる理由が分からんからのう。
拙ら華将が応竜様と関係なく目覚めることはあり得んはずじゃからな。まあ、牽牛殿はその限りではないが」
そう答えると、芍薬が何かを言うより早く、にぱっと可愛らしい笑みを浮かべて続けた。
「のう、花相殿、真実はいずれ分かることじゃ。拙らはいつも世界の定めに従って目覚め、成すべきことをし、そしてまた冬を迎えてきた。今はやるべきことに集中すべきではないかのう? 拙は姜黎則天という男のすることが正義しければ、今はそれでよいと思うておるぞ?」
芍薬は菊が言うことを目を閉じて聞いていたが、
「そうですね。黄帝陛下はいつだって間違ったことはなさいませんでした。私たちが目覚めたのも、きっと意味あることなのでしょう。
それで君子、今後私たちはどう動くべきでしょうか?」
そう訊くと、菊はうなずいて答えた。
「仙人殿の部隊も牽牛殿たちも配置に就いておる。ただ今からでも鉅鹿に攻めかかっても良いぞ。菖蒲と山茶花を連れて掛かるとよい。拙は状況を見て花王殿と共に呼応しよう」
菊がそう言った時、衛兵の花精が不意に菊の天幕の外から声をかけてきた。
「君子様、鉅鹿から逃げ出してきたという人物を保護いたしました。芍薬様とお話がしたいそうですが、いかがいたしましょうか?」
それを聞いて芍薬と菊は顔を見合わせたが、
「花相殿、これがどういうことか分かられるかの?」
菊の言葉に、芍薬は微笑んで答えた。
「あなたがいつも言っていることですね。『ソレ敵ノ計ヲ以テ敵ヲ謀ルハ計ノ上タルベシ』と……そうでしょう?」
芍薬と菊が本陣に行ってみると、そこにはやつれ切った表情をした男が座って、椿や菖蒲からの質問に受け答えしていた。
「では、人質となった皆さんは鉅鹿の南側に集められていると言うことですね?」
椿が優しく訊くと、男は大きくうなずいて
「はい。妖魔たちは城主の郭無地様をはじめ主だった人間を一か所に集め、魔物に見張らせています。私は見張りの隙を見つけてやっと城から抜け出せたのです」
一息にそう言うと、必死の面持ちで椿にすがるように頼む。
「お願いします、一刻も早く城主様や城の人たちを救い出してください。あなた方は臨淄を救い、平原で魔物をやっつけた方々でしょう?」
「……城主殿ほか人質は城のどの辺りに囚われておるのじゃ?」
椿ににじり寄るようにしている男の横から、菊が歩み寄って声をかける。男は菊の幼い顔を見てびっくりしたようだったが、
「どうした、答えてもらわんと拙たちも作戦の立てようがないぞ? そなたは囚われの場所から逃げてきたのであろう?」
と、重ねて菊が問い質すと、男はハッとした様子で話しだした。
「は、はい。郭無地様たちが囚われているのは城内の南側、東市の近くにある兵舎の一角です。郭無地様のご家族や、城内でも有数の商人や鍛冶屋などが家族とともに閉じ込められています」
「そなたの家族もかの?」
「は、い、いえ、私は独り身ですので、思い切ったことが出来たのです」
菊は、男が一瞬口ごもったのを聞き逃さなかったが、わざと安心したように笑って
「そうか、それは不幸中の幸いじゃったな。それにしても城主殿のために危ない橋を渡るとは見上げたものじゃ。鉅鹿から妖魔を追い払ったら、そなたのことは城主殿のお耳に入れておくぞ」
そう優しく言うと、引き続き城内の様子や妖魔たちの配置、城内の区割りなどを詳しく聞き取る菊であった。
椿は、山茶花に命じて男を陣内の幕舎に案内させると、自分は倉皇として芍薬の幕舎を訪ねた。彼女は男の申し立てたことをまったく信用していなかったのだ。
「芍薬殿、少しばかり話がございますが」
椿が幕舎の外から声をかけると、中から芍薬がくすりと笑う気配がして、
「待っていましたよ花王殿。入ってください」
そう返事があった。
椿が部屋に入ると、そこには芍薬だけではなく菊もいて、
「ふふ、やはり花王殿も気付いておったか」
そう言って笑う。椿は菊の笑いを見て、こちらも薄く笑みを浮かべて言った。
「では、芍薬殿も君子殿も、あの男が言ったことを鵜呑みにされているわけではないのですね。安心しました、あの場で鉅鹿への攻撃案などを話されるものですから」
「まあの、拙が『家族も囚われておるのか』と聞いたら目が泳ぎおった。さしずめ妖魔の中でも智慧のある奴があの男を間者として利用することを思いついたのじゃろう。
しかしそうなると、あの男の家族のことも心配してやらんといかん。城は落とせんでも人質は解放すべきじゃと思ったのじゃ」
菊がそう言うと、椿は困ったような顔で
「君子殿の意見に反対するものではありませんが、そうなるとこちらの行動がかなり制限されてしまいませんか? 少なくとも人質を何とかするまでは、余り目立った行動はできないでしょう。やがては幽州や徐州からも魔軍が押し寄せて来るんですよ?」
そうチラリと芍薬の顔を見る。芍薬は澄まして
「花王殿の心配はもっともですが、君子が策もなく何かを口にすることはありません。間もなく私が遣わした蛟たちが戻って来ます。その報告をもとに、早急に作戦を実施することになるでしょう。花剣や燎原はいつでも出撃可能ですか?」
そう言って笑った。
★ ★ ★ ★ ★
魔軍の河北司馬、紀深海から出撃の命を受けた幽州魔牧の業電解は、薊を3万で出発し、保定まで来て一旦軍を留めた。鉅鹿方面のほか平原方面の最新の状況を手に入れるためである。
「鉅鹿の郊外には8千ほどの軍が陣を敷いています。東門から東北東に4里(この世界で約1キロ)ほど離れた丘の上です。丘の麓には柵や堀が作られています」
幽州軍の先鋒を務める魔軍校尉の蟻参、字は琅藍は、先遣隊からの伝令に不機嫌な声で訊いた。
「陣内の様子は分からないのか? どこに陣地を作っているとかは見れば分かる!」
怒声に似た声を頭から浴びた伝令は、へどもどしながら
「そ、それが相手は何者か知りませんが、恐ろしいほどの力を持っているようで、斥候も陣前1里に近づくのがやっとというありさまだったようです。陣内の偵察ができなかったのはそう言うことだそうです」
やっとのことでそう釈明する。
蟻参は首を傾げ、
「ふむ、鉅鹿にかかった敵はただ者ではないと業電解様がおっしゃっていたが、我らが近づけぬほど強い力を持った者など、今まで聞いたことがない。
相手を知らねば、いざ戦闘となったとき不覚を取る恐れがある。無理をしてでも敵陣の様子を貞知せよ」
蟻参は大きな複眼を赤く染めて伝令に言った。
伝令が倉皇として本陣を辞した後、蟻参は帷幕にいる部下たちに
「……しかし、青州の鉄豺狼を倒したのは華将とか言う奴らだったと紀深海司馬様から聞いたことがある。誰か、華将という存在について詳しく知っているものはいないか?」
そう訊いたが、誰も華将について知っている者はいなかった。
「ふむ、誰も知らんのか。まあ、華将という存在が活躍したのは2千年も昔のことらしいからな。情報を集めておくしか今は打つ手がないのかもな」
蟻参はそう言って笑ったが、彼は鉅鹿に何が待っているかを知らなかった。
「蛟の報告によれば、人質は確かに城内の兵舎に閉じ込められていましたが、内城の南側に移動させられたそうです」
芍薬が言うと、菊と椿は顔を見合わせて、
「やはりあの男、夜蛾とか言う妖蟲に弱みを握られておるようじゃの?」
「あの男の脱走と同時に人質の監禁場所を変えるのは出来すぎていますね」
そううなずき合った。
「さて、これで人質の居場所は特定できました。君子、いかがいたしますか?」
芍薬が訊くと、菊は肩をすくめて答えた。
「あの男には気の毒じゃが、家族は諦めてもらわんとのう。せめて鉅鹿の城主たちと同じところに押し込められていることを祈るばかりじゃ」
「では救出作戦を発動するのですね?」
芍薬はどことなく気乗りしないような態度だった。間者の役回りをさせられた男とは言っても、その罪もない妻子を見殺しにするという決断をしかねていたのだ。
「のう、花相殿。鉅鹿にはいずれ幽州からの援軍が到着する。拙らは形だけでも鉅鹿に攻めかかり、守兵を城内に釘付けにしておかないと、その後の戦いが不利になる。それは解っておられるじゃろう?」
菊が黄土色の瞳に強い光を灯して言う。椿もそれにうなずいた。
「我らは華将。人間たちを守護するために仙力を使うことを応竜様と契約いたしました。その原則から見れば、救える人間は救わねばなりません。
しかし、大局から見れば多少の犠牲は甘受せねばならないこともあります。戦雲が急速に動いている今、少しの躊躇が取り返しのつかない事態を呼び寄せかねません。
芍薬殿の気持ちは分かりますが、速やかに君子殿と山茶花に出撃を命じられませ」
菊と椿、信頼する二人の参謀の言葉に、芍薬は目を閉じて言った。
「分かりました、人質の救出作戦を発動いたしましょう。詳細は君子と花王殿にお任せします」
芍薬は花剣・菖蒲と花王・椿を両翼に、驟雨の如く鉅鹿に押し寄せた。
鉅鹿の見張りは華将軍の陣地出撃を望見してすぐさま上官に報告したが、東門の守将・呉傑が夜蛾にそのことを報告し、東門に駆け付けた時、既に小競り合いが始まっていた。
「我は信貫郷の住人で雷将、華将・菖蒲。
汝ら幽冥を異にする存在よ、冥府に安座しておれば膺懲の雷火には撃たれざらんものを、身に似合わぬ白昼に悪行を積み、敢えて降魔の火箭をその身に受けようというのか?
笑止! 汝らに冥府の加護があろうとも、我ら華将、摂理の名のもとに汝らの跳梁跋扈を阻止し、四海の安寧を招来せん。
旧悪を省みて投降を望む者には応竜様にも慈悲がある。速やかに軍装を解いて我が陣門に降れ。さもなくば霹靂の鉄鎚が下るであろう!」
華将・菖蒲は青い髪を戦場の風に揺らし、青い瞳を城門の上にひしめく妖魔たちにひたと当てて大音声で名乗りを上げる。大薙刀を右手に、水色の胡服に藍色の褐を穿いて、革鎧と膝当、陣羽織を着たその姿は、さすが華将随一と謳われるだけあって堂々としていた。
呉傑は、菖蒲の後ろに控える花精たちに目を奪われた。2千5百ほどの軍であるが、全員が先頭に立つ菖蒲と同じ装いをして、同じように青い髪をなびかせ、青い瞳でこちらを見ていた。その様は、妖魔の彼にして身の内から震えが沸き起こってくるような禍々しさを感じさせるものだった。
「だ、黙れ! 善悪は相対的なもの、我らとて摂理に存在を認められたものだ! そんなことも知らないでしたり顔するお前こそ哀れなり。わずか1師で何ができる。この東門、抜けるものなら抜いてみよ!」
呉傑は自分を注視している兵たちの手前、そう大声で怒鳴り返したが、その一方で
「目の前にいる敵は1師で、俺たちは5千もいるとは言っても、敵の後ろにはさらに2師ほどが続いている。校尉様に東門の状況をお知らせして、援軍を回していただくんだ」
と、部下の鄭安を夜蛾のもとに送っていた。
一方、呉傑の返事を聞いた菖蒲は、薄い唇を歪めて笑い、
「ふん、口は達者のようだな。それでは少し肝を冷やしてもらおうか」
そうつぶやくと、花精たちを振り返って命令した。
「今から軽く東門を揺さぶる。占領が目的ではないから無理はするな。全員、塊根を陣内に置いて行くがいい」
呉傑は、菖蒲の口上をあれほど峻烈に断った以上、即時の攻撃があると覚悟してすぐさま部下に迎撃態勢を取らせていた。
「呉邪道様、敵が寄せてきます!」
物見台の兵士が叫ぶ。その声が震えているのを聞いて取った呉傑は、すぐさま大声で
「そんなことは見れば分かる! 落ち着いて、敵が1丁(この世界で約60メートル)にまで近づいたら知らせるのだ!」
そう命令するとともに、自隊から弓兵をかき集め、
「上から射下ろすのは絶対の有利だ。城壁を登ってくる敵兵に矢の雨をお見舞いせよ」
そう自信満々に命令する。
物見の声を聞いて内心恐怖を覚えていた兵士たちだったが、呉傑の叱咤や自信に満ちた態度を見て落ち着きを取り戻し、張り切って菖蒲軍を迎え撃つため陣地に着いた。
(まったく危なかったぜ。ちょっとでも恐怖の感情が陣内に流れたら、戦意なんてものはあっという間に消えて無くなっちまうからな)
呉傑は半月槍を手に持って、寄せ来る菖蒲軍を眺めながらなんとか恐怖心を抑え込もうとしていた。
「花剣は予定どおり攻城戦に掛かりました。では君子、燎原、頼みましたよ?」
菖蒲の部隊がゆっくりと前進して行くのを見ながら、芍薬は側にいる菊と山茶花に笑いかける。
菊もつられたように笑顔を見せると、すぐ真面目な顔に戻り、暴れたくてうずうずしている山茶花に言った。
「山茶花、今度の作戦はそなたの働きが成否のカギを握っておる。余り危ないことはしてほしゅうはないが、さりとて中途半端な暴れ方では困る。常に敵の薄いところを突くようにしつつも、退き時を見失わんようにな」
山茶花は桃色の髪をかき上げて、楽しそうに笑って答える。
「分かってるって。菊ちゃんの方には一兵たりとも行かせないから安心して? それより菊ちゃんこそ、人質のみんなを連れての退却は大変だよ?」
「うむ、話によれば城主の一族や商人をはじめ、数百人が捕らわれておるらしいからの。老人や病人が居るかもしれんから、一人残らず救出するのは思ったより時間がかかるかもしれないのう」
菊はそう言いながらも、どことなく余裕と自信を感じさせる表情だった。
(君子と燎原の表情から見ると、この作戦は成功しそうですね)
芍薬は先行きに明るいものを感じ、自然と笑顔になって二人に命令した。
「君子、燎原、作戦の第2段階です。速やかに発動位置に着いて、君子の任意のタイミングで作戦にかかってください」
東門では、菖蒲の部隊がいよいよ守備隊の矢が届く距離に近づいてきた。
「敵軍、門から1丁です!」
物見の声を聞くや否や、呉傑は鋭く簡潔な命令を出す。
「てっ!」
シュバババっ!
呉傑の命令を受け、5百の弓弦が一斉に音を立てた。
ザザザザザザッ!
5百の矢は怪鳥の羽音に似た音を立てて、菖蒲隊を押し包んだ。
「やった! 続けて射かけるんだ! てっ!」
シュバババッ!
呉傑は興奮気味に命令を叫ぶ。弓兵たちもまだ効果は確認していないものの、
「これだけ矢を射込めば、万が一にも無傷の奴なんているはずがない」
そう確信し、弦を引く手にも力がこもった。
続けて3斉射した後、呉傑は妙なことに気付いた。すでに千本を超える矢を射込んだというのに、敵の悲鳴やうめき声など、何一つ聞こえてこないのだ。
「まさか全員を一矢で仕留めたなんてことはありえない。どうなっているんだ?」
呉傑は悪い予感とともに城壁の下を覗き込むと、そこにはまったく傷一つない菖蒲隊が城壁を越えるための梯子を立てかけるところだった。
「どう言うことだ!? 奴らは不死身か!?」
余りのことに動転した呉傑は、
「弓矢を貸せっ!」
近くの弓兵から弓矢を取り上げ、自ら狙いをつけて矢を放つ。
シュンッ!
呉傑の放った矢は、狙い過たずに梯子を登り始めた花精の頭部を貫いたが、その兵士はまるでダメージを受けていないかのようによじ登ってくる。
「くそっ! 矢は奴らを素通りしている」
信じられない事態に、呉傑は慌てて剣を抜くと、後ろに控えている隊にも
「敵に城壁を越えさせるな! 隊伍を組んで阻止しろ!」
と、戦線投入を決断した。
城壁の上の混乱した空気は、梯子の側にいた菖蒲にも手に取るように分かった。
「ふっ、敵の指揮官も困惑しているようだな。それではもう少し肝を冷やしてもらうとするか」
菖蒲は薄く笑って独り言を言うと、城壁を越えるために梯子に手をかけた。
「さて、これで山茶花と菊が突入したら、鉅鹿はどれだけ混乱するだろうな?」
菖蒲はそう一言言うと、身軽に梯子を駆け上がって行った。
城壁の上は大混乱に陥っていた。
矢の雨などものともせずに登って来た花精たちは、城壁の上に取りつくと剣を抜き、ものも言わずに手近な妖魔たちに斬りかかって行った。
カーン! ジャリッ! バンッ!
あちこちで斬り合いが生じ、剣で剣を弾く音、剣がこすれ合う音、剣を楯で受け止める音などが響く。
しかし、
ザシュッ!
「うごっ!」
肉を断つ音と共に上がる悲鳴は、すべて妖魔のものだった。
「ご、呉邪道様、敵の身体は幻影ですが、剣は本物です!」
兵士の一人が花精の剣を弾いて存分に斬り付けたが、まったく手応えもなく刃が花精を素通りしたことに驚いてそう叫ぶ。
「幻影!? 幻影が実体のある剣を振り回しているだと?」
驚いた呉傑は、自身も前線に押し出して
「やっ!」
剣を揮うが、なるほど彼の剣は空間に銀色の軌跡を残し花精の身体をすり抜けてしまう。
「おうっ!?」
カイーン!
呉傑は横合いから突きだされた剣をとっさに跳ね上げた。
「なるほど、剣は実体があるのか。厄介な仙力だな」
呉傑は歯ぎしりすると、
「大楯だ! 大楯を並べて奴らを食い止めろ!」
城壁の下にいる兵士たちに向かってそう叫んだ。
兵士たちは急いで大楯を持ってくると、次々と城壁の上に駆け上がり、城内に通じる昇降口の周りにしっかりとした円陣を組んだ。
「よし、奴らの攻撃を受け止めながら、少しずつ城壁から叩き落とせ!」
呉傑が何とか対応策を取れたと安心したのもつかの間、
「小手先の技が我ら華将に通じると思うな! 霹靂・斬!」
菖蒲の声が響いたと思うと、
バチイイッ!
「うわあああっ!」
青白い紫電と甲高い音が轟き、楯の戦列を作っていた兵士たちは大楯ごと両断された。
大楯の守りを崩されて慌てる兵士たちの群れに、菖蒲の追撃が容赦なく襲い掛かった。
「そこを退け! 雷箭・突!」
ピシャーン!
「わああっ!」
異様な圧力を生じて雷槍が奔る。城内への階段を守っていた兵士たちは、菖蒲の一閃であるいは雷槍に貫かれて消滅し、あるいはその圧力で地面へと落下してしまう。
「よし、城内を引っ掻き回せ! 一隊は城門を開いて山茶花と菊の部隊を招き入れろ!」
城壁の上は妖魔たちの死体でいっぱいだった。
そんな城壁の上で、菖蒲は紫の髪と陣羽織を腥風になびかせて仁王立ちになり、城内を睨み据えていた。
★ ★ ★ ★ ★
一方、徐州からの援軍を遮断する任務を帯びた鶺鴒と黄洪は、当初の予定どおり濁河を渡って東平という町に入り、そこの住民を残らず引き連れて濁河の北、帝丘に戻って来ていた。
「まずは東平とその周辺に暮らしていた住民、約2万の安全が確保できてよかったです。しかし、東平を妖魔が蹂躙するのを手を拱いて見ているのもちょっと癪に障りますな」
避難民を帝丘や近くの町村に送り届けた黄洪は、城壁の上で濁河の流れを眺めている鶺鴒のもとにやって来て言う。
鶺鴒は何を考えていたのか、黄洪に話しかけられてびっくりしたように振り向くと、
「えっ!? あ、黄白鷺様。避難民の誘導、お疲れ様でした」
そう慌てて言い繕う。
黄洪は鶺鴒の動揺に敢えて気付かぬふりで、
「曲阜からの情報では、彭城に目立った動きはないとのこと。これは風塵不留真君殿の言われるとおり、北部魔軍の総大将は徐州から援軍を出さないつもりのようですな」
そう明るい声で言う。
それを聞いて、鶺鴒は緩く頭を振ると、静かな声で言った
「わたくしの兄弟子、杜仲謀様はこんな時でも油断はなさいません。それに東平をただで妖魔に蹂躙させてあげるほど、わたくしは聖人君子ではございません」
「と、いいますと?」
黄洪がいぶかしげに訊くと、鶺鴒は濁河に視線を向けたまま、
「東平は妖魔軍が濁河を渡るつもりがあれば、必ず通過せねばならないところ。そしてもたもたしていれば曲阜からの攻撃を受けてしまう立地です。
それでわたくしは式神を派遣し、魔軍が東平に入ったら城ごと火計にかける算段を終えています。曲阜の呂将軍は目端の利くお方、東平で魔軍が火計にかかったと聞けば、時を措かずに出撃されるでしょう。
わたくしたちはそれに呼応して再び南下すれば良いのです」
そう、準備万端であることを明かした。
黄洪は苦笑しつつ、
「やあ、相変わらず風塵不留真君殿は手回しがよろしい。姜則天殿が頼りにし、お側に置きたがるわけだ」
そう言うと、鶺鴒は哀しそうな瞳を伏せて、
「わたくしは余り人間との関わりを持たずに成長いたしました。7歳の時、天権様の弟子となってから10年、天興山を下りたことは数えるほどしかございませんし、その稀に下山する際もたいていは杜仲謀様や甘季姫姉さまと一緒でした」
そう小さな声で言うと再び目を上げ、
「姜黎さまは、わたくしが下界に降りるきっかけを与えてくださったお方でもあります。あのお方に出会っていなければ、天権様のお側から離れようと思える日はもっと先のことになっていたでしょう」
そうキッパリと言った。
「ふむ、姜則天殿は風塵不留真君殿にとって、それほど大きい存在だということですな?」
黄洪が優しさにあふれた声で訊くと、鶺鴒は素直にうなずいて、
「はい、学問や戦いを通して感じる連帯感とは全く違う、心が温かくなる感じがいたしました。それにあのお方のお顔を拝見しているだけで、満ち足りた気持ちになれます。わたくしにとって、そんな感情は初めての経験でした」
そう言いながら鶺鴒は、黄洪に対しても普通の人間以上に素直になれる自分に驚いてもいた。
黄洪は深くうなずきながら、ゆっくりと言う。
「心でつながっている関係ってのは、それだけで幸せってもんですよ。俺にも妹がいたが、生きているのならちょうど風塵不留真君殿と同い年です。
もし再び会えるなら、俺は守ってやれなかったことを謝りたいと思っていますが、俺と妹は心で繋がっちゃいないようですな」
自嘲気味に言う黄洪を、哀しげな眼で見ていた鶺鴒は、何気なく問いかけた。
「黄白鷺様は、どうして妹さんのことでそこまで自分を責めるのですか?」
問いかけて、黄洪の顔が暗く沈むのを見て、慌てて言い足す。
「あ、いえ、もちろんお話しされたくなければお話しいただかなくても結構です。誰しも口に出したくないことはございますから」
それを聞いて、黄洪は首を振り、昔のことを語り出した。
「俺が生まれたのは曲阜でしたが、親父は手広く商売を行っている商人でした。まあ、家には数十人の召使がいましたから、一応は豪商って言って良いかもしれません。
そんな親父の商いの都合で、俺たち一家は菱和3年ですから17年前ですね、臨淄に引っ越してきたんです。妹は臨淄で生まれました」
「妹さんの名は?」
「桜です。黄桜鶺鴒、それが妹の名です。豊かな黒髪と翠がかった茶色の瞳をした可愛らしい子でした」
黄洪はそう言うと空を見上げる。西の空は茜色に染まり始めていた。明日もいい天気になるだろう。
鶺鴒はそんな黄洪を眺めながら、不思議な気持ちに襲われていた。
(わたくしの諱は天権様が考えてくださったもの。天興山に迷いこんだとき、わたくしは鶺鴒という字しか覚えていなかったから……)
そんな鶺鴒の気持ちを知ってか知らずか、黄洪は話を続ける。
「妹が生まれて5年は、何事もなく平穏な日々が続きました。親父の商売も上手く行って、臨淄でも顔役みたいになっていました。あの町に的盧が現れるまでは……」
「的盧?」
無念そうな黄洪に鶺鴒が恐る恐る訊くと、彼は夕焼けを見つめながら首を振って言う。
「馬に憑りつき、乗った人間の魂を奪う化け物です」
「その妖魔がどうしたんですか?」
鶺鴒が重ねて訊くと、黄洪は辛そうに答えた。絞り出すような言い方だった。
「町の人々が噂しだしたんです。妹は的盧の子だと」
「まさか! 妖魔が人間に子どもを産ませるなんて滅多なことじゃあり得ませんが?」
驚いた鶺鴒が叫ぶように言うと、黄洪も頷いて
「ええ、最初は親父も信じちゃいませんでした。けれど、妹が妖魔に変化するのを見たと言う人が出始めて、親父は家人に妹の監視を命じました」
そう言う。
「……妖魔に、変化?」
鶺鴒は目を細めてそうつぶやく。彼女は、頭の中で何かモヤモヤしたものが広がって行くのを感じていた。
『この子は妖魔に憑りつかれたんじゃない。妖魔の子じゃ!』
幼い鶺鴒は目隠しをされ、妖魔払いの祭壇の前に座らされていた。耳元では銅鑼や鉦が喧しく鳴り響き、強い香の匂いに鶺鴒は何度もむせた。
(あれは思い出してはいけない記憶。でもなぜわたくしは……)
鶺鴒の顔色が真っ青なのを見て、黄洪は驚いて
「どうしました、風塵不留真君殿? 顔色が真っ青ですぞ?」
話を中断して鶺鴒に問いかける。
「あ……いえ、何でもありません」
鶺鴒はゆるく首を振ってそう答えるが、顔色はどんどん悪くなっていく。
「魔軍迎撃の準備で疲れたのでしょう。ゆっくりお休みになられた方がいい」
黄洪が言うと、鶺鴒は素直に頷いて
「そうさせていただきます。でも、何か変わったことが起こったら遠慮なくお知らせください」
疲れた笑いを見せて、鶺鴒は自分の部屋へと引き上げて行った。
鶺鴒を見送った黄洪は、夕日に照らされながら
(鶺鴒殿は何かを思い出されたんだろう。いったい彼女の過去には何があったのか? 余り不躾な真似はできないが、もっと詳しく調べる必要があるな)
そう考えていた。
★ ★ ★ ★ ★
姜黎と朝顔は、鉅鹿北方の紫龍阜からさらに前方へと移動し、保定の魔軍が鉅鹿を後詰するなら必ず通過しなくてはならない地点である安平で幽州の魔軍を待ち受けていた。積極的に攻める姿勢を取ったのだ。
「直線で鉅鹿に行くのであれば無級を通ったがよいでござるが、そうすると石家庄にいる義勇軍に横腹を曝すことになるでござろう? 拙者が援軍を率いる立場なら石家庄を落としてから鉅鹿に向かうでござろうが、魔軍にはそんな時間的余裕はないはずでござる」
姜黎はそう言いながらも、視線は北の方角から放さなかった。
「魔軍がどこを通るかっちゅうことは応竜様の読みで間違いないって思うねんけど、問題は3万もの軍をどないして殲滅するかってことや。しかもたった二人で」
隣に立って同じく北を睨んでいる朝顔がそう言うと、姜黎は訝し気に朝顔を見て訊く。
「二人? 朝顔、そなたも他の華将のように花精を呼び出したらいいのではござらんか?」
すると朝顔は恥ずかしそうに肩を狭めて言う。
「う、うちはまだ花精を使役することができひんのや。うちが花精を使うためには、応竜様からうちの真名を呼んでもらわんとあかんって菊ちゃんが言うとったねん」
「朝顔の、真名……?」
姜黎はそうつぶやくと眉を寄せる。いつか頭をよぎった風景を思い出そうとするかのようだった。朝顔は姜黎がそのまま思考の深淵へと落ちてしまうのを防ぐため、慌てて姜黎に言葉をかける。
「あー、応竜様。それは追々思い出してもらえたらええねん。
それよかさっきの話やけど、先鋒はすでに保定を出たで? 先鋒を叩いて本隊を逃してもつまらんけど、先鋒を鉅鹿に行かせるのもマズいと思うねん。応竜様はどない思う?」
姜黎はハッと我に返ると、腰に下げた袋から白くて四角い、四つの黄色い目と二つの赤い角がついた面を取り出すと、朝顔に訊いた。
「敵軍の現状はどうなっているのでござろう。先鋒の兵力や指揮官のことは分かっているのでござるか?」
朝顔は慌てて菊や椿、山茶花から知らされた情報を思い出すと、ゆっくりと答える。
「敵は幽州の魔牧・業蹄電解を主将とした3万。配下には魔軍校尉として潁川翫断、安山緑青、蟻参琅藍、沈毒丁花の四人がおるねん。
このうち蟻参が1万を率いて先鋒になっとるっちゅう話や。先鋒はもうすぐこの安平にやって来るんちゃうかな? 本隊との距離は半舎らしいで?」
それを聞くと姜黎は面を着けた。途端に白い仙力が彼を包み、赤い瘴気が立ち昇る。
「なんや応竜様、こんなに早う追儺面被って何する気や?」
すると姜黎はこともなげに朝顔に言った。
「拙者が蟻参を討ち取る。それまで朝顔には業電解を抑えておいてほしいでござるよ。
恐らく敵は、拙者たちの迎撃は紫龍阜から発起するものと思っているでござろう。あの場に拙者たちの仙力はまだ色濃く残っているからな。
せっかくここまで前進してきたのでござるから、思い切って奇襲を狙ってみるのも一興でござろう?」
「ちょい待ちぃな。思い付きで動くなんて、いつもの応竜様には似合わへんで? いつもはもっと慎重に石橋を叩いて渡らへん応竜様が、どうした風の吹き回しや?」
朝顔は、姜黎が先鋒隊に単身突っ込み、本隊2万を自分が抑えている間に勝負を決めるという彼の言葉に、半分呆れてそう言う。しかし朝顔はそう言いながらも、姜黎の噴出する仙力が今までとは格段に強力で凶暴なものであることを認めていた。
(これならひょっとしたら上手くいくかもしれへん。せやけど応竜様の仙力がなんでこないに変わったんか、それがよう分からへん。よう分からんまま応竜様に何かあったら取り返しがつかへん。菊ちゃんか椿ちゃんがここに居ったら、何か分かるかもしれへんのに)
逡巡する朝顔の心配も知らぬげに、姜黎はいつもの彼とはまったく違う、聴く者の心を凍らせるような冷たい声で言った。
「朝顔、臆したのならここに残っても構わないでござるよ? そろそろ拙者は出撃する。幽州軍の前面で落ち合おう」
そう言うと、朝顔が止める間もなく城壁から飛び降り、あっという間に前方に駆けてゆく。明らかにいつもと違う姜黎の様子に、朝顔は不審なものを覚えていた。
(応竜様はあないに向こう見ずやったやろか?)
朝顔は自分が思い出せる限りの『応竜』を回顧してみたが、一向に心当たりはない。
「せやったら、ここまで来る中で、応竜様の何かを変える出来事が起こったに違いあらへん。それが何なんか分からへんけど、よくないことやったらうちが何とかせなあかん」
朝顔はそう独り言を言うと、姜黎から指示されたとおり、幽州軍の本体を叩くために移動を開始した。
一方で幽州軍の先鋒を務める魔軍校尉の蟻参、字は琅藍は、先遣隊から長距離偵察隊の報告を受けていた。彼は正体不明の『華将』の実態を探るべく、通常よりも多くの斥候を通常よりも広範囲かつ長距離に放っていたのである。
「華将たちは鉅鹿への攻撃を開始しました。夜薫泉校尉殿は善戦されていますが、やはり少し分が悪いようです。早期に後詰をせねば、鉅鹿は落ちるでしょう」
「華将軍の他に人間の部隊も居りますが、そのほとんどは濁河流域北方の帝丘にあって動こうとはしていません。恐らく徐州からの北部魔王様の後詰を警戒しているものと思われます」
それら斥候の報告をつぶさに聞いた蟻参は、ふと思いついたように訊く。
「華将の今までの戦い方を案ずるに、我ら幽州からの援軍も警戒していると思われる。どこかに敵の気配はなかったか?」
それを聞き、斥候たちは首を傾げた。
「いえ、鉅鹿を攻めている敵軍までは、気にするほどの妖力は感じませんでしたが」
「確かに、鉅鹿攻めの最中に我らから襲われる危険は敵も十分に知っているはずですので、妙と言われれば妙ですね」
蟻参は、夜蛾から聞いた朝顔や山茶花の戦い方を思い出し、大きな複眼を赤く染めて斥候たちに命令した。
「俺が校尉様から聞いた話では、華将には部隊を率いて戦う者と、単身で戦う者がいるようだ。まさか1万を数える俺たちに、単身で正面攻撃をかけてくるほどぶっ飛んだヤツもいまいが、偵察として俺たちを見張り、隙に乗じて奇襲をしかけるくらいなら可能であるしやりそうなことだ。
だから今一度、我が部隊の進路上を隈なく偵察してみよ。妖力を感じ取るだけでも、敵の配置は分かるはずだ」
「了解いたしました」
斥候たちはそう答えると、すぐさま蟻参の帷幕から出発した。
「さて、彼らが戻ったら作戦行動を開始するとするか」
蟻参はそうつぶやくと、必要な指示を出すため参謀たちが詰める幕舎へと足を運んだ。
妖魔たちの足は速い。保定から鉅鹿までは約8百里(約2百キロ)はあるが、彼らは4時間もあればその道を往復する。
蟻参は帰ってきた斥候たちから、『鉅鹿北方の紫龍阜に正体不明の強力な妖力あり』という報告を受け取った。
「なるほど、我らが無級を通って来ると予想し、突出して警戒しているのだな。ならば我らは安平を経由して鉅鹿の東に回り込もう」
蟻参は地図を見ながらそう決定し、ついに自軍に進発命令を下した。
「我らは安平を経由して敵の後ろから攻めかかる。鉅鹿で踏ん張っている夜蛾部隊を助けるのだ。全軍出発せよ!」
こうして、幽州軍の先鋒たる蟻参部隊は保定を出撃した。
「蟻琅藍の先鋒が動き始めました。伝令によると安平を経由して進撃するようです」
保定に到着しつつあった幽州軍主力では、主将たる業蹄電解に参謀役の沈毒丁花が報告を入れていた。
「……蟻琅藍ともあろう者が、出発までいやに時間がかかったな」
業蹄が不服そうに言うと、沈毒は能面のような顔で
「相手は華将。何事にも慎重な蟻琅藍殿のこと、十分な情報を集めてから出発されたのでしょう」
そう蟻参を庇うように言う。
業蹄はフンと鼻を鳴らすと、
「まあ、不覚を取って紀深海様のご機嫌を悪くするよりはマシか。丁花、我が本隊はどのくらい後を続こうか?」
そう行軍について訊く。沈毒は打てば響くように答えた。
「先鋒が戦闘に入ったら適宜支援ができるよう、百里(約25キロ)まで詰めておいた方が無難だと思います」
しかし業蹄は首を振って、
「薊からの行軍で兵たちも疲れているし、保定で少し休ませる必要がある。先鋒との距離は4百里にしよう。それなら先鋒に何かあっても1時間で追いつける」
沈毒の意見を少し修正した。
沈毒は、
(1時間も離れていては急の間に合わない。しかし業電解様はお優しいお方、兵が疲れているのを無理させたくないのでしょう)
反対意見を言いかけて、とっさにそう思って口をつぐんだ。
「では、保定に到着後、半時(1時間)の休みを兵士たちに取らせることといたします」
沈毒がそう言ってお辞儀をすると、業蹄は満足そうだった。
しかし沈毒は業蹄の幕舎を出て、言いようのない不安に襲われた。
(相手は臨淄でも婁陵でも、こちらの意図をことごとく看破していたと聞いているわ。今度も念には念を入れておいた方がいいかもしれない)
そう考えた沈毒は、急いで自分の宿舎に戻り、心利いた部下を呼び出すと命令した。
「蟻琅藍将軍の後を追い、前程に敵の罠がないか十分に偵察せよ」
安平を出撃した姜黎は、魔軍の先鋒を視界に捉えた。
蟻参の軍は魔力も隠さずに強行軍で近づいてきていたため、20里(この世界で5キロ)も手前でその存在を察知した姜黎は、追儺面の下でつぶやく。
「妖力を隠しもせずに近づいて来るとは、拙者たちを少々甘く見過ぎているようでござるな。兵力の多さに慢心しているのでござるかな?」
姜黎はそのまま突っ込もうかと考えたが、
(待てよ、拙者の前方にある川を渡河する時に襲撃した方が良いかもしれない)
そう思い直し、敢えて仙力を隠して蟻参軍の進撃を観察することにする。
その蟻参の方は、進路上に川が存在することを認知すると、
「敵の気配は感じないが、敵襲があっても対応できるように準備は怠るな。ここさえ無事に渡河できれば、鉅鹿までは一瀉千里だ」
との命令を出し、架橋を始めた。後から続く本隊が渡河し易いようにとの配慮である。
(なるほど、厳重な警戒でござるな。今斬り込んでも敵将を取り逃がす恐れが大きいでござろう。
あの橋は本隊が渡河するときに落とした方がいいかもしれない。先鋒隊の渡河作業は見逃してやるとするでござるか)
魔軍の作業を監視していた姜黎は、敢えて攻撃を控えて蟻参の警戒を緩める方策を取ることにした。
作業は滞りなく進んだ。そのことが敵の練度はかなりのものだということを教えている。姜黎は碧眼を細めると、突入の時期を計るために蟻参の本営の動きに注目した。
(さて、敵将の器量はどのくらいでござろうかな。すぐに動き出すようであれば大したことはないでござるが、渡河点に簡易的にも陣地を設けるようであれば、必ず討ち取るべき将でござるな)
姜黎がそんなことを想いながら監視を続けていると、威風を感じさせる一団が出来上がったばかりの橋を渡ってこちら岸へとやって来た。恐らくそれが蟻参とその帷幕の者たちだろうと目星をつけた姜黎は、彼らの動きを目で追った。
蟻参は川を渡ると周囲を油断なく見回していたが、
「……ふむ、半渡に乗じて仕掛けて来るかと思ったが、何もないということは斥候の報告どおり近くに敵はいないものと見える。やはり我らが無級を経由して鉅鹿を目指すと思って、安平を守っているに違いない。
とすると、ここは鉅鹿を扼する最後の障害だ。たとえ兵を分けてでも陣地を造っておく価値はあるな」
そうつぶやくと、周囲にいた幕僚に
「ここに陣地を造って2旅(千人)を残す。すぐに手配しろ」
そう命じた。
「ほう、どうやら陣地を敷くようでござるな。ならばそれが出来上がらぬうちに叩くが上策というものでござろう」
遠く魔軍の動きを見た姜黎は、追儺面を外すとゆったりとした歩調で丘を降り始めた。
魔軍の先鋒は、架橋に続いて蟻参から
「この場に陣地を設ける。本隊が到着する前に堀と柵程度は設置しておきたい。みな疲れているだろうが、もうひと踏ん張り頼むぞ」
という命令を受けて、口には出さぬもののがっかりした表情の者が多くいた。ほとんどの者が『渡河を終えたら小休止。その後は鉅鹿で人間たちを撫で斬りにできる』と思っていたからだ。
架橋作業には、橋がなければ円滑な進軍ができないので仕方ないと思って従事していた者たちだったが、一休みもせずに陣地構築を命じられておびただしく士気を下げた。彼らは早く鉅鹿に着いて略奪などの『楽しいこと』がしたかったのだ。
自然、作業にも熱が入らず、架橋と比べるとペースはゆったりとしていた。
蟻参も作業の効率が著しく下がっていることには気付いていたが、
(架橋に続いての作業だ。周囲に敵はいないし、多少ゆっくりでも支障はない)
そう思い、現場は副将たちに任せ、自分は鉅鹿到着後の部隊展開について思いを巡らせていた。
姜黎が街道から近づいたのは、そんな時だったのだ。
「ふむ、蟲妖たちも架橋に続く作業でへばっているようでござるな」
姜黎はそうつぶやきながら、ゆっくりと魔軍先鋒隊へ近寄っていく。視線は鋭いが、雰囲気はのんびりとして、魔物の存在などちっとも気にしていないように見えた。
だからかもしれない、姜黎は魔物たちがひしめく陣地までわずか2丁(120メートル)まで、魔物たちにまったく気付かれずに近寄っていた。
最初に姜黎を見つけたのは、陣地の周囲に空堀を掘っていた蟲妖たちだった。彼らは飄々として歩いて来る、黒い戦袍の上から緋色の狩衣を着て緋色の括袴を穿いている若者を、不思議なものを見るような目で眺めていたが、
「あいつは何者だ!? 人間にしてはいやに落ち着き払っていやがる。噂の華将とかいう奴らの仲間かもしれない。ひっ捕らえろ!」
たまたまその場に来た隊長が大声で命令すると、兵たちは円匙やツルハシをその場に打っ棄って壕から這い上がった。
百体ほどの蟲妖が複眼を赤く染めて隊伍を組むのを望見した姜黎は、うっすらと笑みを浮かべながら腰の袋から方相氏の追儺面を取り出す。白くて四角い、黄色い四つの目と2本の赤い角がついたその面を着けると、姜黎の周りに白い仙力と赤い瘴気のような炎が燃え立った。
その様子を見ていた蟲妖たちの隊長は、
「げえっ、あいつは噂に聞く方士じゃないか?」
一瞬たじろいだが、すぐに配下の蟲妖たちに向かって号令した。
「奴は冀州や幽州でも俺たちの仲間を殺し、臨淄でも華将とか言う奴らを操って青州牧の鉄豺狼様を倒したと聞く。討ち取って名を挙げろ!」
おおうっ!
蟲妖たちはその複眼を赤く染めて戦闘状態に入る。久しぶりの戦いに気分が高揚しているようだった。
しかし、彼らが気勢を上げたそのとき、
「面白い、そなたら程度で拙者を討ち取れるかな?」
既に1丁(60メートル)まで近寄っていた姜黎は、追儺面の下でつぶやくと、あっという間に距離を詰め、蟲妖たちの群れに飛び込んだ。
堀の掘削現場で突如として起こった喧騒を聞きつけた蟻参は、
「いったい何事だ!? 普請作事に飽きてケンカでもしているのか?」
怒った声を出しながら天幕から出て来る。そこに、工事を監督していた副将が慌てた様子で駆け付けて報告した。
「ぎ、蟻琅藍様、大変ですっ!」
「何だ、顔醜。早く騒いでいる兵士どもを静かにさせろ。作戦立案の邪魔だ」
蟻参が不興気に言うと、顔醜は両手を振って
「兵士たちは騒いでいるのではありません。敵襲です!」
そう叫ぶように言う。
蟻参は驚いて掘削現場の方に視線を向ける。心なしか兵の数が少なくなっているようだが、敵軍の影も形も見えない。
「どこに敵軍がいると言うのだ? ただ兵たちがケンカで騒いでいるんじゃないのか?」
蟻参が訝し気に問うと、顔醜も信じられないといった様子で答える。
「敵は一人です。変な仮面を被った奴が、いきなり斬り込んで来たらしいのです」
「何だと!? たった一人? だったらお前か文良が行って早く討ち取って来い!」
あまりのことに動転したのか、蟻参はいつにもなくじれったそうに叫んだ。
「今、文良が向かっています。私は蟻参様にこのことをお知らせしてから来いと言われましたので。では、私も参ります」
顔醜がそう言って駆け出そうとした時、掘削現場からひときわ大きなどよめきが上がった。いや、それは悲鳴といった方が良かった。
「何が起こっているのだ?」
蟻参がつぶやくと、顔醜は薙刀を握り直して、
「見て参ります!」
と、掘削現場へと駆け出した。
顔醜を見送った蟻参も、
「一人で斬り込んで来やがっただと? ふざけやがって! お前たちもついて来い、俺も現場に行くぞ!」
そう言うと、集まって来た十数人の護衛とともに掘削現場へと向かった。
姜黎の周囲には、蟲妖たちの死体が累々と積み重なっている。みんな、彼が一人であることでたかをくくり、襲い掛かっては斬られて倒れる……そんな光景が繰り返されていたのだ。
「うおおおーっ!」
白い仙力と赤い瘴気に覆われ、無言で蟲妖を斬って捨てる姜黎に恐怖を覚えたか、一人が大音声とともに剣を回して斬りかかる。姜黎の後ろ、死角からの攻撃だった。
ズシャッ!
「あがっ!?」
姜黎を討ち取ったと確信していた蟲妖は、『青海波』の銀色の軌跡が胸を横一文字に斬り裂く感触に瞳を凍えさせる。その刹那の後、
ドバッ! ブシャアアッ!
蟲妖の鎧が弾けるように裂け、そこから緑色の体液をぶちまけながら、地響きを立てて地面に転がる。
抜く手も見せず、一回転して蟲妖を仕留めた姜黎は、白い仙力と赤い瘴気に包まれながら、無言で血振りした『青海波』を鞘に納める。
「ふざけやがって! 俺たちじゃ相手にならないってか!? 抜け! 尋常に勝負だ!」
姜黎を遠巻きにしている妖魔たちの群れをかき分け、巨大な斧を抱えた蟲妖が姿を現わすと、複眼を禍々しい赤に染めて名乗りを上げる。
「俺は蟻琅藍様の配下で魔軍都尉の文良、字は紫焔。貴様は青州牧の鉄豺狼様の仇たちの親玉である方士と観た。我が大戦斧の錆にしてくれるわ!」
姜黎は左手を『青海波』の鞘に当てたまま、ゆらりと文良に視線を向けた。一言も発していない彼だが、その所作と身体から噴き出す仙力だけで、すでに文良を圧倒していた。
文良は部隊の一翼を担う立場にある。だからこそ彼は姜黎の恐ろしさに気付くことができたが、また部下の手前手合わせもせず引き下がることも出来なかった。
(こいつはかなり剣呑な相手だ。しかし顔醜が来るまで持ち堪えれば何とかなる。まずは先制攻撃だ)
文良はそう考え、一跳びで姜黎を仕留めようと跳躍する。しかしそれは姜黎の思う壺だった。
文良は、姜黎の身体をまとった赤い仙力が急速に膨れ上がるのを見て、
(まずい、奴の術中にはまった!)
そう、後悔の念が浮かぶより早く、『青海波』は紅蓮の光の尾を曳いて文良を脳天唐竹割にしていた。
遠巻きにして二人の一瞬の攻防を見ていた妖魔たちは、文良が地面に叩きつけられる光景にすっかり士気も阻喪し、
「あああ、文良様が……」
「わあっ!」
「逃げろっ!」
恐れの色を浮かべて逃げ出した。文良は顔醜と双璧をなす蟻参部隊の猛将だったから無理もない。
姜黎は相変わらず無言のまま、逃げ散る妖魔たちの後を追って陣地へと突入する。
そこに立ちはだかったのは、薙刀を持った顔醜と方天戟を携えた蟻参だった。
「方士、青州の鉄豺狼様を倒したのは貴様の手の者だな?」
蟻参がゆっくりと歩を進めながら訊くと、姜黎は初めて言葉を発する。真冬の夜空のような声だった。
「人と魔とは、住む世界を異にするものだ。拙者は魔をその住む世界に還しているに過ぎないでござる」
「強い者が弱い者を従える、それが世界の仕組みだ。一度は黄帝すらも追い詰めた蚩尤様が世界の覇者となるのに、何の不都合がある?」
蟻参がそう言うと、姜黎は緩く首を振った。
「世界は一人のためのものではない、世界は世界のためにある。蚩尤はその理をないがしろにし、結果数千年の間封じられることになったでござる。
またその過ちを繰り返すというのでござるか?」
姜黎の左手が『青海波』の鞘にかかる。その動きを見て顔醜は、
「蟻琅藍様、下がってください! こ奴は盟友文良の仇、私が相手します!」
そう叫び、薙刀を構えて前に出て来た。
姜黎は彼を一瞥すると、そっけなく言い放つ。
「そなた程度では拙者の前には立てない。おとなしく妖魔たちを率いて冥府に戻るがよいでござろう」
「何をっ!」
「魔境を越えしはそなたの咎、ここでその罪を清算せよ!」
ジャッ! ピーン!
顔醜と姜黎二人の声と、鉄がこすれる音、そして澄んだ鍔鳴りが響いた。
「……貴様、何者だ?」
ドバアアッ!
顔醜はうめき声に似たつぶやきをもらすと、右の脇腹から左の肩口にかけて開いた傷から、緑色の体液をぶちまけながら頽れた。
「……見事な腕だな。人間とは思えん」
蟻参は地面に長く伸びた顔醜に手を合わせると、姜黎に視線を戻して言う。
「それに貴様がまとう仙力は、そこいらの方士や仙人のものとは違っている。貴様が何者か、非常に興味深いな」
「拙者は姜黎、字を則天と申す。ただの方士でござるよ。
拙者のことより、後にいる妖魔たちを連れて冥府に戻ることをお勧めするでござる。そなたも一軍の将なら、部下の安全を図るのも務めの一つであろう?」
姜黎が静かに言うと、蟻参は笑って答えた。
「名乗りは承った。私は魔軍校尉の蟻参字は琅藍、幽州牧である業電解様の配下だ。
折角の申し出だが、軍命である以上、私が勝手に判断することはできない。華将とかいう夜叉を率いるそなたなら分かるだろう?」
その答えを聞いて、姜黎は残念そうに言う。
「さようでござるか……そなたは話が分かるかと思っていたでござるが、是非もないでござるな」
『青海波』の鞘を握る姜黎に、蟻参は複眼を赤く染めつつ方天戟を構えながら言った。
「本当に残念だな。しかし魔軍司馬の紀深海様が気にされているというそなただ、ここで剣を交えられるのは武人としては望外の出来事と言える。参るぞ、姜則天!」
方天戟を振りかぶって突進して来る蟻参を迎え撃つため、姜黎は右手を『青海波』の柄にかけ、目を閉じる。瞬息の居合の構えであった。
しかし、姜黎はすぐに目を開け、『青海波』を抜き放って方天戟を受け止める。
ガイーン!
「くっ!」
姜黎の口から、痛みを堪えるようにつぶやきが漏れる。彼の右腕から紫紺の瘴気が立ち上ってきた。
(くっ、業障……よりにもよってこんな時に……)
姜黎から立ち上る瘴気と、彼の様子を見て異変を感じ取った蟻参は、薄いくちびるを歪めると、
「業障だな? いかに強くとも所詮そなたは人間だったということだ。仲間たちの恨みに呑まれて冥府に逝くとよい」
そう言うとその身を瘴気で包み込んだ。その瘴気は姜黎をも取り込み、その肺を焼き、息を詰まらせる。
「ぐっ……」
姜黎のくちびるの端から鮮血があふれ出る。身を包む瘴気の渦から抜けようにも、姜黎の動きを牽制するように方天戟が押し付けられてくる。下手に動けば真っ二つになるか、串刺しにされるかだった。
「ほう、この毒を浴びてまだ息があるとは驚いたものだ。しかしいつまで持つかな?」
蟻参は楽しんでいるようにうそぶく。それを聞いて姜黎の中で何かが弾けた。
「……ふざけるな……」
姜黎のつぶやきに、蟻参は
「ん? 何と言った? 遺言なら伝えてやるぞ」
そう揶揄するように言うと、姜黎は碧眼を輝かせて蟻参を睨み据え、
「妖魔の分際でふざけるなと言ったのだ!」
そう叫んだ。
「うおっ!? 何だこれはっ!?」
蟻参は、姜黎の仙力がとてつもなく膨らむ圧力を感じた。それと共に、姜黎の後ろに現れたモノを見て絶句する。
「あ、あれは……」
驚きと衝撃で言葉を無くしている蟻参に、それは天地に轟き渡るような声で吼えた。
『六花、八星、妖魔の霧を晴らす矛は既に此処に在り。汝ら魔性の者よ、冥理を乞いて六道に還れ!』
白く輝く巨大な竜は、雄叫びとともに蟻参を一薙ぎで消し飛ばした。
(其の拾 了)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
かなり間が空いてしまいましたが、仕事が忙しかったのと、ゲームにハマっていたのと、作曲が面白かったのと、『キャバスラ』を集中して書きたかったので、姜黎くんの方はちょっと構想をあっためていました。
鉅鹿の戦いは、秦末で項羽が群雄から頭一つ抜ける要因となった戦いであり、本作でも姜黎の存在を魔軍に認知させる戦いとなる……そんな位置づけなのですが、その後をどう展開するか迷っています。
でも、物語の大筋や結末は決定していますので、どれだけ時間がかかろうと完結まで持っていきます。ご期待下さい。
では、次回もお楽しみに。




