2.1
この国は若き皇帝陛下によって統治されています。
先帝である父君がお亡くなりになり、若干十五歳で急遽帝位を継がれた皇帝陛下は、以来五年、その天性の手腕によってこの国をまとめられています。
統治者としての才覚のみならず、天によって万物を与えられた稀有なお人――それが皇帝陛下という方なのでございます。その気質も物腰も――外見も何もかも、人を惹きつける天性の魅力を有する素晴らしい方なのでございます。
そのため、若き女性のみならず、老いも若きも、男も女も、国民の誰もが皇帝陛下に敬愛の念を抱いておりました。
ですがただ一つ、国民の多くが不思議に……いえ、不満に思っていることがありました。
それは皇帝陛下がいまだ妃を娶ろうとしないことでした。
ですが国民は知らなかったのです。
皇帝陛下には長年想いを寄せている女性がいることを――。
最近、その女性とようやく両想いになったばかりだということを。
その女性とはついこの間初めてキスしたばかりで、つまりは相当な奥手だということを。
◇◇◇
『くやしいなあ』
あれからベンジャミンはぐちばかり呟いている。
『ファーストキスの瞬間、見たかったのにさ』
正直うるさくて仕方がない。
毎日この部屋はメイドによって掃除されているのだが、チェストの埃をはたく際には俺達ぬいぐるみは必ず移動させられている。でもって二人がキスした日は、ベンジャミンの置き方がいまいち悪かった。つまり何が言いたいかというと、ベンジャミンはあの日、ちょうどこれからってタイミングで偶然チェストから落ちてしまったのだ。
で、ハリーとソフィーがキスをする瞬間を見逃してしまったというわけ。
『まあいいじゃないか。あれから二人はほら、あのとおりだしな』
俺達の前では、さっきから当の二人がキスをしている。ちゅっちゅ、ちゅっちゅと飽きることなく唇を合わせている。
一度『初めて』の壁を乗り越えてしまえば、そこは両想い同士――それ以来、二人は毎晩キスをしている。呼吸をするかのように、それこそ自然に。
綿菓子のような、甘いけれどどこか淡い雰囲気に包まれていた二人――でも今は極甘の生クリームでこってりとデコレーションされたケーキみたいだ。はい、ご馳走様。
『初めての瞬間を見たかったんだよお』
いつまでもぐじぐじと言うベンジャミンを見かねて、
『まだ他にも初めてのことはたくさんあるじゃないか』
と言ってみたら、この灰色うさぎ、思ったよりも食いついてきやがった。
『たとえば?』
『ああ、うん』
若干引き気味で二人の方を見るように促す。
『あいつら、キスするたびに赤くなってるだろ?』
『だね』
『だったらまだまだ観察のしがいはあるんじゃないか? もっとすごいキスをするところとかさ』
二人の行為は初心者の域を脱していない。
いや、俺達ぬいぐるみなんて、初心者どころか恋に関しては経験値ゼロだ。ぬいぐるみは恋なんてしない。
でも分かる。そういうものなのだ。
『早くぶちゅーっとすればいいのにね』
ベンジャミンのボタンでできた目が鈍く光ったような……気がした。
『お前の言うことには一理あるけどよ。まあ落ち着けって』
俺だって二人がぶちゅーっとするところを見たいよ。ちゅっちゅ、ちゅっちゅなんて軽いのじゃなくて、ぶちゅーっていうのを。
俺達はこの初心な二人のことを随分昔から知っている。ハリーとはハリーが生まれた時からの付き合いだし、ソフィーのこともソフィーが八歳の頃から知っている。だから二人に対して親のような、兄貴のような近しい感情を覚えていてもおかしくないだろう?
でもそれだけじゃなくて、ミーハーな感情も抱いてしまっているんだ。隣の灰色うさぎの影響もあるんだろうけど、この国随一の恋人のホップステップ的なことを、つぶさに観察したいと思ってしまっている。
*
「……はああっ」
唇が離れた瞬間、深く息を吐いたソフィーにハリーが慌てた。
「ごめん、苦しかった?」
「いいえ。違いますっ」
恋人以上に慌てた様子でソフィーが首を振る。
「た、確かにどうやって呼吸をすればいいか分からなくなる時もありますけど……でもそれ以上に胸が苦しくなるんです。唇が触れるたびに、こう……きゅうって」
胸の前で小さく手を握りしめたソフィーのことを、ハリーが思わず抱きしめた。
「ああもう! ソフィーがかわいすぎて辛いよ」
ソフィーの頭頂部に頬を寄せ、すりすりとしてみせる様は恋人を溺愛するただの男でしかない。ちょっと頬が赤らんでいるところなど、少年のようでもある。初恋を大切に守り続け実らせるような男だ、仕方ない一面もあろうが……こんなところ国民の前では絶対に見せられない。
そんなハリーの背中に、ソフィーの両手がおずおずと回った。
「私も……」
「なんだい?」
「ハリー様が素敵すぎて……辛いです」
「ソフィー……!」
感極まった様子で愛する女性を抱きしめなおしたハリーは、まさに幸せの絶頂にいた。
*
『……あれ?』
『なんだよ』
『ちょっとソフィーの様子、おかしくないか』
ベンジャミンに言われてよくよく見ると、ハリーの腕の中、くるんとした髪に隠れて見えにくいけれど、確かにソフィーの表情は陰っていた。
『もう夜も遅いし眠いんじゃないか』
ハリーが執務を終えてから始まるアバンチュールだから、ソフィーにとって負担になっているのかもしれないと思ったのだが、
『ピーターは馬鹿だね』
と、一笑に付されてしまった。
『馬鹿あ? おれは馬でも鹿でもない。うさぎだ』
知性のあるところを示さんと凝った返しをしてみたら、
『そういうの、今どうでもいいから』
あっさりと切り捨てられてしまった。
『何か悩み事があるんじゃないかな』
『悩み? ソフィーは長年好きだった男とつきあっているんだぞ。しかも相手はこの国の皇帝でイケメンときた。十分幸せだろう?』
『幸せだったらあんな顔はしない』
ベンジャミンがしつこく言うものだから、俺としても気になりだしたのだが……その理由は三日とたたずに判明した。
いつものようにソフィーが先に一人でこの部屋へとやって来た時のことだ。ソフィーはオルガンを弾いたり本を読んだりしながらハリーを待つのが常なのだが、この日は違った。
チェストに置かれた俺とベンジャミンを手に取ると、ソファーに座って膝の上に載せ、急にぽつぽつと語り出したのである。
*
ハリーの大切にしているうさぎのぬいぐるみ、その黒いボタンの瞳を見つめていたら、ソフィーは誰にも言えない今の心境をなぜか言葉に出していた。
「……もうどうしたらいいかわからないよ」
二体のぬいぐるみは、両耳がだらんと垂れたブラウンの方をピーター、両耳がピンと立ってグレーがかった方をベンジャミンという。名付け親はハリーの母親、つまり前代の皇妃だ。ハリーを懐妊中に手ずから縫った、ハリーへの初めてのプレゼントであり……最後のプレゼントである。
「ね、うさぎ君たちはどう思う?」
当然、ぬいぐるみは何ら反応しない。
それでもソフィーは語ることをやめられなかった。
「私……すごく怖いの」
他の誰にも相談できないことだからこそ、一度漏れ出た不安は留まることを知らなかった。
「ハリー様のような方と親しくなれただけでも恐れ多いことなのに、同じ想いを抱くことができて、お付き合いをするようになって……幸せなはずなのに……なのに怖くて……」
そう、この実ったばかりの恋が、ソフィーは怖くて仕方がなかったのである。
なぜなら、ハリーはただの幼馴染ではない。この国を統べる皇帝であり、全国民の敬愛、注目を一身に集める存在だからだ。
皇帝となった彼はいろんな意味で変わった。変わらざるを得なかったのだろうし、変わることを本人も望んでいたのだろうけれど……変わった。
城内でたまに見かけるハリーはいつも誰かにかしずかれている。身にまとう衣装や装飾品が理由ではなく、放つオーラは唯人ではない。どれほど愛しくても、遠く眩しい世界に住んでいる人なのだと都度実感させられる。この部屋以外では今や目を合わせることすらできない……。
街を歩けばハリーの姿絵を至る所で見かける。誰もがハリーを応援し、かつ尊敬している。年頃の同性がハリーについて熱っぽく語る場面に遭遇することもしょっちゅうだ。ハリーが皇帝になってからは、その頻度は一桁増したといっても過言ではない。
今やハリーはソフィーにとってもっとも遠い男性となっていた。――たとえ恋人だとしても。
恋心という素晴らしい共通点があろうとも、それ以外では相違点ばかりの、恋人。平凡な自分と完璧な皇帝との間に立ち塞がる、目に見えないが確実に存在する壁。
「好きってだけでうまくいけばいいのにね。……皇妃様はどのような思いで皇家に嫁いだのかしら」
ぬいぐるみを見つめていたら、自然とそちら方面へと思考がうつっていった。
「ハリー様のことは好き。すごく好き。それだけじゃいけないってことは分かってるんだけど……でもそばにいたくて」
国民の多くが皇帝であるハリーに早く結婚してもらいたいと願っていることを、ソフィーもまたよく知っていた。それはもちろん、自慢の皇帝陛下の隣に素晴らしい皇妃様が並ぶところを見てみたいからだ。
ただし――それはトロフィー的な意味合いではなく、純粋にハリーに幸せになってもらいたいから。
ハリーは生まれてすぐに母を亡くしている。そして五年前に最後の肉親である父をも失った。いまや彼は天涯孤独の身であった――たとえ天賦の才に恵まれた皇帝だとしても、だ。
「私もハリー様には幸せになってもらいたい。もっと幸せになってもらいたいの。でも私にはそんな力も権力も財産も、なにもないから……」
裕福な家の生まれでも貴族でもない。他国の姫でもない。ちょっとオルガンを弾けるだけの、とりたてて取柄もない一般人は――あの素晴らしい皇帝陛下の妃にはふさわしくないから。だから……。
「……ハリー様とはもうお別れした方がいいよね」
これ以上別れがたくなる前に――。
でも好きで好きで――心から好きで。
「ね、うさぎ君達はどう思う?」
ソフィーがそのスカイブルーの瞳で二体のぬいぐるみをじっと見つめた。
後半は本日夕方か夜に公開します!
ちょっと重めの内容になりましたが後半は一章のようにキュンが得られる…はず^^;