ね、重要なことですか?
中学生の時、石川啄木の『一握の砂』を読んだことがある。
寝転びながらダラダラと漫画を読んでいた夏休み。母が「たまには漫画以外の本も読みな」と渡してきたのがその本だった。
正直言ってその頃の僕にはよく理解できず、ただただ眠気を誘うものでしかなく。最終的に本を顔に乗せて熟睡しているところを母に叩き起こされる結果となった。
でも、起こされた時、目に入った一首がやけに印象に残った。
『たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず』
どうして母さんをおんぶして泣かなければならないのか。
目の前で鬼のような形相で怒る母とその一首はまったく繋がらず、分からないからこそ不思議で記憶の中にそっと残った。
それから大人になって盆の里帰り。
大学生になった息子は一人でどこかに遊びに行き、僕と妻の2人きりになった時、母が僕らにこう言った。
「少し散歩にでも行こうか」
並んで歩く近所の河川敷。
今年で80になる母は随分とゆっくり歩くようになった。普通に歩いたら置いていってしまうほどに。
桜並木がずらりと並ぶ道に蝉の声が響く。
母は桜を見上げながらぽつりぽつりと思い出話を口にする。
紅葉した桜を見上げながらよちよち歩きの僕と手を繋いでのんびり歩いたこと。大きすぎるランドセルを背負って駆け出した僕を慌てて追いかけたこと。夏祭りの帰り道、はしゃぎすぎて眠ってしまった僕をおんぶして帰ったこと。
母と僕のこの道の思い出。
僕は照れながら妻はにこにこしながらその話を聞いた。
聞きながら思い出の中の母が遠いものになってしまったことに気付いた。
手を繋いでもらうこと。追いかけられること。おんぶしてもらうこと。
そのどれも過去のものになってしまった。
僕はそっと残した記憶を思い出す。
「ねえ、母さん、昔、僕に石川啄木の『一握の砂』を読ませたことがあったよね」
「ああ、そう言えばそんなこともあったね。あんたは全然読んでくれなかったけれど」
「仕方ないだろ、その頃の僕には難しかったんだから。でも、一つだけ覚えているものもあるんだよ」
「どんな歌だい?」
「『『たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず』」
「ああ……」
足を止めて僕を見上げる母。その表情はとても穏やかで――
「おぶってみるかい?」
そう言って、僕に向かって両手を伸ばした。
母の前に屈む。肩に母の手が乗る。立ち上がる。
想像の重さと実際の重さは違い、力を込め過ぎた体がふらついた。
軽い。
こみあげてくるものにぐっと唇をかんだ。
母の腕がぎゅっと僕を抱きしめる。
僕の心の中に生まれたものを分かりきっているように母は言った。
「ね、それは重要なことかい?」
振り返るとそこには嬉しそうに微笑みを浮かべる母がいて――
「いいかい。本当に重要なことはね。私が年老いたことじゃない。お前が大きくなったことなんだよ」
僕は咄嗟に言葉が出なかった。
ああ、そうか。
本当にこの人にはかなわない。
手を繋ぐこと。追いかけること。おんぶすること。
そのどれも僕と息子の思い出の中にもちゃんとある。
育てられる存在であった僕は父となり母を背負うことが出来るようになった。
母の軽さに残り時間を思って悲しくなる。
でも、それ以上に過ぎ去った時間を思い愛しくなる。
僕と母の思い出の道で。
隣でそっと母の背中を支える妻と一緒に。
僕は「ごめん」よりも言うべき言葉を伝えた。
「ありがとう」
母はくすりと笑って僕の背中に身体を預けた。