4 長い一日
9つの鐘が鳴る頃、昨日雇った商人のおじ様たちがもう二人来てくれた。前庭の騒ぎに気おされながら部屋に辿りついたお二人は、なんとも仕事の出来そうなおじ様たちだった。黒猫君は最初「遅い! 首だ」とか叫んでたけど、そんなのは人手がある人にしか言えないことだと思う。
こっちは猫の手も……ああ、もう使ってたか。
途中から、荷物の間を飛び回って黒猫君が自分で見回りを始めた。最初の20件くらいの取引を見て、大体相場にあたりがついたのだそうだ。そこここで声を掛けて、早く終わりそうな取引から随時こちらに流してくれる。
私もやっと名前の綴を大体覚えて、一人でもなんとかなるようになってきた。
どうも名前には決まった綴りと、特殊な綴があるらしい。特殊な綴りをする人は自分でも分かっているらしく、ちゃんと自己申告で綴りを教えてくれる。
あれだね、日本語のメジャーでない名前の人がいちいち読み方まで説明するのと同じかも。
そこからは外を回ってたタッカーさんと新たに加わった二人のおじ様たちが他の部屋の窓を開放して、黒猫君と入れ替わりで私同様、聞き取りを始めてくれる。おかげで一気に仕事が進んだ。
キールさんが念のためだって言って、自分の隊の兵士さんを一人に一人ずつ付けてくれる。兵士さんが見ている前で変な態度をとる人はまずいないからってタッカーさんたちがとても喜んでた。でも黒猫君は外だけじゃなくそっちの部屋の見回りもやってて大忙しだ。
窓口が増えたお陰で列の進みは速くなったはずなのに、前庭に集まる人の数はなぜか減らない。契約を終わらす人数より集まってくる人の数のほうが多い気がする。
黒猫君が行ってしまったから、私も一人で取引の矢面に取り残された。黒猫君がやり方を見せてくれてたからなんとか出来たけど、そうじゃなければ泣き出してたと思う。
人によっては穏便に手早く終わるのだが、中には喧嘩腰で私に叫ぶようにして話しかけてくる人達もいて、そんな人達と何度もやりあいながら書きとる羽目になった。顔に向かって叫ばれるのって、いくら私が怒鳴られてるんじゃなくても凄く疲れる。
「あゆみさん、お昼ですよ」
いつの間に準備したのか、パット君が人数分のスープとパンを乗せたトレイを持って入ってきた。お昼は隊の人が作ってくれたそうだ。昨日と同じメニューだけど作ってくれた量が違う。
今までは私たちも含めて12人分だったが、今日からはキールさんの部隊から必ず10人が常駐するそうだ。それに加えて黒猫君が雇った人たちが全部で6人ここに引っ越してくるらしい。パット君は朝一番ですでに前の仕事を辞め、部屋を引き払って荷物をここに持ち込んだそうだ。
という事で、治療院の住人は一気に倍以上になってしまった。まあ、この建物は4階まであるから場所は充分あるんだけど、どうやら上のほうの階は長らく使われていなかったらしく、入居前の掃除が大変そうだ。
あ、それで思い出した。ここの掃除と洗濯、誰がしてくれてるのかテリースさんに後で聞かなくちゃ。
さて折角準備してもらったお昼なのに、私にはほとんど食べる時間がなかった。あれからも私はずっと座りっぱなしの書きっぱなし。10分でスープをかき込んでまた書き続けた。前に並んでた人たちが私のお昼を涎を垂らしそうな様子で覗き込むのが本当に落ち着かない。
「あゆみさん、さっき頼まれたことは終わりましたがあと何かありますか?」
私のお願いをあっという間に終わらせて、お昼の手伝いまでして来てくれたパット君が私の後ろに戻ってきて手伝えることがないかと尋ねてくれた。パット君を逃すまいと片手で捕まえておいて、書付を続けながらお願いする。
「パット君、申し訳ないんだけどさっきと同じことを残りの3人にも伝えてきてくれる? それでそれが終わったらここに戻ってきて今度は木片に書いた取引をわら半紙に写していって」
私に指示を出されたパット君は跳ねるようにして別の部屋にかけてく。元気があって本当にいいね。
事付けを終えて戻ってきたパット君が、私の後ろですぐに木片の書き写しを始めてくれた。だけどどんどん積み上がってく木片の数に、あんなに元気だったパット君でさえいつしか泣きそうになってた。
とうとう全ての木片を使い切った直後に、お待ちかねのわら半紙が届いた。速攻私もわら半紙に羽ペンで書き始める。
木片程じゃないけど、わら半紙に羽ペンも相当使いにくい。羽ペンは変に柔らかいし、直ぐにインク切れちゃって付け直しだし。所々掠れちゃうしわら半紙にペン先が引っかかるし。
でも木片に戻るよりはマシっと我慢して書き続ける。
その後ろでは、見回りから戻ってきた黒猫君がキールさんと一緒にやっと届いた台帳を調べ始めた。今までの取引と台帳を見比べながら、なんか二人でずっと話し込んでる。
恥ずかしいのを我慢しながらトイレに行きたいって申告したら、アルディさんが運んでくれると言い出した。
「流石にそれは嫌です!」
「すみません、あゆみさん、時間がないので我慢してください」
嫌も応もなく運ばれた。無論外で待っててもらったけど。
「ねえ、黒猫君、なんで誰も私と代わってくれないの?」
いい加減手首がしびれてきて泣き言を漏らす。
そうなのだ、部屋には常時結構な数の兵士さんたちがいる。彼らにも少しは代わってほしい。
だけど黒猫君の返事は非常にシビアだった。
「駄目だ。キールがここの執政を軍抜きでやってるってとこをきっちり見せておかなきゃならないんだ。それにお前みたいに暗算でどんどん税の支払いを計算していける奴はここにはほとんどいない」
一瞬手が止まってしまった。
「え? だってこれ凄く単純な計算だよ?」
「暗算はそれ程普通じゃないんだよ」
それは驚いた。そんなんじゃみんなおつりの計算も出来ないじゃない。
「いいから手を止めるな。お前は自分の仕事に集中しろ。こっちだって忙しいんだ」
何が忙しいのかと思えば、どうやらキールさんと二人で過去の台帳の確認を始めちゃったらしい。それ今始めちゃってどうするんだろう。
結局、外に集まってくる人の数は減らないまま日が落ちた。思えば同じ人が何回か来てるよね、これ。一人一回とか言ってなかったもんね……。
暗くなってきたしそろそろ終わりかと思えば、きっちり夜中まで続けるのだと言う。
「今日いっぱいって言っちまったからな」
ちょっと申し訳なさそうに、でもキッパリとキールさんが断言する。
待って、それって私それまで寝れないのか。
文句の一つもこぼしたいけど、目の前の仕事が詰まってて声を上げる暇もない。
この前は体力的に限界で涙が溢れたけど、今回は目と手首と座りっぱなしのお尻が痛くて涙がにじんできた。
夕食はサンドイッチだった。アルディさんが私の口元まで運んでわざわざ食べさせてくれる。残念ながらアーンしてもらうとかそんな甘さはまるっきりない。単純に、食べる間も手を止めるなってことだった。
「黒猫君、眠い、疲れた」
「寝るな、寝たら目ん玉舐めるぞ」
「うわ、それはもう嫌だー!」
あれは結構痛かった。
泣く泣く私は本当に真夜中の鐘が鳴るまでただただ書き続けた。
「あゆみさん、お疲れさまでした」
「はひ、疲れました」
12時の鐘が隣の教会から響いてきた所で私たちは鎧戸を閉めた。外にはまだ人だかりがあったけど、さすがに文句を言う人は誰もいなかった。
三々五々に帰っていく人たちにキールさんが明日からも買取は続けることを伝えてた。ただし時価での買い取りではなく、売り手と買い手のすり合わせをここでやるのだと言う。どうやらこれからここを小さな競り市にするつもりらしい。
「これで私もお役御免!」と喜んでいたのに、「あゆみは明日からこっちの台帳付けな」と軽く言われてしまった。
黒猫君、君の姿が涙でぼやけて黒い染みに見えるよ。
「何か食べ物か飲み物はいりますか?」
「いえ、結構です。寝かせてください」
「分かりました」
もうだめ。目を瞑ってもわら半紙とインクの文字の幻影が見える。疲れきって手も上げられない私を微笑みを浮かべてテリースさんが二回に運んでくれる。今日にいたっては私も流石に文句言う気力もなく、もう素直に運ばれることにした。
「あ、テリースさん待ってください。ここの掃除とお洗濯、どなたがしてくださってるんですか?」
そう、どんなに疲れててもこれだけは聞きたかった。
「ああ、まだお引き合わせしていませんでしたね。明日の昼、私が農村から帰ってきてからお引き合わしましょう」
そう言いおいてベッドに私を卸してくれたテリースさんはおやすみなさいの挨拶だけして部屋を出て行った。
扉は開けたまま。なぜなら黒猫君がまだ戻ってこないから。
黒猫君はまだキールさんと二人でなんかお話し合いを続けてた。下の部屋を閉めてからはこの階にあるキールさんの部屋に移ったらしい。
そんなのとても終わるまで待ってられない私は、いつも通り服を脱いで椅子に放り投げてベッドにころがった。枕に頭がついた瞬間「お布団だー♪」と呟いたまま、私は速攻深い眠りに落ちた。




