14 黒猫君……
部屋に戻って新しい服に着替え終えた俺がせめて一言キールに文句を言ってやろうと部屋を出た途端、隣の部屋からあゆみの金切り声が聞こえてきた。
「黒猫君を今すぐここに呼んできて!!!」
何事かとそのままあゆみの部屋の前で立ち止まってると、ちょうどその後に飛び出してきた見慣れない女性が俺に気付いて話しかけてきた。
「ネロさんですよね? あゆみさんの旦那様の」
最後の一言にギョッとしながらも頷き返すとホッとした表情でその女性が答えた。
「良かった。今呼びにいこうと思ってたんです。私のこと覚えてませんか? ほら『ですじゃ』が口癖の村長の孫です。稲刈りの時にお会いしたでしょう」
思い出せなかった。あの時はもう必死で、早く終わらせてあゆみを救いに行くことしか頭に無くて──
「ネロさん? 聞いてますか? あゆみさんがどうしてもネロさんにお会いしたいそうです。奥様ですもの、こんな時期でもちょっとくらい良いですよね」
「あ、ああ」
俺はあゆみの部屋の扉に向き合った。扉は昨日と全く同じように静かにそこに立っている。
ただ大きな違いは俺の告白は既に手遅れだって事。
大きく息をついて気持ちを切り替えた俺は覚悟を決めて扉をノックした。
「入っていいか?」
「私が呼んだんだからもちろんいいよ、早く入ってきて!」
「外までお前の叫び声が響いてたぞ」
あゆみの怒気を含んだ返事に少したじろぎながらも扉を開けた。
部屋の中に入るといっぺんにあゆみの匂いが頭を占領した。
今までと違ってまるっきり頭が動かない。
それを頭を振って無理矢理追い出してあゆみを見れば俺と目があった途端、ポロポロと涙をこぼして泣き始めた。
「だって、だって……」
あゆみの頬を伝う涙から目が離せない。
「こんなの我慢できない! こんな、こんなんで一週間もここに閉じ込められて、私の知らない間に黒猫君と結婚した事にされてて……」
悔しそうにそう言って泣くあゆみの姿にズキンと心がいたんだ。
「私が女ってだけで何で皆の扱いがこんなに違うの? 何で黒猫君は一人でもナンシーに行けるのに私は駄目なの? 何でポールさん達、黒猫君のことは素直に認めたのに私は駄目だったの? 何でドンタスさんは黒猫君には握手で私には嫁に来いなんてきくの? そんでもって体調のせいで仕事もさせてもらえないってなんで?」
泣きながらもしっかりと文句を並び立てる。その内の殆どは俺とは因果関係がまるっきり無いけど多分今こいつが当たり散らせるのは本当に俺だけなのだろう。なのにこいつは泣くほど俺と結婚してる事にされたのが悔しいのだ。そう思えば俺だって流石にやるせない物がこみ上げてくる。
俺はあゆみの横の椅子に腰掛けてあゆみの頭に手を伸ばした。猫の手では届かなかった距離。猫の手では撫でてやれなかったあゆみのこんなに小さな頭。俺はそれを恐る恐る撫でながら言葉を探した。
「お前、それは俺だって言いたいぞ。何で俺の体は死んじまったんだ? 何で俺ばっかり猫なんだ? 何でお前が大変だった時に見てるだけしか出来なかったんだ? 何でいつもトーマスの方がお前に相談されてるんだ? 何でバッカスには甘えて俺には甘えられないんだ?」
「え?」
「何であいつは家族で俺は分かんないんだ? 俺と結婚している事にするのは嘘でもそんなに嫌か?」
いつの間にかあゆみが泣き止んでこちらを見てる。じっと見つめられて居心地悪くて顔に血が上ってきた。
「黒猫君?」
「俺がキールに頼んだんだ」
「え?」
俺は観念して吐き出した。
「お前が俺と結婚してるって皆にも伝えてくれって。そうしないとキールがそろそろ抑えきれないって言うんで」
「へ? え?」
「お前、知らないんだろうけど兵士の中にお前に結婚を申し込もうって奴が結構いるんだ」
「え? ええええ!!??」
素っ頓狂な声を上げるあゆみをため息混じりに覗き込む。
「お前の謙虚な所が人気らしい」
「嘘」
「ホント。トーマスだってお前が告白すれば即オッケーだろ。してみるか?」
俺は冗談の様にサラッと言ってしまう。
「そんなバカな。だって私今まで誰かに言い寄られた事とかないし。前の彼氏だって何か成行きで付き合って成行きで自然消滅してたし」
あゆみは俺の心中も知らずにこれまたサラッと流してしまった。
悪い、トーマス。
「じゃあモテ期なんだろ、きっと」
「なんだろう、この全然嬉しくない感は?」
「ならお前の欲しい相手がその中に居ねぇんだろ」
ぶっきらぼうに答えながらもあゆみの答えに安堵する。そんな俺をじっと見て、あゆみが問いかけてきた。
「それで何で黒猫君がキールさんに頼む事になっちゃうわけ?」
「それは……」
今言うしかない。
昨日言い損ねたのはもう取り返しがつかないが今なら言える。
今なら……
あれ? ちょっと待て。
何で今なんだ?
もう言わなくても同じじゃないか?
どうせ俺と結婚してるって話はばら撒かれちまった。
あゆみはやっぱり怒ったし、俺も怒られた。
でもだったらもう急いでこいつに話す必要は無いわけだ。
我ながら情けない答えを出してやっとあゆみを見返した。
「ナンシーから戻ったら言う」
俺はそれだけ言って逃げる様に部屋を……出られなかった。
あゆみは俺の緊張で震える腕をガシッと押さえつけて必死の形相で俺を見上げてきた。
「待って黒猫君。そんなんで逃す気ないから。言うこと言えないならまずは私に仕事をさせて。こんな所に閉じ込められて一日中一人で寝っ転がってたら気が狂っちゃう!」
「お、お前、今俺がどんな思いで──」
あゆみの剣幕に俺の文句は尻すぼみになって顔が引きつった。
「もう黒猫君と結婚してる事になっちゃったのはそれでいいよ。でも私、こんな風にサボってるみたいにダラダラしてるのもうやだよ。そりゃマッタリしたいって言ったよ、前に。だけどさ、それはみんながみんなもう命の危険とか明日食べるものの事とか悩まなくなってからの話だよ。こんな状況でみんなが働いてるのに一人だけこんなのもうガマンできない!」
あゆみの一生懸命な説明を聞いているうちに俺は自分が大きな勘違いをしていた事に気が付いた。
こいつ俺との結婚とか実はどうでもいいんだ。こいつにとって今最も大事なのはそんな事じゃない。こいつはこいつなりに一生懸命ここで踏ん張っててそれを邪魔される事に耐えきれなくて怒ってるんだ。
俺は自分を悩ませていた浅はかな考えに笑いがこみ上げてきた。こんな一人相撲ってアリかよ。
でもどう考えたってあゆみが正しい。こいつはブレてない。俺とは違って。
「分かったから離してくれ。今ポールに頼んで仕事の割り振りを戻してもらってくるから。パットに頼んで机と書類も入れてやる」
俺の言葉にあゆみが安堵のため息とともに俺の腕を絡め取りながら突っ伏した。
「よ、良かったぁ。これで暇で暇で庭の葉っぱの数数えて時間やり過ごすのからから解放されるぅ~」
「おま、だからくっつくな、離れろ」
今やっと一段落させた俺の純情をこれ以上掻き回さないでほしい。こっちがそう思ってるのにあゆみのバカ。俺の腕にくっついたまま腕を揃えてクイッと上を向いて無邪気に微笑みかけてきた。
「何言ってるの、黒猫君もう私の旦那さんなんでしょ? これくらいで何……」
「ばか」
頭より先に身体が動いた。しまった、と思った時にはもう遅かった。
「お前な。いくら何でも無防備すぎ」
あゆみが呆然とした顔で見上げてくる。自分の体重で軋むベッドに頭がクラクラする。
「何度も言っただろ。お前の匂い、キツイって。」
畜生。俺の下敷きになったあゆみの瞳の中に怯えが見えちまった。
「この部屋、もう時期が過ぎるまで誰も入れるなよ。過ぎてからも気をつけろ」
俺はそう吐き捨てて部屋を出た。