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「――くそっ」
おかしいとは思っていた。思っていてしかるべきだったのだ。
元々、近年におけるリロスとローアンの立場は互角。小国を次々と取り込む事で規模を広げてきたローアンも、やがて領地の接する小国が消え去ってからは無闇な拡大政策を取る事もできず、多くの者が二国間の均衡はしばらくの間続くと思っていた。
「よりによって――」
かつて今の状況、リロス共和国とローアン中枢連邦の戦争を予測していた男は、その時の為の切り札として特殊な剣と稀代の剣使を用意していた。
戦力の拮抗する二国間の戦争は、敗者だけでなく勝者にも相当な消耗を強いる。それを避ける為の、『一目で勝てないとわからせる力』がアンデラ・セニアの切り札。アンデラは魔剣『回』とクーリア・パトスを用いた大規模破壊戦術により、戦争をまさに一瞬で片付けるつもりだった。
だが、それはローアンにとっても同じはずだ。目的が何であれ、手段として少なくとも被害よりも利益の方が大きくなる事を確定できる程度の切り札を用意せずに全面戦争を仕掛けるような行為は、馬鹿げた賭けか暴挙でしかない。
「クーリア!」
自宅の扉を開け放ち、縋るような声で叫ぶ。
ローアンの用意した札が正確に何であるのか、一傭兵に過ぎないタブは聞かされていなかった。ただ、その何かはすでにリロス中部に仕掛けられていて、国の内部を喰い破る大規模な紛争を引き起こす。南部拠点を襲った襲撃部隊は、その機に乗じて攻勢に転じるべく進軍した部隊の一つだと彼は語った。
正直、その作戦が戦況に及ぼす影響に対して、俺の興味はない。ただ、問題は事の発生地にある。ラタと共に向かったフィクサムの邸宅、そして一時的な滞在場所である借宿はリロス中部にある。クーリア達は、今もそこにいる。
「クーリア! ……いないのか!?」
それは、一縷の望みだった。借宿はあくまで臨時の退避場所。ラタの情緒が落ち着いた時には、長期的に滞在できる居場所としてこの街に戻ってくる事も考えられる。そうなるにはまだ早過ぎるだろう、とは思っていたが。
「――!」
足音。
予想外、だが期待通り。
「……シモン、さん?」
「ラタ、か?」
暗闇の中、聞こえた声はラタのものだった。小柄な体躯、徐々に闇に目が慣れてくるとこちらを見つめる瞳の碧さまではっきりとわかる。
「クーリアは――」
その後にどう続けようとしていたのか、それを一時忘れる。一致していた口と頭、ただ身体だけがそれらとは別物のように、ラタへと駆け寄りその全身を腕の中に収めていた。
「シ、シモンさん? あの、どうしたんですか?」
耳元で聞こえるラタの声には動揺と困惑。無理もない、まだ精神面も不安定であろうところに、知人程度の関係の男から強引に抱き寄せられたのだ。むしろ、もっと怯えられてもおかしくない。
「悪い。俺もわからないけど、もう少しだけ……」
リロス中部が戦場と化すとすれば、クーリア、ラタ、クロナの三人にそれに巻き込まれていた可能性があった。その事を聞いてからは考える間もなかったが、俺が案じていたのはクーリアだけではなくラタ、クロナについても同様だったのかもしれない。
「は、はい。あの……でも、その」
「そうだ、クーリアは? クーリアは今、ここにいるのか?」
「ですから、クーリアさんは――」
そこで、明かりが点いた。
「私ならここにいるけど。いない方が良かった?」
クーリアは、寝間着だった。そして、俺の腕の中のラタも寝間着だった。
薄布一枚を身に纏った少女を抱く俺の姿は、クーリアの目にはどう映ったのか。
「そ、そんなわけないだろ! クーリアっ!」
「騒がない。今何時だと思ってるの」
「はい」
今度はクーリアへと抱きつきに行くも、冷静な声に制止されてしまう。
「……ふーん、私にはそんなに簡単に止めるんだ」
「ち、違っ、そうじゃなくて!」
しかしそれもまた裏目に出たのか、クーリアの視線の温度が更に下がった。先に見たのがクーリアだったらこうはならなかっただろうに、なんとも間が悪い。
「でも、無事で良かった。いつ戻って来たんだ?」
「こっちに着いたのは、ついさっき。北部の方で戦争が起きたって聞いて、シモンがどうしてるのかも気になったから」
「クロナさんは、元々私をこの街に連れ帰ってくれるつもりだったみたいで。私が、その動けるようになって戻ってきたという感じです」
どうやら、中部で起こるという紛争が始まる前に戻ってくる事ができたらしい。少し早ければ北部を襲った奇襲部隊と鉢合わせていた可能性もあり、俺もそうだがタイミングとしては絶妙だ。
「そう言えば、クロナは? あいつらの家か?」
クーリアとクロナがラタに付き合い借宿に残ったのは、身柄の護衛と精神面での手助けの為で、それは場所を移しても変わらない。俺の家に勝手に居座る事を躊躇う気質でもあるまいし、てっきりクロナもここにいるものかと思っていたのだが。
「クロナさんなら、ナナロさんに連絡を取るから少し寄り道していくって。多分、まだ中部の方にいると思うけど」
「なっ――」
緩みかけていた気分が、急激に締まる。
「……ちなみに、ナナロの居場所とかは聞いたか?」
「ううん、聞いてない。でも、クロナさんは見当が付いてるみたいだったかな」
「そう、か。まぁ、兄妹だからな」
身体を侵食し動かそうとする焦りを抑えつけ、努めて平然と頷く。クーリアとラタに余計な事を悟られてはならない。
「とりあえず、こんな時間に起こして悪かった。話はまた明日でいいから、二人とももう寝てくれていいぞ」
「そう? じゃあ、寝ようかな。シモンの方の事は置き手紙を読んで大体わかってるし」
「いいんですか? では、おやすみなさい」
クーリアとラタの二人は俺の言葉に従い、素直に寝室に戻っていく。
クロナなら大丈夫だ。俺の知る限り最上級の剣使で経験もあり、そして頭が回る。クロナを心配するくらいなら、まだこの近辺に潜んでいるかもしれない奇襲部隊からラタとクーリアを守る事に注意を向けた方がいい。
「チッ……」
自分に言い聞かせるも、右手の微かな震えが止まらない。どうにも、最近の俺はどうかしている。俺は自分の手の届く範囲、再優先の少女だけを守れればいいと決めたはずだ。
「ねぇ、シモン」
声。クーリアの声だ。
「っ! なんだ、寝るんじゃないのか?」
「そのつもりだったけど、私とラタさんが寝室で寝たら、シモンの寝る場所が無くなっちゃうんじゃないかと思って」
「あー……三人で寝る、わけにもいかないな。まぁ、今日はそこの椅子ででも寝るよ」
気を遣ってくれたクーリアの肩に手を置き、心配は無用だと告げる。普段なら私は居候だから、などと言い出しかねないが、俺とラタが隣り合って寝る事態を考えれば、大人しく引き下がってくれるだろう。
「本当に?」
「流石にこっそり忍び込んだりはしないとも。ただし、寝惚けてたらその限りではない」
「本当に寝る? 朝起きたら、いなくなってたりしない?」
「……いや、えっ」
返事を濁したのは、何も図星を突かれたからではなく、ただ純粋に予想していなかった問いの理解に戸惑っただけ。だが、クーリアがそう取ってくれるかどうかは別だ。
「わかるよ。シモン、嘘とか誤魔化すのとかは上手いけど、意識してない時は結構隙だらけなんだから。何かあったと思ったから、あんなに焦ってたんでしょ?」
鋭い。しかし、まだ逃げきれる。
「良くわかったな。でも、クーリアは無事だったし、それは終わった事だから」
「クロナさんとナナロさんがまだ向こうにいる」
「言っただろ。あいつらは放っておいても大丈夫だって。俺よりも強いし、俺が助けに行くような理由もない」
「なら、サラさんは? サラさんには助ける理由があるの?」
「サラは……」
厳しいところを突かれ、今度こそ本当に口籠る。クーリアは、俺がサラを守るため戦場に出ていた事を置き手紙で知っている。サラも大切だ、と言ればいいのだろうが、それを口にした瞬間に何かが崩れ去ってしまう気がした。
「あっ……ごめん、変な言い方だった。私はただ――うん、ただ、シモンがクロナさん達のところに行くなら、また一緒に連れて行ってほしい。それが言いたかっただけなの」
「でも、それは――」
「やっぱり、行くんだ」
釣り上げられた。
自分でもまだ辿り着いていなかった本心を、強引に表に引っ張り出されていた。最初からその気がなければ、第一声が『でも』になる事はあり得ない。
「じゃあ、私は寝るね」
だが、クーリアは釣り上げた言質に執着せず、俺に背を向けた。
「えっ?」
「シモンも寝た方がいいよ。流石にこの時間から行くのは、いくらなんでも効率が悪すぎるから。それと、一人で行くなら、また書き置きくらいは置いていって」
淡白とも言える言動。その様子には、どうしても違和感があった。
「クーリアは、それでいいのか?」
「私は、シモンの選択に従う。とりあえず今は、そう決めたの」
相反する望みを持つ二者は、強制的にしろ自発的にしろ、どちらかがもう一方の望みのために折れるしかない。俺がサラに付き合って戦場に出たように、クーリアは俺の望みに従ってこの家で待つ事も受け入れると言ったのだ。
「わかった。少し考えて決める」
一つの答えを出したクーリアに対し、俺も答えを出さなければならない。クーリアに甘えて自らの望みを通すのか、それともクーリアの望みを汲むのか。
せめて後者の方がクーリアの為になると確信していれば、悩む必要などないのに。




