水と砂 ~すべての始まり~
お待たせいたしました。
新しい章のスタートです。
どうぞ、皆さま、よろしくお願いいたします。
水……。
水が、水が……飲みたい。
喉が干上がり、肌がカサつく。
ボロ布を被った体は熱が籠るだけで、汗などこれっぽっちも出ない。
唾液すらも出ず、ヒュー、ヒューと喉から乾いた音が漏れた。
潤いのなくなった目玉は、もう開けていることさえできない。
それでも、砂の上を一歩一歩、重たい荷物を背負い歩いていく。
俺が……生まれながらの奴隷だからだ。
奴隷の親から生まれた奴隷。
元は犯罪奴隷だったのか、借金奴隷だったのか、それとも人買いの被害者で非合法の奴隷だったのか。
親の罪さえも知らず、ただ命を与えられたときから俺は奴隷だったのだ。
商隊の主が鞭を振るえば荷物を運び、怒鳴られれば頭を地に擦りつけ許しを請う。
そして、どこまでも続く砂漠をひたすら歩き続けるのだ。
これが……俺の人生、一生なのだろう。
いずれ奴隷の女と子をもうけ、年老いたらどこぞの道端に捨てられる。
もう……涙すら出ない。
「ぎゃあああ。に、逃げろーっ! 砂嵐だー!」
商隊の前方の列が突如乱れた。
荷物を積んだ荷車が放り出され、人を乗せた駱駝が千々に逃げ惑う。
薄っすらと開けた目に映るのは、巨大な砂の壁……砂嵐だった。
「……なぜ?」
それなりに大きな商隊の主は、いつも移動のときは大金を出して占っていた。
オアシスの場所と砂嵐や流砂が起きる場所を。
なのに、なぜ、ここに砂嵐が?
呆然と砂の壁を見上げている俺の前を、商隊の雇われ護衛と商人が、奴隷が、入り乱れて逃げていく。
ああ……俺も逃げなければ。
いったいどこへ? どこへ逃げるというのだ?
それでも、じりじりと足が後退る。
「ひゃっ!」
ガクンと体のバランスが崩れるほど、砂に足を取られた。
いや、違う。
サラサラとした足元の砂が意志を持ったように、俺の足を捕らえて離さず少しずつ引きずり込んでいく。
「り、流砂……」
どうして? 砂嵐と流砂が同時に、同じ場所で起きるなんて。
俺の痩せ細った体はズブズブと砂に埋もれていき、視界は砂の混じった風で塞がれた。
ああ……ここで、死ぬのか……。
やっと……死ねるのか……。
親の顔など見たこともない。
同じように奴隷の子供として生まれた者も、年経るごとに数を減らしていった。
奴隷の主は、死んだ子供など気にも留めずに鞭を振るい、奴隷との間に子供を作らせた。
このまま砂漠の中、重い荷物を背負い歩き続ければ死んでしまうことがわかっていても、どうすることもできなかった。
ただ……水がほしい。
……水が飲みたい。
サラサラと乾いた音がする。
ううっと身じろぐと、頬にビチャッとなにかが当たった。
「……っ、み、みず」
横倒れた顔の頬に感じた水たまりに口をつけ、水を啜り、舌を伸ばして舐めとった。
ジャリジャリと砂が舌に当たるが、夢中で泥水を啜った。
「ふうっ。ここは?」
砂嵐に遭い、流砂に体を呑まれたはずの俺がいる場所はどこなんだ?
サラサラとした乾いた音は上の、かなり上から落ちてくる砂の音だった。
まるで細い滝のように上から落ちて、そしてまた、サラサラと下に落ちていく。
崩れかけた石柱に、僅かに残る石壁。
洞窟の中なのか、地下なのか、日の光が届かない場所で、物を見ることができるのは、あちこちにヒカリゴケが生えているおかげだろう。
ぼんやりとした灯りの中、震える足を叱咤して立ち上がる。
「俺は……」
助かったのか?
あれほど死ぬことに安堵していたのに、助かった命を惜しむ自分に笑いが込み上げてくる。
だが……。
「死にたく……ない」
ほんの僅かばかりの水を口にしたことで、腹の虫が騒ぎ出した。
「腹が減った」
もうずっと、腹は減っていた。
満足するほど食べたことなどない、俺のぺったんこの腹が、痛すぎるほど空腹を訴えてくる。
キョロキョロと辺りを見回すと、石柱には緻密な装飾彫りが施され、土で汚れた石壁の元の色は白に近い色に見えた。
そして奥には一段高い場所があり、何かを祀っていただろう祭壇が横倒しになっていた。
「ここは、神殿か?」
神に見放された奴隷の身分で神殿などに祈りに行ったことはない。
商隊の使いで訪れたときに、こっそりと覗いたことがあっただけだ。
「ならば、人里が近いか? それとも人がいなくなり廃れた場所か?」
困った。
人が住む場所でもなく、オアシスもなく、砂漠を手ぶらで歩くことなどできない。
せっかく生き残ったのに、結局は死にゆく運命なのか。
知らず握った拳がブルブルと震えだした。
なぜ、ここまで悲惨な運命を背負わなければならない?
俺が何をしたというのか?
ただ奴隷の子として生まれただけだ。
なぜ、世界は俺に優しくないのだ!
なぜ、神は俺に手を差し伸べないのだ!
なぜ、俺はまた死への恐怖に怯えなければならないのだ!
ギリッと噛んだ唇から血が滴り落ちて、俺は狂ったように笑った。
あれほど求めた水は泥水がほんの少し与えられただけなのに、俺の体にはまだ赤い血が流れている。
この血を全て飲み干せば、俺の乾きは癒されるのか?
「はーはははははっ! 生きてやる。俺は生きてやる! 必ず生き残って、俺が、俺のための世界を創る!」
もうすでに狂っていたのかもしれない。
だが、俺の叫びに呼応するように、どこからか黒い霧が現れ俺の体を包み込んだ。
そして、道を示す。
お前の野望を叶える道はこちらだ、と。
疲弊した体をゆっくりと動かして、導かれるままに足を進めると、黒い霧は倒れた祭壇でひと塊となった。
こつんと足に何かが当たる。
「……笛?」
粗末な縦笛だ。
それよりも、この黒い霧が欲しい。
「俺に寄こせ。力を寄こせ。この力がほしい。俺にこの力を」
渾身の力で黒い霧の塊を抱き込み、思いっきりそれを吸い込んだ。
黒い霧が口へ、喉へ、臓腑へと取り込まれていく。
黒い霧は逃げるように身を捩ったかもしれないが、俺は鬼気迫る形相でただ吸い込んでいった。
あとからあとから湧き出してくる黒い霧を、息の続く限り吸い込み、体に取り込んでいく。
サラサラと音を立てて落ちていた砂が、風の流れか、向きを変えて俺に襲ってきても、俺はただ黒い霧を吸い続けた。
この力が、この力が俺を強くする。
ビュオオオオオオと強く吹き荒れる砂に体を揺さぶられながら、俺は黒い霧を放さなかった。
顔に風を感じる。
砂混じりの風はチリチリと頬に当たり、むず痒い。
「うう、ん」
目を覚ますと、ひたすら砂と青い空が視界に広がる。
「ここは……」
俺は夢を見ていたのか?
あの、地下神殿も黒い霧も、俺の夢だったのか?
「いや」
俺の右手にはあの縦笛が握られていた。
そして、自分の体から漲る活力を感じることができる。
奴隷として虐げられたみすぼらしい体は、年相応の体つきに変わり、瑞々しい肌、爪も髪も健康そのものだ。
「ふふふ」
俺はもう、死にかけの奴隷ではない。
クンと鼻を動かすと、水の匂いがした。
近くにオアシスがあるのかもしれない。
立ち上がり、熱い砂の上、一歩足を動かすと何かが当たった。
「なんだ?」
拾い上げると、それは砂塗れの仮面だった。
「これは……」
オアシスの祭で見たことがある、パレードにいた賑やかし、道化師を模った仮面。
俺は笛と仮面を手に、歩き出す。
神へと続く、野望の道を。