1 出会い
──その人は眠っていた。
人気の少ない朝一の電車で──
始発駅に停車している車両はガラガラだった。
昨日は少し遊び過ぎて終電を逃し、仕方なく朝までファミレスで友人たちと時間を潰してた。
今日も昼から講義があるので、一旦家に帰らないと服が着替えられない。
同じ服なんか着てったら、なに言われるかわかったもんじゃないし。
空いてる席に座って、膝に乗せた鞄の中を確認してるフリをしながら、私は物思いにふけっていた。
でも鞄のチェックなんてすぐに終わってしまう。手持ち無沙汰になり、キョロキョロと視線だけで車内を見回した。
始発電車に乗るのはこれが初めてじゃないけど、いつ乗っても普段の電車との違いになにかドキドキしてしまう。
始発駅の特権で、時間より少し早く来ていれば必ず座れる。
まあこの時間じゃ争って席を奪いあうほど人はいないけど。
いつも私が座るのは、一番前の車両の一番後ろの角。一番前の車両は大抵人がいなくて、この角が後ろと横を壁に守られて一番安心な気がするからだ。
だけど今日は少し様相が違う。
目の前の席には私が座る前から、半分寝そべるようにして一人の男性が転がっていた。
お行儀が悪い、なんて言わないけど、人迷惑だなぁっと内心眉を顰める。
仰向けになって顔にベースボールキャップを載せてるから顔が見えないが、年は私とそれ程変わらない気がする。
若い癖にだらしないなぁ。
席を移ろうかちょっと考えたけど、すぐに人が増えてきて私は諦めてそのままそこに留まった。
とはいえ、この車両にはそのあとも数人乗り込んだだけで、ガラガラの電車は静かに駅を発車した。
ガタンガタンと眠くなるような定期的な振動を繰り返しながら、電車が朝日に照らされてやけに白っぽい街を走っていく。
カーブに差しかかり、うっつらうっつらしていた私はガクンっと上体を前に落とし、危ういところで身体を支えて座りなおした。
ふと見ると、目の前の男性も今の電車の揺れで顔に載せていたベースボールキャップを落としてしまったらしい。車窓から射しこむ朝日に眉をひそめ、膝に手をついてのっそりと起きあがった。
途端、私は声もなく目の前の男性に見惚れてしまった。
それは間違いなく、見知らぬ男性だった。
だけど。
今まで見た誰よりも、私の好みど真ん中だったのだ。
なんていうんだろう?
理想の男性?
テレビのドラマや映画、その他いろいろな媒体には、それぞれが選び抜いてきた粒ぞろいの『いい男』が確かに登場する。
だけど誰を見ても私には「どちらかと言えば好み?」っていう程度であまり違いが分からない。だから今まで、「これぞ私の好み!」って言い切れる人を、私はついぞ見かけたことがなかった。
物心ついてから大学に入るまで、老若問わず色んな男性を見てきたけど、『自分の好み』と言い切れる男性に出会ったことがない。
それでも恋愛は出来たし、お付き合いもした。
去年までは一応同じ年の彼氏もいたし、別に男性経験が全くないわけじゃない。
ただ、私は冷めてるってよく言われた。
そんなこと言われたって、他の人と違って「惚れ込む」と言うほど『誰か』に執着出来なかったのだからしょうがない。
去年まで付き合っていた彼氏も、私がしばらく電話をしなかったらいつの間にか他の誰かの彼氏になってた。私も特に文句を言うほど執着がなかったので、そのまま自然消滅したのだと納得してた。
それが。
今目前で膝をついて、半分寝ぼけた顔で周りを見回しているこの人は、ドンピシャしっかり私のモロ好み。
キリリと上がった眉、少し冷たいくらいきつい切れ長な眼差し、少しこけ気味の頬、すっきりと通った鼻筋。薄いピンクの唇はちょっと不機嫌にへの字になってる。癖っ毛の茶髪が軽く目にかかって揺れていた。
ぼーっと見惚れてる私に、周りを見回していた彼が気がついた。
途端、スゥっと目を細めて首を傾げ、斜に私を睨む。
「なに見てる」
「な、なんでもありません」
カッと頬が熱くなり、慌てて視線を外して横を向いた。
あれから数駅止まったはずなのだが、車内には他にほとんど人がいなかった。
その数少ない他の乗客も、全くこちらを気にしてる様子がない。
私の降りる駅まではまだ三十分以上ある。このままこうしているのはかなり辛い。
チロリと横目で様子を伺えば、彼は床に落ちたベースボールキャップを拾い上げて埃を払っているところだった。
この人、一体どこに行くんだろう。
悔しいけど気になる。なんせ自分の人生で初めて見つけたモロ好みの顔の持ち主なのだ。
出来ればなんとかして知り合いになってみたい。
多分、生まれて初めて自分から相手が気になると思った。
それからも電車は何事もなく市街地を走っていった。
見慣れた街並み、見慣れた駅。どこまでも日常の風景が早朝の日差しのせいでちょっとだけ違って見えている。
そして一番違うのが、目前の景色。
この人が私より先に降りたらどうしよう?
この人が私の降りる駅で降りなかったらどうしよう?
そんな物思いに耽っていた私は、自分の世界がもっと完全に変わってしまうその決定的な瞬間、周囲を見損ねた。
── キィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ
突然、車内に大きな振動が伝わり、何も分からないまま体が揺さぶられた。
激しいブレーキの軋む音と車体が浮き上がる浮遊感。
聞いたこともないほど不快な鉄の千切れる音、擦れる音、折れる音。
激痛と燃えるような灼熱の痛み、真っ白な頭と目の前の真っ赤な世界。
赤みがかった彼のベースボールキャップ、真っ青になった私好みだった顔と、私に向かって降ってくる、下半身のない彼の身体。
それが目に入った血液を通して私が見た、この世界最後の景色だった。