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六花の乙女たち〜大秦帝国退魔志演義  作者: シベリウスP
1/11

序 追儺面は妖魔の気配を察し、朝顔は太行山中に邂逅を果たす

大陸の東にある大国、大秦タイシン帝国を大きな流星群が帝国を襲った。

その後2年、帝国は干ばつや洪水などの自然災害だけでなく、どこからともなく現れた妖魔たちの跳梁に苦しむことになる。

辺境、村落、都市と場所を選ばず出現する妖魔に、帝国も対応の術を失いつつあった時、稀代の方士と呼ばれる楊天権ようてんけんは、古の応竜と六花将りっかしょうの復活を予言する。

この物語は、運命に縛られた青年・姜黎きょうれい則天そくてんと、六花将・朝顔アサガオを中心とする物語の序章である。

 町中だと余り気付かないものだが、山の中に入って見ると、駆け足で過ぎ去る秋の風情を感じることができるというものだ。


 現に、この太行山脈の井徑せいけいは、たった一日で麓から山頂まで真っ赤に染まり、降り敷く落葉が自然のじゅうたんとなって旅人の目を楽しませている。


 まあ、旅人と言っても、今はこの道を先まで見渡しても一人しか歩いてはいない。彼はこの自然のもてなしを独り占めというわけだ。


「こういう風景に出会えるから、旅とはなかなか乙なものと言えるでござるな」


 旅人は、風に舞う落葉を一葉つかむと日の光にかざす。黄色から赤色へのグラデーションの中に、葉脈がうっすらと見える。彼は、その紅葉を吹いてきた風に再び乗せて詩を吟じた。


「風伝天息吹(風は天の息吹を伝え)

 紅葉飛乗風(紅葉は風に乗って飛ぶ)

 万葉雖誇色(万葉色を誇るといえども)

 一葉落知秋(一葉落ちて秋を知る)

 ……うむ、なかなかいい詩が出来たでござるな」


 旅人がそう独り言ちて、懐から懐紙と矢立を取り出した時、


「いたぞ、あいつだ!」


 山道の下の方からそう言う声がして、ぞろぞろと旅人に向かって登って来る兵士の一団が紅葉の間から見えた。


「……やれやれ、『風情を知らぬ輩はすべからく北声を運ぶべし』とはよく言ったものでござるな」


 旅人はそうつぶやくと、先ほどの詩を書き留めた懐紙を矢立と共に懐に納め、再び峠を目指して歩き始める。下から来る連中にどうせ追いつかれるとしても、足場がいい場所で追いつかれたいからだろう。


 やがて彼は、大きな岩が張り出していて、落葉が余り積もっていない場所を見つけた。ここはおあつらえ向きに道幅も岩のせいで狭くなっており、斜面を使って上に回り込まれる心配もない。


「ふむ、これぞまさに金城鉄壁、難攻不落でござるな」


 旅人はそう言うと、ゆっくりと振り返って、迫り来る兵士たちの群れを見つめた。



「やっと見つけたぞ。関所を脇に逸れるとは怪しい奴だ。ちょっと話を聞かせてもらおうじゃないか」


 やって来たのは30人ばかりの兵士たちだった。みんな革鎧を着込み、ほこを持っている。その先頭にいる隊長らしき青年は、目の前10メートルほどの所に立つ若者を改めて観察した。


 身長は175センチ程度、黒い戦袍の上から緋色の狩衣を着て緋色の括袴を穿いている。鎖帷子らしきものは着込んでいないようで、左腰に80センチほどの剣を佩き、右腰に雑嚢をぶら下げただけの軽装である。脚にはしっかりと脛当てをして、革の沓を履いていた。


 ただ、髪の色は日の光を受けて金色にも見え、瞳の色は深い海の色であった。


「お前、胡人か?」


 隊長が訊くと、旅人は首を振って答える。


「拙者は産まれも育ちもこの大秦ダイシン帝国でござる。髪と目の色からよく胡人と間違われるので、拙者も幼い時から困惑してきたでござるよ」


 若者の笑顔は邪気がないものだった。隊長はこの若者に悪意はないと確信したが、務めは務めだ。隊長は優しい顔で若者に問い質した。


「そなたは悪者ではなさそうだ。けれど関所は怪しい人物や違法な文物が通過することを阻止するためにある。その点から言うと、脇道を使って関所を敬遠したそなたをこのまま見逃すわけにはいかない。ご足労だが番所まで来てもらいたい」


 すると旅人は困ったような顔で


「ふむ……番所に行くと生国や姓名を名乗らねばならないであろう? それはちと困るでござるよ」


 そう、形のいいあごを指でつまんでつぶやくと、にこやかに笑って隊長に言う。


「どうであろう、拙者のことは見なかったことにしていただけないか?

 拙者は故あって国内を旅している身だが、旅をする理由が無くなったら、そのまま西の波瑠須ファールスという王国に行ってみたいと思っているのでござるよ」


 隊長は左手を剣の鞘に当てて答えた。


「その申し出は受けられないな。私たちも皇帝陛下の命を受けてこの関所を守っている者だ。

 そなたの行き先は分かったから、姓名を名乗り、何のために誰を探しているのかを包まず話してくれれば、番所まで同道することだけは許してやろう」


 旅人はゆっくりと両手を身体の脇に戻し、哀しそうに言った。隊長によれば、そのとき旅人の身体からゆらりと陽炎のようなものが立ったという。


「名乗ればそなたたちが迷惑しよう。拙者のような素浪人、見なかったこととして捨て置かれたい」


「いや、それは受け入れ難いな。そなたが怪しい者ではないことを半ば確信しているからこそ、私もさっきから抜剣もせず、部下に捕縛の命令も出さずにいるのだ。

 名乗られて困るような者はここいらには来ないと思う、構わぬから名乗り給え」


 隊長の言葉に、旅人はため息と共に言った。


「強いてそう言われるのならば是非もなし。拙者は姜黎きょうれいあざな則天そくてんと申す」

「げっ!……」


 旅人の名乗りに、隊長はそう一声挙げて一歩後ずさった。後ろにいる兵士たちも、姜黎則天の名を聞いて動揺する。


「……そなた、真にあの『追儺面ついなめんの狂戦士』か?」


 すると姜黎は、右腰にぶら下げていた雑嚢から、四つの眼を持つ四角く白い面を取り出して見せた。


「……た、確かにそれは方相氏の面……」


 目を見開いている隊長に、姜黎は静かに訊く。


「どうする、関所を敬遠したことで拙者と勝負するか? 拙者の名を聞いて手を出しかねたと聞こえれば、そなたの名に傷がつくこともあろう」


「そなたについては、天下の魔を祓う使命がある故その道を阻むなとの陛下のお達しがあるが、いくつかの関門を破った咎は咎として糾明せよとの丞相府の指示もある。

 かと言って、その技神に入ると謳われた『追儺面の狂戦士』と戦って勝てるわけが……ううむ……」


 困り切って頭を抱えた隊長に、姜黎は静かに言った。


「拙者がこの道を行くのは、拙者が行かねばならぬことがあるからでござる。それが済めば拙者はまた、風の導くままにこの地を去るでござろう。見逃していただき感謝いたす」


 姜黎は隊長に一揖すると、踵を返して峠道を下って行った。


 その後ろ姿を見送りながら、隊長は冷や汗をぬぐいながら兵士たちに言った。


「……いいか、姜則天などという化け物はここには来なかった。来なかったぞ」



 関所の峠を降りた姜黎が目指したのは、この国でも一、二を争う大河、濁河の畔にある小さな村だった。


冀州きしゅう太行郡たいこうぐん朝顔里ちょうがんり……拙者に依頼して来たのはここでござるな」


 姜黎はそうつぶやくと、人っ子一人いない村の中に足を踏み入れた。

 本来ならば5・6百人は住んでいるであろうその村は、ほとんどの家が跡形もなく崩れ、道には人間の髑髏があちこちに転がっていた。


 生きて動くものと言えば死肉をあさるカラスや野犬の類だけであり、それらも姜黎の姿を見るとさっといずこかへと身を隠してしまう。


「……妖魔の被害に遭ったと見えるな。少し遅かったでござるか」


 姜黎は悔しそうに唇をかむ。その目の端に、何か動くものを捉えた彼は、左腰に佩いた剣の鞘を押さえながらさっとその方向に向き直った。


「そなたは? 生き残った村人がいたでござるか」


 そこにいたのは、一人の娘であった。

 その娘は、17・8歳くらい。青く見える亜麻色の髪を長く伸ばし、首の左側で結んで身体の前に垂らしている。深い海の色をした碧眼が印象的だった。


「兄さん、誰や?」


 娘は碧眼をまん丸くして訊く。こんな村の状況にしては、落ち着いて涼しげな声だった。


 姜黎は優しく笑って答えた。


「拙者の名は姜黎、字は則天。方士でござる。ここの里長から妖魔退治を依頼されていたのでござるが、間に合わなかったようでござるな、面目ないでござるよ」


 姜黎の言葉を、その娘は軽く受け流す。


「小さいことは気にせんでええって。うちかてついさっき目覚めたばかりや。間に合わんかったのはお互い様やで?」


 娘はそう言うと、頭の後ろで手を組んで笑う。


 それを聞いて、姜黎は碧眼を細めて娘をまじまじと見つめた。話すことがかみ合わないし、この娘からは切迫感がまったく感じられない。


 彼女はアサガオの文様が刺繍された裾の長い振袖のような着物を着て、同じくアサガオの模様が入った帯で緩く留めている。

 留め方が緩いから着崩れて蓮っ葉な感じがしないでもなかったが、着物の下には筒袖で翠の服を着て、同じく翠の半袴……つまり短パンを穿いている。

 だから着物の間から見える日焼けしてすらりとした脚や、裸足につっかけた黒い木履も相まって、娘を健康で活発そうに見せていた。


(この娘、妖魔の襲来という衝撃で正気を失ってしまったでござるか?

それにしては狂気は感じられないでござるし、気の流れがまぶしすぎるでござる。

この娘、ひょっとして方士かも知れないでござるな。いずれにしても、ただの娘ではないようでござる)


 そう思った姜黎が、娘に名を問おうとした時、娘は姜黎の顔を覗き込むようにして言った。


「ところで兄さん、この村を襲った妖魔たち、すぐそこに野営していること知っとる?」

「いや、それは知らなかったでござるよ。この里とも縁ができたことでござるし、村人たちの供養のために、その妖魔たちを退治することといたそう。案内してもらえぬか?」


 姜黎が眉の間に怒りの色を現して言うと、娘は不思議そうに彼に訊いた。


「おもろい人やな、兄さんは。方士言うたかて妖魔と戦うんは命がけ、それをびた一文にもならへんのに退治する言うなんて」


 姜黎は緩く首を振って言った。


「拙者は金のために妖魔を調伏しているのではござらん。退魔はいわば拙者の信念とか宿命というべきものでござる。案内が難しければ、妖魔たちが野営しているという場所を教えていただけるだけで結構でござるよ」


 娘はそう言う姜黎のことを、碧眼に好奇の色を浮かべて見つめていたが、


「兄さん、なかなか強そうやな? 妖魔たちがいる場所まで案内したるから、ついて来るとええ」


 そう言うと、姜黎に背を向けて歩き出した。



 妖魔たちの野営陣地は、村から2里(この世界で約5百メートル)ほど離れた場所にあった。すぐ南を流れる濁河からは適度な距離を取り、街道と切り通しを陣地内に巧みに取り込んでいた。


「なるほど、馬腹ばふくか……」


 姜黎は、陣地の中にいる妖怪を一目見て、その正体を見破った。妖魔たちの身体は虎のようで、顔は人間のようであり、赤ん坊のような鳴き声であったからだ。


「兄さん凄いなあ。見ただけで妖魔が何か分かるんか?」


 娘が感心したように言う。数百のバケモノがすぐ近くにいるというのに、少しも恐れていない様子に、姜黎は不思議さと少しの疑念を込めて訊く。


姑娘むすめさん、怖くはないでござるか?」

「別に怖くはあらへん。うち、キモいのは苦手やさかい、気色悪いだけや」


 娘は飄々とした態度で答えた。


「……そうか」


 姜黎は腰に佩いた『青海波』と名付けた片刃の剣の鞘を握ると、娘に向かって言った。


「案内ご苦労でござった。これから先は姑娘には少し刺激が強いし、危ない目に遭わせたくはないでござるから村に戻るがよろしかろう」


 すると娘は、ニコリと笑って予想外の答えを言った。


「嫌や。誰もおらへん村に戻って、別の妖魔と出くわしたらどないするねん? うち、邪魔はせぇへんからここにおって、兄さんの活躍を見ていたいねん」


 姜黎は少し困った顔をしたが、娘の言うことももっともだと思い直し、うなずくとくれぐれも念を押して言った。


「相分かったでござる。そなたの言うことも一理ある。ではここに拙者の結界を張っておくから、決してここから動いてはいけないでござるよ?

 もし動いたら、そなたの安全は保障しかねるでござるゆえ、いいでござるか?」


 すると娘はうなずき、花のような笑顔を咲かせた。


「わかったで。絶対動かへんから安心してや?」



 妖魔・馬腹は川に棲む妖怪である。

 人頭虎体で人語を解し、人間を取って食うと言われる。


 大秦帝国では初期のころにその存在が確認されていたが、ここ150年は馬腹が現れたという記録は残っていなかった。


 前の王朝である普王国の時、長江に馬腹の大きな集落があったと言われていて、宣王の18年、時の鎮南将軍である深淵しんえん、字は海棠かいどうによって制圧されたと伝わっている。


 いずれにせよ、これほどの馬腹が集まったという記録はそれ以降ないのである。


 その馬腹たちは、朝顔里を襲って村人たちを心行くまで堪能し、すっかり警戒を緩めていた。姜黎の単身斬り込みは、そんな彼らの油断に乗じた形になった。


 馬腹の群れの長、観潮かんちょうはぐっすりと寝入っていたが、時ならぬ同胞たちの喚き声や断末魔の声で目を覚ました。


『何事だ!?』


 観潮が驚いて起き上がると、その目に信じがたい光景が飛び込んできた。


 彼ら馬腹は身体が虎のようであるためしなやかで、それでいてその毛皮は剣も槍も通さない。四肢の力は人間をはるかにしのぎ、険しい山道も平地を行くように駆け、前腕の一薙ぎで人間の頭くらいは吹き飛ばし、後脚の一蹴りは鎧を着た人体をやすやすと貫通する。


 それほどの戦闘能力を持つ彼らが、たった一人の人間によって思うさま蹂躙されているのだ。


『なんだ、あ奴は? 人間か、それとも鬼神か?』


 その人物は、舞でも舞うかのように優雅に、それでいて無駄と隙のない動きで仲間たちを斬り、突き、蹴り飛ばし、そして呪符を叩きつけている。

 その身体は白い仙力と赤い瘴気のようなものに包まれ、顏には白くて四角い、四つの黄色い目と二つの赤い角が付いた面を被っている。


「たっ、とっ、はぁーっ!」

 ザシュッ、ドムッ、ドガッ!


 その人物の力は圧倒的だった。仲間たちはほとんどなすすべなく、次々と討ち取られていく。


『逃げ回るな! 隊伍を整えてそ奴を包み込め!』


 観潮はそう叫びながら、鬼神のような人物に向けて突進した。


「来たでござるな。あいつがおそらくこの集団の長でござろう」


 姜黎は、赤ん坊の泣き声のような癇に障る雄叫びを上げながら突進してくる馬腹を見てそう思うと、自分の周りを取り囲むように隊伍を整えつつある馬腹たちを眺めながら、『青海波』を鞘に納め、居合の体勢を取った。


「あの親玉が来るまでに、できるだけ数を減らしておく必要があるでござるな」


 姜黎はそうつぶやくと、彼が刀を納めたのを見て


『アイツ、臆したぞ。刀をしまうとはバカなヤツだ、みんなかかれ!』


 一斉に飛びかかって来た馬腹たちを憫然と眺め、


「摂理を外れた存在よ、我が晃刀の錆となれ! 『青海波』っ!」


 チイインっ!


 姜黎の叫びと共に澄んだ鍔鳴りの音が鋭く響き、


 ドババンッ!

『げはああ!』『うぐええ!』『ぎょばっ!』


 周囲から飛びかかって来た馬腹たちが血煙を上げて真っ二つになった。


『おおおっ!?』


 やや遅れてその場に到着した観潮は、姜黎の凄まじい技を見て顔をひきつらせたが、


『貴様、何者だ!? 我は魔軍校尉の観潮、字は岐山きざん。同胞の血を流させた貴様には、自らの血で償ってもらうぞ!』


 目を怒らせてそう叫んだ。


 しかし、姜黎がこちらを向いてゆっくりと歩き出した時、観潮はその身を包む仙力と瘴気に似た揺らめきに、身の内に凍えるような恐怖を覚えた。


 方相氏の追儺面は白くてのっぺりとしているが、その無機質さが余計に姜黎の無言の圧力を増幅し、非情さを浮き立たせていた。観潮は相手がしゃべらないために姜黎の感情が判らず、仮面の下で薄笑いを浮かべているような錯覚さえ覚えていた。


(これは、畢生の力で対抗しても敵わない相手だ)


 観潮は『撤退』の2文字が頭に浮かんだが、それを口にするより早く、姜黎が懐に飛び込んできた。観潮の当惑が一瞬の隙を生み、姜黎がそれに乗じたのだ。


『うおっ!? しまった!』


 思わず声を上げた観潮は、『青海波』がその身を斬り裂く刹那、姜黎の冷たく圧倒的な殺意のこもった声を聞いた。


「汝摂理を外れた者よ、憎しみや恨みから解き放たれ、業障を払除せよ」

 ドバンっ!

『あがっ!』


 観潮の首は、白銀の一閃により宙を舞った。


 その時、姜黎はあの娘が叫ぶ声を聞いた。


「あかん、兄さん。そいつは最期は爆発するで!」

「! 不覚っ!」


 姜黎はその声を聞き、反射的に後ろへ跳んだが、一瞬早く観潮の身体が炸裂する爆風に巻き込まれた。


「兄さん!」


 爆音とともに、娘の叫びが虚空に響いた。


   ★ ★ ★ ★ ★


(……ここは、どこでござるか?)


 姜黎は、顔に当たるしずくの冷たさで意識を取り戻した。

 うっすらと開けた目に、ぼんやりと誰かの顔が映った。


「ごめんなさい、起こしてしもうた? 具合はどないや?」


 青にも見える亜麻色の髪に海の色をした瞳の娘が、心配そうに彼をのぞき込み、優しい声で訊いて来る。目の前の人物が朝顔里で会った女性であることを知った姜黎は、思わず起き上がろうとした。


「そなたは、つっ!……」

「あっ、あかんよ。動いたら傷が開いてまうで?」


 身体中を貫くような痛みに声を出したことで、姜黎の意識がはっきりする。


「ここは?」


 姜黎が訊くと、娘は彼の額に冷たい手ぬぐいを載せ、花のような微笑で答えた。


「うちの家や。まだ外は暗いさかい、安心してもう少し眠りぃ」


 けれど姜黎は、深い碧眼を細めて言った。


「かたじけない、随分と世話になったようでござるな。拙者は……」


 次の言葉を言おうとする彼の唇を、娘のやわらかい唇がそっと抑えた。


 驚いて目を見開いた姜黎だったが、娘のかすかに甘い香りが鼻腔をくすぐると、途端に深い眠りに落ちていった。


 ただ、ぼやけていく視界の中で、娘の満足そうな笑みと、


「姜黎則天……応竜様がうちのところに……」


 そのつぶやきが、妙に心に残った。


 次に目覚めた時には、窓から明るい日差しが差し込んでいた。


(もう朝か……結構陽が高いようでござるな)


 姜黎はそう思うと、ゆっくりと身体を起こす。突っ張ったような感じはあるものの、痛みはあまり感じなかった。


 部屋はそれほど広くはなく、けれどきちんと片付けられていた。自分が寝ている寝台と、小さな丸いテーブル、可愛らしい椅子が一つ、そして鏡が置かれている台が、この部屋の中にあるすべてだった。


(掃除も行き届いている……あの娘はこの家の者だろうか。おや、あれは?)


 姜黎は、鏡台の片隅に白くて四角い、黄色の眼が四つ付いた角のある仮面を見つけて、ゆっくりと寝台から立ち上がり、鏡台の前へと歩いて行った。


 彼が仮面を手に取った時、開いていた部屋の入口から娘が顔を出して言った。


「方相氏の追儺面やね? 兄さんが被っとったもんや」


 姜黎はびっくりして彼女を振り向いた。寝ていた時には分からなかったが、彼女の身長は160センチはあり、この国の女性としては高い方だった。


 見た目は17・8歳くらいであろうか。いずれにしても若い男が一つ屋根の下にいていいはずはない。


 姜黎はそう思い、まずはお礼を言おうと静かに居住まいを正した。


 しかし、娘が機先を制するように言った。鈴を転がすような優しい、けれど凛とした声だった。


「兄さんは、『追儺面の狂戦士』って言われてるお人やろ? 妖魔との戦いは見事やったなあ。たった一人で何百っちゅう妖魔を蹴散らして。最後吹っ飛ばされたんは災難やったなあ」


「……なぜ、拙者のことを?」


 やっとのことでそう訊く姜黎に、娘は彼が持っている追儺面を指さし、おかしそうに笑いながら答えた。


「その方相氏の追儺面や。兄さん、うちが想像してたより百倍も強かったわ。あんだけの妖魔、方士ゆうても並の人間やったらあっという間にお陀仏やで?」


 そして、方相氏の面を見る姜黎に、


「兄さん幸運やったなあ、深い茂みの上に落ちたから大けがせずに済んだんやで? おかげでうちも兄さんをここに運ぶのにも苦労せぇへんかったわ」


 そう付け加えた。


 そこでやっと姜黎は娘へのお礼が言えた。


「手間をかけたでござるな。介抱していただき誠にかたじけない。痛みもずいぶんと引いたでござるゆえ……」


 すると娘は、うっすらと笑って首を横に振った。


「まだ行ったらあかんで?」

「えっ?」


 姜黎は娘の笑みが余りに妖艶だったので、思わず訊き返した。すると娘は真剣な顔でこう告げた。


「うちの家の周りは完全に妖魔たちの巣窟になっとる。いかに兄さんが『追儺面の狂戦士』ゆうても、怪我をしっかり治さんとやられてまうで? うちが女やからって気にすることはないねん」


 それを聞いて、姜黎は目を細めて訊く。


「妖魔に包囲されてその落着き、もしやそなたも妖魔でござるか?」


 すると娘は、ぷっと噴き出して笑った。楽しくてたまらないという感じのその笑いを聞いて、姜黎は少なくともこの娘は妖の類ではないと感じた。と同時に、人間ではないということもほぼ確信した。


 姜黎の様子を見て、娘は笑いを収め、真剣な顔に戻って名乗った。


「ごめんなさい、気ぃ悪うせんといてな? うちも妖魔に間違われたのは生まれて初めてやったさかい。うちは朝顔アサガオゆうて、華将六花かしょうりっかの一人や」


「かしょうりっか……」


 姜黎はそうつぶやく。聞いたことがない名称だったが、何か懐かしい感じがした。


 朝顔と名乗った娘は、そんな彼に驚くべきことを言った。


「せや、話すと長うなるから六花将のことや理由は追々話すとして、うちは兄さんと一緒に旅をしたいんや」


「拙者は母の遺言により、妖魔調伏の使命がござる。拙者の旅は、ただの物見遊山とは違うでござるよ」


 姜黎が言うと、朝顔は恨めしそうに彼を見て、


「せやかて、うち、兄さんが『追儺面の狂戦士』やって知って、兄さんこそうちが探していた応竜様に違いない思うたから、唇も捧げてしもうたんやで?

 うちは華将、主君たる応竜様から乙女の純情を踏みにじられたら、そのまま枯れてまうんやで? どないしてくれんねん」


 そう必死に、けれど恥ずかしそうに問い詰めてくる。それを聞いて、姜黎も一度目覚めた時のことを鮮明に思い出して顔を赤くしたが、


「それは気の毒なことでござるが、そなたも軽々にそんなことをしてはいけないでござるよ。だいたい応竜とは何のことでござるか?」


 そう訊くと、朝顔はちょっと困った顔をして何かを考えていたが、


「……いや、うちが消えてへんから、応竜様に間違いない」


 そうつぶやくと、姜黎の眼を真っ直ぐに見つめて言った。


「思い出してへんのなら、おいおい思い出してもらえばええねん。兄さんは応竜、ずーっと昔、うちら華将を率いて邪神を封印した存在なんや。

 うち、これから応竜様に身も心も捧げてお仕えさせてもらうから、一緒に連れてってくれへんか?」


 一心に自分を見つめてくる朝顔に、姜黎はため息と共に答えた。


「拙者は女の子を危険にさらす趣味はないでござる。拙者のケガが治るまでそなたの話を聞かせてもらい、その話の真贋と願いに沿うべきかどうかを判断したいでござる。それでいいでござるか?」


 すると朝顔は笑顔になって言った。


「それでええよ。きっと話を聞いたらうちのこと連れてってくれると信じてるねんから。そう言えば応竜様、お食事もまだやったな? 少し待ってて、すぐに支度するさかい」



 姜黎の怪我は、幸いにもそんなにひどくはなく、2日もすれば普通に歩くことができるようになり、5日目には剣を振ることもできるようになっていた。


 その間、朝顔と名乗る不思議な少女は、自ら宣言したとおり、食事から身の回りのことまでかいがいしく姜黎の世話を焼いた。


(不思議でござる。朝顔殿といると、まるで母上と共に暮らしていたころのように心が落ち着くでござるな)


 姜黎は、鼻歌を歌いながら部屋を掃除する朝顔の幸せそうな、そして充実した笑顔を見て、ふとそう思うこともあった。


「? なんや応竜様。何かしてほしいことでもあるねんか?」


 姜黎の視線に気づいた朝顔は、碧眼を丸くして訊く。


 姜黎は何度彼が『自分のことを応竜と呼ぶのはやめてくれ』と頼んでも聞かない朝顔に苦笑しつつ緩く首を振って、


「いや、ただ拙者はこんなに安らかな気持ちになったのはいつ以来かと考えていたでござるよ。朝顔殿のおかげで、忘れかけていた人間らしい心を取り戻した気分でござる。

 どんなお礼をしたらいいか分からないでござるが……」


 そう、正直に言う。自分の気持ちを知り合って間もない女性に素直に言ったこともまた、姜黎にはそれまでにない経験で興味深いことであった。


 朝顔は顔を赤くして聞いていたが、微笑と共に姜黎を見つめて言った。


「うちは応竜様の役に立てるだけで幸せや。でも、応竜様がそないに言うてくれるんやったら、うちは二つ願い事があるねん。聞いてくれる?」


 姜黎は優しい目で朝顔を見ると言った。


「一緒に旅をすることについては、もう少し考えさせてほしいでござるが、どんな願いでござるか?」


「応竜様はイケずやなあ。うちがお願いしたいんは、一緒に旅をしたいってことと、うちのこと『朝顔』って呼んでほしいってことやねん。

 うちは身も心も応竜様のものやし、応竜様はうちの主や。せやからうちのこと他人行儀でのうて呼び捨てにしてほしいねん。いつか妖魔がこの世界からいなくなった時、うちを手折ってもらうために」


 朝顔は首筋まで真っ赤になりながらも、ひたむきに姜黎を見つめてそう言うと、つかつかと彼が腰かけているしょうまで歩いてきて、隣に腰を下ろした。


「朝顔殿……」


 驚いた姜黎が何か言おうとしたが、朝顔は


「せやから、他人行儀に呼ばれるのは寂しいねん。

 うち、この家で時が来るまでずーっと一人やったんやで? やっと応竜様に会えても、よそよそしい呼ばれ方されたら寂しさはちっともなくならへん。

 応竜様はうちのこと嫌いなんか?」


 上目づかいに訊く朝顔であった。


 姜黎は15歳でたった一人の肉親である母と別れ、故郷を出た。それから3年間というもの、彼は常に一人であり、求道と殺戮の日々を送ってきた。


 一人の気安さを知っている彼は、また同時に一人の寂しさも十分に知っていた。


 姜黎は微笑むと朝顔から視線を外し、遠くを見るまなざしをして言った。


「拙者は母との約束、いや、一族が受け継いできた悲願に縛られた男でござる。

 だから、そなたの気持ちを受け止めることは控えていたでござるし、今後もそれを変えるつもりはござらん。今、拙者にできることは、そなたのことを朝顔と呼んでやることくらいしかないでござるよ。

 朝顔にとっては不本意かもしれぬが、それで許してほしいでござる」


 朝顔は悲しそうな瞳で姜黎の言葉を聞いていたが、彼が『朝顔』と呼んだ時、パッと笑顔の花を咲かせた。


「……分かった、うちのこと大切に思ってくれてるんやったら、うちはそれで我慢する。

 そして応竜様を捉えている悲願の成就を手伝うわ。そしたらうちは晴れて応竜様のもんになれるんやろ?」



 姜黎は、身体が自由に動くようになると、家の外に出てみた。


 そこは、花が咲き乱れる静かな世界だった。鳥の声も、吹く風も、およそ『妖魔』とはほど遠いもので、


「……ここは、桃源郷か?」


 思わず姜黎はそうつぶやく。


「まあ、そないなものやな。うちら華将は自分たちの郷天ごうてんを持っとるんや。

 うちの郷天は『淡恋郷タンレンキョウ』言うてな? めったな妖魔は入って来れへん」


 朝顔がそう言うのを聞いて、姜黎は改めて彼女をまじまじと見つめた。


 それまで彼女からは、華将や妖魔についての説明を受けていたが、朝顔自身、何かの封印を受けているようで記憶が所々あいまいだったり、飛んでいたりして、要領を得なかったのだ。


 ただ、眼前に広がる『優しい異界』というべき光景を見れば、少なくとも彼女が華将という不思議な存在であることだけは信じることができた。


「な、なんや? うちの顔に何かついとるんか? そないに見つめられたら恥ずかしいやんか」


 姜黎は、朝顔の言葉でハッと我に返る。そして自分かいつの間にかこの世界の静けさに慣れてきていることを悟った。


「すまない、そなたが少なくとも華将という存在であることは確かだなと考えていたでござるよ」


 そう言うと、朝顔はにっこりと笑って


「そう言うてもろうて安心したわ。うちも核心のところをあんまり覚えておらへんかったから、胡散臭いヤツやなーって思われたんとちゃうか思うて心配しとったんや」


 そう言うと、イタズラっぽい目をして姜黎に訊く。


「それはそうと応竜様、うちを旅に連れて行ってくれるかどうか、もう決めたん?」


 姜黎は首を振って答えた。


「いや、まだ決めかねているでござるよ。正直、拙者はそなたと一緒に旅をしたい気持ちが強くなっているでござるが、そなたの安全を考えると二の足を踏むでござるよ」


 すると、朝顔は驚くべきことを彼に提案した。


「そうなんや。だったら、この郷天を見張ってる奴らを二人で片付けへん? そしたらうちが思ったより弱くないことが分かってもらえると思うねん」


 驚いて彼女を見つめる姜黎に朝顔は屈託のない笑顔で、


「応竜様かて、いつまでもうちの郷天にいるつもりはあらへんやろ?

 そりゃうちはいつまでも応竜様とここで一緒に暮らせるのんならそれでもええけど、応竜様にやることがある言うならうちはそれを手伝うだけや。

 心配無用やで? うちは鬼神である六花将の一人、妖魔を退治するのんがうちらの仕事や。嘘や思うたら、うちの戦い方を見てみてくれればええんや」


 そう言って、見た目からは想像もできないほど妖艶で不吉な笑いを見せた。


   ★ ★ ★ ★ ★


 それから数日、姜黎は朝顔の提案について考えたが、


(朝顔が真に六花将という存在なら、外で待っている妖魔たちに一泡吹かせることも可能であろう。朝顔の言うことがウソでも、その時は彼女をここに戻せばいいだけの話だ)


 そう決心し、この『優しい異界』の外にいる妖魔たちの殲滅を決めた。


 姜黎が朝顔にそのことを伝えると、彼女は満面の笑みで嬉しさを表現し、


「おおきに、これでうちは応竜様と離れずに済むねん。

 せやけど作戦開始は明日にしてくれへんか? それまでに必要な準備を済ませるさかい」


 真面目な顔に戻ってそう言った。


 そして次の日、二人は家から4里(約1キロメートル)ほど離れた場所にやって来た。


「ここがうちの郷天の出入り口やねん。今は妖魔を締め出すために閉じてるんやけど、応竜様の号令でここを開くさかい、外の連中をシバキ回したってや」


 そう言うと姜黎の顔を見る。


 朝顔は姜黎がうなずくのを見て真剣な表情をし、右手で剣印を結んで呪文を唱え始める。


(この仙力! やはり朝顔はただの人間ではないようでござるな)


 姜黎は、朝顔を包む清浄な翠の仙力を見てそう確信し、剣の鞘を握って心の準備をする。


 呪文が進むにつれて周囲の景色が暗くなり、目の前の空間が歪んでぽっかりと深淵のような穴が大きくなっていく。


 そして突然、姜黎の目の前の闇が深くなり、風が渦を巻いた。


「応竜様、行くで!」


 朝顔が鋭い声で姜黎に注意する。その時には姜黎はすでに『青海波』を抜き放って渦の真ん中に突っ込んでいた。


「あっ! そんな突出したらあかんねん!」


 朝顔は呆れたようにつぶやくと、後ろから湧いて出た妖魔たちを振り返って言った。


「来たな! うちは華将六花の朝顔、応竜様がおったら怖いもんなしや! 遠慮なく暴れさせてもらうで!」


 朝顔の前には、軍装をした牛頭馬頭たちが手に剣や矛をもって押し寄せてくる。その先頭にはその将たる妖魔が指揮を執っていた。


 オオオオッ!


 牛頭馬頭たちは朝顔に矛を振り回しながら突進してくる。


 けれど朝顔は顔色一つ変えず、左手に小太刀を構え、右手で剣印を結び、


釣瓶取花つるべとるはな・縛!」


 そう叫ぶと、牛頭鬼や馬頭鬼の軍団をアサガオの蔓が絡め取り始める。


 ゴガアアッ!


 次から次へと伸びて絡みついて来る蔓に、妖魔たちは動きを封じられた。


「こないな乙女に大群でかかるなんて、卑怯やと思わんか? 花弁に光る朝露の如く散れっ! 消如松露しょうろのごとくきゆ・散!」


 朝顔が印を結ぶと、彼女の身体から群青の気が巻き起こり、それはあっという間に妖魔たちを包み込んだ。


 ガ、ゴガアッ!


 妖魔たちは次々とうめき声を上げて地面へとくずおれていく。やがて群青の霧が晴れた時、朝顔の周囲1里(この世界では約250メートル)以内にいた妖魔たちは、一体残らず崩れ果てていた。


 朝顔は目を開けて印を解くと、右肩を回して、


「かったるいけど、まだぎょうさん居るなぁ。もうひと踏ん張りせなあかんね」


 そう言うと、再び剣印を結び、妖魔の大群の真っただ中に躍り込んだ。


 先ほど、朝顔の方術を見せつけられたばかりの妖魔たちは、突っ込んでくる朝顔を見ると道を開ける。朝顔はニヤリと笑うと、左手で逆手に持った小太刀を奔らせた。


「そりゃっ!」

 ドムッ!


「やあっ!」

 ズシャッ!


 朝顔は、行く手を遮る妖魔たちを次々となで斬りにしながら突き進み、とうとうこの妖魔たちを率いていると思われる牛頭の前までたどり着いた。


「うちは華将六花の朝顔。あんたが隊長やね? 尋常に勝負しいや!」


 朝顔の名乗りを聞き、敵将は慌てて槍を構えると名乗った。


「おう、我こそは魔軍校尉の塵埃じんあい、字は後天こうてんだ。小娘、可哀そうだが貴様にはここで死んでもらう」


 すると朝顔は、碧眼を細めて訊く。


「ちょっと訊いていい? あんた、妖魔になって何年?」


「聞いて驚け! 我は鬼としてすでに百年生きてきた」


 朝顔は塵埃の言葉を聞いて哄笑する。


「何が可笑しい小娘!」


 真っ赤になって打ちかかって来る塵埃の斬撃を軽くかわした朝顔は、涙を拭きながら、


「あはは、だって百年っつったらまだオムツしてるようなもんやん? ()()()()()がうちら華将に敵うと思うとるんか?」


 そう答えると、塵埃の横をすり抜けざま彼の首筋に小太刀を奔らせた。


 バシュッ!

「が!?」


 塵埃の首は、目を見開いたまま宙を舞い、鈍い音を立てて地面へと落ちた。


「さて……と……」


 朝顔は小太刀を血ぶるいすると、周囲にいる妖魔たちをぐるりと見回して言った。


「次は誰がうちと遊んでくれるんや?」



 一方、姜黎はもう一人の猪鬼が指揮する部隊と刃を交えていた。


 ズシャッ、ジャリッ、ゴリッ!

「がっ!」「ぐへっ!」「ごっ!」


 姜黎は妖魔の大群の真っただ中で、舞でも舞うかのように無駄と隙のない動きで戦っている。その妖刀『青海波』が閃くたびに妖魔の首や手足が宙を舞い、姜黎の拳や脚は剣と共に妖魔たちにとっては恐るべき凶器となっていた。


「せいっ!」


 大鉞を持ったごつい猪頭の妖鬼が、背後からものすごい勢いで姜黎の頭を狙って振り下ろす。


 ぶうんっ! ガッ!


 振り返りもせずに『青海波』でそれを受け止めた姜黎は、振り向きざま妖鬼の顔面に破魔の呪符を叩きつける。


「げえっ! おがッ!」


 呪符に怯んで力が抜けた妖鬼を、姜黎はものも言わずに斬り捨てた。


「拙者の隙を突こうなどとは、無駄なことでござるよ」


 姜黎は方相氏の追儺面の下でそうつぶやくと、『青海波』を握り直し次の敵に斬りかかって行った。


「ぐうう、さすがは『追儺面の狂戦士』、あ奴は本当に人間か?」


 塵埃と同様、冀州で魔軍校尉として軍勢を率いている猪頭鬼は、聞きしに勝る姜黎の奮戦を目の当たりにして肝を冷やしていたが、部下の戦意喪失を恐れて戦斧を構え前線へと乗り出し姜黎に名乗りかけた。


「よく来た、『追儺面の狂戦士』よ。我は魔軍校尉の褚突ちょとつ、字は猛震だ。相手にとって不足はないぞ」


 すると姜黎は、ゆっくりと振り返った。その様を見てさしもの妖魔である褚突も背筋が凍った。姜黎の身体から白い陽炎のようなものが立ち上がったからだ。


(あれが噂に聞く『追儺の霊気』か?)


 そう、恐怖にも似た感情を覚えた褚突だったが、部下の手前仕方なく虚勢を張った。


「我はこの世界に凝って3百年。人間風情が妖魔に敵うと思うか? 小僧、おとなしくこの場から立ち去れば命だけは助けてやるぞ」


 すると姜黎は、ゆっくりと褚突に歩み寄りながら答えた。仮面の下なので顔は分からなかったが、褚突には姜黎がうすら笑いを浮かべていると思えた。


「ふん、今までどれだけの妖魔がこの追儺面の下で屍を晒したか……そなたも業障を断ちて冥府に安んぜよ」

「何をっ!」


 褚突が戦斧を振り下ろす。その速さは迅雷のようであったが、


「……いない?……」


 褚突は、目の前に誰もいないことを知って瞠目する。急いで振り返ると、そこには姜黎が後ろ向きに立っていて、今しも剣を鞘に納めるところだった。


 姜黎は、ゆっくりと剣を納めながら言う。


「……妖魔跳梁の世に生を受けた拙者は、人間らしい感情や愛憎も恩讐も捨ててきた。ただくうあるのみでござる。その無想の一閃こそ業障を斬る、降魔の神速剣なり」


 そして、パチリと鞘に納める音と共に、


 ブシャッ!

「ぐあっ!」


 褚突の胸は革鎧とともに肉が大きく裂け、血が噴出した。


「ぐ……いつかは、こうなるのが……」


 ガシャリと戦斧を取り落とした褚突は、歪んだ笑いと共にそうつぶやき、仰向けに斃れた。その様を見て、妖魔たちは一目散に逃げだす。


 姜黎は、方相氏の面を外すと、褚突を見て沈痛な顔でつぶやいた。


「そなたは悪鬼といえども、最後は堂々と太陽を見て倒れたのはあっぱれであった」


 そして姜黎が褚突の死体に一偈を唱えていると、


「あっ、応竜様、無事やったんやな。さすが応竜様やで」


 そう言う声と共に、牛頭馬頭鬼たちを討ち取った朝顔が駆けて来て、ふうとため息をついて言った。


「はあ、よかった。応竜様のことやから万が一にも負けることあらへんと思うとったけれど、あんまり数が多かったから心配になってん」


 心配そうに言った朝顔は、次の瞬間には花のような笑顔を咲かせて姜黎に訊いた。


「応竜様、約束やで? 妖魔を討ち取ったねんから、うちも一緒に連れてってんか?」


 姜黎は、身体から仙力を発しながら言う朝顔を、不思議なものを見るようにしばらく見つめていたが、ため息とともに首を振って答えた。


「もののふの約束でござったな、あい分かった。朝顔、そなたの気が済むまで拙者と共に旅をすればいいでござるよ」


 そう言って、パッと顔を輝かせる朝顔に、姜黎は厳しい顔で付け加えた。


「拙者も努力は致すが、そなたの安全確保まで手が回らないことがあるかもしれないでござる。決して無茶はしないでほしいでござるよ。さもなければ、一緒に旅はできかねる」


 すると朝顔は心得顔でうなずいて言った。


「うちの身はうちで守る、そんなん当たり前やん。そこは心配せんといてんか応竜様。ところでこれからどこ行くねんか?」


 姜黎は濁河を眺めて答えた。


「さて、それは風の行き先に任せるでござるよ」


【六花退魔伝 了】

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

本作はかなり前から構想していたのですが、『青き炎のヴァリアント』を先に執筆することになったため、いったん構想を白紙に戻していたものです。

僕は三国志演義や古代中国を題材とした作品を好んで読んでいたため、一作くらいはそんな色合いの作品を書いてみたいなと思っていました。

本作はじっくりと時間をかけて進めていきたいと思っていますので、投稿頻度には期待しないでください(汗)

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