四月十六日 非常階段
『明朝、いつもの場所で』
昨晩、僕の白石さんから来たメッセージは、最早業務連絡であった。いや事実、彼女は僕の上司に当たるわけだが、とはいえ何だかサバサバとしているような。
……はっ。
もしや、嫌われたか?
横暴な男に対して、結局山田さんがいなければ僕、言い負かされていたと思われた? いやいやまったく、そんなことなかったよ?
確かにちょいと疲れてうんざりしていたが、それでもあの男に負けるビジョンは見えていなかった。つまり嫌われる要素はない。
……えぇ、怖いわ。
という昨晩の葛藤の末、いつもと変わらない時間に家を出た。日課だからさ、起きちゃったんだよ。寝坊したと言い訳出来ない今、白石さんの誘いを僕が無下に出来るはずもなく、おっかなびっくりしながら、僕は電車に揺られていた。
そのまましばらく電車に揺られた僕は、陰鬱な感情を抱えながら学校の最寄り駅で降りて、通学路を歩いた。いつもと同様、まだ校舎には静けさが残っていた。校庭で体を動かす生徒はまだ誰もいなかった。
校門をくぐり、玄関にたどり着いた。下駄箱から上履きを取り出すと、丁度良いタイミングで安らかなトランペットの音色が響いた。今日も博美さんは熱心に早朝練習しているそうだ。
その音色をBGMにしながら、僕は一度教室に行き、鞄を置いて、非常階段へと向かった。一段一段階段を踏みしめて歩いていると、トランペットが奏でる鎮魂歌も合わさって気持ちが淀む。最早博美さんのトランペットで一喜一憂出来るまでになってしまったようだ。
今度鳳に暗い曲を課題曲に選定するのやめろって言っておこう。
「……あ」
それでも白石さんの誘いを無下に出来ない一心で階段を上りきると、いつも通り白石さんは屋上に繋がる扉の前で座っていた。
いや、違う。
少しいつもと違った。
白石さんは今、鎮魂歌を聞きながら寝息を立てていた。それはもう安らかな顔で。死んでいると思うくらい。美しく儚く、愛らしい寝顔だった。
「……ん」
「あ」
起きた。
重そうに瞼を開けて、目をしばらく擦っていた。
そしてこちらに気付くと、頬を真っ赤に染めるのだった。
「見た?」
「見た。かわいかった」
内心を偽ることもせず素直な感想を述べると、
「忘れて」
茹蛸みたいに、白石さんは顔を真っ赤にさせていた。
ごめんね白石さん。そりゃあ出来ない相談だ。
「わかったよ」
とはいえ反抗すると後が怖いので、僕は嘘をついた。
白石さんは、僕の言動をまるで信用していないように恨めしそうに目を細めていた。嘘をつくとわかっているのなら、もう聞かないで欲しいね。絶対にそんなこと言わないけど。
気を取り直すと、まだ少し紅い頬を見せたまま、白石さんは隣に座るように無言で僕を促した。
その態度で僕は思い出した。そういえば今日は、白石さんに呼ばれたからこんなに早朝に非常階段に来たんだった。
「どうしたの、こんな早朝から」
少しだけ声を震わせながら、僕は言った。
白石さんは、
「何って、反省会よ」
と目を丸めて言った。
緊張し張っていた肩が緩んでいった。ああ、そういうこと。悩んで損した。
「昨日はあの後、すぐ帰らされちゃったから。反省会を出来なかった」
「そうだね。そうだったね」
取り越し苦労が恥ずかしくなり、僕は頭を掻いて苦笑した。
僕の様子が変なことに白石さんが気付かないはずがなく、不思議そうに小首を傾げていた。かわいい。
「それで、昨日は何が悪かったと思っているの?」
しばらくして、僕は白石さんに尋ねた。
「上級生だからと遠慮してしまった。ううん、怖がってしまったの」
だろうね。それは端から見ても一目瞭然だったよ。
「あなたは野球部の部長さんに対して、あの場が年功序列なんて関係なく意見する場だと言っていたけど、やっぱり頭の片隅には、ずっと彼が先輩であることがこびりついて離れなかった。目上の人との会議も初めてというわけではなかったのだけれど、向こうの強気な言動も相まって、気後れしてしまったの」
白石さんは自分のミスを悔いるように唇を噛んでいた。
「どうすればあんなに上級生に歯向かえるんだろうって、昨日のあなたを見たら思えたわ」
「ありがとう。でも何だか褒められている気がしない」
「そうね。多分褒めてないわよ」
何だか昔の彼女に戻ったように、白石さんは毒を交えながら微笑んでいた。
「でも、あたしは多分あなたのように彼に歯向かうべきだったのね。正論を並べて徹底的に」
「それは違う」
「え?」
僕の否定に、白石さんは目を丸くしてこちらを向いてきた。かわいい。
「まああの場ではそうするしかなかったのは事実だ。でもこれからは対策は出来るよ。上級生相手に対立する構図を作らずに穏便に事を運ぶ方法」
「というと?」
「一から考えようよ。僕が答えを出し切っても仕方ないだろう? さて、じゃあ初めから。まず、昨日の会議の議題は何だった?」
「四月二十三日の新入生への部活動紹介の説明と発表順番を決めること」
「そ、でだ。その議題に対する部長連中の役割は何だった?」
「部活動紹介の説明で納得出来ないことがあれば手を上げて改定を試みること。後は、発表順を決めること。出来れば自分達に利益の出るように」
「そう。じゃあ、僕達の役割は?」
「そりゃあ……当日の説明と、中立な立場で発表順を決めさせることでしょう?」
「そ。僕達の仕事はそれだけ。僕達は所詮学生。いざこざを作っても責任は取らないし、取る構図は作るべき立場じゃなかったのさ。そうすることで、後々誰かに迷惑をかけるからね。
つまり、あそこまで拗れた会議で先輩達に歯向かって、遺恨を残してまで場を正す必要は僕達にはなかったってわけさ。あの場では誰かがああしないと会議が進まないから僕がしたわけだが、じゃあそれを本来担うべき人は誰だったのか。
あの場で一番中立な立場に立ち、保護者の立場として生徒達の間違いを間違いと認めさせて、正しい方向へ導かなければならない人は誰だったのか」
「なるほど」
白石さんは納得したように頷いていた。
「先生。須藤先生ね」
「そういうこと」
つまり、あの場で僕が一番怒るべき相手は、須藤先生だったわけだ。まあ生徒達が揉めているにも関わらず居眠りかまして、タイミングよく起きたら全員を叱って部屋から追い出しただなんて、まともな神経じゃ成せることではない。
「でも……難しいわね。須藤先生が今年の生徒会顧問なことはこれから覆せないわよ」
「そうだね。それでも手はあるよ。例えば今回のように部活動を相手にする会議なら、部長プラスで顧問も呼べばいい」
「来てくれるかしら」
「須藤先生の怠慢っぷりを知らせれば簡単に来てくれると思うけどね。あの人やる気ないみたいだし」
いつかの横断歩道の件といい、今回の件といい、多分須藤先生には教師としての熱意というか、責任感が欠けているように思えた。こういっちゃ何だが、仕事による対価を得ている以上、最低限の責任は果たすべきだ。今のあの人では職務怠慢と言われても文句は言えまい。
「そう……。でもそうなると、ごめんなさい」
「何が?」
突然謝る白石さんに、今度は僕が目を丸くしていた。
「あの場で野球部部長に歯向かって否定を続けるだなんて、あなたの評価が下がってもなんら不思議じゃないじゃない。あなたには泥を被ってもらってしまった」
ああ、そういう。
まあいいさ。それは僕も知っていて、わかった上で泥を被ったのだから。
……ただ、多分白石さんはこういうことを言うと怒るだろうなあ。なんだかんだ長い付き合いだからわかる。
何度も白石さんに怒られてきたから、わかる。
彼女が一番嫌うこと。
それは彼女をからかうことでもなければ、素行不良な態度を見せることでもない。
僕が自分をないがしろにすることだ。
いつかは他人なんて信用出来ないとまで言っていたのに、随分と人が変わったものだ。
そして、彼女と接して僕の心にも、感情にも変化が生じてきている。
この溢れる思いは、多分元の体の時の僕では一生得られることはなかった思いだっただろう。こんな青二才で、照れ臭くなる感情を抱かせてくれたのは、他でもない彼女、白石さんだ。
「君は良い人だね」
だから僕は、素直にそう言った。
「え?」
「君を好きになれて良かった。だから、ずっと僕の傍にいてよ」
途端、白石さんの顔が茹蛸のように真っ赤に染まった。どうしたというのだ。
「だ、大丈夫?」
湯あたりしたように目を回す彼女を介抱していたら、校舎が少しづつ騒がしくなってきていた。そろそろ授業も始まるようだ。