表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『白い結婚』で放置された私、双子の義子を育てていたら氷の辺境伯が溶けました  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

第1話「凍える子供部屋」

馬車の窓から見える景色が、白一色に変わってどれほど経っただろう。


吐く息が白い。毛皮の膝掛けを引き寄せても、骨の芯まで染みる寒さは防ぎきれなかった。


「……北の果て、か」


呟いた声は、自分でも驚くほど平坦だった。


私、エレナ・フローリアは——いや、今日からはエレナ・トレヴァントは、帝国最北端の辺境伯領へ嫁ぐ。


嫁ぐ、という言葉は正確ではないかもしれない。


売られた。


そう言うほうが、ずっと実態に近い。


父が遺した借金を帳消しにする代わりに、私は「辺境伯の名目上の妻」になることを命じられた。本人の意思確認など、形式的なものだった。


「お嬢様——いえ、奥様。そろそろ到着いたします」


御者の声に顔を上げる。


窓の向こうに、灰色の城がそびえていた。


雪に閉ざされた山肌を背景に、威圧的なまでの存在感で建っている。壁面は花崗岩だろうか、冷たい色合いが空の鉛色と溶け合っていた。


美しい、とは思わなかった。


ただ、「ここで生きていくのだ」という実感が、静かに胸に落ちた。


---


馬車が止まると、すぐに屋敷の使用人たちが出迎えた。


整列した彼らは礼儀正しく頭を下げたが、その目には温度がなかった。好奇心でも、歓迎でもない。義務を果たしているだけの、空虚な視線。


「ようこそ、トレヴァント辺境伯邸へ。奥様」


進み出たのは、四十代半ばと見える女性だった。茶色の髪に白いものが混じり、柔和だが芯のある顔立ち。腰には鍵束を下げている。


「侍女頭のハンナと申します。以後、お側でお世話をさせていただきます」


「よろしくお願いします、ハンナ」


私が微笑むと、彼女は一瞬だけ目を見開いた。何かを予想していて、外れたような顔。


——私が泣いていると思ったのだろうか。


無理もない。借金のカタに売られた令嬢が、笑っているほうがおかしい。


でも、私には泣く理由がなかった。


三十二年と二十四年。合わせて五十六年分の人生で、私は学んでいる。


泣いても状況は変わらない。変えたければ、動くしかない。


「寒いですね。中へ入りましょう」


ハンナは少しだけ表情を緩めて、頷いた。


---


案内された部屋は、広く、そして冷たかった。


二十畳ほどの居室に、隣接する寝室と化粧室。調度品は上質だが、どこか埃っぽい。長く使われていなかった部屋を、急いで整えたような印象を受けた。


「こちらが奥様のお部屋になります。ご不便がありましたら、何なりとお申し付けください」


「ありがとう。……あの、旦那様にご挨拶をしたいのですが」


ハンナの表情が、一瞬だけ曇った。


「旦那様は本日、軍務でお忙しく……夜になれば、執務室でお会いになれるかと」


「わかりました」


それ以上は聞かなかった。聞いても、答えは変わらないだろうから。


ハンナが下がった後、私は窓辺に立った。


外は雪。灰色の空から、絶え間なく白いものが降り続けている。


——前世で死んだのは、過労だった。


保育園で十年働いて、休みなんてほとんどなくて、気づいたら心臓が止まっていた。三十二歳。まだまだやりたいことがあったのに。


目を覚ましたら、この世界の没落貴族の赤ん坊になっていた。


理由はわからない。神様がいるのか、たまたまなのか。考えても答えは出ないから、考えるのはやめた。


与えられた環境で、できることをする。


それが、私の生き方だ。


「……さて」


窓から離れ、荷解きを始める。


少なくとも、衣食住は保証されている。借金取りに追われることもない。前の人生を思えば、ここは天国かもしれない。


自分にそう言い聞かせながら、私は最初の夜を待った。


---


夜。


執務室の前で、私は深呼吸をした。


扉の向こうに、夫になる人がいる。顔も知らない。声も聞いたことがない。ただ、「氷の辺境伯」と呼ばれているらしいことだけは、道中で御者から聞いていた。


ノックをする。


「……入れ」


低い声が返ってきた。


扉を開けると、広い部屋の奥に、男が座っていた。


銀灰色の髪。深い青灰色の目。彫りの深い、精悍な顔立ち。


——綺麗な人だ。


それが最初の感想だった。同時に、「近寄りがたい」とも思った。


彼は書類から顔を上げたが、立ち上がりはしなかった。


「エレナ・フローリアか」


「はい。本日より、お世話になります」


「……必要なものがあれば侍女に言え。生活に不自由はさせない」


事務的な声だった。私を見ているようで、見ていない目。


「ただし」


彼は一度、言葉を切った。


「俺に妻としての役割を期待するな。触れるつもりはない」


——ああ、なるほど。


「白い結婚」というやつか。名目だけの妻。体の関係はなく、跡継ぎを産む義務もない。


驚きはなかった。むしろ、予想通りだった。


借金返済の道具として連れてこられた女に、愛情を期待するほうがおかしい。


「わかりました」


私が頷くと、彼の目が——ほんの一瞬だけ、揺れたように見えた。


何かを言いかけて、飲み込んだような。


でも、それは気のせいかもしれない。すぐに彼は視線を書類に戻した。


「下がっていい」


「はい。おやすみなさいませ、旦那様」


私は一礼して、執務室を出た。


廊下を歩きながら、考える。


「触れるつもりはない」——つまり、干渉もされないということだ。


私に自由がある。


この広い屋敷で、私は私のやりたいように動ける。


「……悪くない、かもしれない」


小さく呟いて、私は自室へ戻った。


---


翌朝。


朝食を簡単に済ませた後、私は屋敷の中を歩いてみることにした。


「奥様、ご案内いたしましょうか」


ハンナが声をかけてくれたが、私は首を振った。


「一人で歩いてみたいの。この屋敷に慣れておきたいから」


「……かしこまりました。何かあれば、呼び鈴でお呼びください」


一人になると、足取りが軽くなった。


屋敷は広い。石造りの廊下は冷たいが、要所に敷かれた絨毯が足元を温めてくれる。窓からは雪景色。魔導炉のおかげか、廊下でも凍えるほどではなかった。


主棟、客棟、使用人棟。厨房、大広間、図書室。


一通り歩いて、構造を頭に入れていく。


そして——気づいた。


西棟の奥に、明らかに使われていない区画がある。


廊下の絨毯が途切れ、壁の燭台に火が灯っていない。他の場所と比べて、空気が違った。


「……何があるんだろう」


好奇心ではない。屋敷の管理者として、把握しておくべきだという判断。


私は足を踏み入れた。


---


その部屋を見つけたのは、偶然だった。


廊下の突き当たりにある、大きな扉。取っ手に触れると、鍵はかかっていなかった。


開けた瞬間、冷気が頬を撫でた。


暖炉に火が入っていない。


部屋の中は薄暗く、埃の匂いがした。カーテンは閉じられ、わずかに漏れる光だけが、室内を照らしている。


——子供部屋だ。


小さなベッドが二つ。壁には色褪せた絵。棚には古びた玩具。


そして、ベッドの上に——。


人がいた。


小さな体が二つ、薄い毛布にくるまって眠っている。


「……っ」


息を呑んだ。


近づいて、よく見る。


銀灰色の髪。幼い顔。五歳くらいだろうか。双子のように見える。


枕元には、冷え切ったスープの皿が置かれていた。パンの欠片が残っている。誰かが食事を運んではいるらしい。


でも——この部屋は、冷たすぎる。


暖炉に火がない。毛布は薄い。子供が過ごす環境じゃない。


私の中で、何かが軋んだ。


保育士として十年働いた本能が、警鐘を鳴らしている。


これは——。


「……誰?」


低い声に、私は顔を上げた。


片方のベッドで、銀髪の男の子が目を覚ましていた。


紫色の瞳が、警戒をあらわにして私を睨んでいる。


「あなたは……」


「出ていって」


遮られた。


「僕たちに構わないで」


五歳児の声とは思えなかった。大人びた抑揚。感情を押し殺した、冷たい響き。


「僕たちのことは、放っておいて」


私は何も言えなかった。


彼の目には、五歳児が持つべきではないものがあった。


諦め。拒絶。そして——かすかな、怯え。


「……ごめんなさい。起こしてしまったわね」


私は一歩下がった。


「また来てもいい?」


「来なくていい」


即答だった。


「誰も来なくていい。僕たちは——僕たちだけでいい」


その言葉が、胸に刺さった。


私は何も言わず、部屋を出た。


---


夜。


自室のベッドに横たわっても、眠れなかった。


あの子供たちの顔が、頭から離れない。


「僕たちに構わないで」


その言葉の裏にあるもの。


どれだけ傷ついたら、五歳の子供があんな目をするようになるのか。


——私は知っている。


前世で、似たような子供を見たことがある。


虐待を受けていた園児。親に愛されていなかった子供。私は気づいていたのに、証拠がなくて、何もできなかった。


結局、あの子は親に連れ戻された。


その後のことは、わからない。


わからないまま、私は死んだ。


「……」


天井を見つめる。


この屋敷で、私に何ができる?


名目だけの妻。権限なんてない。あの子供たちの養育に口を出す立場じゃない。


でも——。


「見なかったふりは、できない」


呟いた声は、思ったより強かった。


前世で後悔した。同じ後悔は、もうしたくない。


立場がどうとか、権限がどうとか、そんなことは後から考える。


今、目の前に、凍えている子供がいる。


「……明日、もう一度行こう」


決めた。


何をするかは、まだわからない。


でも、まずは——知ることから始める。


あの子供たちのことを。この屋敷のことを。


私にできることを、探す。

窓の外では、雪が降り続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ