30 黒猫君と私
気が付くとそこは薄暗い和室、多分昨日泊まった離れの部屋だった。
畳みの上。
板張りの天井が見える。
静かな部屋でふっと目覚めた。
この畳、匂いが違うからきっとちょっと作りも違うのかもしれないけど、背中には充分普通の畳と同じ感触がある。
身じろごうとしてなんか体中がだるいことに気づいた。
「目え覚めたか」
声がしてほんのちょっと視線を横に向けたら黒猫君が座ってた。柱に寄りかかりながら、片膝ついて私を見下ろしてる。私は黒猫君の下ろされた膝のすぐ横に座布団を枕に寝かされてたみたい。
「動かなくていーぞ。それ、典型的な魔力切れの症状だとさ。シアンが少し魔力を分けてくれてたからすぐ楽になるだろうって」
すぐに黒猫君の大きな手が伸びてきて私の頭を撫でた。
「黒猫君私──」
「待ってくれ、俺に先に言わせてくれ」
私が言葉を続けるより先に、黒猫君が口を挟んで私を止めた。
「悪かった。あんな事言って。お前をあんなに怒らせることになるとは思いもしなかった」
そう言って黒猫君が本当にすまなそうに身体を折って頭を下げる。
「お前に自分の事大切にしろっていいながら、俺もあんま自分大切にしてなかったな。これじゃあお前に大きなこといえねー」
部屋が薄暗くてよく見えないけど、黒猫君が自虐的に笑ってるのは雰囲気だけで充分分かる。分かるって言うか知ってる。黒猫君、たまにこんな風にするから。
「うん……黒猫君も色々自分の事過小評価しすぎだよ」
喋ったら声が少し掠れてた。気にしないで身体をよじって黒猫君に手を伸ばす。
「痛い?」
さっき自分が張り倒したほっぺたに軽く触れると、黒猫君が少し目を細めた気配がした。
「……痛え。お前に殴られたって事実が。自分がどんだけ馬鹿か思い知らされた」
「そうだね」
私はまた無言で黒猫君のほっぺたを撫でる。特に腫れてる様子はないみたい。良かった。
私が黒猫君のほっぺたを撫でるのと同時に黒猫君の大きな手が私の頭をまたも撫でまわし始めた。
「なああゆみ、もうこれ以上お前を怒らせたくねーんだが、もう一度だけ確認していいか?」
「……いいよ」
そんな聞き方されたら受け入れるしかないよね。少し気構えをしながら耳を澄ませると黒猫君がクッと息をつめた音が聞こえた。すぐにそれを吐き出しながら、事実を確認するように静かな声で黒猫君が続ける。
「今まで俺たちは何とか生き残るのに精一杯で、お互い他に大した選択肢もなかったよな。自分ひとりじゃ歩けないお前が足がないせいでする苦労を支えてやるって思えば、俺は間違いなく自分がお前を助けて行けるってうぬぼれてもいられた。だけどお前すっかり自分一人でも歩けるようになっちまってるし、周りもお前を助ける十分な配慮をしてくれる状況になってる。おまけにお前にはちゃんと真っ当な人間の身体も強力な魔術もある。正直俺がお前を独り占めする環境的なメリットがお前にはもうあんまねーんだよ」
黒猫君の声はすごく静かで淡々としてる。
私もだから今度は怒らなかったし、最後までちゃんと静かに聞こうと思った。
だって黒猫君の感じてることを知りたいから。
黒猫君がなぜあんなことをいったのか知りたい。
「俺には教養も金もねーし、魔力はお前から奪っちまってるくらいだ。お前にでかい家も組織的なバックアップも何もしてやれねえ。そんなんでも本当に俺でいいのか?」
静かだった黒猫君の声が、最後のほうで少し震えた。
その振動がそのまま伝わったかのように私の胸が震える。
私は大きく息を吸って静かに問い返した。
「じゃあ聞くけど黒猫君こそ私でいいの? 私片足ないしこの世界で役立つようなまともな生活力ないし。どうも人が良過ぎるみたいだし常識にばっか囚われちゃうし。でも一番問題なのは自分でも自分が全然分かんないって事。最近私何だかどんどん変わってきちゃってて、自分でも明日何言い出すか分かんないし、いつどこでキレちゃうかも分かんないんだけど、そんな私でも黒猫君、本当にいいの?」
私の質問に黒猫君は顔を歪ませ、口を開く代わりに身体を折り曲げて私に覆いかぶさった。
私の少し乾いた唇に、黒猫君の柔らかい唇が重なる。私の頬を黒猫君の大きな手が優しく包み込む。
質問の答えは、私の唇に直接伝えられた。
しばらくして顔を離した黒猫君がもう一度柱に寄りかかりながら、独り言のようにぼそりと呟く。
「結局俺もお前も大切なものが出来てやっと自分を認められた、ってとこなのかな」
そうなのかも知れない。
黒猫君に価値のある自分をあげたいから、自分でも自分を大切にしたい。私がそう思ったのと同じように、黒猫君もきっと自分の価値を今やっと違う角度から認めてくれたのかな。
「ああ、そういえば目が覚めたら飯だってさ。あいつらお前が起きるまで待ってるっていってたぞ。まああれから一時間もしてねーがな」
「え、私それしか寝てないの?」
それにしてはなんだかすっごくスッキリしちゃってた。
驚いて私が聞き返すと黒猫君が少し言いづらそうに答えてくれる。
「なんだ、その。あれだ。魔力使ってねーから多分いつもより休めたんじゃねーの?」
「え? あれ? わ、え、じゃあ黒猫君匂いは!?」
「まあ、もうそんなしねーな。何とか我慢できる程度だ。それより治療魔法習うのは今日は無理だぞ」
少し困った声で黒猫君が答えてくれた。そっかあ。
「そうだね。まあそれは今度の旅の為に知っておきたかったんだけどな。出来たら明日の朝頼んでみるね」
「……明日の朝は俺、出発前にマイクに買い付けの話とゴーティに獣人族の商人の話しにいかねーとなんねんだよな」
「じゃあ私はここで待ってるからその間にさっさと行ってきちゃいなよ」
「そうするか。まあここなら安全だろうしな」
黒猫君に起こし上げてもらうとまだほんの僅かに眩暈がした。それでもちょっと待てばすぐに元通り何も感じなくなっちゃった。
「じゃあ戻るぞ」
そう言って私を抱き上げようとした黒猫君は、でも起こし上げた私を目の前に見据えて目を細め、代わりにギュッと抱きしめてきた。
黒猫君の身体はなぜか少し震えてる気がして。
でもそれがさっき気絶する前みたいな、悲しみや諦めとは程遠い何か全く別の理由なのがしっかりと伝わってきて。だから私も一生懸命腕を伸ばして黒猫君の大きな体を抱きしめ返した。
「ああ、大丈夫か?」
大広間に戻ると既に残りのメンバーが小さなお猪口とおつまみらしきものを前に団らんしてた。
キールさんがすぐに気づいて声を掛けてくれる。
「はい、もう大丈夫みたいです」
そこでどこかからご飯の炊ける凄くいい匂いがしてきて、きゅるるるるっと私のお腹から音が鳴る。
「確かに大丈夫そうだな」
真っ赤になった私にキールさんが快活に笑いながらそう返事をしてくれた。
黒猫君が私をさっきと同じように座布団に下ろしてくれると、シアンさんがすぐに頭を下げながら話し始めた。
「あゆみさん、ごめんなさい。もしかしたらあなたが困るかもしれないって分かってて、それでも一度はお願いせずにはいられなかったの。安心して、もう二度とこんな無茶なことはお願いしないわ。ウイスキーの街の件は承ります」
「た、対価はいいんですか?」
驚いて私が聞き返すと、シアンさんは頬に指を添えて考えるふりをしながら苦笑いして答える。
「対価は……そうね、これでどうか今日のことを忘れて元通りに仲良くしてくれないかしら?」
「そ、そんなことでいいんですか?」
「ええ。それがいいわ」
どうやらシアンさんもキールさんもさっきの私のすごく我儘な返事に怒ってる様子はなくて、内心嫌われちゃったんじゃないかとビクビクしてた私は少なからずホッとした。
夕食には煮干しのお出汁のきいたお味噌汁が供された。私は途端さっきの話のことなんてすっかり忘れてハイになってしまう。
っていうかさっきカランカランになるまで一度魔力がなくなっちゃったせいかお腹ペコペコなのだ。
「なあシアン。この味噌と醤油……」
「北への旅にお持ちになりたいということなら、すでに皆さんの旅の荷物に入れられるよう北の農村に運んでいます。ついでに出来立てのお酒と煮干しも持たせたわ」
シアンさんの口調がいつの間にかいつも通りのものに戻ってて少し安心。だって丁寧な口調のシアンさんはなんだかちょっと怖い。
「その代りにこのシモンに北まで同行させてちょうだい」
「あんたまだ懲りねえのかよ!」
すぐ横に座ってた黒猫君が、何気に私のこと引き寄せるのが嬉しいけど恥ずかしい。それでもさっきみたいなこと言われるより何十倍もいいから、そのまま私も横で頷いといた。
その様子をシアンさんが困った顔で見返してくる。
「誤解しないでネロさん。もう二度とシモンをあゆみさんに、なんてことは言いません。ただシモンも一度エルフの森に私が無事であることを伝えに行かなければならないし、北の情勢は他人事じゃありませんもの。お二人の安全も気になるのでついでに同行して見てくるようにいったの」
「シアンのお強請りに負けて先程は片棒を担ぎましたが、私も他意はありませんよ」
すぐにシモンさんも両手を上げて賛同した。
「いいんじゃないか? どの道いつかはエルフの国にも正式な使者を出すつもりでいたしな。北の問題が片付いたらついでに挨拶してきてくれると助かる」
「キール、お前もいい加減人使い荒いよな……」
黒猫君も私もキールさんにこう言われちゃもう反対もできない。
「それにバッカスが同行するから、なんかあったらお前ら担いで逃げ出してくれるさ」
キールさんがニヤリと笑いながら付け足すと、シアンさんが苦笑いしてあとを引きとる。
「ええ、もしシモンに嫌気が差したらどうぞ遠慮なく置いてけぼりにしてやってください」
「あ、そういえばバッカスたちは?」
「ああ、アンドレアを一旦森に連れ帰るそうだ。明日君たちが出立する前には合流するだろう」
「俺も明日の朝はマイクと獣人族のところ回ってくるから出発はどの道午後だな」
「黒猫君、出発前に研究所にちょっとよってもいいかな?」
「包弾とかなら持ち出し不可だぞ」
「え……。」
すっかり見透かされてたらしく、すかさず黒猫君のダメ出しが帰ってきた。
「あんなもん、やたらめったら使われたら山火事になっちまう」
「ああ、そのことですけどあゆみさん。明日の朝少し魔術訓練をしましょうね。医療魔法もそうですけど今なら魔力も安定してるみたいですし、多分色々覚えられるわ」
「え!? 本当ですか!?」
「しばらくは魔力も漏れにくいでしょうしやるなら今よ。頑張りましょう」
すごい、これで少しは皆の役に立てるかも。そうでなくても片足で迷惑かけるんだから、せめて後方支援くらいは出来るようになりたい。
その後も和やかに夕食を終えた私達は、今夜は一旦領城に戻ることになった。
シアンさんは引き止めてくれたけど個人的なものはやっぱり自分で荷造りしたいしね。
キールさんたちと一緒に領城に馬車で戻ると、いつも通り黒猫君が私を抱えて歩きだす。
「ネロ、今日はもういいからあゆみを休ませてやれ。俺たちは明日の打ち合わせを続ける」
そう言ってキールさんたちは私たちをおいてエミールさんの執務室へ向かった。
置いてけぼりにされてふと黒猫君を見れば黒猫君も私を見てる。
「……寝るか」
「うん。その前にね……」
私はちょっと躊躇ってから思い切って黒猫君の耳に手を伸ばした。
そのまま、耳をくすぐるように黒猫君の耳の後ろをかいてあげる。
ちょっと恥ずかしくて、顔は見れない。
それでも驚いたように黒猫君が振り向いて、私の顔を容赦なく覗き込んできた。
「あゆみお前……それ分かっててやってるんだな」
驚きの顔は、でも私の顔を見た途端、スッゴク恥ずかしそうなハニカミに変わった。
見つめてくる黒猫君の目が輝いてて、それが凄く愛おしくて。
私は自分の気持ちに素直になって、力強く頷き返した。
途端、目の前で黒猫君がクシャって顔を歪めて。私の頭を抱え込みながら私の耳元でささやく。
「部屋、行くか?」
今度も私は頷いて。黒猫君がそのまま私を大事そうに抱える腕に力を込めて。
そしてその夜。
領城の二人きりの部屋にこもった私たちは。
ゆっくり休めというキールさんの気遣いを完全に無駄にして。
長い長い二人きりの時間をお互いを認め合い、分け合うことだけに費やして。
そして本当の本当に、正真正銘、誰にも文句言われることない『夫婦』になった。




