1.2
やがてお茶を飲み終えると――その間、こいつら二人はわざわざ真向いのソファーに座ってほのぼのとした会話をしていただけだった――ふいにハリーがソフィーの隣へと移動した。
――どうしたんですか?
『おっ!』
ハリーはあらぬ方向を見ながらだったが、どうにかソフィーの肩を抱き寄せることに成功した。おお、珍しく行動的じゃないか。いいぞ、いいぞ。
――ハリー様?
――……キス、していいかな?
『なんだってわざわざ確認するかなあ。そこは黙ってぶちゅっとしろよな』
『うるさい、ピーター。今いいところなんだから黙ってくれない?』
普段はクールぶってるが、ベンジャミンが恋愛シチュが大好物なことを俺は知っている。だから素直に口を閉ざした。ていうか、俺もこの状況を満喫したい。ようやくこのもだもだした二人がキスをしようとしているんだ。
ソフィーは耳まで真っ赤になり、しばらくもじもじとしていたが、やがてハリーを上目遣いに見上げてこくりとうなずいた。
それに、ハリーもつられて赤面した。内心、ソフィーの愛らしさに身もだえしているんだろう。ぷぷ、相変わらず初心な奴。だが腐っても皇帝なんだな、有言実行とばかりにソフィーの両肩に手を添えた。
それを合図に、ソフィーがぎゅっと目をつむった。
その表情をしばし見つめるハリーの心境もまた手に取るように分かる。こっちはハリーが赤ん坊の時から付き合っているんだ。まず間違いなく、ソフィーのかわいらしさにまいっているね。案の定、ハリーは目元を手で押さえて、しばしの間天を仰いでいた。
じっと目をつむるソフィーの唇は、待ち人の訪れを前にふるふると震えている。もぎとる直前のさくらんぼみたいに瑞々しく艶めいている。
その唇にあらためて見入ってしまっていたハリーだったが、やがてはっとした表情になると頭を小さく振り、唾を飲み込んだ。
――じゃあ……キス、するね。
こくん、とソフィーが目をつむったままでうなずいた。
『ああもう、じれったいなあ!』
『しいっ』
ようやくハリーが動き出した。
ハリーの顔が――唇が、まだ誰にも味見されたことのない果実へと近づいていく。
俺達ぬいぐるみに凝視されているとも知らず、二十歳にもなった成人男女がファーストキスをしようとしている。
もうちょっと……もうちょっとだ。
手に汗握るというたとえはこういう時に使うのだろう。俺達ぬいぐるみには無縁の表現だが。
あと少し、あと少しで……。
と、その時。
ベンジャミンが落ちた。
文字通り、チェストの上から真っ逆さまに落ちたのである。
緊張の糸が張り巡らされた室内に、ぽてん、と乾いた音がやけに間抜けに響いた。
*
その音を耳にして、ソフィーは反射的に目を開けてしまった。
うるさいほどに高鳴りつづけている心臓の音をかき分けるかのように、ぽてん、という音が耳にまっすぐに届いてきて、思わず目を開けてしまったのである。
そこには目を閉じたハリーの顔があり得ないほど迫っていた。
この国随一の皇帝、その麗しさが国外にまで響き渡る完璧な顔面が――。
「きゃあっ……!」
「ソフィー? あっ」
お互いがお互いを至近距離で見つめ合い、遅れてソフィーが離れようとした。
だがそれよりも先に――。
「待って」
ハリーの手に力が込められた。
「僕から離れようとしないで」
恥じらいにより顔を背けかけたソフィーだったが、かなわなかった。
ハリーの右手がとっさに頬へと添えられたからだ。
「で、でも……」
「でも?」
「恥ずかしい……です」
うつむきかけたソフィーだったが、それすらハリーはゆるさない。
もうこれ以上我慢することはできなかったのだ。こんなにもかわいらしく愛らしい恋人を目の前にして、キスをせずに一日を終えることなど、男としてできるわけがない。
頬に添えた手はもちろん、サファイヤを思わせる紺青の瞳もまた、恋に溺れる皇帝の願い、意志を高らかに告げるかのようだった。
対するソフィーはいつになく性急な恋人に戸惑っている。
いつものハリー様と違う、そうソフィーは思った。
違うのに……なぜか胸がときめく、とも。
「ソフィー。君のことが本当に好きだよ」
どきん、とソフィーの胸が強く高鳴った。
「ずっとずっと好きだったけれど……今の方がもっと好きだ。こんなに好きになってしまって大丈夫なのだろうかと思うくらいに君が好きだ」
「ハリー様……」
「君にキスしたいとずっと願ってきた。その唇を僕にゆるしてくれないか」
美貌の皇帝、そのきらきらと輝く紺青の瞳には、今は熱情と懇願の色が濃く映っている。他の誰も見たことのない、一人の男としての感情が映っている。
その美しさと強さの前で、ソフィーもとうとう素直になった……ならざるをえなかった。
さっきからずっと恥ずかしい。いたたまれない。けれど今は恋人のキスを受け入れたい、そう思ったのである。恋人のためにも……自分のためにも。
ソフィーは少し顎をあげると、もう一度目を閉じた。
ずっと頬に触れているハリーの手のひらは温かい。昔からハリーの手は温かった。
やがて、心ときめく初めての感触がソフィーの唇に舞い降りた。
それは天使の羽のような、ふわりと軽く、柔らかい――世界一素晴らしいファーストキスだった。




