7 領城の夜
「お前そろばんの使い方なんて知ってたんだな」
「うん。お婆ちゃんが使ってたからね。家で教えてもらったの」
その代わりうちに計算機はなかったんだよね。まさかお婆ちゃんに教えてもらったこんな事が今更役に立つとは思わなかった。
帰り道黒猫君に抱えられてお城に向かいながら私たちはボツボツとそんな話を続けてた。
「……お帰りなさいませ。まさか徒歩で出られているとは思いませんでした」
黒猫君と一緒に普通に兵舎から歩いて帰ってくるとイリヤさんが目を丸くして私たちを出迎えてくれた。ああ、だから門番の人が凄い形相で私たちを見てたのか。
「アルディが馬車を戻しちまったし俺たちは別に時間もあったからな」
「それでしたらお戻りの時間を御者に教えておいていただければまたお迎えに参りますから次からはどうぞ馬車でお戻りください」
まあね、確かに今日みたいに兵士の服ならともかく明日からはまたあのちゃんとしたドレスになるから外を歩き回るのは不便かもしれない。
「分かりました。これからは気を付けますね」
「わ、分かって頂ければ構いませんが。それでは夕食の準備が出来ていますからどうぞ食堂にいらしてください……あゆみ様はお着換えされますか?」
「え? 私着替えないとだめですか?」
「通常夕食の席で女性はドレスをお召しになられます」
面倒くさい。黒猫君を見上げるとどうやら彼も同じ考えのよう。
「他に誰か一緒に食べる奴がいるのか?」
「いえ、今日は皆様もうおすましになられました。キーロン陛下はご自室でお取りになられましたし」
「あ、でしたら私たちもそうさせてください。いいでしょ黒猫君?」
「ああ、その方が助かる」
「かしこまりました。それではお部屋にお戻り頂いてお待ちくださいませ」
私たちと話しながら二階まで来ていたイリヤさんはもう一度そう言って一階に戻っていく。部屋に戻ってしばらくするとイリヤさんが後ろに数人のメイドさんを連れてやってきた。
すぐに簡単なテーブルと椅子がセットされて銀のトレイに乗せられた食事が運ばれてくる。二人分なのにお肉の丸焼きだとか大きなパンが丸ごと出てきて黒猫君も私も目が点だ。
「お肉は赤身の部分がよろしいでしょうか?それともよく火の通った部分にいたしましょうか?」
「皮はお付けしますか、ソースはどちらがよろしいですか」
「お野菜は温野菜と冷製とどちらがよろしいですか」
「お飲み物は何をお注ぎしましょうか」
「待ってくれ、自分たちでやるからもう十分だ」
黒猫君の方が私より早く我慢が切れた。私も同じ思いだったけど口を挟む間もなくて何も言えなかっただけ。
「ここでお召し上がりになられるのでもせめてお世話はさせて頂きたいのですが?」
そんな私たちを少し不満そうにイリヤさんが見返してる。
「心配するな、俺たちだけで充分出来る。それに俺たち二人だけの為にこんなにいっぱい持って来なくてもいいんだけどな」
「必要なだけお召し上がりになられればいいのです」
どうにもイリヤさんの常識と私たちの常識に大きなギャップがあるみたいで上手くかみ合っていない。
それでも最低限お皿によそってもらったところで後は大丈夫だと言い張って引き取ってもらった。だってそうでないと皆さんそのまま食事の最後まで横で見てるつもりみたいだったんだもん。
「これゼッテー慣れねーな」
「うん。やっぱりこういう生活は私には合わない気がするよ」
「俺の方がよっぽど合わねー。やっぱ森だな。この件が終わったら森に住む」
「私もそれがいいな」
出された食事はまあいつも食べてきたものより格段に贅沢だったけど、それがどうにも居心地が悪くてあまり味はよく分からなかった。
「……明日からは兵舎で食べようか」
「そうだな、さもなきゃ街中で喰おう」
「うん」
夜も結構遅くなってきてたけど食事が終わったところで扉がノックされた。
「まだ起きてたか?」
「ああ」
部屋に来たのはキールさん。入れ替わりに食事を持って帰ろうとしていたイリヤさんが青い顔になって「何か問題がございましたか」って聞いてる。
「ああ、何でもない。こいつらと少し話し合う事があるだけだ」
「では何かお飲み物でもお持ちいたしましょうか?」
「いやいらん。君たちは休むといい」
「そ、そうでございますか。では失礼させていただきます」
イリヤさんが階下に降りていってキールさんが部屋に入ったところで聞いてみる。
「今なんでイリヤさんはあんなに慌てたんでしょうね?」
「ああ、俺が部屋から出てきたからじゃないか」
「え?」
問いかけた私の目の前でキールさんが盛大に伸びをしてる。
「あの後ずっと部屋に籠りっぱなしで書き物をしてたからな。食事も下にいかなかったし。まあ、あまりこういう部屋に泊まる様な奴が夜外を出歩いたりしないだろうしな」
「そうなんですか」
「ああ、その呼び鈴で呼べばすぐ誰かが来る。普通は人をやって呼びにいかせるもんで特に俺が歩き回るのはあまり宜しくないんだろうな」
そう言ってキールさんが部屋のテーブルに置かれた銀製の小さなベルを指さした。
ああ、そっか、キールさんの所に私たちが行く方が自然なのか。そんなことはどうでもいいといいながらキールさんが窓際から勝手に椅子を一つ引っ張ってきて一緒に座った。
「それで研究所の様子はどうだった?」
「必要な確認は全部終わりました。どうやらシアンさんが既にいらっしゃってお手伝い頂いていたみたいです。念のためキールさんからも許可をもらっておいた方がいいかと思ったんですがどうでしょうか?」
キールさんがちょっと考え込んでから頷いた。
「構わないが中で見たことを外で話さないという事だけはしっかり最初に約束させとけ」
「わかりました。あとそろばんなんですけど──」
持ち帰ってきたそろばんを見せながら私が説明するとキールさんが嬉しそうに顔を綻ばせた。
「これはなかなかいい。是非数を作って新政府の方で使わせよう」
「ええ、それと一般にもそのうち販売したいんですが」
「いいだろう、研究所の名前で売り出そう。王家の印を入れて他では作らせるな」
うわ、それって独占販売ってことだよね。そこまでする必要があるのかな?
「ピートルとアリームに生産ラインを作らせて販路も確保しよう」
「やけに乗り気だな」
「まあな。思ってた以上にここの収支がマズくなってきたからな」
「え?」
「そりゃそうだろうな。麦の刈り入れはまだ終わらねーからそっちの税収は取れねーし、教会から引き継いだばかりだから去年の税収も大してないんだろ。しかも城の修繕費とか村で使った農具とかの費用もあるし白ウイスキーはタダで放出しちまったし」
「言ってくれるな。今は考えたくない」
黒猫君が列挙するうちにキールさんがどんどん不機嫌になってしまった。
「じゃ、じゃあすぐに売り出しましょう」
キールさんにご機嫌を治してもらおうとそう進言してみた。するとキールさんが首を傾げて私を見る。
「これ使い方はどうするんだ?」
「ああ、それは私が時間のある時に紙に書き留めますからどなたかそれを書き写してくだされば」
ちょっと難しいかな?
そう思いながらキールさんの顔色を伺うとそろばんの玉を動かしながらすぐに問い返される。
「何ページくらいだ?」
「簡単な方は多分1枚に収まります。掛け算は九九の暗算の出来る人でないと使えないし5玉も最低限5までの暗算は必要なのでこちらは一般向けとは言えませんがこちらで3ページくらいかな?」
「分かった。ではこちらで筆記者を探そう」
「ありがとうございます」
「いや礼を言うのはこっちだな。これで収入が増える」
満足そうにそう言ったキールさんは実に嬉しそうだった。




