閑話:キールの再会(前編)
「キーロン陛下、今日ネロ君が持ち込んで来たカフの粉なんですが」
農村から集めた調査報告とあゆみたちの税収をもとにしたこの街の年収からまずは冬の蓄えと船着場までの道と往復の交通整備の費用、このカントリーハウスの費用それに来年の費用の蓄えを捻出できるか試算を繰り返し、それと同時に今回から集め出した共済費から治療院の経費と貧民街の炊き出し、それに新たな貧民の個人台帳作成費用を出して……と今日もここの収支の計算に頭を悩ませていると、珍しくテリースが部屋に手ぶらでやってきた。
こいつが来る時はいつだって何かしら仕事の追加か俺に強制的に飲み食いさせる物を手にしてる。
こいつが俺と話すだけの為に来るのは本当に珍しい。だから俺は一旦羽根ペンのインクを紙に吸わせて下ろしてからテリースに椅子を勧めた。
「なんだ、娼館の興奮剤に何か混じってたか?」
「いえ、混じりは何もないようなのですが、この調合。余りに完璧すぎるのです」
おかしなことを言うテリースに俺の片眉が上がる。
「そんなに驚く事か?」
「はい。ここまで綺麗に均一に生成して粉にするにはそれなりの技量が必要になります。こんな田舎の娼館の主やそこに出入りするような者に出来るような仕業ではありません」
そこまでいってテリースが少し躊躇いがちに付け足した。
「それにアルディとネロ君から伺ったお話ですとそこの女主人は『レネ』というそうです」
「レネ……レネーシア、まさか!」
「確証はございませんが可能性はあるのではないかと」
顔を少し俯かせ、話しづらそうにしながらもテリースが同意した。
レネーシア。あいつがなぜこんな所に。しかも娼館なんかに。
「いや、そんな馬鹿な」
あれだけ行方を捜したあいつがこんな所にいるはずがない。
「もし……もし違ったとしてもこれだけの技術を持った薬師がこの街にいるのでしたら是非治療院でも使わせて頂きたいのです。ですから後でちょっと様子を見てきた方がいいと思うのですが」
テリースが少し言い訳がましくそう続けた。
「分かった。頼む」
俺は短くそれだけ言って机の上で組み合わせた手の甲に額を当てて目を瞑った。
あれから12年、か。なぜ今になってあの頃のしがらみが色々戻ってくるんだ。あいつの事を思い出すと一緒に思い出したくない事まで全て思い出してしまう。俺が若かった頃。俺がまだ何も分かっていなかったころ。
俺は何とかその亡霊を頭から振り払って仕事に戻った。
「本当にお前だったとはな」
次の日娼館の一室で俺は一瞬十数年の時間を巻き戻したのかと思いながらそこに立ち尽くしていた。
別に驚くべき事ではない。レネが本当にレネーシアであることは昨夜のうちにテリースがここを訪れ確認していた。その時点で俺はここを訪れるかどうか直ぐには決めかねていた。
なのに俺がこいつに顔を合わせる心の準備をする暇もなく娼館内であゆみが負傷した。
『連邦』を出し抜こうというアルディたちの作戦は報告が来ていたがアルディとネロの二人を相手取って優位を取れる奴がそれほどいるとは思えず二人に任せていた。それ相応の人数の兵士も出していたしまさかあゆみが負傷するような事態になるとは考えてもみなかった。
連絡が来てすぐテリースと共に治療院に伝令に来ていた兵士に案内させて娼館へ急いだ。入り口で待ち構えていた案内人に付き添われて敷地の奥にある建物の最上階へ上がるとそのままこのレネの部屋へと通された。
案内された扉を抜けると机の向こうに腰かけていた女性がこちらに気づいて顔を上げた。昔懐かしい顔が少し不安げに陰りを帯びている。
「お久しぶりにございます殿下。いえ、今は陛下とお呼びするべきでしたわね」
不安を追いやるように少し青白い顔に微笑みを浮かべながらレネーシアがこちらに卒のない儀礼的な挨拶を寄こす。その姿はまるで13年前の王室を思い出すほどに何も変わりなく思えた。
「お前……やっぱりエルフの血が混じってるだろ」
「いいえ、以前も申しましたが私にはエルフの血は全く入っておりません」
「嘘つけ。これじゃあ俺ばかり年食って見えるだろうが」
嫌味なほど綺麗なレネーシアの顔を俺が不機嫌に睨みつけると、レネーシアは困ったように微笑みながら我々に椅子を勧めた。だがテリースは「先にネロ君とあゆみさんの様子を見てきます」とそれを断って外へ戻っていく。外で待っていた案内人に部屋を聞いているようだ。
俺はテリースが扉を閉めるのを確認して椅子に腰かけ、改めてレネーシアを見た。
さっきは懐かしさのあまり見落としていたがやはり少しばかり年月はこいつの所でも経っているらしい。皺こそ一本も見えないがその表情が以前のただ真っすぐだったこいつの物とはやはり違う。
レネーシアの表情からは部屋に入った瞬間俺が見た不安と戸惑いは綺麗に消え去り、以前と変わらぬ人を食った微笑みが浮かんでいる。以前彼女が好んでいた清楚な装いとは違い非常に煽情的なドレスに身を包んだ一人の女が俺と対峙していた。
「お飲み物を用意しましょう」
レネはそう言ってからすぐにふっと視線を落として「いえ、やはり陛下にこのような場所のお飲み物をお出しするわけにはいきませんわね」と言って座りなおす。
俺はふと思い出してレネーシアに言葉を掛けた。
「あれはあるか? あのくそマズい茶は」
一瞬何のことか分からない顔をしたレネーシアだったが、すぐに苦笑いして答える。
「ああ、ナレの根の煎じ茶ですね。ええございますよ」
「あの茶なら俺が味を間違えるはずがない。あれを入れろ」
「フフフ、そうですね。お待ちください」
そう言ってレネが部屋の片隅に置かれた飾り戸棚の扉を開いて中から茶器と茶筒を取り出した。お湯を取りに行こうとするレネを引き留め、茶器の中の湯を沸かす為のポットを引き取って水魔法で水を張り熱魔法でそれを沸かす。
「陛下自らお湯をご用意いただくなど恐れ多い事です」
そう言いつつも手は止めずにあのマズい茶を用意した。
「どうぞ」
静かに差し出された茶を口に含む。酷く苦く青臭い。懐かしい味だ。久しぶりの衝撃に一口目を飲み込むのにかなり気力がいった。
「前よりマズくなってないか」
「そんなことはございません。同じ茶葉ですから」
「よくお前に飲まされたな」
「健康にとてもいいのですよ。解毒剤としてもよく知られています」
そう付け加えたレネの瞳が微かに揺れた。
「そう言えばあの日もお前はこの茶を俺に飲ませてたな」
一瞬、見逃すほど微かだが確かにピクリとレネの手が震えた。やはり。
「お前はあの日の襲撃を知っていたのではないか」
俺が硬い声で問い掛けるとレネが顔を強張らせながら俯いた。
「いいえ。いいえ、はっきりとは存じておりませんでした。ただ第三皇太子は以前より殿下の王室入りを快く思っていらっしゃらないと伺っていましたし、ちょうどあの頃殿下が階上の部屋を賜る事が通達されて非常にご立腹だとは伺っておりましたのでもしやとは──」
「それにしては非常にいいタイミングだったな」
それは俺が王室の一室に居を移して半年が経ったころだった。
それまで俺は皇子とは名ばかりで、俺は母とテリース、それに数える程度の使用人と共に中央の端にあるアズルナブ家の邸宅で暮らしていた。城外暮らしに慣れ親しんでいた俺は20歳になったのと同時に突然城に呼び出された。
それまで王位は第一皇太子が継承すると思われていたが、同じ年の狩の途中落馬した彼が少しばかり不自由な体になり、城の中が何やら騒がしくなっていることは聞いていた。
第二皇太子は以前から素行が悪く、第三皇太子は何につけても目立つところのない男だった。第四子は皇女で嫁入り先が既に決まっていて継承権は放棄させられていた。
俺は要は王座を賭けた賭け札の予備として呼び出されたわけだ。
一番上の兄が既に当時27歳。一番末子の俺でさえ20歳になっていたが父王が亡くなるまではどうやったって誰も王位にはつけない。
長い年月をそうやって競いながら同じ城の中で窮屈に暮らしていた所に余計な邪魔者が増えるのを喜ぶ奴がいるわけがなかった。
俺にしてみればいい迷惑だったが父王の呼び出しを断ったりすればアズルナブ家など簡単に吹き飛ばされてしまいかねない。そうなった所で俺一人ならどうとでもなるが母やテリースを路頭に迷わせるわけにもいかず、俺は仕方なく父王の命令に従い城に上がった。
レネーシアは当時城内の薬師の一人として働いていた。俺同様、大した後ろ盾もないまま城に入ったばかりのレネーシアは城外育ちで海の物とも山の物とも分からぬ末子の皇子、つまりは俺を押し付けられて立場上皇子付きの薬師になっていた。
お付きの薬師など健康が取り柄の俺にはまるっきり必要ない余計なお世話だったが、彼はいつも俺に付きまとっては毎日俺の体調を確認し無理やりあのマズい茶を押し付けてきていた。
それでもテリースとは以前から面識があったらしく、わざわざテリースが信用して大丈夫だとお墨付きを送ってきていたので何のかんのの末、結果的にレネーシアは城内でただ一人俺が親しく話をする相手になっていた。
俺が王室の一室に居を移して半年が経った頃、部屋替えが通達された。
城に入ったといっても王家の居住区域に部屋のなかった俺はそれまでは仮部屋として客室を与えられてきた。それが何を思ったのか父王が勝手に新しい部屋を用意した。
これはまあ城の中のしきたりから言えば俺が皇子から皇太子に正式に格上げされる事を意味する。無論他の皇太子たちがこれを面白く思うわけもなかった。
部屋替えが決まった途端、突然俺の周りが騒がしくなり会いたくもない貴族どもが押しかけ始めた。
そんな中、その日は時節柄の挨拶という口実で格上げの決まった俺の様子を見に母が来ることになっていた。
そしてその同じ日に、あの襲撃は起こった。
後に俺たちを襲ったのは『隣国の使者』という事で決着がついたが誰もそれがどの国の手の者だったのか突き留めようともしなかった。さてあれはあの第三皇太子の仕業だったのか他の皇太子か、それとも全員だったのか。
今となってはもう分からない。
「確かにあの茶のおかげで俺は命拾いしたようなもんだな。毒を盛られていた俺はあれがなけりゃ身体が痺れたまま何も出来なかった」
「…………」
声のないレネーシアに俺はぐっと拳を握って先を続ける。
「だが俺の身体が動かなけりゃ母を死なせることもなかったかも知れん」
「…………」
無言のレネーシアを横目に俺はあの日の光景をまざまざと思い出していた。




