2.2
*
疾風が走ったのかと――その瞬間、勘違いしたほどだった。
『うわあっ』
『ぎゃああっ』
信じられねえ。
投げ捨てられた。
俺達、投げ捨てられちまった。
こんなぞんざいな扱い、初めて受けた。
母親の形見である俺達を――ハリーが掴むや、ソファーに投げつけたのである。
いつからいたのか、まったく気づいていなかった。
床じゃなくてよかったけれど、驚きとショックで俺の思考はしばし停止した。しかも顔面からソファーにダイブしてしまって状況がまったく分からない。
ベンジャミンの奴も似たような状況に陥っているのが遠目でも分かった。でもあっちはソファーどころか遠く壁際まで飛んでしまっている。足が天井に向かって突き出され、顔があらぬ向きに曲がってしまっている様は何ともむごい。生物なら即死だ。ベンジャミンご自慢のつんと立った耳も、片方がぽっきりと折れ曲がってしまっている。
――ハリー様?!
叫び声をあげるとほぼ同時に、俺の隣にソフィーが背中から倒れ込んできた。いや、違う。これまたハリーのなしたことだ。仰向けで倒れたソフィーに、すかさずハリーが膝立ちでまたがってくる。勢いと重みでソファーがぐうっと沈んだ。
これにより俺の体勢がうまいこと変わって、ようやく事の次第が分かった。
覆いかぶさるハリーはなぜか激昂していた。
元から顔がいい分、めったに見せない怒りの表情は恐ろしいほどに冴え冴えとしている。
逆にハリーを見上げるソフィーは青ざめ、怯えている。
もうこれは犯罪一歩手前の状況だ。
このままではソフィーが殴られる、いや貞操が危ない……などと様々な結末を推測してしまうほどにまずい状況だ。
しかしぬいぐるみにできることなど何一つない。中身は綿だというのに冷や汗が出てきそうだ。
と、その時。
ハリーの顔がくしゃっと歪んだ。
と思ったら――瞳を潤ませた。
*
「……どうしてそんなことを言うんだ?」
ぽたん、と一粒の涙がソフィーの頬に落ちた。
「僕はこんなにもソフィーのことが好きなのに。ソフィーだって僕のことを好きだって言ってくれていただろう。あれは嘘だったのか? 昨日だってたくさんキスをしたじゃないか。この唇でたくさんキスをしたじゃないか……」
ハリーの親指の腹が、ソフィーの唇の上をじんわりとなぞっていく。
指には相当に力が込められているようで、さくらんぼみたいな唇がはじけそうになっている。
痛みに顔をしかめながらも、ソフィーが何かを言おうとした。
だがその前に――。
唇が唇でもって塞がれた。
乱暴なキスだ。
いつもと全然違うキスだ。
昨日までのキスはもっと優しいものだった。ちゅっと、かわいらしい音を立ててちょっと触れるだけのキスだった。甘くてとろけて、自然と笑顔になれるキスだった。
だがこのキスは違う。ソフィーの意思などお構いなしだし全く甘くない。痛みすらある。息ができない。けれどソフィーの耳元、両サイドに手をつくハリーは、一瞬たりとてキスをゆるめる気はないようだった。
ソファーに付くハリーの手は、気づけば肘まで使って持ち主の体重を支えている。その結果、二人の距離はより近づき、キスはより深められていった。
こんなキス、知らない。
こんなハリー様も――知らない。
突然のことにソフィーはなすがままだ。
その膝はいつの間にか割られていて、踝まであるロングスカートは膝の上までめくれている。
むき出しのふくらはぎに意識がいった途端、
「やっ……!」
身をよじり抵抗したソフィーの両手を、ハリーが指を絡めて押さえつけてきた。
「僕を拒むな……!」
びくり、とソフィーの体が震えた。
と、激情にかられていたハリーの美麗な顔がくしゃっと歪んだ。叱られた直後の子供のように、くしゃっと。
「僕のこと……拒まないで」
あまりに悲痛な面持ちで訴えられ――ソフィーは抵抗する気力も、言葉も、なにもかもを失った。
*
ハリーのこういう表情に俺は見覚えがある。
それはハリーが母親恋しさに泣いていた頃のことであり、父親を失った直後のことだ。
俺もベンジャミンも、ハリーのこういう顔を幾度も見ている。
そのたびに思ったことは「もうこんな顔はしてほしくない」ってことだった。
だからソフィーが初めてこの部屋にやって来た時のことはよく覚えている。
父親でも臣下でもメイドでもない他人がこの部屋に来たことが嬉しかったんだ。しかもハリーに初めてできた友達……しかも初恋だったから、余計に。
ハリーは俺達のことをソフィーに紹介してくれた。母上が僕のために縫ってくれた友達なんだよって。こっちの両耳がだらんと垂れたブラウンのうさぎがピーター、こっちの両耳がぴんと立っている灰色がかったうさぎがベンジャミンだよ……って。
やや緊張気味だったソフィーが、その時ようやく笑顔になったことも覚えている。
『とっても優しそうなうさぎ君達だね。ね、私ともお友達になってくれる?』
とてもかわいらしい女の子だなって、思ったんだ。
*
「僕がソフィーにふさわしい男ではないことは分かっている」
ぽたん、ぽたんと、ハリーの瞳からこらえきれない涙が零れ落ちていく。
「十年以上告白できなかった甲斐性なしだし、せっかく恋人になってもらえたけれど君とのことはまだ公にできていないし……。普通の人のように一緒にでかけることもできないし、気兼ねなく会えるのはこの部屋の中だけで、しかも夜だけだ。……ソフィーに嫌な思いをさせてばかりだってことは分かってるんだ」
何か言いかけたソフィーだったが、それよりも早くハリーが口を開いた。
「そうだね。僕の方から君を解放してやるべきだったんだ。ごめんね、気づいてやれなくて」
ふいにハリーがソフィーの上から離れ、背を向けた。
「ひどいことをしてごめん。君はもう自由だ」
「どういう……ことですか?」
問うたソフィーの言葉にかぶせるように、
「でも覚えていて。僕が君を好きだったってことを」
そう告げた途端、ハリーの背が震えた。
あれほど猛々しいキスをした男と同一人物とは思えないほど、一瞬だけ、か弱く震えた。
「もうこれほどまでに好きになれる人はいないと思うし、すぐに忘れることなんてできないだろうけど……でも君のためにもこの気持ちに整理をつけるから。だから君は幸せになって――ソフィー?!」
背後からぶつかるように抱きしめられ、驚きにハリーが身をよじると、ソフィーが背に顔をうずめていた。きつくハリーのことを抱きしめながら、ソフィーがくもぐった声で――泣きそうな声で言った。
「私……なんです」
その背中に温かな吐息がしみこんでいく――。
「ハリー様にふわさしくないのは……私の方なんです」
「何を言ってるんだい、ソフィー」
無理やり振り向き、顔をあげるように何度か促すと、
「……ソフィー?」
ソフィーは晴天を思わせるスカイブルーの瞳を涙で暗く陰らせていた。
「どうして……? どうして君がそんなふうに泣くんだ」
まるで自分こそが……ソフィーこそが悪いことをした張本人かのように――。
「ハリー様。私の話を聞いてくださいますか」
「あ、ああ」
ためらいながらもうなずいたハリーに、ソフィーが決意を秘めて口を開いた。
「私はただの庶民で、ハリー様のお役に立てなくて……。でもハリー様のことが好きなんです。とてもとても……心から好きなんです。昔も今も、ハリー様のことだけをお慕いしているんです。……でもハリー様は、いつか素敵なお妃様をお迎えになるんですよね。……分かっています。だからこの恋は秘密にしなくてはいけなくて、その時が来たら身を引かなくてはいけないことも……よく分かっているんです」
「ソフィー?!」
「でも……!」
普段控えめなソフィーにしては強い口調に、ハリーは何か言いかけたものの押し黙った。
「でもハリー様が望んでくださる間はおそばにいさせてください! ずっとなんて言いません。別れの時は潔く消えます。泣いて困らせたりなんてしませんから、だから……!」
「ああ……ソフィー!」
ハリーがソフィーを抱きしめた。
思わずといった感じで、抱えるように胸の内へと引き寄せていく。
その俊敏な動作とは裏腹に、ソフィーに触れる際の動作は繊細なレースを扱うかのように優しかった。見下ろすハリーの紺青の瞳は緩やかな弧を描いており、あれほどの怒気は跡形なく消えている。
「僕のプリンセス……。そんなに僕のことが好きなんだね……!」
艶を取り戻した魅惑的な声音には、はじけそうなほどの喜びが含まれていた。
「好きです! 私が好きなのはハリー様ただお一人で……え?」
熱く語っていたソフィーは、そこでようやくハリーの変化に気がついた。
「え……?」
「もっと言ってごらん。僕のことを好きだって。さあ」
いたずらっぽい目で促され、自分がものすごい発言をしてしまったことに気づくや、
「……いやああっ!」
ソフィーが両手で顔を隠そうとした。だがハリーによってその手は取り除かれた。両手を握りしめ、いやいやする恋人の顔を覗き込むと、
「もっと言ってよ、僕のプリンセス。何度でも言って。じゃないと」
ハリーがさらに距離を縮めてきた。
「もっとすごいキスをするよ」
鼻の先と先が触れそうなほどに近づいている。
これにソフィーが視線を落とした。
「ね、もう一度好きって言ってほしいな。僕の……僕だけのプリンセス」
追い打ちをかけるように言い募ると、ソフィーが耳まで真っ赤にしながらつぶやいた。
「……言いません」
その様子に、さすがにいたずらが過ぎたかと、ハリーが断腸の思いで離れかけた――その時。
「言わなければもっとキスをしてくださるんですよね? だったら……言いません」
愛しい女性に涙目で上目遣いで見つめられ、ハリーは本日二度目の理性を失った。
大変なことになったピーターとベンジャミンのその後は、明日公開する第三章で確認してあげてくださいね^^




