3.1
この国は若き皇帝陛下によって統治されています。
先帝である父君がお亡くなりになり、若干十五歳で急遽帝位を継がれた皇帝陛下は、以来五年、その天性の手腕によってこの国をまとめられています。
統治者としての才覚のみならず、天によって万物を与えられた稀有なお人――それが皇帝陛下という方なのでございます。その気質も物腰も――外見も何もかも、人を惹きつける天性の魅力を有する素晴らしい方なのでございます。
そのため、若き女性のみならず、老いも若きも、国民の誰もが皇帝陛下に敬愛の念を抱いておりました。
ですがただ一つ、国民の多くが不思議に……いえ、不満に思っていることがありました。
それは皇帝陛下がいまだ妃を娶ろうとしないことでした。
ですが国民は知らなかったのです。
皇帝陛下には長年想いを寄せていた女性がいることを――。
最近、その女性とようやく両想いになったばかりだということを。
その女性とはついこの間初めてキスしたばかりで、つまりは相当な奥手だということを。
そして一つの未来を決断したことを――。
◇◇◇
その皇帝は今宵もひたすら激務をこなしていた。朝から晩まで働きづくめなのは、根が真面目で、任や義務に忠実で、かつ己がなすことに慎重な性格の所以だ。どの特性も国の大事を司るにふさわしいものなのだろうが、当の本人にとっては難儀なこと、このうえない。
それでも、若くして皇帝となったがゆえに、彼は常に己を叱咤し研鑽する日々を過ごしていた。綱渡りのような心境、そうたとえれば彼の内面を理解しやすいかもしれない。しかし、彼は公の場では皇家の人間特有の微笑みを欠くことはなかった。水面に浮かぶ白鳥の優雅さや華やかさを知る者は多くいても、水中でばたばたと動く足を知る者はごく限られた者だけなのである。
そんな彼が突然筆を止め、机の上に置き、
「アラン、困ったことがあるんだが」
などと悩まし気に言い出したものだから、若き騎士アランはおやと思った。
「どうかなされましたか、陛下。……いえ、ハリー様」
今は皇帝と臣下という関係だが、ハリーとアランは学友同士だった。二人きりの時にはこうして名で呼び合う程度には、今も心が通じている。そう、ソフィー以外にも皇帝の名を呼ぶ者はいて、アランはその数少ない人間の一人なのだ。まあ、だからこそ、この年齢で皇帝付の騎士などという破格の地位を得ているわけで。
すると皇帝――ハリーが突如その麗しい顔を机に伏せ、目にも眩しいブロンドの頭を抱えだした。
「どどど、どうされたのですかっ?」
「……かわいすぎるんだ」
「は?」
「ソフィーがかわいすぎるんだよ」
「ソフィー? ああ、あなたの想い人のソフィーのことですね」
アランはハリーを介してソフィーと知り合っていて、その当時から二人が両片想いにあることを見抜いていた。
「ハリー様は本当にソフィーのことをお気に入りですね」
やれやれと眉を八の字にしたアランのことを、ハリーがきっと睨みつけた。
「お気に入りじゃない」
この話は執務を終えたハリーがプライベートルームに戻っても続いた。
「僕はソフィーを心から愛しているんだ。お気に入りだなんて、玩具に対して言うような言葉は不適切だろう」
この部屋までの護衛が終わればお役御免、今日の任務は終了のはずが、アランは帰ることもできずに話に付き合っている。実はこういうことはしばしばあって、ハリーがすっきりするまでは話をさせてやる方がいいことを、アランは経験上知っていた。
「失礼しました」
「うん、分かればいい」
「そういえば。ハリー様は彼女と想いが通じ合ってからもう四か月がたつんですね」
もう、というところに言外に嫌みを込めてみたものの、ハリーにまたも睨みつけられる結果となってしまった。
「もう四か月じゃない。まだ三か月と二十六日だ」
まったく、ソフィーのこととなると面倒な人間になるな、と内心思いつつ、「そうでした。まだ三か月と二十六日でした」と素直に訂正すると、これにハリーが満足気にうなずいた。
「僕のプリンセスは出会った頃から光り輝いていたけれど、その愛らしさと美しさは年々磨きがかかっている。とくにこの頃のソフィーときたら! もう眩しすぎて直視できないくらいだよ!」
お前もそう思うだろう、と目線で問われ、アランは苦笑いを浮かべつつ首肯した。
「ですね。確かにソフィーはきれいになりました」
たまに見かける姿は、着飾ってなどいないのに凛とした美しさを纏っていて、さすがは皇帝陛下がその御心を寄せる女性なだけはある、と都度分析してしまう。出会った頃はもっと野暮ったい感じの少女だったのだが、時の流れと恋心とは……恐ろしいものだ。
「だろう? ソフィーは天使か女神なんだろうって本気で疑う時があるよ」
アランは嬉々と語るハリーからそっと目を逸らした。
あなたの方がよっぽど眩しいですよ、と思いながら。
人並みの経験をしてきたアランには、恋に盲目になれる幼馴染のほうこそ眩しく感じられるのだ。自分はとうに失ってしまった純粋さやひたむきさ……同性であり同い年であり、青春のひとときを共に過ごした友であるからこその――複雑な感情。
アランが動かした目線の先、チェストの上には見慣れた二体のうさぎのぬいぐるみがあった。この二体はアランの知る限りいつもここに置いてある。それがハリーの母が手ずから縫った大切なものであることをアランは重々承知している。だから一目見てすぐに気がついた。
「あれ。ベンジャミンの耳、片方曲がってしまったんですね」
あんなにピンと立っていたのに。
それにピーターの背中の縫い目が少しほつれていることにも気がついた。
「あー……それは、な」
口ごもるハリーは珍しく、察したアランはそれとなく話題を元に戻した。
「で、ソフィーがかわいすぎて直視できなくて大変だと、そういうことですか?」
「あ、ああ。そうなんだ。どうすればいいんだろうね」
真剣な面持ちでうなずかれ、アランはやれやれと肩をすくめてみせた。
「だったら目をつむっていればいいじゃないですか」
「なるほど。では今度試してみることにするよ」
ハリーが至極真面目にうなずいてみせた。
*
ああもう、茶番は勝手にやってろ。
こっちはそれどころじゃないんだよ。
ベンジャミンがしくしくと泣いている。
いや、ぬいぐるみだから実際には泣くことはないんだけど、そういう悲しみに包まれた心の波動は伝わってくるわけで。
『……ベンジャミン、泣くなよ』
『泣きたい気分なんだ。放っておいてくれないか』
昨夜からこんな状態がずっとつづいている。
だけど腫れ物に触るかのように接するのにもいい加減限界がきているわけで……。
『耳が折れてもお前はお前だ。だろう?』
綿しかつまっていない頭でようやくひらめいたなぐさめの言葉、それを嘆く友にかけたところ、
『はあ?』
当の友、もとい腐れ縁からはいらっとする応答がかえってきた。
『耳なんてどうでもいいよ』
『はあ? じゃあなんで昨夜からずっと泣いてるんだよ』
これにベンジャミンが見下すような視線を送ってきた。
『また二人のいいところを見逃したからに決まってるじゃないか』
『二人のいいところ……って、ああ、あれか。昨夜のあれのことな』
ハリーとソフィーの修羅場からの大どんでん返しのことだ。
『……ピーターはしっかり見たんだよね』
『そりゃあ見たよ。目の前でやられてたんだぜ?』
これに、限界まで膨らませた風船がぱんっとはじけるように、ベンジャミンがわあわあ叫び出した。
『なんでピーターばっかり! 僕だって見たかった! ハリーがソフィーを押し倒しているところ! ぶちゅーっとしているところ!』
『あのなあ。俺は肝を冷やしながら見ていたんだぜ』
ぬいぐるみには肝はないが、このたとえこそがぴったりと当てはまる――昨夜はそういう出来事のオンパレードだった。
『ものすごく怖かったんだぜ。ハリーがあんなに怒ったところは初めて見たし、あんなふうに俺達やソフィーを乱暴に扱ったこともなかったからさ』
その後、二人は和解したけれど――もう二度とあんなことは起こってほしくない。
『ソフィーが悪いんだぜ。ハリーと別れた方がいい、なんて言うからさ』
思わずソフィーにケチをつけると、
『でもそれはソフィーの立場なら仕方ないよ』
だって一般人だもんね、と続けたベンジャミンの声がやけに冷たく聴こえて、言い出しっぺのくせになぜかかちんときた。
『ソフィーはいい子だ! それにメアリーだって一般人だったじゃないか!』
俺達を作った人間、メアリーは城付きのお針子の一人だった。つまりはただの雑用要員だったんだ。それが時の皇子に見初められて結婚し、皇妃となったわけである。すごいだろ?
俺達を作っている間、メアリーは本当に幸せそうだった。日々膨らんでいくお腹をなでながら、丁寧に布を裁ち、針を刺し、綿をつめ――そしてハリーを産んだ。それから十日後には亡くなってしまったけれど、俺達を作っている時のメアリーはいつも笑顔を浮かべていた。
その隣にはメアリーと同じくらいにこやかにほほ笑むオリヴァー――ハリーの父親もいて、オリヴァーも心底幸せそうに微笑んでいたんだ。
絵に描いたような幸せなひとときがそこにはあったんだ。
『ハリーが幸せになるためには絶対にソフィーが必要なんだ。それくらいお前だって分かっているだろう、ベンジャミン?』
『……だね』
しぶしぶうなずいたのは、こいつだってハリーとソフィーの幸福を願っているからだ。きっと内心、嫌なことを言っちゃったな、と自己嫌悪にひたっているはずだから、
『まあまあ。それはそうとして』
話題を変えてやることにした。
『なんか背中がすーすーするんだけど、俺、変じゃね?』
『あ、ピーターの背中、縫い目がほつれてるよ』
『なにい?』
『白い綿が見えてる』
『ななな、なんだと?』
せっかくメアリーが詰めてくれた綿なのに。
『あれ? なんか奥が光った。ね、ピーター。縫い目の奥に何かあるよ。銀色の何かが』
『あ、これか?』
俺は少しばかり自慢したくなって胸を張ってみせた。いや、そんな雰囲気を醸し出してみたってだけなんだけど。
『これ、婚約指輪なんだぜ』
『婚約指輪?』
『その昔、メアリーがオリヴァーからもらった指輪だよ。懐かしいなあ、メアリーが入れたいって言い出してさ、オリヴァーが止める間もなく詰め込んで、さっさと背中を縫い上げちまったんだ』
言い出したら意外に頑固な奴だったんだよな、と遠い目になりかける。
そんな俺のことを現実に引き戻したのは、ベンジャミンの恨みがましい声だった。
『……僕にはそんなもの入ってない』
『そうなのか?』
『だって僕の体、軽いもん』
『ああ、だからお前、すぐに落っこちたり遠くに吹き飛ばされちゃうのか。おっと、アランがまたこっちに来たぞ』
ずっと向こうでハリーと話し込んでいたアランが、俺達に向かって歩いてくる。
後半は夜に公開します♪




