王弟 3
父様が王弟様が寝ているベッドのカーテンをバサッと捲ったときに、ひんやりとした空気が零れ落ちて来た。
黒いモヤモヤと同じような嫌な感じだけど……なんだか、痛みが胸に刺さる気がした。
ぼくは、自分の両手で胸を押さえる。
「?」
なんだろう?
ぼくが不思議に思って王弟様のやつれた顔を見やると、王弟様の頬に一筋涙が伝わった。
そして、その流れた涙が黒いモヤモヤに姿を変え、少しずつ人型を模っていく。
父様が寝ている王弟様を起こそうと手を伸ばすのを慌てて止める。
「……くろいの……。くろいのが、あるの!」
王弟様の涙が黒いモヤモヤになったんだから、触ったら兄様のときみたいに「穢れ」ちゃう。
父様はとても怖い顔をして王弟様を凝視するけど、王弟様は眉間にシワを寄せて苦しそうに眠っているだけ。
「ヒュー」
父様が兄様を呼んだ。
兄様の頭にチョコンと止まっているチョウチョに「浄化」をお願いするんだろう……でも……それでいいの?
王弟様の涙から溢れた黒いモヤモヤは人型になって、まるで病に倒れた王弟様を心配するように上半身をベッドへと傾けているような?
「!」
黒いモヤモヤの人型が、ハラハラと涙を零し始めた?
顔の部分の両端に筋みたいに白い部分が生じ始めたのが、まるで涙を流しているみたいに見えるよ?
しかも、その人型は母様が着るドレス姿で、ふわふわの長い髪をしていた。
「……かなちいの……」
悲しい、哀しい。
そんな気持ちがぼくに押し寄せてくる。
ツキンツキンと胸が痛くなって、鼻の奥がジーンと痺れて、両目が溢れた涙で熱くなる。
「かなちいの。かなちいから……くろいの……」
二人が……王弟様と黒いモヤモヤの女性の思いが悲しいから……黒くなってしまった。
ポロポロと父様に抱っこされながら涙をベッドへと落としていると、目の前にチョウチョがパタパタと飛んできた。
いいのかな?
このまま、チョウチョに二人の思いを「浄化」させてしまって。
それは、二人の悲しい思いを消してしまうことになるんじゃないのかな?
ぼくは、無意識にチョウチョに向かってフルフルと頭を振ってしまっていた。
チョウチョはぼくと王弟様の間を何回か往復したあと、ピタリとぼくの前髪に止まった。
「んゆ?」
まるで、ぼくが王弟様の「浄化」をしなさいと促された気がするんだけど?
そのとき、ぼくは何故だか兄様の足を治したときのことを思い出した。
あのとき、水の精霊王様がいる湖の畔で、ぼくは怪我した兄様に「治癒」の魔法を使おうとしたけど、白銀と紫紺に止められたっけ。
ぼくはまだちゃんと力を使えないから、下手すると生命力を使ってしまって、ぼくの体力が削られてしまうからって。
でも、水の精霊王様は「ぼくの力が必要」と言って、二人で兄様を治したよね?
「ぼく、がんばる!」
父様の腕を手でパシパシ叩いて、力が弛んだところで足にえいやっと力を込めてベッドの上と飛び移る。
「ぐえっ」
あ……父様、ごめんなさい。
なんか、あんよがお腹の柔らかい所にヒットしてしまったみたい。
あとで、ちゃんと謝るね。
「レン、どうするの?」
兄様の心配そうな声に後ろ髪を引かれるけど、今は緊急事態なんです!
ポスンと白銀と紫紺がベッドの上へと昇ってきた。
「レン……止めてもダメか?」
「無理しちゃダメよ?」
心配性な大事なお友達に、ぼくは力強く頷いてみせることで決意を示す。
大丈夫! ぼくは王弟様の黒いモヤモヤをちゃんと昇華させてみせる。
ぼくは王弟様の胸に両手を翳して目をゆっくりと瞑った。
体から何かが抜けていくのと同時に暖かい何かが体に注がれてくる。
シエル様・・・王弟様と黒いモヤモヤの女の人を、どうか助けてあげてください!
「…………そんな奴に祈ったってムダなのよ? フフフ」
んゆ? 誰だろう? なんか意地悪なこと言われたような……。
いけない、いけない、集中! 集中!
いきなりレンが泣きだしたのに驚く。
レンと妖精、精霊しか感知することのできない黒い靄、「穢れ」の存在。
本来なら、大事な弟であるレンに、そんな得たいの知れないモノに近づかせるわけにはいかないのに、相手が王族なら仕方がない。
何があってもレンを守ると強い気持ちで訪れた王弟アルヴィン様のお屋敷、グランジュ公爵邸。
使用人の姿もなく、どこか寂れた印象を受ける屋敷の状態に危機感は募ったけれど、父様に続き屋敷の中へと入った。
病に倒れ療養中というアルヴィン様は、誰もいない部屋にポツンと置かれたベッドの中でお休みになられていた。
でも、その生気のない顔に……正直、病の重さが感じられた僕は、「ダメだろうな」と早々に諦めてしまった。
父様は「穢れ」を「浄化」すれば、アルヴィン様が元気になられると信じているようだったけど、僕の眼にはアルヴィン様には「生きる気力」が皆無に見えた。
そう、いつかの僕みたいに。
「ヒュー」
父様に呼ばれた僕は、咄嗟に頭に止まっている蝶の姿をした闇の精霊へと手を伸ばした。
しかし、それはレンの涙声で止められる。
どうして?
僕と父様が状況を把握できずにただ眺めているうちに、レンは蝶と何らかの意思の疎通を見せ、父様の腕から離れてベッドの上のアルヴィン様へとにじり寄っていく。
白銀と紫紺が内臓が出てしまうほどの深い深いため息を吐いたあと、ピョンとベッドの上へ昇った。
そして、レンの小さな手がアルヴィン様の胸の上に翳された瞬間、眩い光が部屋いっぱいに溢れた。
「レン!」
一体、何が起きているんだ?