第8話『書状の罠』
朝食の後、私は子供部屋でルシアンとリリアの相手をしていた。
ルシアンの熱はすっかり下がり、頬にも血色が戻っている。リリアは兄の隣にぴったりとくっついて、折り紙の犬を大事そうに抱えていた。
「エレナさま、これ」
リリアが私に向かって、何かを差し出す。小さな手のひらの上に、不格好な折り紙がある。よく見ると、それは鳥の形をしていた。
「リリアが折ったの?」
「うん。おにいちゃんに、おしえてもらった」
ルシアンが照れくさそうに目を逸らす。けれど、その口元がわずかに緩んでいるのを、私は見逃さなかった。
「ありがとう、リリア。大切にするわね」
そう言って折り紙を受け取った時、扉を叩く音がした。
「奥様、旦那様がお呼びです」
ハンナの声だった。その口調に、いつもとは違う緊張が混じっている。
「分かったわ。二人とも、少し待っていてね」
私は立ち上がり、リリアからもらった折り紙をそっとポケットにしまった。
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書斎の扉を開けると、カイドが執務机の前に立っていた。
窓から差し込む光を背にして、その表情は影になってよく見えない。けれど、空気が張り詰めているのは分かった。
「座れ」
短い言葉。私は促されるまま、机の前の椅子に腰を下ろした。
カイドが一通の書状を机の上に置く。封は既に切られていた。
「読め」
私は書状を手に取り、目を通した。
文面は丁寧だった。けれど、その内容は刃物のように鋭い。
『——故マリアンヌ・トレヴァントの遺児であるルシアン及びリリアの養育環境について、深く憂慮しております。ヴェルナー伯爵家は、両名の母方血族として、後見権の移譲を正式に申請する所存です——』
後見権。
つまり、双子を法的にヴェルナー家の管理下に置く、ということだ。
「……これは」
「イザベラの差し金だ。だが、伯爵家の当主名義で出されている。正式な法的手続きを踏む気だろう」
カイドの声は低く、抑制されていた。けれど、その奥に怒りが燃えているのが分かる。
私は書状を読み返した。文面には、いくつかの論点が挙げられている。
第一に、現在の養育環境への懸念。第二に、辺境伯夫人——つまり私——が「白い結婚」の状態にあり、法的に正式な母親とは言えないこと。第三に、母方血族として子供たちの福祉を守る義務があること。
巧妙だった。どれも、表面上は子供たちのためを思っているように見える。
「旦那様」
「何だ」
「この書状、法的にはどこまで効力がありますか」
カイドの目が、わずかに細まった。私の質問の意図を測っているようだった。
「後見権の移譲は、皇帝陛下の裁可が必要だ。だが、申請自体は血族の権利として認められている」
「では、申請を却下させる方法はありますか」
「……何が言いたい」
私は深呼吸をした。前世の知識が、頭の中で形を結んでいく。
「白い結婚が問題にされているなら、それを解消すればいい。そして、私が正式に子供たちの養母になれば、母方血族としての優位性は消えます」
カイドは黙っていた。その沈黙が、私に続きを促している。
「婚姻届の正式な提出と、養子縁組の申請。この二つを先に行えば、ヴェルナー家の主張は根拠を失います」
「養子縁組には、双方の同意が必要だ」
「はい。ですから、旦那様と、子供たち自身の同意が」
「子供たちは五歳だ」
「だからこそ、今のうちに。子供たちが物心つく前に、法的な親子関係を確立しておくべきです」
私は自分でも驚くほど、はっきりと言葉を紡いでいた。
カイドは私をじっと見つめていた。その目に、何か複雑な感情が浮かんでいる。驚き、なのか。それとも、別の何かなのか。
「……お前は、それでいいのか」
「何がですか」
「養子縁組をすれば、お前はあの子たちの法的な母親になる。この婚姻が続く限り、その責任を負うことになる」
私は一瞬、言葉に詰まった。
この婚姻が続く限り。
それは、いつか終わる可能性を示唆している。白い結婚は、本来、どちらかが望めば解消できるものだ。私がこの屋敷にいられるのも、カイドがそれを許しているからに過ぎない。
けれど。
「私は、あの子たちを守りたいんです」
気がつけば、そう口にしていた。
「理由なんて、それだけで十分です。法的な母親になることで、あの子たちを守れるなら、私は喜んでその責任を負います」
カイドは長い間、何も言わなかった。
やがて、彼は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……分かった」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
「オスカーを呼べ」
カイドが扉の外に向かって声を上げる。ほどなく、オスカーが入ってきた。
「お呼びですか」
「王都に使者を出す。婚姻届の正式提出と、養子縁組の申請書類を準備しろ。皇帝陛下への上奏文も必要だ」
オスカーの目が、一瞬だけ私の方を向いた。その表情には驚きがあったが、すぐに引き締まった。
「承知しました。いつまでに」
「三日以内だ。ヴェルナー家より先に書類を提出する」
「了解です。……それと、閣下」
オスカーが声を落とした。
「王都の情報網から報告がありました。ヴェルナー伯爵家が、最近、宮廷のある派閥と接触しているようです」
「派閥?」
「詳細はまだ掴めていませんが……どうも、この件、単なる後見権争いではない可能性があります」
私は息を呑んだ。イザベラの背後に、別の力が働いている。
カイドの表情が、さらに険しくなった。
「調査を続けろ。尻尾を掴み次第、報告しろ」
「はっ」
オスカーが退出した後、書斎に沈黙が落ちた。
私は立ち上がろうとした。けれど、カイドの声がそれを止めた。
「エレナ」
名前を呼ばれたのは、これが初めてだった。
「……はい」
「お前の知恵を、借りたい」
その言葉に、私は目を見開いた。
カイドは窓の方を向いていた。その横顔は、相変わらず冷たく見える。けれど、その声には、確かに何かが込められていた。
「俺は戦場のことしか知らん。政治の駆け引きは、得意ではない。だが、お前には、そういう才がある」
「私は、ただの……」
「ただの飾り妻、か?」
カイドが振り返った。その目が、真っ直ぐに私を捉えている。
「俺には、そうは見えん」
胸が、熱くなった。
この人が、私を認めてくれている。ただの契約相手ではなく、対等な存在として。
「……分かりました」
私は頷いた。
「私にできることなら、何でもします」
カイドは何も言わなかった。けれど、その目が、わずかに和らいだように見えた。
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書斎を出た後、私は廊下の窓から外を見つめた。
北の空には、重い雲が垂れ込めている。嵐の予兆だ。
イザベラの背後にいる勢力。宮廷の派閥。後見権争いの裏に隠された、本当の目的。
まだ、何も分からない。けれど、一つだけ確かなことがある。
私は、もう「ただの飾り妻」ではいられない。
ポケットの中で、リリアからもらった折り紙の鳥が、小さく潰れた感触がした。私はそれをそっと取り出し、形を整える。
「……守るわ」
誰に言うでもなく、呟いた。
あの子たちも。この居場所も。そして——。
廊下の向こうから、子供たちの笑い声が聞こえてきた。私は折り紙をポケットに戻し、その声の方へ歩き出した。




