闇の精霊 2
ぼくがブルーベル辺境伯家の王都屋敷に兄様と一緒に帰ってきたのは、日がとっくに沈みチカチカと夜空に星が輝く時間だった。
グランジュ公爵邸を出る前に、ご飯を食べたせいかとっても眠くて、兄様に抱っこされながら首がカクンカクンとしてしまう。
「よいしょっと。もうすぐベッドで寝れるからね」
兄様が、寝入って重くなったぼくの体を抱き直す。
「んゆ……」
しっかりと目を開けて起きてなきゃ!と思うけど……カクンカクン。
どこか遠い所からフィルの「お帰りなさい」という言葉と、ナディアお祖母様の「あらあら、まあまあ」と優しく微笑むお顔がぼくの意識に入ってくるけど……、ぐう。
そうして、覚えていない間にベッドに入れられて、スピースピーと眠っていたぼくは、すぐに起こされることになる。
「静かにしろ! レンが起きちまうだろうが!」
「ちょっと、あっちに行きなさいよ。こっちにくんな!」
んん~? なあに? うるさいよ、白銀と紫紺。
「ピイッ!ピーピイピイ!」
<があーっ、ヒラヒラと俺様の目の前を飛ぶんじゃねぇよ>
んん? 真紅まで、どうしたのさ、ぼく……眠い。
「どうしたの白銀と紫紺。あれ? 蝶が……」
ぼくの隣で一緒に寝ていた兄様の体がムクリと起き上がる気配がする。
コンコン。
「ヒューとレンは起きているかしら。あら、やっぱり」
「やはり、こちらに居りましたか」
ノックの音の後に開けられた扉の隙間からの灯りが、ぼくの顔まで射し込んできた。
「んゆ? まぶちいの」
ギュッと握った拳で眠気眼をゴシゴシと擦って上半身を起こすと、暗闇の中で白銀と紫紺が飛んで跳ねて大運動会をしていた。
……そういえば、猫とか夜中に部屋中を駆け回ったりするとか?
いやいや、白銀はどっちかというと犬系だよね?
「あっ!」
兄様がふいに上げた声に驚いて振り向くと、兄様の顔に例の黒いチョウチョが張り付いていた。
「にいたま?」
「ヒュー! そいつを追い出せ!」
白銀までもがピョンとベッドに飛び乗ってきて、兄様の体の周りをグルグルと回りだす。
「あら、レンまで起こしてしまったのね。ごめんなさい」
呆然としているぼくの体をひょいと抱っこしてくれたのは、ナディアお祖母様だ。
フィルは部屋の灯りを全て点けて、部屋の中にアリスターとディディを招き入れる。
「ヒュー……。お前、間抜け面だぞ?」
そ、そうかな? 黒いチョウチョが仮面のように顔に張り付いて……ちょっと悪者っぽくてカッコイイと思ったぼくです。
「白銀と紫紺も落ち着いて。真紅ちゃんは……あら、貴方も起きちゃったの。フィル、ヒューとレンの支度を手伝ってあげて」
「はい」
ぼくの体は丁寧にフィルの腕の中へと移動して、ナディアお祖母様は優しい手つきで兄様の顔からチョウチョを剥がしてしまった。
「さあ、レン様。お着替えです」
「どこかに、いくの?」
また、おでかけするの? でも、まだ夜だよ?
「ええ。蝶……いえ、闇の精霊様が諸々と説明してくださるそうよ。夜も遅い時間ですけど、ギルたちの所へ行きましょう」
「お祖母様。またグランジュ公爵邸に行くのですか? こんな時間に?」
チョウチョの仮面が外れた兄様の顔は、ビックリして目が真ん丸になっていた。
「ヒュー。諦めろ。闇の精霊の機嫌は損ねるな」
アリスターが兄様の片腕を掴んで無理やりベッドから下ろして、プチプチと寝着のボタンを外していく。
「自分で着替えるよ。アリスターも一緒か?」
「ああ。ディディの……精霊に関わることだから、俺も一緒に話を聞けって」
チラッと部屋の中を優雅にヒラヒラ飛ぶチョウチョを見るアリスター。
「今から、馬車で移動か……」
兄様がちょっとげんなりした声音で呟くと、どこからか女の人の声が部屋に響いた。
「あら、転移魔法で、すぐよ」
誰? とみんなでキョロキョロ、部屋の中を見回すとチョウチョがポワンと黒煙に包まれ、人化する。
黒いロングドレスを着た綺麗な女の人が、フフフと楽しそうに笑ってぼくらを見ていた。
レンが身振り手振りでどうやってここまで来たのか教えてくれたが、レンがものすごくかわいいのはわかったが、内容はさっぱりわからん。
ヒューがクスクスと笑って、補足説明してくれた。
蝶……いや闇の上級精霊はブルーベル辺境伯家の王都屋敷からここグランジュ公爵邸まで転移魔法で移動してきた。
それも、母上とフィル、ヒューとレン、アリスターとディディ、白銀と紫紺、真紅まで連れて。
「恐ろしい魔力だな。個人の魔力だけでこれだけの人数を転移できるとは」
陛下も目を見開いて驚いている。
国にある転移の魔法陣で同じことをしようとしたら、どれだけの魔石を用意すればいいのやら。
「あら、魔力ではないわ。私たち精霊は自然から得られる力を使うのだもの」
一人掛けのソファーに足を優雅に組んで座った女性――闇の精霊は妖艶に微笑んだ。
「しろがねたちと、ちがーの?」
「そうよ。神獣と聖獣は創造神から創られたから使う力は神気。私たちは自然の力。でも精霊王は創造神に創られたから両方を使うことができるわ」
俺は白銀と紫紺に顔を向けて真偽を問うと、二人は嫌々ながらも首肯してくれた。
「だから、精霊たちは神獣様と聖獣様が扱えない浄化の力を持っているのか?」
彼女は俺の質問に答える前に、フィルが淹れた香り高い紅茶を口に運ぶ。
「そもそも、浄化が必要な穢れがどうして誕生したのか……知りたくはないかしら?」
挑戦的な彼女のセリフを、窓の外のギャアギャアと鳥が騒ぐ音が邪魔をした。