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『白い結婚』で放置された私、双子の義子を育てていたら氷の辺境伯が溶けました  作者: 九葉(くずは)


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第9話『遺言状の秘密』

オスカーが王都へ発って二日が経った。


屋敷の中は、表面上は穏やかだった。子供たちは相変わらず折り紙に夢中で、リリアは毎日新しい動物を折っては私に見せてくれる。ルシアンも、最近は少しだけ笑うようになった。


けれど、私の胸の奥には、小さな棘のような不安が刺さったままだった。


王都からの返事は、まだない。ヴェルナー家がどう動いているのかも分からない。待つことしかできない時間は、思った以上に重かった。


その日の午後、ハンナが私の部屋を訪ねてきた。


「奥様、少々お時間をいただけますでしょうか」


いつものハンナとは、どこか様子が違った。目元に緊張があり、声も固い。


「どうしたの、ハンナ」


「……お見せしたいものがございます」


その言葉に、私は息を呑んだ。ハンナの表情が、何か重大な決意を秘めているように見えたからだ。


「分かったわ」


私は立ち上がり、ハンナの後について廊下を歩いた。


---


案内されたのは、使用人棟の奥にあるハンナの私室だった。


質素な部屋だった。小さな窓から差し込む光の中に、簡素なベッドと木製の衣装箪笥がある。壁には、色褪せた刺繍の飾りが一つだけ掛かっていた。


「こちらへ」


ハンナが衣装箪笥の引き出しを開けた。奥の方から、古びた革の書類入れを取り出す。


「これは……?」


「先代の奥様——マリアンヌ様から、お預かりしたものでございます」


私の心臓が跳ねた。


マリアンヌ。カイドの前妻。ルシアンとリリアの、本当の母親。


ハンナが書類入れを開き、中から一通の封書を取り出した。封蝋は既に割れていたが、紋章の痕跡が残っている。トレヴァント家の紋章だ。


「これは、マリアンヌ様がお亡くなりになる三日前に、私にお渡しになったものです」


ハンナの声が、かすかに震えていた。


「遺言状、でございます」


私は差し出された封書を、恐る恐る受け取った。中の紙を広げる。そこには、繊細な筆跡で、こう記されていた。


『——私の死後、子供たちをどうか守ってください。決して、姉のもとへは渡さないでください。姉は子供たちを愛してはいません。利用することしか考えていないのです。私の最後の願いです。どうか——』


文字が途中で乱れていた。おそらく、書いている途中で力尽きたのだろう。けれど、その願いは、痛いほど明確だった。


「ハンナ、これを……なぜ今まで」


「申し訳ございません」


ハンナが深く頭を下げた。


「旦那様にお見せすべきか、ずっと迷っておりました。奥様がお亡くなりになった後、旦那様は……とても、お辛そうでしたから。これ以上、傷を抉るようなことはできないと」


その判断を、私は責められなかった。カイドがどれほどマリアンヌの死に打ちひしがれていたか、ハンナは誰よりも近くで見ていたのだろう。


「でも、今は違います」


ハンナが顔を上げた。その目には、決意があった。


「奥様——エレナ様が来てくださって、子供たちが変わりました。旦那様も、少しずつ。今なら、この遺言状を、正しく使っていただける方がいらっしゃいます」


私は遺言状を握りしめた。


マリアンヌは、知っていたのだ。イザベラの本性を。自分の死後、子供たちが狙われることを。そして、それを防ぐ手段を、ハンナに託していた。


「……ありがとう、ハンナ」


「とんでもございません。私は、三十年間この家にお仕えしてきた者として、やっと正しいことができます」


ハンナの目に、涙が光っていた。


---


私はすぐに書斎へ向かった。


扉を叩くと、カイドの低い声が返ってきた。


「入れ」


中に入ると、カイドは執務机に向かっていた。書類の山を前に、眉間に皺を寄せている。私の姿を見て、わずかに表情が緩んだ。


「どうした」


「お見せしたいものがあります」


私は遺言状を差し出した。カイドの目が、その古びた紙に注がれる。


「これは……」


「マリアンヌ様の遺言状です。ハンナが、ずっと預かっていたそうです」


カイドの顔から、血の気が引いた。


彼は遺言状を受け取り、食い入るように文字を追った。その目が、一行ごとに揺れている。


長い沈黙が落ちた。


やがて、カイドが口を開いた。


「……マリアンヌは、知っていたのか」


その声は、掠れていた。


「イザベラのことを。あいつの本性を」


「そのようです」


カイドは遺言状を机の上に置いた。その手が、微かに震えている。


「俺は、何も知らなかった」


「旦那様……」


「妻が何を恐れていたのか。何を願っていたのか。俺は、何一つ……」


その声には、深い後悔が滲んでいた。


私は言葉を探した。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。この人の傷に、私が触れていいのか。


「旦那様」


気がつけば、私は口を開いていた。


「マリアンヌ様は、あなたを責めてはいないと思います」


カイドが顔を上げた。その目が、私を見つめている。


「この遺言状は、責めるためのものではありません。守るためのものです。子供たちを守るための、最後の願いです」


「……」


「今からでも、その願いを叶えることはできます。この遺言状があれば、イザベラの主張は根拠を失います。マリアンヌ様自身が、子供たちを姉に渡さないでほしいと望んでいたのですから」


カイドは長い間、黙っていた。


やがて、彼は深く息を吐いた。その肩から、何か重いものが落ちたように見えた。


「……お前の言う通りだ」


カイドが立ち上がった。窓辺に歩み寄り、外を見つめる。


「マリアンヌの願いを、やっと果たせる」


その横顔は、悲しみよりも、安堵に近い表情を浮かべていた。


「エレナ」


「はい」


「お前がいてくれて、よかった」


私は息を呑んだ。


カイドは振り返らなかった。けれど、その言葉には、確かな重みがあった。感謝と、信頼と、そして——言葉にならない何かが。


「……ありがとうございます」


それしか言えなかった。胸が熱くて、他の言葉が出てこなかった。


---


その時、書斎の扉が激しく叩かれた。


「閣下!」


オスカーの声だ。けれど、彼は王都にいるはずでは——。


「入れ」


扉が開き、オスカーではなく、見知らぬ騎士が入ってきた。王都の紋章をつけた正装。宮廷からの使者だ。


「辺境伯カイド・トレヴァント閣下に、皇帝陛下より勅命を伝達いたします」


騎士が恭しく頭を下げ、書状を差し出した。


カイドが書状を受け取り、封を切る。その目が、文面を追うにつれて、わずかに見開かれた。


「……謁見、だと」


「はい。皇帝陛下は、辺境伯閣下ならびに夫人の、速やかなる参内を求めておられます」


私の心臓が、大きく跳ねた。


皇帝陛下が、私たちを呼んでいる。


カイドが私の方を見た。その目には、緊張と、覚悟があった。


「エレナ」


「……はい」


「王都へ行くぞ」


窓の外では、北風が唸りを上げていた。けれど、私の胸の中では、別の何かが燃え始めていた。


嵐は、いよいよ本番を迎えようとしている。

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