第10話『家族の名前』
王都グランハイムの王宮は、北の辺境とは別世界だった。
白亜の壁、金の装飾、磨き抜かれた大理石の床。どこを見ても豪奢で、息が詰まりそうになる。
私は控えの間で、静かに呼吸を整えていた。
隣にはカイドが立っている。正装の軍服に身を包んだその姿は、戦場で名を馳せた辺境伯そのものだった。冷たく、厳しく、揺るぎない。
「緊張しているか」
低い声が、私に向けられた。
「……少しだけ」
嘘だった。心臓は早鐘を打ち、手のひらには汗が滲んでいる。今日の謁見で、すべてが決まる。子供たちの未来も、私の居場所も。
「案ずるな」
カイドの声が、思いのほか穏やかだった。
「俺がいる」
その言葉に、私は顔を上げた。カイドは前を向いたままだったが、その横顔には、確かな決意があった。
「……はい」
私は頷いた。そうだ。一人ではない。今は、この人がいる。
控えの間の扉が開いた。宮廷の侍従が、恭しく頭を下げる。
「辺境伯閣下、夫人。陛下がお待ちです」
私たちは並んで、謁見の間へと足を踏み入れた。
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謁見の間は、想像以上に広かった。
高い天井から陽光が降り注ぎ、玉座を照らしている。その玉座に座るのは、白髪の老人だった。皇帝アルベルト三世。この国のすべてを統べる男。
私たちは玉座の前で膝をついた。
「面を上げよ」
皇帝の声は、年齢に似合わず力強かった。私たちが顔を上げると、皇帝の鋭い目がこちらを見据えていた。
「辺境伯カイド・トレヴァント。そしてその夫人、エレナ・トレヴァント」
「はい、陛下」
「此度の件、直接話を聞きたいと思い、呼び出した。まずは——」
皇帝が手を振ると、広間の横手から、別の一団が進み出た。
その先頭に立つ女の姿を見て、私は息を呑んだ。
イザベラ・ヴェルナー。
紫色の髪を高く結い上げ、豪華なドレスに身を包んでいる。その顔には、勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
「陛下、ヴェルナー伯爵家を代表し、僭越ながら申し上げます」
イザベラが優雅に一礼した。
「亡き妹マリアンヌの遺児、ルシアンとリリアの養育環境について、私どもは深く憂慮しております。現在の辺境伯邸では、子供たちに適切な教育と愛情が与えられているとは言い難く——」
淀みない弁舌だった。言葉の一つ一つが、私たちを追い詰めるように紡がれていく。
「——加えて、現夫人であるエレナ・トレヴァントは、形式上の婚姻関係にあるのみで、実質的な母親としての役割を果たしておりません。いわゆる『白い結婚』の状態であり、法的にも——」
「待て」
カイドの声が、イザベラの弁舌を遮った。
イザベラの眉が、わずかに吊り上がる。
「何か、おっしゃりたいことでも?」
「陛下」
カイドは皇帝に向き直った。その声は、氷のように冷たく、鋼のように硬かった。
「ヴェルナー家の主張に対し、反証がございます」
懐から、一通の書状を取り出す。あの遺言状だ。
「これは、亡き前妻マリアンヌが、死の直前に残した遺言状でございます」
広間にざわめきが走った。イザベラの顔から、笑みが消えた。
「遺言状……ですって?」
「侍従、これを陛下にお見せしろ」
侍従が遺言状を受け取り、皇帝のもとへ運ぶ。皇帝はそれを広げ、じっくりと目を通した。
長い沈黙が落ちた。
やがて、皇帝が顔を上げた。その目が、イザベラを射抜く。
「ヴェルナー伯爵令嬢」
「は、はい、陛下」
「この遺言状には、こう記されている。『子供たちを、決して姉のもとへは渡さないでほしい。姉は子供たちを愛してはいない。利用することしか考えていない』と」
イザベラの顔が、蒼白になった。
「そ、それは偽造です! 妹がそのようなことを書くはずが——」
「筆跡は鑑定済みだ。マリアンヌ・トレヴァントのものに間違いない」
皇帝の声が、冷たく響いた。
「つまり、故人自身が、子供たちをヴェルナー家に渡すことを拒否していた。その事実を、どう説明する?」
「それは……その……」
イザベラの声が震えていた。完璧だった仮面が、音を立てて崩れていく。
「陛下、どうかお聞きください。私は妹を愛しておりました。子供たちのことも——」
「愛していた、だと?」
皇帝が遮った。その声には、明らかな嘲りがあった。
「愛する者が、なぜ死の間際に、お前に子供を渡すなと遺言を残す? お前の『愛』とやらが、どれほど信用ならぬものか、この紙が証明している」
「違います! これは何かの間違いです! あの女が——」
イザベラが私を指差した。その目が、憎悪に燃えている。
「あの成り上がりの女が、何か企んでいるに違いありません! 辺境伯を誑かして、家を乗っ取ろうとしているのです!」
「黙れ」
カイドの声が、広間を凍りつかせた。
「この者は俺の妻だ」
その言葉に、私は息を呑んだ。
カイドは一歩前に出た。その背中が、私を庇うように立ちはだかっている。
「エレナは、俺の子供たちを守り、俺の家を守っている。成り上がりだの誑かしだの、二度と俺の妻を侮辱することは許さん」
広間が静まり返った。
イザベラは口をぱくぱくと動かしていたが、言葉が出てこない。その顔は、怒りと屈辱で醜く歪んでいた。
皇帝が、ゆっくりと立ち上がった。
「裁定を下す」
その声が、広間に響き渡った。
「ヴェルナー伯爵家による後見権移譲の申請を、却下する。ルシアン・トレヴァント、リリア・トレヴァントの養育権は、引き続き父カイド・トレヴァントに帰属するものとする」
私の胸に、熱いものが込み上げた。
「また——」
皇帝の目が、イザベラを捉えた。
「イザベラ・ヴェルナー。今後、辺境伯家への不当な干渉を行った場合、相応の処分を下す。心して振る舞え」
イザベラの顔が、さらに青ざめた。
「そんな……こんなはずでは……」
「下がれ」
皇帝の一言で、イザベラは侍従たちに促されるようにして退出していった。その背中は、来た時の堂々とした姿とは似ても似つかない、惨めなものだった。
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謁見を終え、私たちは王宮の回廊を歩いていた。
窓から差し込む夕陽が、白い壁を茜色に染めている。
「……終わったんですね」
私は、まだ夢を見ているような心地だった。
「ああ」
カイドの声は、いつもより柔らかかった。
「お前のおかげだ」
「私は何も……」
「遺言状を見つけ出し、俺に見せた。それだけで十分だ」
カイドが足を止めた。私も立ち止まり、彼を見上げる。
夕陽が、カイドの顔を照らしていた。その目には、今まで見たことのない光があった。
「エレナ」
「……はい」
「お前は俺の妻だ」
その言葉に、胸が震えた。
「白い結婚などではない。お前は、俺の——」
カイドが言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。
「……帰るぞ」
彼が歩き出す。私も慌てて後を追った。
その時、大きな手が、私の手を掴んだ。
私は驚いて、隣を見上げた。カイドは前を向いたまま、何も言わない。けれど、その手は確かに、私の手を握っていた。
「旦那様……」
「……カイドでいい」
小さな、けれどはっきりとした声。
「お前は、俺の妻なのだから」
私の目から、涙がこぼれた。止めようとしても、止まらなかった。
「……はい」
握り返した手に、力を込める。
「はい、カイド」
回廊の先には、帰りの馬車が待っている。北の辺境へ。私たちの家へ。
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辺境伯邸に戻ったのは、それから三日後のことだった。
馬車が屋敷の前に止まると、玄関から二つの小さな影が飛び出してきた。
「おかえりなさい!」
ルシアンとリリアだった。ハンナに手を引かれ、満面の笑みで駆け寄ってくる。
私は馬車を降り、膝をついて二人を迎えた。
「ただいま、ルシアン、リリア」
リリアが私の首に抱きついた。その小さな体が、震えている。
「エレナさま、エレナさま」
「どうしたの、リリア」
リリアが顔を上げた。その目には涙が浮かんでいたが、口元は笑っていた。
「あのね、あのね」
何かを言おうとして、言葉に詰まっている。ルシアンが、妹の隣に立った。
「……俺たち、考えたんだ」
「何を?」
ルシアンは一瞬、恥ずかしそうに目を逸らした。それから、意を決したように私を見た。
「エレナさま、じゃなくて……」
リリアが、ルシアンの言葉を継いだ。
「おかあさま」
私の心臓が、止まった。
「おかあさま、おかえりなさい!」
リリアが、もう一度私に抱きついた。その言葉が、胸の奥深くに染み込んでいく。
「……っ」
声が出なかった。涙が溢れて、止まらなかった。
小さな腕が、私を包んでいる。もう一つの腕が——ルシアンの腕が、そっと私の背中に触れた。
「……おかあさま」
ルシアンの声も、震えていた。
私は二人を抱きしめた。この小さな命を、この温もりを、絶対に手放さない。そう心に誓った。
顔を上げると、カイドが私たちを見下ろしていた。その顔には、微かな——けれど確かな笑みが浮かんでいた。
「……行くぞ」
カイドが手を差し伸べた。私はその手を取り、立ち上がる。
ルシアンとリリアが、私たちの間に入ってきた。四人で並んで、屋敷の中へ歩いていく。
北の空は、今日も灰色だった。けれど、私の心は、今までで一番温かかった。
これが、私の家族だ。
私の、居場所だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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