四月十日 上野①
カーディガンを羽織っていても少しだけ寒さを感じる日だった。
明後日に新入生オリエンテーションを控えた今日。僕は上野に遊びに来ていた。首都高速が望める変なオブジェクトのある跨線橋で、時折スマホで時間を確認しながら件の人物を待っていた。
それにしても。
「遅い」
件の人物は、珍しく待ち合わせ時間になっても姿を見せなかった。正直、滅多にないことすぎてとても心配になる。事件に巻き込まれでもしたとか。想像するだけで気が気ではなくなってくる。
自宅の場所は知っているし、迎えに行くべきだろうか?
いやでも、すれ違いになったりしたら嫌だしなあ。
チャットで連絡をするか? でもまだ、待ち合わせ時間からは五分しか過ぎていないし、過敏に思われたくないし。
ああでもないこうでもないとうろたえていると、件の人物が小走りでこちらに向かっている姿が目に入った。
ホッ。どうやら取り越し苦労だったらしい。
「おはよう、白石さん」
「ごめんなさい。遅刻しちゃった」
目の前で足を止めた白石さんは、肩で息をしていた。どうやら少しだけ急いできたみたいだ。
「いいよ。怪我とかがないなら。むしろ、慌てて行動しないでいいからね。慌てた結果、君の綺麗な体に傷でも付いたら、その方が僕は嫌だからさ」
本当、急いだあまり彼女が怪我して、一生モノの傷が残ったら、僕も泣きそう。あ、想像しただけでもキツい。
「そ、そう……」
なんだか白石さんの頬が赤くなった。走ってきた影響だろうか?
「そ、そろそろ行きましょうか」
「そうだね」
返事を返すと、白石さんに手をしっかりと握られた。白石さんの方を見れば、気を取り直したかのように微笑んでいた。
公衆の面前でこうイチャイチャするのは、正直未だ恥ずかしい。が、学校内と違い、ただの学生カップルの僕達を気に留める人はいなかった。というか、似たように愛で合うカップルも少なくないように見えた。
内心でホッと安堵しながら、僕達は並んで上野駅の駅舎の上にある連絡橋を歩いた。休日ということもあってか、人並みはそれなりに多かった。
「いつかの動物園みたく、離さないでね」
「勿論」
人並みがそれほどある、と言っても、さすがにあの時ほどではない。更にここには、いつかの動物園の時みたく、白石さんのキャラを行方不明にさせるトリガーとなる物はなさそうだし、多分大丈夫だろう。
通学の時よりも少しだけ緩めの歩調で僕達は連絡橋を歩いた。
「そういえば、今日はどうして遅刻してきたの?」
唐突に思い出すと、僕は聞いた。
「ああ……」
白石さんは僕の言葉に頭を抱えていた。え、そんなトラブルに巻き込まれていたのか。今後は家まで迎えに行った方がいいだろうか。
「違うの。そんな心配しなくても大丈夫よ?」
「あ、そう?」
僕の気配から心配されていることを察したのか、白石さんは慌てて手を振っていた。かわいいなあ。
「そう、そんな心配することじゃないの。ただ……パパに色々言われただけだから」
「パパ……て君のお父さんか。出張から帰ってきたんだ。良かったね」
「良くないわよ、もう」
あれ?
いつか彼女の家に遊びに行った時、ご両親に送り迎えをしてもらっていたことをとても楽しそうに話していたから、きっと仲の良い家族なのだろうと高を括っていたが、違ったのだろうか。まあこのくらいの年頃の子供が、親を煙たがるのは当然といえば当然か。
「まあ、基本的には良い親なのは確かよ。週に一回、仕事終わりに電話もくれるくらいだったし。でもね……」
「ちょ、ちょっと待った!」
僕は続きを話そうとする白石さんを制した。
良い親に対して含みのあるこの言い方。覚えがある。あれは確か、元の体の同僚である安藤真奈美さんの妹、安藤茜さんから、自分の親の評価を聞いた時の出来事だ。
「まさか君の親、野球キチガイ?」
「失礼な」
良かった。違ったみたいだ。
二年に進級して以降も、安藤さんの家でテスト勉強に励む約束を先日無理やり交わさせられた古傷の痛みが和らいだ。なお、その時の僕の彼女は、随分と安藤さん宅での勉強に乗り気だった。最早僕をいじりたいのか愛でたいのかわからないと思った瞬間だった。
「鈴木君、安藤一家の一件がトラウマになっているのね。今度安藤さんに伝えておくわ」
「止めて。碌なことにならないから」
どうやら僕をいじりたいようだ。酷い彼女である。
「話が逸れたわね。それで、あたしが遅刻した理由なのだけれど。それはパパに随分としつこく朝から絡まれたことが原因なの」
当時の様子を思い出したように、白石さんは再び頭を抱えていた。
「『こんな朝からどこに行くんだい。まさか男かい? 男は駄目だ。君にはまだ早い。奴らは獣だ。可愛い可愛い君を陥れる獣なんだ』。
こんな感じに言われたわ。男じゃない。安藤さんと遊ぶのと伝えたのだけれど、『そんなにめかし込んでかい? ならこの場で安藤さんに電話しなさい』と言われてね。少し口論していたわ」
「強烈な親だこと」
なるほど。
だから彼女、今回に限って家ではなく駅前の跨線橋で待ち合わせにしたのか。知らぬ間に気遣ってもらっていたようだ。
それにしてもその親、怖い。
安藤一家とは違ったベクトルで恐怖を抱かずにはいられない。
「もう。あたしも子供じゃないのに」
「そうだねえ。難しいよね」
「そうなの。どうしたらいいのかしら」
「成行きを見守る他ない気がする」
「そうかも」
互いに苦笑しあいながら、僕達は上野恩賜公園に入った。人は依然として多いが、公園内の道が広いことも幸いし、約束どおりこの手を離すことなく目的地にたどり着けそうだ。
正岡子規記念野球場を過ぎて、恩賜公園内でも一番広い道を進んでいった。
「まあパパ、近々海外への転勤が決まりそうって言ってたし、そこまで鈴木君との関係を隠し通せたら大丈夫かも」
「転勤か。素直に喜んでいいのかわからないね」
「いいのよ。今のあたしが一番大切なのは、鈴木君だもの」
ひゃー。照れるぅ。頬が熱くなっていくのがわかった。
「それじゃ、なんとか隠し通さないとね」
「うん。もし隠し通せなかったら……」
白石さんは寂しそうに俯いて続けた。
「今は単身赴任で行く気満々だけど、無理やり連れて行かされても不思議じゃないもの」
大変なんだな。僕は呑気にそんなことを考えていた。
噴水を超えて、道路に差し掛かった。
その向こうには、今日の目的地である東京国立博物館がそびえていた。