3-3
フィクサム邸のあるリロス中部と俺の住むリロス北部は、同国内でありながら小国の端から端ほどの距離がある。時間にして、半日ほど。それだけの時間を移動に費やす必要がある以上、そうそう気軽に行き来するわけにもいかない。
「……着いちゃったよ」
北部市街地の外れ、名物の果実飴を口の中で転がしながら一人呟く。クロナの進言に従い帰っては来たものの、頭の中には何か靄のようなものが残っていた。どうしようもないとはわかっているものの、やはりこればかりは本当にどうしようもない。
「まぁ、家にでも帰るか」
前に進みたがらない足をなんとか動かし、一歩ずつ家路を辿る。
見慣れた道、気晴らしになるようなものも特にはない。そう思い込んでいたからだろうか、僅かな、だがたしかな変化に気付くのが遅れた。
あまりに人の気配がない。そのくせ、空気はどこか騒がしく、そして何より――
「血……?」
溶け出した果実飴の風味の向こうから、微かに争い特有の匂いが燻っていた。
剣の柄に手を掛ける。事態は何もわからない、だからこそ警戒が最優先だ。
見慣れた市街地には相変わらず人の姿は見当たらず、しかしよく見ると、ところどころに血の跡が見て取れる。もう事は終わった後なのだろうか。ラタの件が頭に浮かぶも、すぐに不安を掻き消す。俺が街を離れていた時間は、移動を含めても三日にも満たない。そんな短時間で街の全員が皆殺しにされているなんて事は、普通に考えてあり得ない。
「家は無事か」
辿り着いた自宅の健在な姿に、ひとまず胸を撫で下ろす。軽く見た限り、鍵や窓に壊された痕跡もなく、中に入って確認してみても異常は見受けられない。
「後は、外か」
このまま家でくつろいでいる事もできるが、やはり外の様子が気になる。何が起きたのか、あるいは今も起きているのか、知人は巻き込まれず無事にしているのか。事態を確認するには足を使うしかない。
事が荒事ならば、国防軍の本部に向かうのが最も確実だろう。司令部実行班長であるリースと話ができればいいが、今も事が動いているとすれば、彼女の手が空いているかどうかは疑問ではある。その時は、適当な者を捕まえて話を聞くしかない。
「あっ、シモンさん!?」
早足で目的地へと向かう最中、聞き覚えのある声に呼び止められる。
「フィリクスか、ちょうどいいところに」
剣士としての知り合いであり、国防軍の一員でもあるフィリクス・オーブと偶然にも出会えた事は、俺にとって都合のいい幸運だった。
「少し、この街を離れてたんだ。簡単に事態を説明してくれ」
「街を? 道理で……。ローアンの奇襲部隊が、無差別に街を襲ったんです。一旦、殲滅はしたんですけど、同時に国境付近で大規模な侵攻があって、前線は今も戦闘中です」
「……戦争かよ」
思わず、息を呑む。
すでに既知であるフィリクスは当然のように語ったが、その内容はこのリロス共和国とローアン中枢連邦の間での全面戦争の勃発に他ならなかった。
「お前は前線に出なくていいのか?」
「俺は、民間人の安全確認と潜んでいるかもしれない奇襲部隊の残党への対処が仕事なんで。シモンさんの生存が確認できていなかったので、もしやと思ってたところですけど」
「俺がそう簡単にくたばってたまるか。ああ、それと、クーリア・パトス、クロナ・ホールギス、ナナロ・ホールギスの三人は今この街を離れて中部にいる」
いくら剣使と言えども、俺を含めた四人は民間人に属する。フィリクスが安全確認を受け持っているなら、その無事を伝えておくべきだろう。
「あのホールギス兄妹が!? 知り合いだったんですか?」
「まぁ、そんなところだ」
驚きに声を上げるフィリクスに、頷いて返す。
「あの二人がいれば、戦況は大分変わるかも。引き戻す事ってできませんか?」
「……どうかな。話を伝えるだけならできるが、あいつらが前線に立つかどうか」
クロナとナナロほどの剣使ともなれば、それぞれが一人で戦況を傾けうるほどの戦力になり得る。二人と、そしてクーリアがいない間に街を襲った奇襲部隊は、ローアンにとっては最高のタイミングであった事だろう。
ただ、襲い来る火の粉を払うためを超えて、国のためにホールギス兄妹が戦うかどうかとまで問われれば、簡単には頷けない。
ナナロの正義はどちらかと言えば小規模な、弱者のための正義だ。戦争のような複雑な事情の入り混じった灰色は、善悪で簡単には区切れない。クロナに関してはそもそも思考回路が俺には読めず、あくまで印象だと国には執着せず勝ち馬に乗る絵が頭に浮かぶ。
「そうですか……そうだ、サラさんは一緒じゃなかったんですか?」
「サラ? いや、サラは……」
知らない、と答えようとして、それよりも先にフィリクスの問いの意味に思い至った。
「いないのか!? サラは、見つかってないのか!?」
「は、はい。軍の名簿ではまだ未確認となっていて――」
「馬鹿野郎、先に言え!」
口にしながら八つ当たりだと気付くも、それを謝る間もなく駆け出していた。
「シモンさん、どこに――」
フィリクスの声を置き去りに、一歩でも速く前に進む。どこへと向かっているのか、そんな事は決まっている。だが今は、それを言葉にする手間すらも惜しまれた。
見慣れた道、力配分を捨てた全力疾走で酸素を失っていく脳。頭の中にまともな思考は浮かばず、漠然とした不安と焦りだけが感情を蝕む。
「――――っ」
辿り着いた目的地、不安を裏付けるような光景に奥歯を噛み締める。
それは、俺とサラにとってのかけがえのない居場所、その残骸。
ルークス剣術場の入口は開け放たれ、その荒れ果てた内を晒していた。いくつも真新しい傷跡の残った壁、所々に飾られていた剣や盾はその多くが散乱し、血痕はまだ真新しい匂いを放つ。偶然、などと現実逃避する余地もない。
「遅かったじゃないか、シモン・ケトラトス」
声がした。
予想外の声。それは、事態を予想より更に悪いものへと変える。
「お前は――」
「そう睨まないでくれないかな。僕は君と話をするためにここで待っていたんだから」
剣術場の真中に立っていたのは、忘れたかった男の姿。
記憶の中では眉ほどまでだった前髪は金色の瞳に掛かるまで伸び、身に纏う装束は国防軍の制服から簡素な無地の布服に。そして、俺の切り落とした右腕は今も失われたまま。
かつてクーリアと俺の前に立ちはだかった、元国防軍過激派の青年剣使。俺の明確な敵であるアンデラ・セニアは、外見上のいくらかの変化を経てなお、以前と何ら変わらぬ存在としてそこにあった。
「――っ」
剣に手を添え、挙動の一つも見逃すまいと目の前の男を睨む。
元国防軍最高司令官ノクス・ヒルクスの懐刀、アンデラ・セニア。その実態は、ノクスという神輿の裏で自由に暗躍する国防軍過激派の第一人者、クーリアを魔剣『回』の付属兵器として扱う事を発案した張本人でもあった。
個人的な怨念を排除しても、アンデラという男は敵対者として危険極まりない。純粋な剣使の素質だけならクーリアやクロナには劣るだろうが、規格外と天才の二人を除けばアンデラもまた最上級の剣使である事に間違いはない。その上、アンデラの強みは膨大な経験とそれを基にした戦術眼にある。
「サラをどうした? 答えろ」
だとしても、ここで引き下がるわけにはいかない。
アンデラ・セニアはクーリアを拉致、監禁した犯罪者であり、国防軍に対する反逆者でもある。少なくとも、公にはそういった罪状で牢に繋がれる事となった。
以前、リースが話していた事を思い出す。想定外の事が起きたのでなければ、ローアン中枢連邦との戦争に際して、駒として扱うためにアンデラは牢を出されたはずだ。だとすれば、かつて所有していた聖剣『アンデラの施し』を失ったアンデラは、いまだ新たに強力で貴重な剣を手に入れられるような状況にはないはず。前線に出る以上は最低限の装備は持たされているだろうが、それも良くて程度の低い魔剣が精々といったところだ。
それならば、俺にも勝機はある。
アンデラがどれほど図抜けた剣使であっても、剣の持ち合わせた力以上のものは引き出せない。それが剣使という在り方の限界だ。
「魔剣『回』と彼女はどうしているかな?」
俺の問いには答えず、アンデラは逆に問いを返してきた。
「サラを渡せ」
「だから言ったんだ。この国には、あの剣が必要だと」
会話が噛み合わない。互いの目的が違いすぎる。こいつと俺はいつもそうだった。
「三度目だ、聖剣使い」
「……どうやら、君は変わらないようだね」
真っ直ぐに剣の切っ先を向けると、アンデラは感情の読めない息を吐いた。
「まず、僕はサラという名前に聞き覚えはない。それがおそらくは、この魔剣『糸』の持ち主の少女なのだろうと推測するのが精々だ」
「それが、サラの魔剣だって?」
俺はサラの魔剣の名前も、その力の詳細も知らない。ただ、構えるでもなく自然な動きで掲げられた刃と柄の造形には、たしかに見覚えがあるような気がした。
「……っ、クソが」
アンデラの手の中にサラの剣がある。単純な戦力としても、そしてそうなるに至った過程を考えても、状況は良いとは言えない。
「要求はなんだ。どうしたら、サラを返す?」
「僕が君に要求する事なんてない。あったとしても、それは叶わないだろう?」
アンデラは俺の事を見てすらいなかった。自らの片腕を奪われてもなお、アンデラには俺への興味など欠片もないのだ。
「魔剣『回』と彼女を差し出してくれ、なんて馬鹿げた要求が通るなら別だけどね」
アンデラの興味は、魔剣『回』とその適合者の少女、それらを使って国を護る事にしかない。一度、完全に策を潰された後になっても、聖剣使いは何一つ変わっていなかった。
「そんな要求が……」
笑い飛ばすべき場面で、上手く声が出ない。
俺はすでにクーリアを選んだ。かけがえのない再優先事項が、交渉の駒になどなるはずがない。ゆえに、俺とアンデラはどこまでも没交渉な敵対者のはずだった。
しかし、いざ片方にサラの身柄を乗せてしまうと、天秤は呆気無く横揺れを始めた。情けなさすぎる心中に、自己分析もまったく追い付かない。サラが大切である事を否定するつもりはないが、一度決めたはずの優先順位がここまで脆いものだとは。
「……なんて茶番だ」
「は? っ」
刃。
飛んできた短剣を剣で弾き、緩んでいた構えを作り直す。
投剣を追って一直線に俺へと距離を詰めたアンデラは、勢いのままサラの剣、魔剣『糸』による最短距離の突きを放った。身体能力の増強された疾走、それに連動した刺突は、単純ながら強力無比。サラの速度を見ていなければ、受け流せなかっただろう。
「舐めんな!」
そして、剣の間合いで仕切り直しになれば、そこからは俺の優位だ。身体は鍛えられているようだが、それでも俺の知るアンデラはあくまで遠距離から中距離で圧倒するタイプの一般的な剣使に過ぎない。隻腕も剣士としては重いハンデであり、身体能力を強化するサラの剣とは相性が良くない。
人質は取った本人が死んでしまえば意味を成さない。首を落とす横薙ぎの最中で、すでに俺はその後のサラの捜索に思考が向きかけていた。
「いいや、僕は死ぬわけにはいかない」
悪寒。
振り抜こうとした右腕が止まる。意思の力で止めたのではなく、外からの力で物理的に止まっていた。更に右腕だけではなく、他の四肢も意思に反して動きを止める。
その隙に、魔剣『糸』の刃が俺の胴体に迫る。アンデラが剣技に熟達してはいないとはいえ、止まった相手を斬る事くらいならば容易だろう。身体能力に任せた斬撃は、威力だけなら俺のそれより数段上だ。
「……っ」
刃が胴を裂く寸前、後方への跳躍に成功した。
剣を腰まで引き、『不可断』の操る流体を前方に伸ばしてアンデラを睨む。
四肢の不全は、『糸』から伸びた細い線によるものだった。流体で線を切る事ができなければ、俺は今頃刃に胴を両断されていただろう。
魔剣『糸』の力は身体能力の増強ではなかった。おそらくは、刀身から伸びる線に触れた物体への干渉。サラが自らの身体に干渉する事で、結果として身体能力を超えた挙動を可能としていたのに加え、アンデラはその力を俺の行動を阻むために使っていた。
「『不可断』か。まったく、忌々しい鞘だ」
胸元から僅かに血を滴らせながら、アンデラも後方に距離を取り俺の腰元を睨む。
俺へと剣を振り下ろす途中で、完全とは言わないまでもアンデラが流体による反撃を避けられたのは意外だった。やはり、『不可断』の性質を知られているのは痛い。
魔剣『不可断』は鞘までを含めて一つの魔剣であり、力の大元である触れたものを消し去る流体は鞘の内部から生成、放出される。以前アンデラの腕を奪ったのは、鞘を死角に仕掛けておいてからの奇襲によるものだった。
「チッ……」
だが、今はもうすでに種はバレており、鞘自体も仕掛けもなく俺の腰元にある。この状況では距離を離されたら終わる。
魔剣『糸』の力が俺の予想通りのものなら、中距離から外はアンデラの間合いだ。刃と流体の射程を外れれば、接近のための絶望的な防戦を強いられる事になる。
後ろ跳びの着地から無理矢理前に跳び直し、離れ行くアンデラとの距離を詰める。俺の方は『糸』の性質を把握しきれていない事に不安はあるが、ここで決めるしかない。
「らっ、アァっ!」
袈裟の斬り流しを更なる後方への跳躍で避けられ、こちらも前跳びを継ぎながら突きに移行。受けに来た剣に軌道を逸らされるも、角度が足りずアンデラの右肩に着弾。上下左右から束のように襲いくる『糸』の線は『不可断』の流体に触れるなり消失。
「ぐ、ぅっ……」
苦悶に呻きながらも、アンデラの退避の速度が上がる。背走でもこの速度、下手をしたら俺の全力疾走でも距離を離されかねない。
「っ!」
だが、ここは屋内、アンデラの背には壁がある。魔剣の力があれば壁を打ち壊す事くらい容易いだろうが、一瞬を争う近接戦闘でそんな隙を与えはしない。
「じゃあな、聖剣使い。今度こそ、最後だ」
かつて、俺はアンデラを殺さなかった。死のうが生き残ろうが、どちらでもいい。止めを刺す事よりも、一秒でも早くクーリアを救いたいと思っていた。
だが、二度目は別だ。二度目があれば三度目もある。後顧の憂いを断つためなら、没交渉の敵対者の命を断つ事に躊躇いはない。
流れ任せでない、腰の捻りから連動した最速の突き。逃げ道を潰すように、『不可断』の流体を刃に変えて左右それぞれ二本の斬撃。
「……僕は、彼女には何もしてないよ」
弁解は、俺の刃を止める事はなかった。
「ん、ぁっ!?」
刃を止めたのは、同じく刃。剣や刀、槍に盾など剣術場の随所に飾られ、散らばっていた武具の数々が四方から飛来し、アンデラへの攻勢を阻んでいた。
「魔剣『糸』の能力は剣から伸びた、名前通り糸に接触した物体への力場の干渉。応用すれば、接触しているモノから更にそれに接触しているモノに、と間接的な接触でどこまでも干渉できる物体を広げられる」
剣術場の壁を悠々と切り開き、アンデラが告げる。
視認した限りでは、『糸』から剣術場の全域に伸びる線の姿は見受けられなかった。アンデラはそれぞれの武具に干渉したのではなく、剣術場という巨大な箱に干渉する事でその中の武具を弾として放ったのだ。まさに、力の桁が違う。
「どういうつもりだ?」
だが、だからこそわからない。
敵対者である俺に対し、アンデラが剣の力について説明する必要などない。そしてそれ以上に、それほどの力があるならば、サラに手を出していないなどと馬鹿げた弁解をしてまで俺に命乞いをする理由がわからない。
「冗談、というのは流石に質が悪いか。ちょっとした嫌がらせのつもりだったんだ。君を揺さぶって、罪悪感を踏み越えてもらおうと思っただけだよ」
「何の話をしてるんだ?」
「サラ、と言ったかな? 僕が彼女を拐ったという勘違いを放置していた理由だよ」
「は?」
前提を覆され、思考が新たな事実の相関を組み上げ始める。
アンデラのサラに手を出していないという言葉は、命乞いのための弁解ではない。誤解を解き、無益な争いを止めるための真実だった。
「……信じられるか」
浮かび上がった可能性を、否定の声で断ち切る。
アンデラ・セニアは国を護る事を第一に考える剣使だ。そのためなら、罪もない少女を道具として扱う事も躊躇しない。クーリアを手に入れるための交換条件として、サラを人質に取るというのはアンデラの行動原理に沿っている。
「僕は彼女、サラについて何も知らなかった。ここに来たのは剣術場の遺産、魔剣『糸』の噂を知っていたからで、この剣はその流れで僕の手にあるだけだ」
アンデラが語るのは、サラとアンデラの間にあった出来事の概要。それらの所々に反論すべき点はあるが、俺はそれ以前の問題に気付いてしまった。
「それに、これは稚拙な嘘だ。彼女は今頃、国防軍の宿舎にいる。君がそれを知るのはすぐだろうし、そうなればサラに話を聞けばそれで終わりだ」
「なら……いや、どうして手を止めた?」
そもそもサラを人質に取っているなら、最初から斬りかかって来る理由がない。人質は交渉相手がいてこそ成り立つ、それは取られた側も取った側も変わらない。嘘を動揺を誘い隙を作るためだったとしても、今アンデラが攻勢を収めるのは釈然としない。
「言っただろう、僕はまだ死ぬわけにはいかない。そして、君の命もおそらくこの国のためには必要だからさ」
「要するに、負けて死ぬのが怖かったって事か?」
「それは損失の話だ。そして、利益もないという事だよ」
立場で優位を取るための挑発は、軽く受け流される。
「……君の信念は半端な出来損ないだ。個人的には、ここで僕諸共殺したいくらいだけど」
「何だって?」
「僕は前線に出る。きっと、君もだ」
話を断ち切り去っていくアンデラを、俺は止める事ができなかった。今となってはアンデラを追うよりも、先にすべき事がある。
「……サラ」
呟いた名前を大切に感じる自分を、否定する気力は沸かなかった。




