10 テリース
テリースさんの言葉に、黒猫君でさえすぐには言葉が出なかった。
「……今、『元』って言ったよな?」
「はい。お陰さまで、今は奴隷契約から抜け出せています」
「それが給金の交渉とどうつながるんだ?」
「それは元々、私が奴隷契約の一環であの兵舎で働いていたからです」
「まて、ちょっとまて。お前が奴隷だった時の主人は誰だ?」
「……キール隊長です」
「ええ!?」
私が驚きの声を上げた横で、黒猫君が黙り込む。
なんかそれって、私が今まで見てきたキール隊長の性格と全然一致しない。
「どういう経緯だったんだ?」
黒猫君も同じことを考えたらしい。事情を聞きたいらしく少し身をのり出した。
「キール隊長ご自身のお話は勝手に出来ないので詳しくはお話しできませんが」
そう前置きをして、テリースさんが話し出す。
「決してキール隊長から酷い扱いを受けたわけではありません。それどころか、キール隊長は私を奴隷にすることで私を守ってくれたんです。そして、あの兵舎での兵役を5年勤め上げた時点で、私の給料代わりに奴隷契約を破棄してくださいました」
ああ、それなら確かになんとなくわかる気がする。
「ただ手続き上、私の奴隷契約を破棄する時点で私の雇用契約を書いてしまい、それが奴隷時代に作成されていた為に変更が利かなくなってしまいました」
そこでテリースさんがため息を吐く。
「しかもここ一年程は中央政府と全く連絡がつきませんし。軍関連の連絡も途絶えてしまっています」
「ちょっと待て。それは不味くないのか?」
「多分不味いと思います」
今度は私が分からない。それに気づいてテリースさんが説明してくれる。
「中央政府の場合、必要がなければここのような地方の街と連絡を取らなくなることもありますが、軍は普通あり得ません」
「下手をすると国がなくなってるかもな」
「ええ?! それは流石にないでしょ、そんなことになってたら流石に誰か教えてくれるんじゃないの?」
「誰が?」
そう言われてはたと気づく。
そっか、テレビもニュースもない。
インターネットもスマホもない。
情報は行き来している人づてだけなのか。
「しかも、ここ半年は一番近い町からの伝令も止まっています。狼人族の行動範囲が広がってこちらからも人を送れないままでいますし。あの砦も、あそこを拠点になんとか隣町まで人を送ろうとしていたんですよ」
「それが失敗に終わってしまったと」
「それどころかこのままですと、いつ彼らがここを襲ってくるかわかりません」
「……じゃあこの街は今、陸の孤島状態じゃないか」
「そう言えるかもしれませんね。ただ、ここ最近はここを出ていく人も減っていましたから、この状況にもすっかり慣れてしまったのですが」
顔をしかめた黒猫君が決意したようにテリースさんに告げた。
「……明日キールと話がしたい。一緒に兵舎に行ってもいいか?」
「構いませんが、隊長が忙しければ時間をとってもらえないかもしれませんよ」
「それは俺が自分でなんとかする」
「そうですか。そうですね、ではあゆみさんもお連れしましょう」
「え?」
「ああ、多分あゆみにも関わることだ」
「でも私が一緒だと遅くなっちゃう……」
「大丈夫です。明日は私が抱えさせて頂きます」
うえ、やっとそれはしてもらわなくても自分で動けるようになったと思ったのに。
「あゆみ時間がもったいない、文句はなしな。農場のあとここに寄るから支度して待ってろ」
「うう、はぁい」
仕方なくうなずいた。
「それでは明日は忙しくなりますからここら辺でお話は一旦切り上げて休むとしましょう」
「ああ」
「あゆみさん、今日は疲れたでしょう。上までお連れしますよ」
「え? でも自分で歩けますよ」
階段を上がるのはかなり大変だけど、もう床に座っちゃえば上がれることが分かってしまった。
要は這って動くことさえ気にしなければ、結構なんでも出来るってことが今日一日で嫌ってほど分かった。
「今日くらいは許してください。そうでないと流石に自分が許せませんから」
でもテリースさんはそう言いはって私の杖をとり、折りたたんで腕に下げ、まだ遠慮しようとしていた私をスッと椅子から抱え上げてしまった。
黒猫君が無言でそれを見上げている。
でもすぐににプイっと顔を背けて先に行ってしまった。
なんか黒猫君、不機嫌そう。
「ネロ君を怒らせてしまったかもしれませんね」
「?」
訳が分からないまま見上げた私に、テリースさんが優しく微笑んでくれる。
「ネロ君だってそれはあゆみさんを助けてあげたかったんじゃないですかね」
猫なのに?
「さあ、ここの片付けはあとで私がしますから上に行きましょう」
私の問いかける視線をさらっと無視してテリースさんが歩き出す。
テリースさんに抱えられて階段を上がるのはすごく楽だけど、やっぱりちょっと悔しい。
悔しいけど、疲れ切っていた私にはもう文句を言う気力もなかった。
部屋に着くと黒猫君がベッドの下で丸まってた。
「おい、あゆみ。身体乾かないぞ」
「ありゃ、やっぱり」
テリースさんにベッドにおろしてもらって黒猫君を見やれば、確かにまだ毛が少しぺったりしてる。
「これくらいなら私がお手伝いしますよ」
そう言ってテリースさんがいつの間にか部屋の戸棚に置いてあった手拭いをとってきて黒猫君を拭いてくれる。
よく見ると、他にも数枚の手拭いと私が今着ているものと同じ服が2枚おいてあった。
ベッドのリネンらしきものもある。
「テリースさん、これ……」
「ああ、キール隊長が私の看病をしてくださった給料として渡しておいて欲しいと言っていました」
「そんな、私なんのお役にも立てなかったのに……」
「いえ、貴方の見張りはパーフェクトだったそうです。その証拠に私が一度もベッドから逃げ出しませんでしたから」
そう言ってテリースさんが笑った。
「そう言えば、今更だがあの矢傷は大丈夫なのか? もしかしてあれ、お前の身体に合わないもんでも入ってたんじゃないのか?」
黒猫君の言葉にテリースさんが目を見開いた。
「どうして分かったんですか?」
「そんなことはどーだっていいよ」
あ、本か何かの知識なのかな?
「ええ。あの矢は芯が鉄製でした」
「鉄の傷に弱いのか」
「ええ。純血のエルフほどではありませんが、鉄の傷は治るのに人より沢山の血液が必要になります。だから切り合いの戦場ではほとんど役立たずなんですよ」
「そんなんでよく砦に行ったな」
「給金が……三倍だったんです」
三倍って言ったってたった銅貨105枚、約1050円くらいだよ??
それであの砦に行くのはあまりに割に合わない気がするんだけど。
「それで明日からの食料を調達しようと思っていましたので……」
「……お前も本当に追い込まれてたんだな」
「はい」
そうでなくても優しいテリースさんの眉が下がっちゃってて、すごく情けなさそうな顔になってる。
黒猫君を乾かし終わったテリースさんは私たちに就寝の挨拶をして、静かに部屋を出て行った。




