第7話『小さな手の温度』
ルシアンが熱を出した。
イザベラが帰った翌朝のことだった。いつものように子供部屋を訪れると、ベッドの上で小さな体が丸まっている。額に手を当てた瞬間、心臓が跳ねた。明らかに熱い。
「ルシアン、具合が悪いの?」
返事はない。ただ、ぎゅっと目を閉じて、毛布を握りしめている。
リリアがベッドの脇に座り込んでいた。兄の手を両手で包むようにして、離そうとしない。その目が不安に揺れているのが分かる。
「リリア、お兄ちゃんは大丈夫よ」
そう言いながら、私は前世の記憶を手繰り寄せていた。
保育園でも、こういう子はいた。行事の前や、何か大きなストレスがかかった後に、原因不明の熱を出す子。小児科医は「心因性」と呼んでいた。体は正直だ。心が悲鳴を上げると、熱という形で表に出る。
昨日のイザベラの言葉が、ルシアンにどれほどの重荷だったか。「王都へ戻りなさい」という命令。「あなたたちの居場所はここではない」という否定。五歳の子供が、あの圧力に耐えていたのだ。
私はハンナを呼び、冷たい水と布を頼んだ。
「お医者様をお呼びしましょうか」
「いえ、少し様子を見せてください。……たぶん、薬では治らない熱だと思うから」
ハンナは一瞬、不思議そうな顔をした。けれどすぐに頷いて、部屋を出て行く。信じてくれている。その事実が、今の私には何より心強かった。
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午後になっても、ルシアンの熱は下がらなかった。
私は濡れた布で額を冷やしながら、時折、水を飲ませる。ルシアンは目を開けることもあったけれど、すぐにまた眠りに落ちていく。
リリアは、ずっと兄の傍を離れなかった。
「リリア、少し休んでもいいのよ」
首を横に振る。小さな手が、兄の手を握ったまま。
「……おにいちゃん、いなくならない?」
その問いかけに、胸が締め付けられた。
この子たちは、母親を失っている。父親には避けられている。そして昨日、唯一の血縁である伯母から「連れ戻す」と脅された。リリアが怖がるのは当然だった。
「いなくならないわ」
私はリリアの頭をそっと撫でた。
「お兄ちゃんは強いから。熱が出ても、ちゃんと治る。私がそばにいるから、大丈夫」
リリアの目から、涙がこぼれた。声を出さずに、静かに泣いている。私はその小さな体を抱き寄せて、背中をさすり続けた。
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夕刻、子供部屋の扉が開いた。
私は振り返り、そして息を呑んだ。
カイド・トレヴァントがそこに立っていた。
「……失礼する」
低い声。けれど、いつもの冷たさとは違う何かが混じっている。
私は咄嗟に立ち上がった。この人が子供部屋に来るのは、この屋敷に来てから初めてだった。ハンナから聞いた話が頭をよぎる。「旦那様は、子供部屋を避けていらっしゃいます」と。
カイドは部屋の中を見回した。壁に貼られた折り紙の動物たち。窓辺に並べた小さな花瓶。そして、ベッドで眠るルシアンと、その傍らで目を丸くしているリリア。
「……熱を出したと聞いた」
「はい。朝から下がらなくて」
「医者は」
「呼んでいません。おそらく、心因性の発熱だと思いましたので」
カイドの眉が、わずかに動いた。私の判断を疑っているのかもしれない。けれど、彼は何も言わなかった。
ゆっくりと、ベッドに近づいていく。その足取りは重く、まるで見えない壁を押し分けているようだった。
ルシアンが目を開けた。
熱で潤んだ紫色の瞳が、父親の姿を捉える。一瞬、何かを探すように瞬きをして、そして——。
「……おとう、さま」
掠れた声。けれど、確かにそう呼んだ。
カイドの表情が、凍りついた。
「おとうさま、ぼく……」
ルシアンの目から、涙が溢れ出した。堰を切ったように、止まらない。小さな体が震えている。何を言おうとしているのか、言葉にならない。ただ、泣いている。
私は口を挟まなかった。
これは、この父子の時間だ。三年間、ずっと避けてきた時間。ルシアンがどれほど父を求めていたか。カイドがどれほど子供を恐れていたか。その両方が、今、この部屋でぶつかっている。
カイドは、長い沈黙の後、手を伸ばした。
ぎこちない動きだった。どうすればいいのか分からない、という戸惑いが見える。けれど、その手はルシアンの頭に触れた。銀灰色の髪を、不器用に、けれど確かに撫でている。
「……眠れ」
たった一言。けれど、その声は震えていた。
ルシアンは泣きながら、小さく頷いた。父の手が頭にある。たったそれだけのことが、この子にとってどれほどの意味を持つか。私には分かる気がした。
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リリアは、いつの間にか眠っていた。兄の手を握ったまま、ベッドの脇で体を丸めている。
私は毛布をかけてやりながら、部屋を出ようとするカイドの背中を見た。
「旦那様」
呼びかけると、彼は足を止めた。振り返らない。けれど、聞いている。
「ルシアンは、ずっと待っていたんだと思います。お父様が来てくれるのを」
返事はない。
「……私が口出しすることではないかもしれません。でも、あの子たちには、あなたが必要です」
長い沈黙が落ちた。廊下の松明が、カイドの影を揺らしている。
やがて、彼は振り返った。その表情は、相変わらず読めない。けれど、目の奥に、何かが揺れているように見えた。
「……すまなかった」
低く、短い言葉。
私は一瞬、耳を疑った。この人が、謝罪の言葉を口にするなんて。
「子供たちを、任せる」
それだけ言って、カイドは廊下へ消えていった。
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。「すまなかった」という言葉が、胸の中で何度も響いている。あれは誰への謝罪だったのだろう。子供たちへか。私へか。それとも、亡くなった前妻へか。
分からない。けれど、あの人が初めて、子供部屋に足を踏み入れた。ルシアンの頭を撫でた。それは確かな事実だった。
小さな、けれど確かな一歩。
私は子供部屋に戻り、眠る二人の顔を見つめた。ルシアンの頬には、まだ涙の跡が残っている。けれど、その表情は少しだけ穏やかになっていた。
「……大丈夫。きっと、大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いて、私は椅子に座り直した。今夜は、ここで二人を見守ろう。
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翌朝、ルシアンの熱は下がっていた。
リリアが「おにいちゃん、つめたい!」と嬉しそうに叫んで、ルシアンが照れくさそうに顔を背ける。その光景を見ながら、私は安堵の息を吐いた。
扉を叩く音がして、ハンナが入ってきた。その表情が、いつもと違う。
「奥様、少々よろしいでしょうか」
「どうしたの?」
ハンナは一瞬、子供たちの方を見た。それから、声を落として言う。
「王都から、書状が届きました。宛先は旦那様ですが……差出人がヴェルナー伯爵家となっております」
心臓が、冷たくなる。
イザベラ。あの女は、もう次の手を打ってきたのだ。
私は子供たちに笑顔を向けた。
「二人とも、朝ごはんにしましょうか。ハンナ、お願いできる?」
「かしこまりました」
ハンナが子供たちを連れて部屋を出ていく。私は窓の外を見つめた。北の空は、今日も灰色に曇っている。
嵐は、まだ終わっていない。




