18 飛来
「先ず砦に戻りましょう、アルディ隊長に報告して──」
あまりに現実感のないドンさんの話に茫然とした私たちの中で、タンさんが真っ先に立ち直って黒猫君に話し始めたその最中。
「うわっ!」
タンさんを振り返った黒猫君の横顔を一瞬黒い陰が過り、タンさんの語尾をかき消すようにキーンと甲高い音が突風を伴って私たちを揺さぶった。
なにかが上空を横切ったのだと思い至って、私が上を見上げた時には高空の小さな黒い染みが滲むようにどんどん大きくなってきてた。
「伏せろ!!!」
茫然と見上げてた私が、それが大きな黒い影だと思った次の瞬間。
ブウォンブウォンって激しい風切り音と共に、地面を掘りおこすほどの強風が私たちを包み込み、全身が重力を忘れて浮き上がりそうになる。焦って泳ぐように宙を手でかいた私を、黒猫君の逞しい両腕が強く抱きとめてくれた。黒猫君の腕の中で丸まる私の身体中に土埃と小さな石つぶてが叩きつけられ、目を瞑って必死に黒猫君にしがみつくので精一杯。
それも一分もしないうちに弱まって、やっと私が目を開こうとすると、突然大地が盛大に揺れた。
「砦に引くぞ!!」
頭上で黒猫君が叫んでるけど、今の突風の大音響の影響でぼんやりとしか聞こえない。
それでも舞い散るホコリにむせながら見回すと、風に煽られたせいかいつの間にか橋ではなく砦の柵のところに固まって転がってた。
あ、でもバッカスとドンさんたちが見えない!
「く、黒猫君、バッカスは? ドンさんたちは??」
砦の門に向かって駆け始めた黒猫君に叫ぶけど、先を走るタンさんもジョシュさんも、誰も止まる様子もない。
「バッカスは心配するな、ドンたちは──」
黒猫君が走りながら叫び終わるよりも早く、突如ドスンと目前が真っ黒いなにかに遮られた。急停止して一瞬身構えた黒猫君の腕の中、えっと思って見上げれば、それは砦の柵よりもまだ高い真っ黒な壁だった。ほんの一瞬の差で、先を走ってたタンさんとジョシュさんの姿がその後ろに消えて見えない。
「え!」
「タン! ジョシュ!」
「だ、だ、だ、大丈夫です、」
一瞬潰されたのかと思って声をあげたけど、真っ黒な壁の向こうから黒猫君の叫びに呼応するようなタンさんのくぐもった声が響いてきた。
「俺たちはいいから砦に行け!」
切り返すように叫びつつ黒猫君、踵を返して走り出そうとして。
そして固まった。
私も、ヒュッておかしな音をたてて目一杯息を吸い込んで、震えて固まった。
確かにルディンさんは小さかった。
今、私と黒猫君の目前ほんの数メートル。
そんな間近、タンカー船みたいに大きな頭が私たちを見下ろしてる。目前で見下ろしてくるその圧倒的な質量の圧迫感は、言葉じゃ伝えようがない。滑らかに流線を描く、爬虫類を思わせる真っ黒な頭の両横からは、軽く私が入れそうな大きさの巨大な金の瞳が二つ、ガラス玉のような輝きを伴ってこちらをジッと見つめてくる。
しかも。私たちを見下ろしてる頭は一個じゃなかった。
間近まで下ろされてる巨大な頭の直ぐ後ろ。あと四つ、同じように巨大な頭が揃って私たちを睨んでた。頭はどれも真っ黒で、全体がギラギラと黒光に輝く硬そうな鱗でビッチリと覆われてる。
川の向こう側、多分平野と森を踏み潰して鎮座する本体はルディンさんの3倍はありそう。小山のような、ってこんなことを言うんだ。まるで突然地形が変わっちゃったみたいに視界いっぱいの体から、長い首を伸ばして私たちを見下ろす、それは巨大なドラゴンさんたち。
黒猫君の体が、ほんの少し震えてる。
あれ、違う、ガタガタ震えてる私の体の振動で黒猫君の体が揺れてる?
どのくらいの時間がたったんだろう。ジッと五組の巨大な金の瞳に晒されて、私も黒猫君も息ひとつつけず、まんじりとも出来ない。
先に動いたのは、直ぐ私たちの目前にあった頭だった。
「心配して見にきてみれば」
ふっと私たちから視線を逸らしたその巨大な頭は、クイっと蛇の鎌首のように後ろに引いて、ため息のように呟いた。
「また世界は理不尽な選択を始めたのですね」
そう、確かに目前のドラゴンが呟いたはずなんだけど。
声が聞こえてきたのは全く別の場所。
視線だけ下ろすと直ぐ私たちの足下にドワーフさんたちが数匹、ちょこんとお座りしてた。多分ドンさんだと思うけど正直見分けがつくわけじゃない。
今の声、ドワーフさんたちから聞こえた?
そう思ったけど、やっぱり自信が持てない。と言うかしっかり見下ろすのも怖くて。
と、頭上で黒猫君が静かにゆっくりと息を吐くのが聞こえた。そして、そのままじりじりと後ずさりしだす。
え、黒猫君、まさかこの状況で逃げられるの?!
体が動くだけでもびっくりなのに。
でも黒猫君が徐々に体を屈めて跳躍しようと身構えたその瞬間、またも目前の頭が微かに首を傾げ、そして声が響く。
「逃げなくてもいいでしょう」
「私たちは貴方がたを傷つけるつもりはないのですから」
今度こそ間違いない。今のはどう考えても目の前の巨大なドラゴンさんの言葉なのに、その巨大な口は全く開かず、でも言葉は眼下のドワーフさんたちから流れてきた。
黒猫君も気づいたみたいで、ドワーフさんと私に素早く視線を走らせる。そのままグッと私を強く抱え直した黒猫君は、大きく息を吸い、そして突然大声で叫んだ。
「今だ!」
へ!?
と思った次の瞬間。
私は思いっきり空を飛んでた。
うん。
本当に。
叫び声も出せない。
そんな余裕もなく、ドラゴンさんの頭よりももっと高くまで。
黒猫君に投げあげられたんだって、分かった瞬間には車に撥ねられたようなすっごい衝撃がきて、意識が追いつく前に体が真横に向かって飛ばされてく。
どっから来たのかも分からないけど、バッカスが私の服を引っ掛けるみたいにして壁のようにそそりたつドラゴンの翼の上を滑空して、砦の向かいの森に私ごと飛び込んだ。
衝撃がくる!
そう思って身構えたのに、私の体を柔らかい体が受け止めてくれた。でもそんなことを気にする間も私にはなかった。
「バ、く、黒猫君!!」
状況に意識が追いついて、自分が飛んできた方向を振り向きざま叫んだ時には、黒猫君の身体が弾丸みたいに空中に跳ね上がったとこだった。
そして、その黒猫君の体が一瞬で見えなくなった。
黒猫君が見えない。
その認識より先にドスッて鈍い音が響いてきて。
もう1匹のドラゴンの頭が黒猫君の飛び上がったあたりを横切ったのにやっと気づいて。
恐怖で胃が縮みあがった。
まるで突然腸に氷を突っ込まれたみたいに、どうしようもない悪寒が全身を駆け抜ける。
「なにをするのですか!」
「あ、思わず──」
二つの巨大な頭がお互いを睨んでるけど、響いた声はくぐもって、下のほうからかろうじて届いた。
私たちを遮っていた真っ黒な壁は、今叱責したほうのドラゴンの翼だったらしい。大きなため息を一つついたそのドラゴンは、私たちを囲い込む為に屈めていた巨体をゆっくりと引き上げていく。それに併せて、壁のようにそそりたっていた黒い翼もゆっくりとその背に引き上げられていった。
まるで劇中の幕のようにずるずると引き下げられる壁の後には、ゆるく立ち上がる土埃と、そして……
「黒猫君!!!」
地面にペタリと倒れこんだ黒猫君の身体は、その巨大なドラゴンの前でやけに小さく見えて、そして叫ぶ私の前で、微動だにしてくれなかった。




