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六花の乙女たち〜大秦帝国退魔志演義  作者: シベリウスP
10/11

其の九 鉅鹿の大地に戦雲立ち込め、北平に魔軍の策略は動く

魔軍が鉅鹿を落としたことを知った姜黎たちは、鉅鹿救出と魔軍撃滅に動き出す。

そのころ鉅鹿の魔将・夜蛾は部隊の引き締めを図っていたが、北部魔王は司馬・紀深海の援軍要請を渋っていた。いくつかの錯誤をはらみながら、決戦の時は迫る。

【幕前】

 大陸の東にある大国、大秦タイシン帝国。

 皇帝・姫節きせつの8年目に、大きな流星群が帝国を襲った。


 その後2年、帝国は干ばつや洪水などの自然災害だけでなく、どこからともなく現れた妖魔たちの跳梁に苦しんでいた。

 辺境、村落、都市と場所を選ばず出現する妖魔に、帝国も対応の術を失いつつあった時、稀代の方士と呼ばれる楊天権ようてんけんは、古の応竜と六花将りっかしょうの復活を感じ取った。


 この物語は、運命に縛られた青年・姜黎きょうれい則天そくてんと、六花将朝顔を中心とする物語である。


   ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


 夜蛾はゆっくりと四人を見回す。夜蛾が心配していたほど、四人の顔には戸惑いや恐怖の色が見えないことで安心した彼女は、赤く輝く複眼を大きく開けて言った。


「華将が鬼神の仲間だとしても、恐れる必要はない。私たちも妖魔、作戦と周到な準備があれば華将とて討ち取ることは容易いだろう。

 恐れず、逸らず、作戦どおりに進めれば、私たちの勝利は疑いない。みなで心を合わせ、鉅鹿きょろくに華将たちの墓を建てて進ぜよう!」


 夜蛾の言葉を、四人の魔軍都尉たちは戦意に満ちた表情で受け止めた。


「では、虎炎には北門を、呉傑には東門を、甘平には西門を、廉破には南門を守ってもらいます。華将にも知恵の回る者がいますから、恐らくこの城を取り巻くように雍道をこしらえるでしょうが、兵糧は十分にありますから慌てずに対処してください。

 私たちがここで華将たちの目を釘付けにすればするほど、奴らの敗色は濃くなって行く……それを忘れずに、逸らずに戦ってほしい」


 夜蛾の指示を受けた四人は、勇躍して持ち場へと向かった。


 夜蛾は四人を見送ると、遠く北の空を見上げながらつぶやいた。


「しかしながら、紀深海様のご指示、気になると言えば気になる。幽州から援軍が出てくれればよいが、北部魔王様の徐州軍をも動かすとなると、間に合わない恐れもある」



「鉅鹿が陥ちた!? あの町は元々城塞で、そんなに簡単に陥落するような町とは思えないでござるが……」


 平原の宿で鉅鹿陥落の一報を耳にした姜黎は、そう言うと腕を組んで側にいる朝顔に問いかける。


「朝顔、芍薬殿たちは今どこにいるでござろう?」


「せやなあ、一昨日青河を落としたっちゅう連絡が入ったさかい、今頃は帝丘を手に入れとるんとちゃうかな?」


 朝顔はそう答えると、姜黎の顔を見ながらのんきそうに


「応竜様、そないに心配せんでもええと思うで? 椿ちゃんや山茶花がこないな重要な情報を掴んでへんとも思えんし、せやったら菊ちゃんが何か対策をするはずやで。

 せやから、うちたちは菊ちゃんの作戦が上手くいくよう、いつでも出撃できるよう準備しとくことが大事なんちゃうかな?」


 そう言って笑う。


 それを聞いていた鶺鴒せきれいも、


「朝顔の言うとおりです。最初から菊殿は鉅鹿を魔軍が狙っているという前提で作戦を考えていた節がございます。

 だとしたら、このような事態に陥ることは想定しているはずです。姜黎さま、華将の皆さんを信じましょう。今度は私たちが魔軍に鉄槌を下す役目です」


 そう、姜黎の自重を促すように静かに言った。


 姜黎は眼を閉じて何かを考えていたが、やがて静かな溜息と共に目を開けて、朝顔と鶺鴒を優しく見つめながら言った。


「……分かったでござるよ。確かに華将の皆の実力は臨淄りんし婁陵るりょうでしかと見届けさせてもらったでござるから、二人の言うとおり戦機を待つことといたそう」


「それがええねん。菊ちゃんから指示が来たら、ちゃんと応竜様に知らせるねんから、それまで身体を休めていてほしいな」


 朝顔が屈託のない顔で言うと、鶺鴒も姜黎を安心させるように


「翔鶴と瑞鶴を鋸鹿に派遣いたしました。何か想定外のことが生じたら私や芍薬殿に知らせが行くようにしております。ご安心を」


 そう言って笑った。



 そのころ、朝顔を除く華将たちは妖魔から取り戻した帝丘にあった。


 華将の『まとめ役』とも言うべき花相かそう芍薬シャクヤクは椿と山茶花サンザカから鉅鹿の陥落を聞き、急いでみんなを集めその報を知らせる。


「鉅鹿が陥ちました。魔軍の指揮官はやはり夜蛾薫泉で、兵力は3万です」


「魔軍の行動は電光石火とも言うべきだったみたいね。鉅鹿の守備隊も迎撃準備が整わなかったようだから……」


 椿と山茶花がそう言うと、菊は幼い顔に深刻そうな翳を浮かべて芍薬に言った。


わしらも保定からの出撃を察知できんかったし、あっという間に攻略した手並みは敵ながら見事と言うほかないのう。これは思ったより敵の練度は高いと思っておいた方が良さそうじゃな」


「そうですね。幽州や徐州には何か動きはありませんか?」


 芍薬が訊くと、椿は緋色の瞳に光を灯して答える。


「まだ何の動きもありません。鉅鹿を餌にわたしたちを叩く作戦なら、そろそろ軍を動かさないと戦機を逸しますが、その動きが見えないのは不思議ではあります」


「幽州にある魔軍で私たちに対応できると考えているのか、他州の魔軍との連携が今一つなのか、それとも魔軍の中に軋轢でもあるのか……君子、どう思いますか?」


 芍薬の問いに、菊は眉間にしわを寄せた難しい顔のまま答えた。


わしは楽観視する場面ではないと思う。敵は他州にも援軍を要請してはいるがその準備が整っておらぬだけで、拙らが出撃すれば戦機を計って襲いかかってくるじゃろう。

 故に拙らも、応竜様や牽牛殿の部隊にいつ戦いに加わってもらうか、綿密に調整せんといかんじゃろうな」


 菊の言葉を聞き、芍薬はうなずいて言った。


「そうですね、私もその意見に賛成です。では君子に応竜様たちとの調整をお願いします」


 菊は芍薬の依頼にうなずくと、肩をすくめて言った。


「承知したぞ、花相殿。

 しかし牽牛殿のお気楽な顔を見られると思うとホッとする反面、どうやって切迫した状況を伝えたものかと頭が痛いのう」



 一方で鉅鹿を占領する魔軍には、予想外の出来事が起こっていた。


「兵糧を焼き払われたですって? いったいこれで何度目!? 輜重隊の警備だからって気を抜くなとあれほど注意していましたよね?」


 夜蛾は、幽州や保定からの補給物資を運んできた輜重隊が、積み荷のほとんどを失った状態で辛うじて鉅鹿にたどり着いたと聞いて、額にある五つの目を怒らせて叫んだ。


 補給を担当する魔軍都尉の呉傑は、兵糧倉庫の前で部下の輜重隊長と共に這いつくばるようにして言い訳をする。


「なかなかすばしっこい奴らでして、兵たちが向かうと退却し、予想もしない時間に奇襲をかけてきましたので……」


「言い訳は聞きたくありません! 兵糧の大事さは公乗たるそなたなら十分に分かっているはず。1日遅れれば鞭打ち、3日遅れれば禁固、1週間遅れれば死罪と軍規にあるのは兵糧こそ軍の死命を制するものだからです。

 それを根こそぎ焼き払われたとなると、遅延よりも重い罪になることは理解できるでしょう?」


 夜蛾の不吉な響きを含んだ言葉に、思わずハッと顔を上げた呉傑だったが、夜蛾が血のような複眼を見開いて自分を見ていることを知り、呉傑の顔から血の気が引いた。


「この鉅鹿で華将たちを牽制できなければ、私も紀深海様に顔向けができません。大事な所でヘマをするような部将は、今の我が軍には不要です」


 夜蛾は冷たい顔でそう言い放つと、側に控えている護衛兵たちに


「この役立たずな輜重隊長を轅門えんもんの外で斬り捨てよ!」


 そう叫ぶと、輜重隊長は呉傑がかばう暇もなく衛兵たちに引き立てられて行った。


「呉傑、そなたの一族であった班伍州はもっと何事にも慎重でした。新たな輜重隊長には武技の優劣より愚直な者の方が良いかもしれませんね」


 夜蛾は、顔を伏せている呉傑にそう言うと、倉庫から立ち去った。



 呉傑は重い心を抱えて自分の帷幕に帰ると、信頼する部下を呼び出した。


「呉邪道様、鄭正道が参りました」


「ああ、正道、よく来てくれた」


 鄭安は、呉傑の顔にべっとりと疲労の色がにじみ出ているのを見て眉をひそめたが、あえて明るい顔でうなずくと訊いた。


「蘆完全はどうしましたか? どんな具合に敵が襲ってきたのかを聞きたいのですが」


 そう訊いて、鄭安は訊いたことを後悔した。呉傑の顔が引きつったからだ。


「……もう魔軍校尉殿のお触れが回っているから皆も知ってはいるだろうが、蘆完全は物資を焼き討ちされた責任を取らされた。轅門に彼の首が架けられているだろう」


 そう聞かされた鄭安は、一瞬言葉に詰まった。本陣からの布告が届く前に呉傑から呼び出された彼は、蘆隊長の憂き目を知らなかったのだ。


「……そうですか、まだお触れを見ていませんでした……それにしても、魔軍校尉殿は今回に限ってえらく苛烈ですね?」


 鄭安はやっとのことでそう言うと、呉傑は肩を落として


「それは仕方ない。幾度も物資を失った蘆完全が悪いのだからな。ただ、今回の相手が相手でもあるから、魔軍校尉殿も少々余裕を無くされているようだ。

 そのことが戦いに響かなければいいが……」


 そう疲れた顔で言う。


「話によると、河北の魔軍司馬様が幽州牧様のみならず徐州の北部魔王様にも援軍を要請されているとか。負けられない戦いってことなのでしょうね」


 鄭安がそう言うと、呉傑は瞳のない目を細めて鋭い声で訊き質す。


「……その情報、誰から聞いた?」


「えっ!? いえ、誰からというわけではなく、部下の者たちがこぞってそう言っておりますので。ことここに至ってはそう言うものかなと……」


 呉傑の雰囲気に気圧された鄭安が、やや狼狽した様子で答えると、呉傑はムスッとした表情で


「鄭正道、それが敵に聞こえたらこちらに不利になる恐れがある。その噂を口にしていた者たちに、今後一切、北部魔王様や魔軍司馬様の動きについて憶測で口にすることは控えさせてくれ」


 そう強面で言うと、


「わ、分かりました」


 と言う鄭安の言葉を聞きつつ帷幕から出て行った。


   ★ ★ ★ ★ ★


「花相・芍薬殿をはじめ華将の皆は帝丘にあって、鉅鹿の敵を睨みつつ広平の攻略準備にかかっておる。広平を取ったら状況にもよるが鉅鹿に向かうことになるじゃろう」


 華将・菊は1尺(30センチほど)の台に立って、集まった諸将の顔を小さい身体で伸び上がるように見ながら言う。この場には姜黎や華将・朝顔、黄鶺鴒の他に、30歳ほどの精悍な将軍と25・6歳の白い道服の上から革鎧を着込んだ若者もいた。


 平原の奪回を知らされた姜黎は、ここに移動する前に芍薬や菊と協議し、人間の部隊を駐留させることを青州牧・徐栄に提案して同意を得ていた。


呂穆りょぼくには別に守ってもらいたい場所がある故、平原には関叡かんえいに行ってもらおう。

それと黄洪こうこう、そなたの方士隊もご苦労だが出撃してもらいたい』


 徐栄の言葉どおり、いま平原には関叡が率いる1軍(1万2千5百)と黄洪が指揮する1旅(5百)があって、臨淄から南東にある曲阜には呂穆の1軍が差し向けられていた。すなわちこの場にいる将軍とは関叡字は杜宣とせんであり、道服の武者は黄洪字は白鷺はくろだった。


「鉅鹿にいる魔軍は青州から追い払われた者たち。華将の戦いぶりもよく知っているだろうから野戦は挑んで来るまい。そうなると幽州や兗州の魔軍がどう動くかだな」


 関叡が口ひげを撫でながら言うと、姜黎はうなずいて


「拙者もそこを心配しているでござるよ。魔軍にはいくつかの州を統制する司馬職があり、徐州に北部の諸州を統一指揮する妖魔がいることは分かっているでござる。

 それゆえ、拙者は徐秋穂州牧殿から幽州や兗州の州牧殿に、領内の魔軍を牽制してもらうよう依頼していただくとともに、鉅鹿を救うために恐らく出撃してくるであろう徐州の魔軍を迎撃してもらえるよう善処を願ったでござるよ」


 朝顔や鶺鴒の顔を見ながら言った。


呂鮮念りょせんねん曲阜きょくふに遣わされたのはそういうことか。そうなると、仮に魔軍が徐州から北上するとしたら、予州を経由せざるを得ないだろうな。

 だが予州牧の張羽林殿は猛将として名高く、彼の義兄に当たる兗州牧の関長生殿も智将として知られている。二人とも魔物の討伐経験が豊富だそうだから、濁河より南から魔軍が襲ってくることは考えづらいな」


 関叡が太い眉毛を寄せながら言うと、菊が笑いを含んだ顔で言う。


「むむ、関廉殿や張燕殿の武勲は聞いておる。わしが郷天に引きこもっていた時分も、その声望は聞こえておった。かなりの武人であることは認めるが、妖魔が本気を出したら蟷螂の斧じゃろうな。もっとも、関廉殿はそのことに気付いておられるようじゃが」


 菊の言葉を聞き、関叡は何か言いたそうに唇を動かしかけたが、


(そう言えば関長生殿は『魔物とは正面切って戦うものではない』と言っていたな)


 関廉の沈痛な顔を思い出し、関叡は言葉を飲み込んだ。


 関叡の顔色を見た菊は、幼い顔を笑いでくしゃくしゃにしながら


「妖魔の妖力の前ではどんな勇者も赤子も同然。しかし妖魔の不意を突き、弱点を押さえておれば人間にも勝機はある。関廉殿の戦いがまさにそのことを証明しておる。

 拙が関叡殿たちの進出を止めなかった理由もそこにある。黄洪殿と協力すれば、魔軍にかなりの脅威を与えることじゃろうて」


 そう言うと、琥珀色の瞳を鶺鴒と黄洪に向けて呼び掛けた。


「そこでじゃ、拙はそちらの方士殿とちと話がある。よければ仙人殿にも同席してもらえればありがたいのう」



 姜黎と朝顔は、関叡の招きで野営陣地に出かけて行ったが、菊は鶺鴒と黄洪を連れて鐘楼に登っていた。


「滔々たるもんじゃな。濁河は悠久の昔から大地を潤しておるが、同時に幾多の氾濫で数多の命を飲み込んでおる。したが、それも濁河に悪意あってのことではない」


 高い鐘楼からは、目の前に茫洋たる大河の流れが一望できた。菊は強い風に黄土色の髪をなぶらせながら感嘆の声を上げた。


「華将殿、俺に何の話があるのでしょうか? 悠々たる自然の風景を楽しむためにここに俺たちを案内されたわけではないでしょう?」


 黄洪が静かに訊くと、菊はクスクス笑いながら


「そなた、方士にしてはせっかちじゃな? 武人としての心が多いのかもしれんな」


 そう黄洪に言い、一拍置いて鶺鴒に問いかけた。


「仙人殿、そなたは拙が訊きたいことが分かるじゃろう?」


 鶺鴒は首をかしげた。鶺鴒は、『今後、いつどこで魔軍を叩くのか』についての作戦を打ち明けられるものだと思っていたが、菊が『訊きたいこと』と言うからにはそうではないらしい。


 鶺鴒は戸惑ったような顔を菊に向けて、正直に言う。


「てっきり姜黎さまや朝顔がどう動けばいいのかを話してくれるものと思っていました。菊殿がわたくしに訊きたいことって何でしょうか?」


 菊は困ったような顔で答えた。


「さてさて、あの場には牽牛殿もおったし、将軍も居ったのでめったなことは口にできかねた。けれど、思ったよりも妖魔側の体制が整っておるようじゃし、何より拙らの仙力がどれほど回復しようと、肝心の応竜様がお目覚めにならねばどうしようもない。

 実は鉅鹿の戦いについては、応竜様の状況によって作戦の立て方が違って来るのじゃが、拙はどうしたものかと迷っておる」


 敏い鶺鴒は、菊の言葉に含まれる『姜黎への不信』……『不信』と言って悪ければ『疑念』を感じ取った。


「わたくしは『魔冦』や四霊、応竜などについては天権様から話を伺っているだけで、あなた方のように同時代に生きたわけではありませんから、応竜の仙力がいかほどのものか、その実力がどれほどのものか、はっきり申しまして想像の外にあります」


 鶺鴒は菊の顔を真っ直ぐに見つめてそう話しだす。


「けれどこれだけは言えます。姜黎さまの仙力は衆を超えています、その強力さは天権様にも匹敵するでしょう。いえ、それ以上かもしれません。あなた方華将から見たらまだ心許ないのかもしれませんが」


「確かに仙人殿の言うとおり、姜黎則天と申されるお方は稀に見る方士じゃ。その仙力も戦いぶりも常人ではないと拙も思う。

 じゃが、有態に言えば古の応竜様を知っている我らとすれば、不安と違和感を禁じえぬ。

応竜としての目覚めがまだ来ていないからと言われればそうとも思えるが、彼が応竜様であると心の底から信じておるのは、正直なところ牽牛殿くらいのものじゃ」


 菊が言いにくいことをはっきりと言ったことに鶺鴒は驚いた。華将の仲間内では『君子』と呼ばれる菊は、その少女のような見た目もあって一歩下がって物事を見ているような部分もあり、


(さすがは華将の中でも智謀を謳われ、軍師として芍薬殿の信頼も厚い菊殿。もの静かではあるが観るべきところは観ているようですわね)


 そう感心していた鶺鴒なのである。けれど、応竜の覚醒は華将にとって最も大事なことである。『観るべきところは観ている』のであれば、その観察の中で腑に落ちないところがあったら確かめるのも菊の性分では仕方のないことであろう。


 そんなことを考えている鶺鴒の顔を見て、菊は慌てたように付け加える。


「気を悪くしないでくれ。牽牛殿は『重瞳ちょうどうの魔神』じゃから、その物事を見通す能力はみんなから信頼されておる。他の華将は、彼女が信じておるのならまず間違いはないと思っておるのじゃ。決して姜黎則天殿は応竜様ではないと思っておるわけではない」


 鶺鴒にとって姜黎が疑われるほど心外なことはない。鶺鴒自身も姜黎が応竜であることを直感的に見抜き、自分のカンを信じて今ここにいるのだから。


 けれど、菊の慌てた顔を見て、鶺鴒は不思議と冷静に考えることができた。


「うふふ、姜黎さまが何者であるか、わたくし自身も何らはっきりとした証拠を持ち合わせているわけではありません。ただ天権様が応竜顕現の表象を観ぜられたことと、姜黎さまに対し非常な興味をお持ちになっていらっしゃることは確かですので、わたくしは朝顔と同じように姜黎さまを信じているだけです。

 姜黎さまが応竜であることは、姜黎さまご自身が戦いの中で証明して行かねばならないことだと解っております。ですから、菊殿が申されたことは良く分かりますし、それで華将の皆さんを疎ましく思うこともございませんよ?」


 思いのほか穏やかな鶺鴒の言葉に、菊はホッとした表情を浮かべて言う。


「かたじけない。拙の心配は8割方消えたわ」


 そして難しい顔をしている黄洪に


「方士殿、そなたに折り入って頼みがあるのじゃが、聞いてくれるかの?」


 そう声をかける。


 菊と鶺鴒の話を聞きながら何かを考えていた黄洪は、物思いの沼から引きずり上げられたような顔で


「え? ええ、何なりと。あなた方華将の凄さは臨淄で十分に見せていただきましたからね。俺は何をすればよいのですか?」


 そう笑いと共に訊く。しかしその笑いは菊の次の言葉でひそめられた。


「うむ、かなり厳しい頼みじゃが、そなたの方士隊は仙人殿と共に、徐州から来る援軍を抑えてほしいのじゃ。幽州からの援軍を殲滅するのは応竜様と牽牛殿の役目じゃからの」


「……一つ訊きたい。鉅鹿には3万の妖魔がいると言う。幽州や徐州からどれほどの援軍が来ると想定しているんだ?」


 射抜くような眼光を菊に向ける黄洪だった。


 菊は平然とした顔で答える。


「応竜様から、幽州には河北の魔軍を統括する司馬が居ると聞いておる。その司馬が徐州に居る魔王と呼ばれる妖魔のところに出かけたこともつかんでおる。

 ま、徐州軍5万と幽州軍3万と言ったところかの?」


 それを聞いて、黄洪は呆れかえったような表情で笑いだした。


「おいおい、正気か? 姜則天殿と朝顔殿で3万も大概だが、菊殿は俺の5百と鶺鴒殿で5万の魔軍を相手にできると本気で思っているのか?」


「無論じゃ。拙は牽牛殿を信じると決めたときから、応竜様のことやその仲間たちのことも信じておる。方士殿には釈迦に説法かもしれんが、3万の軍、5万の軍と申してもその要は指揮官じゃ。指揮官さえ討ち取れば、その軍は要を失った扇子のようにバラバラになるじゃろうて」


 真面目な顔で目を据えて言う菊に、小さな身体からほとばしる仙力を感じた黄洪は、笑いを収めて低く呟いた。


「……俺は人間だ。華将の皆の期待に応えられるかどうかは分からない。が、『士は己を知る者のために死す』と言う。鶺鴒殿もいることだし、やれるだけやってみよう」



 菊が帝丘に戻ると、芍薬が待ちかねたように声をかけてきた。


「君子、平原での首尾はいかがでしたか?」


「心配無用じゃ、あちらには牽牛殿が居るでの。平原や曲阜には青州の精鋭が詰めておるし、恐らく今の魔軍にはそれらの都市を顧みておる余裕はないはずじゃ。

 そんな余裕があるなら、鉄豺狼の残党を鉅鹿に突出させず、いったん薊なり保定なりで再編成したあと涿郡や太原へ手を伸ばしてしかるべき……それをせんところに、魔軍の焦りが見えると思わんか、花相殿?」


 菊はその場にいる全員の顔を見ながら、屈託のない笑顔を見せる。


「そうですね、それは君子の言うとおりでしょう。ただ、徐州の北部魔王のところに行った魔軍司馬が援軍を引き出せたのかは気になるところです」


 芍薬が美しい顔に憂いを含んだ表情で答えると、


「応竜様からの情報で、河北魔軍司馬は紀深海という魔神であることは分かっていますが、それ以上のことは何一つ判明していません。ですから君子殿は徐州からも幽州からも援軍が来るとの前提で作戦を立てているはずです。そうでしょう? 君子殿」


 華将・椿が真紅の髪を揺らして訊く。


「うむ、幸い、応竜様の側近くは牽牛殿も居るし、あの仙人殿や黄洪という方士もかなりの能力を持っておると見た。拙らは鉅鹿の魔軍を徹底的に叩き、青州から司隷州にかけてを浄化せねばならん。花相殿、ここは最初の踏ん張りどころじゃ」


 菊が琥珀色の瞳に強い光を湛えて言うと、芍薬はようやく決心したように顔を上げて


「……分かりました、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』と言いますね。

 それでは君子の采配どおり、花剣と花王殿を先鋒に、私が中軍、君子は殿軍しんがり、そして燎原は遊撃隊として適宜の位置を占めてください。出撃します!」


 そう、周りにいる四人の華将に号令をかけた。



『拙らは帝丘を出た。牽牛殿も作戦どおり諸隊に展開を指示してくれ』


 菊からの連絡を受けた朝顔は、さっそく姜黎の前に出て楽しそうに言う。


「応竜様、菊ちゃんからの連絡や。うちらも配置に就かなあかんで?」


「……そうでござるか。では、拙者と一緒に関将軍の所に行ってほしいでござるが、構わないでござるか?」


 愛刀の『青海波』を手入れしていた姜黎は、朝顔の注進に刀を鞘に納めながら訊いた。


「そりゃ別にかまへんけど、作戦の打ち合わせならとうに終わっとるやん。何しに行くねん?」


 目を丸くする朝顔に、姜黎は青いさざ波のような瞳を向けて


「朝顔、そなたは何万もの妖魔を相手にするのは怖くはないのか?」


 そう訊くと、朝顔はにぱっと笑顔を見せて答えた。


「せやなあ、怖さ半分、ワクワク半分っちゅうところやなあ。

 そりゃ雑魚でもぎょうさん集まったらめんどくさいし、うちらかて不死身やあらへんから、どないな強敵がおるかも分からへんのは怖いで?

 せやけど、うちらの戦いは妖魔をこの世界から叩き出すっちゅう目的があるねんから、怖いなんて言うとれへん。それにうちがビビったら応竜様かて戦い辛いやろ?」


「……怖いときは我慢しないことでござる。強い相手から逃げるのは卑怯でも恥でもござらん。敵わないと分かった相手に何も考えず挑むのは匹夫の勇と言うべきでござろう。

 拙者は誰であっても無茶をしてほしくないでござる。それが朝顔、そなたなら余計にな」


 何か言いかけた朝顔だったが、姜黎の言葉を聞いて嬉しそうに頬を染めた。


「菊殿のことでござる。拙者と朝顔に幽州からの援軍に当たれと言うのも、鶺鴒殿と黄白鷺殿に徐州からの魔軍を遮れと言うのも、それなりの成算があってのことでござろうが、それでも拙者は全員に『無理をせぬこと』を呼び掛けておきたいのでござるよ」


 そう言いながら姜黎は立ち上がり、『青海波』を腰に佩いた。その姿から姜黎の仙力がすっかり元通りになっているのを見て取った朝顔は、にこやかな声を上げた。


「せやな、応竜様の言うとおりや。けど応竜様、今度の戦いでうちらの本領を発揮させてもらうで? 応竜様かてきっと自分でもびっくりするようなことが起こる気がするねん」


   ★ ★ ★ ★ ★


「華将の部隊が出撃した。早ければ明後日にもここに襲い掛かって来るでしょう。みんな、気を引き締めて戦ってほしい。持ち場を離れるんじゃありませんよ」


 鉅鹿の守将である魔軍校尉・夜蛾は、広範囲に放っていたヤママユガの斥候から芍薬たちの出撃を察知し、部下たちを集めて今一度鉅鹿に籠城する意義を説明する。


「1年ほど前から、奇妙な方士の活動が目立ってきました。そいつは我々の同胞を手もなく討ち取り、幽州から冀州、青州や兗州では同胞の損害が増えつつある……」


 夜蛾は赤い複眼を見開いて部下たちの顔を見つめている。普段は閉じられている複眼は、額にある五つの目とともに彼女をこの上なく不気味に見せていた。


 四人の部下たちは、複眼の魔力に捕らわれたように夜蛾を見ている。


「……そんな中、二月ほど前からその方士とは別の大きな仙力が続けざまに感じられるようになっています。魔軍司馬の紀深海様の話では、それらは華将が目覚めたのだと言うことだったので我も特に注目していましたが、臨淄の戦いでそれは不幸にも的中しました。

 奴らがどれほどの力を持っているか、一族や同胞を討ち取られたそなたたちなら十分に分かっていることと思います」


 四人の部下たちは虎人であったり河童であったり、あるいは夜蛾と同じく蟲妖であったりしたが、みな等しく無念の表情を浮かべていた。


「ここを守っていれば、業電解様の幽州軍や北部魔王様の徐州軍が華将どもを叩き潰してくれるのですね?」


 河童の妖魔である呉傑が、瞳のない緑の目を細めて言うと、蟲妖である甘平も細い顔には似合わないほど大きな複眼を見開いてうそぶく。


「だいたい華将は鬼神だそうじゃないか。鬼神のくせに人間の肩を持つなんて、華将って奴らは何を考えてるんだろうな?」


「確か、彼女たちは応竜って奴の取り巻きだって聞いたことがありますが、その応竜がそいつらの親玉ってことですよね? 応竜と何かの誓約でも結んでいるのでしょうか?」


 人狼である廉破が灰色の毛を逆立てながらつぶやくと、虎の頭を兜にした虎炎が唇を歪めて夜蛾に訊いた。


「それは私も知りたかった。校尉殿、もしご存知なら教えていただけませんか?」


 夜蛾は複眼を細めると


「……おそらく誓約の類でしょう。我も詳しくは知りませんが、幽州には沈丁花ちんていかという華将になり損なったと自称している魔軍校尉がいます。彼女の話を聞く限り、華将たちは世界守護の契約を応竜と交わしているようです」


 そう答える。


「はっ! だったら応竜をぶっ殺せば奴らも晴れて自由の身ってわけだ。同じ魔神として人間のために動かざるを得ない華将に同情するぜ。ぜひともその応竜の首はこの甘平様が挙げて差し上げよう!」


 複眼を戦闘色である緋色に染めて言う甘平に、夜蛾は複眼を薄く開けて注意した。


「応竜は華将たちと別行動をしています。我々の力で出来上がった結界は、応竜しか無効化できないようですね。ですから我々は華将たちの攻撃をいなしつつ、応竜がここに来るのを待ちましょう。

 いかに応竜が四霊筆頭の鬼神といえ、紀深海様や北部魔王様の挟撃に耐えられるとは思えませんからね」


 夜蛾の言葉を聞いて、四人の魔軍都尉たちは大きく頷いた。



 その頃、河北の魔軍司馬・紀深海の報告と出馬要請を受けた北部魔王・周琴しゅうきん、字は恋愛れんあいは、徐州の魔牧・崔科さいか、字は志権しけんと膝を突き合わせていた。


「のう、崔科よ。紀鸞きらんは少し疲れておるのではないか? 確かに臨淄では鉄血が不覚を取ったようじゃが、勝敗は兵家の常と申す。人間ずれに負けるとは訝しいものと思っておったが、それが華将の仕業であれば納得じゃ。

 したがその華将も、話を聞けばまだ目覚めたばかりじゃと言う。わざわざ私が出馬せんでも、司隷州の突骨、幽州の業蹄、并州の砕骨を紀鸞が併せ指揮して蹴散らせばよい。それだけの能力はあるはずじゃ」


 豊かな金髪を揺らし、頭に生えた節くれだった角を気だるそうに触りながら周琴が言うと、崔科は浅黒い身体をのけぞらせながら驚いたように訊き返す。


「は!? では周恋愛様は御出馬されないと?」


 周琴は、崔科の恵まれた体躯の上で唖然としている苦み走った顔を面白そうに眺め、鷹揚に頷いて続ける。


「崔科よ、そなたがこの彭城を占拠して間もない。下邳には徐州牧の楊儀が失敗を取り戻そうと爪を研いでおる。青州の鉄血の尻ぬぐいをしている暇はまだないのではないか?」


 確かに、崔科は5万の魔軍と共に激闘を制して彭城を拠点とした。

 しかし徐州牧の楊儀ようぎ、字は博仁はくじんも善戦し、崔科軍に大きな損害を与えていた。崔科軍はその痛手からまだ完全には立ち直っていなかったのである。


 そのことを指摘されると、崔科は何も言えなかった。けれどなお、崔科は粘った。


「……徐州攻略の不手際を指摘されれば返す言葉もありませんが、現に青州軍の生き残りは鉅鹿を占領して囮となっています。俺たちの後詰がなければ囮はただの好餌となるだけです。同胞を犬死させるわけにはいけません、周恋愛様の御出馬は叶わないとしても、加覧たちを出すことはいけませんか?」


 困ったような顔をして言う崔科に、周琴はにべもなく冷たい視線を向けて答えた。


加覧からん白慶はくけい王恬おうてん任方じんほう陳景ちんけいなき今、徐州軍にはなくてはならぬ将じゃ。それに戦死戦傷で2万を超える兵が戦列を離れておる。これ以上この城の守備を手薄にもできんじゃろう? 紀鸞には幽州と并州の兵を併せ指揮させ、華将の鼻を明かして来いと伝えよ」


 崔科はため息と共に頷いた。



 案の定、周琴の命令を聞いた紀鸞は秀麗な顔に翳を落とし、


「……華将は目覚めぬうちに摘み取るのが上策……周恋愛様ともあろうお方がその程度のことをご理解いただけないとは……」


 そう憮然として呟いたが、崔科の


「并州の砕群狼は勇猛ですが、駐屯している太原からは太行山脈を越えねばなりません。

 司隷しれい州の突雷音や兗州の髑餓狼を頼られてはいかがですか? 周恋愛様のお言葉にはありませんでしたが、俺から彼らに回状を回しておきましょう」


 との言葉にはっと我に返り、


「司隷州は朝廷の虎賁こほん軍に苦戦しているようじゃ。兗州も予州同様、領内で朝廷の軍団が息を吹き返しており、その対応に追われておる。詮方なし、砕骨を頼るしかないようじゃな。崔科、世話になったの」


 鋭い目で虚空を睨んで独り言ちると、崔科にそう言ってさっさと徐州から河北へと取って返した。


 彼女は幽州に着くと、すぐに魔牧の業蹄電解を呼び出した。


「電解よ、鉅鹿の夜蛾たちを見殺しにはできぬ。すぐに軍を出してはくれぬか?」


「……北部魔王様は徐州軍の発向に色よい返事はなされなかったようですね?」


 業蹄は腕を組みながら苦りきった顔で言うが、夜蛾はそれを軽くたしなめた。


「司隷州も徐州も朝廷の軍が勢いを盛り返しておる。そこに青州での鉄血の敗死じゃ。

 それもこれも『追儺面の狂戦士』と呼ばれる男が現れてからのこと。さらにそ奴が応竜の気を以て華将などと言う輩を糾合しておる昨今、周恋愛様の立場で考えるとあちこちで起こる朝廷軍との対峙で手一杯と言うところじゃろう。

 ここは我らが踏ん張って将来の禍根を断たねばならんところじゃと思わんか?」


 業蹄は、それでも渋い顔をしていたが、


「……相手が相手です。獅子は兎を狩るに全力を尽くすといいます。華将を叩くにはそれなりの兵力があって然るべきでしょう。北部魔王様の決定は理解に苦しみますが……まあ、司馬殿のおっしゃる通り、夜蛾たちを見殺しにはできませんな」


 そう言うと、紀鸞に背を向けて


「俺は魔軍校尉を四人とも連れて出ます。ここの守りはお願いします」


 業蹄は紀鸞を振り向かずに部屋を出て行った。


「王燕」


 紀鸞は業蹄の姿が見えなくなると、配下筆頭の女性を呼び出す。王燕は呼ばれることを予期していたのか、間髪を入れず虚空から姿を現した。


「何でしょうか、司馬様」


 王燕は顔を覆った黒いスカーフから、黒い目を光らせて訊く。


「わらわが石家荘で出会った人物、姜黎則天と名乗ったが、ひょっとしたら姜月翡翠の関係者かもしれぬ。彼奴が応竜であるならばその可能性は高い。急ぎ調べてみてほしいんじゃ」


「その男、『追儺面の狂戦士』として名高い方士ですね?」


 紀鸞の依頼に、確認するように王燕が口を挟むと、


「うむ。彼奴の名が知られ始めたのはここ半年というところじゃが、1年ほど前から同胞に不自然な犠牲が増え始めた。

 おそらく彼奴が活動を始めたのがその頃じゃろう。姜月の所在が掴めなくなった時期と一致するからのう」


 紀鸞は漆黒の目を虚空に泳がせながら答えた。


「……一つお聞きしてよろしいですか? その姜月翡翠とは何者でしょうか?」


 王燕が訊くと、紀鸞は泳がせていた視線を一点に当てて、絞り出すような声で言った。


「姜月は『托卵の巫女』と呼ばれた方士じゃ。その父である姜秀の名はそなたも知っておろう?」


「姜秀思永……天権とも親交があったと言われる男ですね?」


「さよう、姜秀は普通の方士と違い、天権の薫陶を受け自ら妖魔調伏の新法を編み出したと言う。校尉雷漠が討ち取ったが、容易ならぬ敵じゃったらしいの。姜月は父からその新法の神髄を受け継いでおったらしいが、行方が知れなくなっておる」


「雷漠の襲撃時に死んだのではありませんか?」


「いや、彼女が鳳翼里から居なくなったのはその前じゃ。雷漠の襲撃時に彼女が居ったとしたら、姜秀を討ち取ることは叶わなかったであろうな」


 目を閉じて首を振る紀鸞に、王燕は恐る恐るといった風情で訊く。


「司馬様、司馬様はひょっとして姜月と言う女のことをよくご存じなのですか?」


 その問いに紀鸞は遠くを見る目をして黙っていたが、やがて薄く笑って答えた。


「10年以上も干戈を交えた娘っ子じゃ、すでに親友以上の存在と言えような。とにかく、姜黎則天と姜月については任せたぞ。わらわはいったん鉅鹿に参る。夜蛾を元気づけてやらねばならんからのう」



 芍薬をはじめとした華将5人は、帝丘を出撃しあっという間に広平を落とした。


「ここを押さえておけば、邯鄲かんたんはちょっとやそっとじゃ落ちぬ。それに徐州から予州を経由して北上する魔軍も、少しの間牽制できるじゃろう」


 華将・菊は、城頭に翻る大秦帝国の軍旗を振り仰ぎ笑って言う。


「この近くに官軍が居たのは幸いでした。おかげで後ろを気にしなくて済みます」


 華将・芍薬がそう言って微笑んだとき、


「おお、華将の皆さん、ここにおいででしたか」


 そう言いながら、軍装も颯爽とした若者が近づいて来た。


「私は涿郡校尉の曹桓そうかん、字は孟宏もうこうと申します。幽州牧・蔡理仁の命を受けて邯鄲周辺の魔軍を討伐しておりました。此度のご加勢には感謝申し上げます」


 曹桓があいさつすると、芍薬は琥珀色の瞳をした目を細め、


「ご丁寧に……私は察慎郷さつしんきょうの住人で華将・芍薬。妖魔相手に見事な進退でしたね。ひょっとして曹将軍は仙術の心得がおありですか?」


 そう、不思議そうに訊いた。曹桓の軍は魔軍に包囲されても慌てず、鋭い攻撃を加えて重囲から脱け出したからである。


 曹桓はにこと笑って、


「ああ、あれは我が友の姜則天から教えてもらった仙術です。少し心得がある者なら習得にさして時間はかからないと言われましてね。一人一人の力は方士に及ぶべくもないですが、全員の気を一つにすれば大きな力となりますし、おかげで今まで何度も窮地から救われました」


 そう言った。


「姜則天……その方はもしかして諱を黎とおっしゃるお方ですか? 『追儺面の狂戦士』とも呼ばれている」


 驚いた芍薬が訊くと、曹桓は頷いて答えた。


「ええ。『追儺面の狂戦士』と言う二つ名は初めて聞きましたが、方士として青州から幽州にかけて退魔に従事したと聞いています。あなたのおっしゃる方は紛れもなく我が友のことでしょう」


 それを聞いて芍薬はその名のとおり馥郁とした微笑みを咲かせて、


「そうですか。ここに来て応竜様のご親友のご協力を得られるのは心強いことです。私たちはこのまま鉅鹿へと軍を進めますが、ここをはじめ邯鄲や帝丘をしっかりと守っていただければ、後顧の憂いはございません」


 そう言うと、曹桓は若い頬を上気させて答えた。


「お任せを。それより姜則天はどこに? 彼がもしこの戦いに参戦しているのなら、余り無茶をしないようお伝え願えませんか?」


 芍薬は心が温かくなるような思いと共に頷いた。


「応竜様は華将随一の闘将である牽牛殿と共にあられます。心配はご無用ですよ?」


 そう言った後、まだ心配そうな顔をしている曹桓に、真顔に戻って付け加えた。


「曹将軍のお心も軽くせねばなりませんでしたね? 了解いたしました、応竜様には将軍のお言葉を責任持ってお伝えいたします。ご安心ください」



 その頃、徐州からの援軍を遮断する任務を帯びた鶺鴒と黄洪は、華将たちを追って帝丘まで進出していた。


風塵ふうじん不留ふりゅう真君しんくん殿、徐州の敵はどう動くでしょうかな?」


 黄洪は鶺鴒に仙号でそう問いかけ、遥か南を見やった。帝丘は濁河の左岸にあり、小高い丘になっている。その城頭からは夏の陽射しをはね返す濁河と、その南に広がる麦畑がよく見える。


「徐州から最短で鉅鹿に行くのでしたら、この帝丘の近くを通らざるを得ません。

 けれどその途上には呂鮮念殿の守る曲阜が睨みを効かせていますし、濁河の北には官軍が拠る濮陽が、南には定陶もあります。

 私は徐州の魔軍が北上する公算は少ないと思いますが、念のために東平まで進出してはいかがでしょう?」


 鶺鴒は濁河の流れを見ながら、北部魔王・周恋愛の心の中を見透かしたように言った。その顔が余りにも冷たく見えたので、黄洪は一瞬ギョッとした。


「……ふむ、濁河を楯にするのではなく背水の陣を敷くのですか? それもよいでしょうが、万一のことがあったら退路に窮しますぞ?」


 黄洪が当然の疑問を呈すると、鶺鴒は微笑みを浮かべながら黄洪の顔を見て言った。


「いえ、東平の民を濁河の北に避難させ、私たちは敵が近づいて来たら一撃を与えて帝丘に退くのです。後は黄白鷺殿のおっしゃるとおり,濁河を楯に魔軍を防ぎましょう」


 黄洪は鶺鴒の言葉から、彼女が決して闇雲に魔軍の撃滅を求めているのではないことを知って安心したように笑って言った。


「はっはっ、それなら了解しました。俺はてっきり鶺鴒殿が姜則天殿の指示を失念されているんじゃないかと心配したんです」


「ご心配なく。私は姜黎さまだけでなく、天権様からも始終聞かされておりました。『敵を知り己を知ったうえで、無理のない生き方をせよ』と。尊敬する師とお慕いするお方のおっしゃることが同じなら、私はそれに逆らうような真似は致しません」


 心なしか上気したような顔で言う鶺鴒を、黄洪は眩しいものを見るように


「天権様がおっしゃりそうなことです。つかぬことを伺いますが、風塵不留真君殿が天権様に弟子入りされたのはお幾つくらいのころですか?」


 そう訊いてみたが、鶺鴒は途端に顔を曇らせて、


「黄白鷺様、東平の民を避難させる時間が必要です。すぐに出撃いたしましょう」


 そう言うと、ぷいとその場を離れて行ってしまった。


 黄洪は一瞬あっけに取られたが、すぐに


(俺が彼女の過去に踏み込もうとしたのがいけなかったようだ。どうやら姜則天殿の言われるとおり、鶺鴒殿の過去は自身も扱いに困るほどのものらしいな……)


 そう思い直すと、方士隊に出撃命令を出すために部屋を出て行った。


   ★ ★ ★ ★ ★


 姜黎と朝顔は、鉅鹿の北方にある紫龍阜しりゅうふと呼ばれる小高い丘に着陣した。


 『着陣した』と言っても、そこに居るのは二人だけで、朝顔は他の華将と違って花精と呼ばれる精霊を一人も連れていなかった。


「応竜様、ええ眺めやなあ。天気もええし、久しぶりに二人きりやし、戦を控えておらへんかったらうち最高やで」


 紫龍阜のてっぺんで、腰に手を当てて鉅鹿のまちを眺めていた朝顔は、屈託のない笑顔で言う。


 彼女は朝顔の文様が刺繍された裾の長い振袖のような着物を着て、同じく朝顔の模様が入った帯で緩く留めている。


 留め方が緩いから着崩れて蓮っ葉な感じがしないでもなかったが、着物の下には筒袖で翠の服を着て、同じく翠の半袴……つまり短パンを穿いている。


 だから着物の間から見える日焼けしてすらりとした脚や、裸足につっかけた黒い木履も相まって、彼女を健康で活発そうに見せていた。


「拙者もその意見に賛成するでござるが、鉅鹿の上にたゆたっている妖気を祓うのが先でござろうな」


 姜黎は金色の蓬髪を風になぶらせながら、朝顔の隣に立ってそうつぶやく。


 姜黎の呟きを聞き、朝顔は緩やかに首を横に振り、姜黎の顔を覗き込むようにして


「応竜様、うちらは芍薬たちを叩きに来た幽州の援軍をぶん殴るんやで? うちらが鉄槌で芍薬たちが金床、目の前で援軍が四分五裂になれば鉅鹿の魔軍は戦意喪失や。そないに逸らんでもええんとちゃうか?」


 そう言うと、にっこりと笑って


「焦らんでもええねん。応竜様はきっといつか何もかも思い出すに決まってんねんから……自分自身のことも、『魔冦』のことも、それからうちとの約束も」


 姜黎の右腕をそっと触れて、はにかむような笑顔を見せた。


 それを見て、姜黎の心の中に何か懐かしい面影がよぎった。それは刹那と言ってもよいほど短い時間だったが、姜黎の心を甘く切ない気持ちで満たした。


(何でござろう? 拙者はいつか同じような話をした気がする……)


「どしたん、応竜様? まさか業障ごっしょうが痛むんか?」


 姜黎の表情の変化を見逃さなかった朝顔は、心配そうに訊きながら彼の腕をさする。姜黎は首を振って


「いや、右腕は朝顔のおかげで随分と良くなったでござるよ。ただ、何とも言えない気持ちがわき起こってきただけでござる。心配無用だ」


 そう言いながら朝顔の髪をなでる。


「えへ♡ うち、応竜様からそないしてもらうと安心するねん」


 朝顔はくすぐったそうに言うと、不意に笑みを納めて


「……惜しいけど、何でも楽しみは後っちゅうもんな。応竜様、先に一仕事終わらせてから続きを楽しも?」


 そう言いながら、姜黎から手を離した。


 その時、姜黎を再び不思議な感覚が襲った。


『……ん、だめだ! 手を離すと二度と会えなくなる!』


 姜黎の脳裏に、朝顔に似た少女の姿が見える。


 その少女は、青く見える亜麻色の髪と深い海の色をした碧眼が印象的だった。戦の最中なのだろうか、少女はゆったりとした着物と裳という姿だったが、袖のある革鎧と直垂をその上から身に付けていた。


 歳のころは15・6歳だろうか。まだ幼さの残った表情だったが、そのくちびるはみずみずしい白桃に似て、少女をやけに大人びて見せていた。


『心配症やね、応竜は。そないに心配せんでも、うちはどこにも行かへんよ?』


 そう、困ったような顔で微笑みと共にそう言うと、彼女は握っていた彼の手を離した。


『楽しみは後って言うやん? そないな顔したらあかん、あんたは四霊軍の総指揮官やんか? 黄帝様の期待を裏切ったらあかんで?』


(だめだ!……ゅん、お前は戦いに出ちゃいけない!)


 彼が声にならない声を上げようとしたとき、


「……竜様、応竜様ってば!」


 姜黎は朝顔の声で現実に引き戻された。


「もう、応竜様ってばどないしてん!? さっきからうちが『早う迎撃地点に行こう』言うても上の空で……さては応竜様、うちのこと差し置いて鶺鴒のこと心配しとるんやな?」


 姜黎はハッとした顔で朝顔を見つめたが、すぐに優しい笑みと共に首を振って答えた。


「そうでござるな。したが鶺鴒殿には黄白鷺殿と方士隊がついてござる。拙者はそれよりもそなたのことが心配でござるよ」


「へ!? うちのことが!?……んもう、応竜様ったらァ。そないなこと言われたら嬉しゅうてにやけてまうやんか。戦闘で不覚を取ったらどないすんねん」


 怒ったように言う朝顔だったが、顔は笑っているのでまんざらでもなかったらしい。しかし姜黎は彼女の言葉に慌てて謝った。


「それは拙者が悪かったでござる。

 けれど拙者が先ほど少しぼっとしていたのは、一瞬、不思議な光景が頭をよぎったからでござるよ。拙者は誰かをしきりに気にして、彼女を戦いの場に出すまいとしていたでござる。その彼女というのが余りにそなたにそっくりだったんで、少し心配が萌したのでござろうな……朝顔、どうしたでござるか?」


 神妙な顔で話す姜黎を見つめていた朝顔は、途中で優しい顔で目を潤ませてひしっと姜黎に抱きついた。


 姜黎は驚いたが、それでも朝顔を引きはがすような真似はせず、彼女の頭を撫でながら、


「一体どうしたでござるか? 戦の前に異性に触れると不覚を取ると注意したのはそなたではないか?」


 そう訊くと、朝顔はゆっくりと姜黎から離れて、じっと彼を見て訊いた。


「その彼女の名前、覚えとる?」


「……いや、拙者もはっきりとは聞こえなかった。『……ゅん』という音だけは覚えているでござるが」


「そっか……」


 朝顔は姜黎の返事を聞いてちょっとがっかりしたような顔をしたが、すぐにふるふると首を振り、表情を明るくして言った。


「それ、きっと『魔冦』のときのうちと応竜様や。そのころうちは『朝顔』っちゅう名やのうて『真名まな』を名乗っとった。それを応竜様が思い出してくれさえすれば、うちは前のようにもっと力を出せるんやけどな」


「朝顔の『真名』?」


「せや! そのころうちと応竜様は……」


 姜黎のつぶやきに釣られたように朝顔はそう言って黙り込む。顔がいつもに増して真っ赤だった。朝顔は何か言おうとしたが、何も言わずに口を閉じ、


「……ええねん、応竜様、気にせえへんといて?」


 そう首を振って言う。


「? 朝顔、何か拙者に話したいことがあれば遠慮せずに言えばいいでござる。戦の前でござるから何でもと言うわけには参らぬが、そなたの望みであればできるだけかなえられるように善処するでござるよ」


 姜黎がそう言うと、朝顔はニコリとして


「応竜様の気持ちは有難う受け取っておくわ。せやけどこれは時間がかかることやから、まずは目の前の戦に全集中せぇへんとな?」


 そう答えると、不意に真面目な顔をして


「応竜様、うちと応竜様は滎陽けいようの近く、朝顔里ちょうがんりで出会ってから1年の間、妖魔をいてこましてきたけど、これからは今までとは比べ物にならへんくらいのキツイ戦いが続くと思うで? せやからうちは一つお願いがあるねん」


 姜黎の瞳を真っ直ぐ見つめて言う朝顔だった。


 姜黎は彼女の言葉を、碧眼に強い決意の光を宿して聞いていたが、


「……言ってみるとよいでござるよ。そなたの願いとは何でござるか?」


 うなずきながら静かにそう言った。


 朝顔は真剣な顔のままで、


「妖魔との戦いが終わったら、うちを手折ってくれへん?」


 ただ一言、そう言うと下を向く。その姿は、一輪挿しの朝顔のように可憐で儚げだが、どことなく凛としたものを感じさせるたたずまいだった。


 姜黎は黙って朝顔を見つめている。彼女の言う『手折る』の意味を考えている顔だった。


 朝顔は美少女の姿をしてはいるが、その本質は鬼神で人間とは相容れない部分もある。それを考えると花の精が凝った華将を『手折る』と言うのは文字どおり摘み取るということになる。


 朝顔の真意を測りかねた姜黎だったが、すがるような眼をして自分を見ている朝顔の姿に、ついに意を決してうなずいた。


「……相分かった。それが朝顔の望みとあらば、拙者はそなたの願いを聞き入れようと思うでござるよ」


 姜黎の受容の言葉を聞いた朝顔は明らかにほっとした顔をして


「……よかった、これでうちは枯れずに済むねん。応竜様、ほなら早う迎撃地点に行かな、芍薬たちがえらい目に遭うで?」


 そう言って笑った。



 芍薬をはじめとする華将5人は、それぞれ1師(2千5百)の花精軍を率いて鋸鹿の町西方2里(この世界で約5百メートル)に陣を敷くと、次々と旌旗を林立させた。


「校尉殿、寄せてきた軍は華将と人間の混成のようです。青州の軍旗も見えます」


 鉅鹿の城壁の上から芍薬軍を見ている夜蛾に廉破が言うと、夜蛾は大きく見開いた複眼を閉じ、廉破をはじめつき従っている諸将の顔を額の五つの目で見ながら言った。


「あの旗はこけおどしです。だいたい、人間が妖魔に戦いを挑んでもできることは多くはありません。

 それにあの軍からは人間の気配は微塵も感じられません。恐らく青州の軍旗はこの城内にいる人間たちに向けたものでしょう。援軍が来たと知ったら思わぬ動きをする輩も出て来ます、城内の警戒を厳にするように」


「分かりました!」


 口々にそう言って持ち場に就こうとする部下たちの中から、


「あ、呉傑。そなたは少しここに残りなさい」


 そう、河童の妖魔である呉傑を呼び止めた。


「何でしょうか、校尉殿?」


 呉傑は瞳のない緑色の目で夜蛾を見て訊く。夜蛾は額にある五つの目を細めて、呉傑の機嫌を取るように言った。


「蘆的と言いましたか? そなたの部下には気の毒でしたが、彼のおかげで我が軍の空気を引き締めることができました。その後そなたが推挙した鄭安も見事に多量の物資を運び込んでくれました。決戦の前にそなたには礼を言っておかねばと思ったのです」


 以前、運搬中に物資を焼き払われた責任を取らされ部下を処断された呉傑は、今度は夜蛾からどんな文句を言われるのかと身構えていたが、案に相違して優しい言葉をかけられ拍子抜けしたように身体の力を抜いた。


 そんな呉傑の様子を注意深く観察していた夜蛾は、頷いて続けた。


「虎炎も甘平も我の誇る猛将、廉破は我が軍随一の粘り強い勇将ですが、そなたは得難い智将です。司馬様がおいでになっています、恐らく今後の河北軍の進退についてお話があることでしょう。そなたも同席してください」



「ふふ、華将どもはこれ見よがしに旗を立てておるな」


 鉅鹿城の奥に待つ河北の魔軍司馬・紀鸞深海は、夜蛾と呉傑の顔を見るなりそう言って笑う。夜蛾も笑みを浮かべてそれに相槌を打ちながら、


「ええ、我が部下たちも敵のこけおどしに惑わされることもなく士気旺盛です。

 ところで北部魔王様や幽州からの援軍についてお伺いしてもよいでしょうか? 場合によっては城から突出して華将たちを挟み撃ちにせねばなりませんから」


 そう問うと紀鸞はバツの悪そうな顔をして口をつぐみ、ややあって


「北部魔王様の徐州軍は周囲の状況を鑑みて出撃を見合わせることとなった。

 しかし業蹄の2万5千は既に薊を出撃しておる。二日もあればあそこにたむろしている華将たちの後ろから襲い掛かるじゃろう。それまでは城門を堅く守り、華将たちの挑発に乗ってはならんぞ」


 そう力強く言う。


 夜蛾は北部魔王の不出馬という、考えてもいなかった事態に一瞬混乱しそうになったが、


(それでも彼我の兵力差は歴然、悲観する要素は何もない)


 そう自分に言い聞かせて答えた。


「援軍の姿を見れば城兵も安心することでしょう。我らはどのような動きをすればよろしいでしょうか?」


 紀鸞はクスリと笑い、夜蛾を揶揄するように言う。


「表情が硬いのう。徐州軍が来ぬことがそんなに心配かの?」


 夜蛾は慌てて首を横に振り、


「い、いいえ、滅相もございません。業電解様の幽州軍が援軍として来ていただけるのなら、大船に乗った気持ちで戦えます」


 そう引きつった笑いと共に言う。


 紀鸞は優しい顔で夜蛾の不安を取り除くように、


「業蹄に策を授けておる。彼が合図するまで城門を堅く守り、合図とともに討って出よ。さすれば勝てる。

 万が一、不測の事態が起こったら、業蹄の指揮に従うのじゃ。業蹄の指揮が受けられない場合は、状況を見て必ず保定に生還せよ。わらわは保定に進出しておるからのう」


 そう言うと、夜蛾の肩に触れて念を押した。


「よいか、相手は華将、後に応竜が控えておる。蚩尤様すら苦戦した相手じゃ、この戦いは長丁場になるぞ。とすれば鉅鹿の一戦は決戦とは程遠い。まずは目の前の勝敗に囚われないことじゃな。

 わらわは華将を討ち漏らしたり、ここが落ちたりすることより、業蹄やそなたが戦死するほうが許しがたいぞ。分かったな?」


 紀鸞の顔は笑っていたが、声や態度は真剣そのものだった。夜蛾は肩に触れる紀鸞の手が微かに震えているのを感じ、


(ここを死守せねばと言う我の考えは甘かったようですね。応竜や華将との戦い、その結末まで見届けるつもりで一戦一戦をくぐり抜けねば)


 そう心に決めて頷いた。


「ご安心ください。我はきっと司馬様のご期待には背きませんゆえ」


 それを聞いて紀鸞は安心したように夜蛾に笑いかけた。


「その顔色なら、確かにわらわの願いを理解してくれたようじゃな。ではわらわは保定でそなたたちの奮戦ぶりを見させてもらうこととしよう」


(其の九 了)

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

物語に関係する人物の過去がだんだんと明らかになって行きますが、最も大切なのは姜黎と朝顔のつながりでしょう。

現実の『鉅鹿の戦い』が項羽の討秦を決定づけたように、本作の鉅鹿も物語の方向を指し示す大事な戦いですので、しっかりと描いていきたいと思います。

次回もお楽しみに。

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