にがくてあまい彼とのランデブー
平日は好き。休日はあまり好きじゃ無い。だって、学校がなくちゃあのひとに会えないでしょう。
背が高くって一重まぶたの鋭い眼。その癖笑うと目尻に皺が寄って冷たい雰囲気が霧散する一つ上の先輩。 私、一目見た時からああもうこれはだめだって思ったの。
出会いはありふれた日常に湧いて降ってくるものだ、文学部を出たという担任はよくそんな言葉を口にした。
ホームルームなんて眠くなるものだけれど何度も繰り返すものだから耳にたこが出来てしまった。
彼女はよくよく私たちにたくさん恋をしなさいと言っていたけれど運命的な出会いなどそうそう転がっているわけじゃない。
現実はおとぎ話やゲームみたいに甘くない。朗らかに語る彼女の話を夢見がちな少女だと内心笑いながら聞き流していた。
まさか自分自身にそんな奇跡みたいな出会いがあるわけない。けれどもまさかは、まさか起きたのである。
あの日はなぜか目覚ましが鳴らず寝坊した。慌てて制服に着替えご飯も食べずに飛び出した。
いつもは安全運転第一を掲げスピードを出さないでいたがそんなこと言っていられなかった。
始業まで後十分を切っている。ペダルを全速で漕ぎ角を曲がろうとした時だった。
突然ペダルが軽くなる。チェーンが外れてしまったと思った時にはあっという間にバランスを崩しアスファルトに投げ出された。
痛い。打ち付けた掌と膝は熱を帯びている。きっと擦り傷になっているだろう。もしかしたら靴下が破けているかも知れない。
血が苦手な私は怪我の具合を見るのが恐ろしく、態と目線を膝へと向けられずにいた。
遅刻をしないように急いでいたというのに、これじゃあ本末転倒だ。柄になく落ち込んでいた私は地べたに座り込んだまま、身を起こそうと考えられなかった。
「こんなことならご飯食べてくるべきだったな。チェーン外れたら間に合うはずないもん」
ひとりごちり、顔を上げると同じ学校の制服を着た男子生徒がゆうゆうと歩いていく。
遅刻を気にしないなんて剛毅だ、なんて思っていたのも束の間目と目が合った瞬間湧いて降りてきた。
一瞬が何時間にも思えるような、胸にすとんと落ちていくような感覚。疼くような泣き出したくなるような感情が身体全体を支配する。最早傷の痛みなど意識の外に飛んで行ってしまった。
「大丈夫?」
心配そうな表情を浮かべた男子生徒は転がったままの私に言う。けれども即座に反応出来なかった。
突然のことに皺の少ない脳みそが処理し切れず、うまく話せない。
へどもど言葉にならない声を発すると、彼は私が痛みから頭が回らないと思ったのだろう。
彼はゆっくりと近づいてきて血が滲んでいるだろう膝に目をやり、ポケットティッシュを差し出す。
呆然としていた私は漸く事態を把握し、すみませんと蚊の鳴くような声で謝った。
「とりあえず擦りむいてるから拭いて。学校まで十分も無いのだけど、歩けるかな?」
想像していたより高めの声が気遣いの色を帯びて尋ねてくる。
「擦り傷なんてしょっちゅうなので多分大丈夫です。すみません、ありがとうございます」
「それなら良かった。着いたら保健室行きなよ。それから自転車、チェーンが外れてるだけでよかったね。
これならすぐ直せるよ。流石にその足で乗ってくのは大変だろ。俺が引いてくよ」
「そんなご迷惑かけられないです。大丈夫です。私、結構頑丈なんです。生まれてこの方風邪も引いたこともないし、本当大丈夫ですから。気にせず行ってください」
要領を得ない返答をすると彼は先ほど見せた笑みから苦さを取り払った表情をし、それから軽く咳払いをする。
「元気なのは良いことだけど、怪我と病気じゃ全然違うでしょ。それに、これは俺のためでもあるんだ。
遅刻の説教、聞かずに済む。君を介抱してたって大義名分が出来るだろ」
そう言って彼は転がっていたままの自転車を脇に寄せ、チェーンの外れをあっという間に直してしまった。
いつも癇癪を起こしたくなるほど手こずるのに、とうやら私の自転車も彼の前ではお行儀良くしたいらしい。
持ち主と一緒だ、未だ高鳴って止まない胸に手を当てそんなことを思った。
風見と名乗った男子生徒は私の一つ上、先輩だった。道理で見つからない筈だ。
お礼という名目で面倒だという友人を連れて同学年のクラスを見て回ったが、彼と思わしき人物は見当たらなかった。
妄想、もしくは白昼夢かと思い始めた頃ばったり廊下で会ったのだ。自然、気分は浮上した。珍しく落ち込んでいた心が沸き立つのを感じる。
まさかは、やはりまさかだったのだ。胸の高鳴り、ずくりと胃がずくずくと疼く。
二度目の出会い。やっぱり思い違いじゃなかった。私は彼に恋をしたのだ。
「先輩、風見先輩」
「河瀬。おはよ。いつものごとく元気だな」
「おはようございます。先輩は眠そうですね。そういえば、この前教えてくれた漫画読みましたよ。
バッドエンドというか、マリーバッドエンドって食指が動かなかったんですけれど主人公に感情移入しちゃってこういう終わり方もありかなって思いました」
「メリーバッドエンドな。漫画読むより英語勉強した方が良いんじゃない? マリーじゃ全然意味が違って来ちゃうんだけど」
「言い間違いもありますって。細かいことは気にしちゃ駄目です。
そんなことより、今日購買でハバネロカレーパンが発売されるらしいですよ。もう絶対手になくちゃと思って。私、辛いものとか酸っぱいもの大好きなんです」
「露骨な話題変更だな。もうちょっとうまくやれよ」
呆れ顔して笑う先輩の顔。普段は目力も相まって近づき難い雰囲気を持つ彼だけれど笑顔は優しい。
私はその表情が見たくって、偶然を装い彼の教室のあるあたりの廊下をうろちょろして話しかける。
それは最早日課となっていた。聡い彼がこの行動に気付かない筈ないけれど、面と向かって問い質されたことは無いので気にしない。
面の皮が厚いとか無謀とか友人は呆れて言うけれど会う努力をしなければ折角膝小僧が身を呈して作った縁が切れてしまうのだ。
陰ながら思うなんて冗談じゃない。当たって砕けろとまでは行かないけれど行動で示さなければきっと終わってしまう。
そんなことになったら日毎大きくなっていく恋心が可哀想だ。猪突猛進大いに結構、完全に浮かれ切っていた。先輩の隣にある女の子が現れるまでは。
その人はまっすぐな黒い髪を持っていた。ぱっちりな二重と音が鳴りそうなまつ毛に縁取られた眼をぱちぱちさせ、やわらかな声で笑う。女性の可愛らしさを体現したような人だった。
先輩は私の前に彼女を連れてきて紹介した。その時纏っていた空気はいつもの冷ややかさでなく緩くて穏やかなものだった。
近くにいるとふわり漂う優しくて甘やかな匂い。途端、ここにいることが恥ずかしくなって泣きそうになった。
私は何にも持っていない。髪は首が露わになる程のショートカットだし、風呂から出ても面倒でドライヤーをしないこともある。
目はパッチリと程遠い奥二重だ。愛嬌があると言われても綺麗には程遠い。先輩の隣に立つには完全に不足していた。
しつこいくらい挨拶を繰り返して、食い下がって漸く笑顔を見せてくれるようになったのだ。
それなのに、彼女はいとも簡単もそこを飛び越えて先輩の隣にしっかりと馴染んでいる。
落ち着いていて穏やかで粗ひとつ見えない素敵な人。
そう思わなければならないのに、胸にどろどろした感情が溜まっていく。悔しくて情けなくて涙が溢れそうだった。
普段は煩いほどの口が回らないことに先輩も気づいたのだろう。訝しげに私の名前を呼ぶ。
私は貼り付けたような笑みを浮かべ、今にも爆発しそうな感情を必死に抑え込んだ。
「河瀬、どうしたの?」
心配そうな声色。初めて会った時から久しく聞いていなかった響きだ。意を決して先輩の目を見詰めた。
「風見先輩すみません。木部先輩もせっかくお話しできるのに。でも限界なんです。お昼に食べたハバネロのせいで、すみません。ちょっとトイレ行ってきます」
これ以上二人の近くに居たくなかった。腰を曲げて一礼してから我慢できない風を装って小走り気味に去る。
ちらりと振り返ると呆気に取られた木部先輩と怪訝そうな表情の先輩が滲んで見えた。
その日から私は先輩の姿を探すのをやめた。いや、止めたというのは正しく無い。自転車に乗っていても教室の窓から外を眺めていても無意識に彼を見つけようとしてしまう。
けれども、うろちょろしてダメージを喰らいたくなかった。トイレと称して空き教室に飛び込んだ私は近年稀に無いくらい涙を零した。
幼い頃、怪我や注射で泣き叫んだことは覚えているが声も無く音も無くただただ涙を流したのは初めてだった。
そもそもこちらが会おうとしなければ切れる関係なのだ。私が一方通行で先輩に運命を感じただけであって誰も悪くなかった。
単に当たる前に砕けてしまっただけだ。それなのに何故こんなにも苦しいのだろう。顔を合わせなければ鎮火していくものだと思った。
けれども実際は募るばかりで甘くて幸せだった恋心に苦味がブレンドされて膨れ上がっていく。
私は、好きなのだ。先輩をどうしようもなく思っているのだ。
木部先輩と張り合うつもりなんかないし、嫌な感情だって持ちたく無い。それでも初めて感じた恋情は大きくなるばかりだ。
ふうと一つため息を吐く。拠り所を無くした気持ちは抑えても抑えても溢れ出てきそうになる。
どうせなら思いを伝えて玉砕すれば盛大に落ち込むことが出来ただろうに。
可哀想な私の恋心。違う、きっと本当は怖かっただけなのだ。告白する勇気が持てなかった。情け無さにまた涙腺が刺激されて、視界がぼやける。
私の運命の恋は唐突に終わった。浮かれていた時の甘さと同量の苦みを残して。
先輩のところへ通わなくなってから数日が過ぎた。勿論音沙汰は無く、彼に取っては私が居ても居なくても何ら変わらないのだろうと思うときりりと胸が痛んだ。
日課であった先輩への突撃をいきなり止めた私に友人も察してくれていてその話題には触れられなかった。
正直言えばありがたい。元々根掘り葉掘り聞くタイプではなかったけれど、今冷静に話せるとは到底思えなかった。
当に涙なしでは語れない。変なプライドが顔を出して人前で泣くことはしたくなかった。
そんな折だ。妙なところで偶然が重なったのは。
私の学校は校則で必ず部活に入る必要があった。特段運動や何かに打ち込んでいなかった私は、名ばかりの古書研究部に所属していた。
活動と言っても図書室の本を定期的に点検するくらいなもので実質帰宅部と言っても良かった。
放課後になれば帰りの挨拶もそこそこに駐輪場へと向かい、自宅に向かう。アルバイトでも始めようかと思案している時だった。
「河瀬」
駐輪場へむかう途中ここ数ヶ月ですっかり耳馴染んだ声が私の名を呼ぶ。思わず身体が震え硬直する。何日か振りの先輩だった。
「久しぶり、今帰り?」
ぽんっと肩を叩かれた方へと恐る恐る顔を向ければ笑みを浮かべた先輩の姿があった。
ああ、駄目だ。本物だ。遠目からでも無くて夢の中でも無い本物の彼が目の前にいる。
最近すっかり緩くなってしまった涙腺が目頭を熱くさせた。
「風見先輩」
「帰り途中まで一緒だろ。自転車取りに行くところ?」
「奇遇ですね。先輩部活は?」
「放課後いつも来てたろ。解らなかったの。河瀬と一緒。ほとんど活動してない散歩同好会だよ。
って言っても俺一人しか居ないから卒業したら無くなっちゃうけど」
「そうなんですね。あ、でも私今日買い物したくってショッピングモールに足を伸ばそうかと」
苦し紛れにありもしない予定を伝えると、先輩は眉根を寄せた。明らかに不審がっている。どうして良いか解らず真っ直ぐ見つめてくる彼の目から視線をずらした。
「良いよ、付き合う。俺も書店に寄りたかったし」
「いや、でもそれは悪いじゃないですか。帰り遅くなるし」
「それ、河瀬も一緒だから」
いつもより強い口調で言われ、打つ手なしの状態に何を言えば良いのか迷う。
頭の回転が私の数倍早い先輩のことだ。きっと何を言っても巻き取られてしまうだろう。
「ハバネロカレーパン。言うほど辛くなかったな」
唐突に変わる話題についていけず、頭がこんがらがる。
「へ?」
「前に話してただろ。購買のパン。腹が痛くなるほど辛くなかったよな。トマトベースのカレーが中に入ってただけで」
覚えてくれていたのか。場違いにも程があるが私はうっかり嬉しくなって潤滑油がさされたように口が滑らかに動き出した。
「ですよね。もう、名前折れも良いところですよ。でもまあトマトも大好物なんで良く買ってるんですけどね。
暴君なるハバネロはやっぱり農協で買ってきてもらうしか無いんでしょうか。あれは凄いですよ。
ひとつ包丁で切っただけで指先が熱くなって。うっかり目を擦るものなら悶絶待った無し。
炒めようものなら咳が止まらなくなって、家族にテロだって叱られました」
「うん、それで何買い物するの」
「え、無いですよ。そんなもの」
言ってしまってからしまったと思えども今更遅い。先輩から溜め息が零れる。
呆れているのか怒っているのか、はたまた両方か。落ち着きかけた脳内がまた混乱を極める。
「何で来なくなったの。大方想像つくけど河瀬から直接聞こうと思って」
「狡いですよ。その言い方、まるで私が悪いみたいじゃないですか。苦しいんです。
いつも飄々としてる先輩は解らないかもしれないけれど嫌なんです。笑って普段通りに話すことなんて出来る筈無い。
それに彼女さんにも悪いと思って。二人が仲良さそうで、私そんなの見て平然としてられる程人間出来ちゃ居ないんです」
「何で?」
なおも問うてくる先輩は本当に性質が悪い。
「何でって気付いてますよね。ラブコメの主人公じゃ無いんですから。好きなんです。私、初めてあった時から。
先輩が好きで好きで堪らないんです。だから少しでも一緒に居たかったんです」
堤防は決壊した。思いの丈をぶつけ、溜まっていた涙は後から後から頰を伝う。
ぐちゃぐちゃの泣き顔はさぞや見苦しいだろう。それでも言わずに居られなかった。
「ひとつ勘違いを正すけれど木部は彼女じゃ無いよ。従姉妹だ」
「え?」
「それから詰めが甘い。好意丸出しにする癖、連絡先ひとつ聞いて来ない。
俺と話すことで満足してるみたいだったし、恋に恋している舞い上がった状態なのかなと考えあぐねてた」
言われてみれば仰る通りでぐうの音も出ない。ごくりと喉を鳴らし、ぽろぽろと流れる雫を腕で拭った。
「最後に、俺も好きだよ。初めは騒がしい奴だと思っていたけど、河瀬の毒にも薬にもならない話聞いてると安心する」
夢でも見ているのだろうか。現実かどうかを確かめる為手の甲を思い切りつねる。当然痛みはやって来て私は嬉しくなって泣きながら笑った。
「先輩、好きです、多分思いもよらない程好きです」
「うん、知ってる」
そう言って笑いながら先輩は涙と鼻水塗れの掌を握り、そのまま私を引き寄せ腕の中に収めた。
私は夢にまで見た温度と想像よりもずっと大きい胸の中でそっと目を閉じ、人生で初めて感じる幸福に酔いしれたのだった。




