第6話「嵐の来訪者」
その日は、朝から妙に落ち着かなかった。
子供部屋でルシアンとリリアに読み聞かせをしていると、廊下を走る足音が聞こえた。普段、この屋敷の使用人たちは静かに歩く。誰かが急いでいるのは珍しいことだった。
「奥様」
扉が開き、ハンナが顔を出した。その表情がいつになく硬い。
「お客様がお見えです。王都から——ヴェルナー伯爵令嬢、イザベラ様が」
ルシアンの体が、びくりと強張った。
「ヴェルナー……?」
「はい。先の奥方様のお姉様にあたる方です。『甥と姪の様子を見に来た』と仰せで」
私はルシアンを見た。彼の顔から血の気が引いている。リリアも兄の異変を感じ取ったのか、不安そうに袖を掴んだ。
「……わかりました。応接間にお通しして。すぐに参ります」
ハンナが頷いて去っていく。私はルシアンの前にしゃがんだ。
「ルシアン。イザベラ様のこと、知ってる?」
「……伯母様」
かすれた声だった。
「お母様の、お姉様。でも——」
彼は言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだような顔。
「大丈夫。私が対応するから、二人はここにいて」
「でも——」
「大丈夫」
私は微笑んで、二人の頭を撫でた。それから立ち上がり、部屋を出た。
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応接間に入ると、一人の女性がソファに座っていた。
深い紫色の髪を複雑に編み上げ、華やかなドレスを纏っている。整った顔立ちは美しいが、どこか冷たい印象を与えた。切れ長の目が、私を値踏みするように見つめている。
「お待たせいたしました。トレヴァント辺境伯夫人、エレナと申します」
「まあ、あなたがカイド様の……奥様?」
イザベラは立ち上がりもせず、口元に薄い笑みを浮かべた。
「ふふ、お若いのにご苦労様ですこと。辺境での暮らしは、さぞ退屈でしょう」
声には明らかな侮蔑が滲んでいた。私を見下している。借金返済のために売られてきた女、とでも思っているのだろう。
「お気遣いありがとうございます。ですが、私は充実した日々を過ごしております」
「あら、そう。それは何より」
興味なさそうに言って、イザベラは扇子を開いた。
「本題に入らせていただきますわ。わたくし、甥と姪に会いに参りましたの。ルシアンとリリア——亡き妹の忘れ形見ですもの、心配で夜も眠れませんでしたわ」
白々しい言葉だった。本当に心配しているなら、三年間放っておくはずがない。
「子供たちは元気にしております。今は部屋で休んでいますが——」
「まあ、それなら会わせていただけるかしら。わたくし、長旅で疲れておりますの。早く可愛い甥と姪の顔が見たくて」
私は一瞬、迷った。子供たちは怯えている。会わせるべきではない気がする。でも、親族の面会を拒否する権限が、私にあるのだろうか。
「……少々お待ちください。子供たちに確認して参ります」
「確認? 伯母に会うのに、確認が必要ですの?」
イザベラの眉が上がった。不快感を隠そうともしない。
「子供たちの意思を尊重したいのです」
「意思? 五歳の子供に意思なんてありませんわ。大人が導いてあげるものですもの」
その言葉に、胸の奥で何かが軋んだ。
私は答えず、一礼して部屋を出た。
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子供部屋に戻ると、ルシアンとリリアは抱き合うようにして座っていた。
「エレナ……」
ルシアンが顔を上げた。その目には、隠しきれない恐怖があった。
「イザベラ伯母様が会いたいと言っているの。どうする?」
「……嫌だ」
即答だった。
「伯母様には、会いたくない」
「理由を聞いてもいい?」
ルシアンは少し黙った。それから、絞り出すように言った。
「伯母様は……お母様が好きじゃなかった。僕たちのことも、好きじゃない」
「どうしてそう思うの?」
「前に、お母様のお葬式で……」
彼の声が震えた。
「『あなたたちがいなければ、マリアンヌは死ななかった』って。お父様に向かって、そう言ったの。僕たち、聞いてた」
私は息を呑んだ。
葬儀の場で、遺された子供たちの前で、そんな言葉を。
「リリアは覚えてないと思う。でも、僕は覚えてる。伯母様の目、すごく怖かった」
ルシアンが私の袖を掴んだ。
「行きたくない。王都には、行きたくない」
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応接間に戻ると、イザベラは苛立たしげに扇子を動かしていた。
「お待たせいたしました」
「それで? わたくしの可愛い甥と姪は?」
「申し訳ありませんが、子供たちは今日はお会いしたくないと申しております」
イザベラの表情が凍りついた。
「……何ですって?」
「子供たちの意思を尊重したいと申し上げました。彼らは、今日は会いたくないそうです」
「五歳の子供の言うことを真に受けるなんて、正気ですの?」
イザベラが立ち上がった。その目に、剣呑な光が宿る。
「いいこと? わたくしはあの子たちの伯母ですのよ。血縁者ですの。あなたのような——」
言葉を切り、私を見下すように顎を上げた。
「あなたのような、借金のカタに売られてきた女とは、立場が違いますの」
「……」
「子供たちを、しばらく王都の私の屋敷でお預かりしたいの。辺境は教育環境が整っておりませんでしょう? 可哀想に、こんな寒い場所に閉じ込められて」
本音が出た。
連れ帰りたいのだ。双子を、自分の手元に。
「お断りいたします」
私は静かに、しかしはっきりと言った。
「子供たちの処遇は、辺境伯であるカイド様がお決めになることです。私からは何とも申し上げられません」
「あなたに聞いていないわ」
「ですが、私はこの家の夫人です」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「子供たちに関わることは、私にも当事者としての権利があります。そして今、子供たちは『会いたくない』と言っています。それを無視して引きずり出すことは、私にはできません」
イザベラの目が見開かれた。反論されるとは思っていなかったのだろう。
「……あなた、自分が何を言っているかわかっていますの?」
「わかっております」
「後悔なさいますわよ」
低い声だった。脅しの響きを帯びている。
「わたくしを敵に回すとどうなるか、よくお考えになることね」
イザベラは扇子を閉じ、踵を返した。
「今日のところは帰りますわ。でも、これで終わりではありませんから」
そう言い残して、応接間を出ていった。
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彼女の馬車が屋敷を出ていくのを、私は窓から見送った。心臓がまだ早鐘を打っている。手が微かに震えていた。
「……やってしまった」
呟いた。
権力者に逆らった。伯爵令嬢を敵に回した。名目だけの夫人である私に、そんな権限があるのだろうか。カイドに知られたら、どうなるのだろう。
でも——後悔はなかった。
子供部屋に戻ると、ルシアンとリリアが駆け寄ってきた。
「エレナ! 伯母様は?」
「帰ったわ。今日は、会わなくていいことになった」
ルシアンの表情が、ほっと緩んだ。リリアが私の腰にしがみつく。
「ありがとう……」
ルシアンが言った。小さな声だったが、はっきりと聞こえた。
「エレナ、ありがとう」
初めての「ありがとう」だった。
胸が熱くなる。この子たちを守れた。それだけで、十分だった。
「どういたしまして」
私は二人を抱きしめた。
でも、心のどこかで理解していた。これで終わりではない。イザベラは必ず、別の手段で来る。
そして——この問題の根本は、まだ何も解決していない。
カイドが動かない限り、私たちの立場は脆いままだ。
窓の外で、また雪が強くなり始めていた。




