お城へ 7
黒い靄……。
なんとなく、嫌な感じがするそれをどうすればいいのか、ぴやっ! と背中を強張らせることしかできないのに。
兄様とアリスターはギリギリと歯を食いしばって陰険使用人と睨み合っているし、その使用人は馬鹿にした笑いを隠しもしない。
ウィルフレッド殿下は体を縮こませて顔を俯けてしまっている。
ぼくは、兄様の足元でウロウロしている白銀を手招きして、アリスターを見張っている紫紺を呼び戻す。
「どうした? レン」
「なあに? レン」
「あれ」
ぼくは、壁に立っているメイドさんから溢れ出る黒い靄を指差したが、二人はぼくの指の先を見て、ぼくの顔を見て、また指の先を見て、不思議そうな顔で首をコテンと傾げた。
「なんだ?」
「なによ?」
「……みえないの? くろいの?」
ぼくが黒い靄があると言っても、二人はメイドさんの体から出ているそれを目視することはできなかった。
ええーっ! なんで? ぼくだけが見えているの?
両手を口に当てて、叫びそうな自分をぐっと抑える。
ますます、どうしよう……。
そのとき、扉が外から「コンコン」とノックされ、ほんの少し開かれた。
「ウィルフレッド殿下。お客様です。ジョスリン様とジャスパー様がいらしてます」
メイドさんの控えめな声に、ピクンと反応したのは陰険使用人だった。
「おお、そうでしたね。わざわざ王弟でもある公爵の公爵夫人とご子息がウィルフレッド殿下を訪ねてくださったのです。さあさあ、お出迎えをしなくては。ウィルフレッド殿下もいきますよ」
彼は見事に兄様とぼくを無視して話を進めるどころか、グイッとウィルフレッド殿下の細い腕を掴んで立ち上がらせた。
え? ウィルフレッド殿下って王子様だよね? 使用人がそんな乱暴な態度で許されるの?
「おい!」
兄様の制止も無視して、使用人はウィルフレッド殿下の小さな体を引きずるようにして部屋を出て行く。
その後を部屋に控えていたメイドさんたちもぞろぞろと付いて行ってしまう。
「にいたま?」
どうしよう。
ウィルフレッド殿下と何もお話しすることなく終わってしまったみたい。
「ヒュー。不愉快だ。俺たちは帰ろう。もう頼まれても二度と来るものか!」
アリスターがお行儀悪くガツッとテーブルを蹴ったので、紅茶が入っていたカップが倒れて、テーブルクロスがじわじわと赤茶色に染まっていく。
「ああ。むしろ王家に正式に抗議する!」
兄様はフンッと鼻を鳴らして立ち上がると、無言でぼくを抱き上げてズンズンと歩き出した。
怒っている兄様が、こ……こわいよぅ。
白銀と紫紺もチョコチョコと小さい姿でぼくたちの後を追っかけて来て、王子宮のエントランスまで戻ってくるとそこにはウィルフレッド殿下と使用人たち、公爵夫人とその子供とアルバート様が揃っていた。
「よう、終わったか? じゃあ帰ろう」
アルバート様がこの微妙な雰囲気をまったく無視して明るくぼくたちに声をかける。
でも、そのおかげで兄様の怒りの感情がふわっと霧散した気がした。
「あれ? あれ? どうして」
「おい、ヒュー。いいのか? このまま帰って」
兄様とアリスターは戸惑い顔でピタリと足を止めてしまう。
「まあ! この子たちがブルーベル辺境伯騎士団団長様のご子息たちですか?」
そこへ、ぬっと顔を出してきたのは、鼠色の髪を高く結い上げて紫色のフリフリドレスを着た少しぽっちゃりした化粧の濃い知らない女の人。
「初めまして。ヒューバートです」
兄様がぼくを抱っこしたままペコリと頭を軽く下げてご挨拶。
「レンです」
ぼくも抱っこされたままペコリ。
「かわいらしいこと。わたくしは王弟殿下の妻ジョスリンですわ。息子のジャスパーです。ブルーベル辺境伯にどうぞよろしくお伝えください」
ニッコリと両目が弓なりに細められるが、ぼくは心臓ドキドキ。
兄様は微笑んで「はい」と返事をしている。
このジョスリン様と、ジョスリン様と同じ鼠色のくせっ毛のぽっちゃりしたジャスパー様はニコニコと笑っているけど、その体からは黒い靄がモクモクと噴き出ていた。
ひしっと兄様の上着を握ると、兄様がぼくの怯えている様子に気が付く。
「レン?」
「おーい! 早く帰るぞーっ」
のんびりとしたアルバート様の催促に、ぼくたちはもう一度ジョスリン様たちにお辞儀して、王子宮のエントランスを出た。
出て行くぼくたちを、ウィルフレッド殿下の真っ赤な瞳が切なげに追っていたけど。
「はーっ、ようやく離れられた」
アルバート様が馬車にぼくたちを乗せながら、深く息を吐きだす。
「何かありましたか?」
兄様がアルバート様に尋ねると、思いっきり顔を顰めてべーっと舌を出した。
「あのおばさんの香水の匂いだよ。臭い臭い! あの坊主も態度悪いしよぉ。ヒューは知らないのか? 王弟公爵のオーク夫人って?」
オークって猪みたいな豚みたいな魔獣だよね? お肉は食べたら美味しいけど。
なんでもあのジョスリン様は、王弟様の後妻さんで、ジャスパー様もジョスリン様の連れ子なんだって。
「でも、結婚してすぐに王弟様が病に倒れられてから、好き放題だぜ? 身分をかさに着て気にいらない貴族女性を虐めるわ社交界から爪弾きにするわ」
それからもアルバート様の口は止まらない。
ドレスや宝石品のお金は払わないとか、闇カジノに出入りしているとか、下位貴族にお金を違法に貸しているとか。
「あんなんでも公爵夫人だからな。王家でも頭を悩ませているらしいぜ」
しかもアルバート様は、王子宮のエントランスでお誘いを受けたそうだ。
「死んでも嫌! あんな奴の専属冒険者になるなら、ハー兄のとこで書記官でもやるわ!」
げえっと顔を歪めるアルバート様。
ぼくたちにも、厄介な相手だから近寄るなよと警告して、颯爽と馬に跨ると馭者に合図して馬車はガタンと動きだす。
「にいたま……」
「ごめんレン。なんだか、王子宮の中に入ったら感情がコントロールできなくて……」
へにょりと眉を下げる兄様もかわいいね!
ううんとぼくは頭を左右に振った後、「あれ」と馬車の窓から見える黒い靄を指差す。
「え? なにかな? 何も見えないよ?」
王子宮を包み込んで黒い炎のように揺らめく黒い靄は、やっぱり兄様たちには見えないようだった。
白銀と紫紺に聞いてみたけど、二人揃って首を傾げるだけ。
なんでぼくだけに見えるんだろうと、頭を捻っていたとき、外からアリスターの困惑した声が。
「おい、落ち着けって。なんだよ、急に暴れやがって。ディディ!」
「ギャウギャウ。ギャーッウウ!」
アリスターが乗っている馬の上で、ディディがジタバタと短い四肢を動かしていた。
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