第1話「凍える子供部屋」
馬車の窓から見える景色が、白一色に変わってどれほど経っただろう。
吐く息が白い。毛皮の膝掛けを引き寄せても、骨の芯まで染みる寒さは防ぎきれなかった。
「……北の果て、か」
呟いた声は、自分でも驚くほど平坦だった。
私、エレナ・フローリアは——いや、今日からはエレナ・トレヴァントは、帝国最北端の辺境伯領へ嫁ぐ。
嫁ぐ、という言葉は正確ではないかもしれない。
売られた。
そう言うほうが、ずっと実態に近い。
父が遺した借金を帳消しにする代わりに、私は「辺境伯の名目上の妻」になることを命じられた。本人の意思確認など、形式的なものだった。
「お嬢様——いえ、奥様。そろそろ到着いたします」
御者の声に顔を上げる。
窓の向こうに、灰色の城がそびえていた。
雪に閉ざされた山肌を背景に、威圧的なまでの存在感で建っている。壁面は花崗岩だろうか、冷たい色合いが空の鉛色と溶け合っていた。
美しい、とは思わなかった。
ただ、「ここで生きていくのだ」という実感が、静かに胸に落ちた。
---
馬車が止まると、すぐに屋敷の使用人たちが出迎えた。
整列した彼らは礼儀正しく頭を下げたが、その目には温度がなかった。好奇心でも、歓迎でもない。義務を果たしているだけの、空虚な視線。
「ようこそ、トレヴァント辺境伯邸へ。奥様」
進み出たのは、四十代半ばと見える女性だった。茶色の髪に白いものが混じり、柔和だが芯のある顔立ち。腰には鍵束を下げている。
「侍女頭のハンナと申します。以後、お側でお世話をさせていただきます」
「よろしくお願いします、ハンナ」
私が微笑むと、彼女は一瞬だけ目を見開いた。何かを予想していて、外れたような顔。
——私が泣いていると思ったのだろうか。
無理もない。借金のカタに売られた令嬢が、笑っているほうがおかしい。
でも、私には泣く理由がなかった。
三十二年と二十四年。合わせて五十六年分の人生で、私は学んでいる。
泣いても状況は変わらない。変えたければ、動くしかない。
「寒いですね。中へ入りましょう」
ハンナは少しだけ表情を緩めて、頷いた。
---
案内された部屋は、広く、そして冷たかった。
二十畳ほどの居室に、隣接する寝室と化粧室。調度品は上質だが、どこか埃っぽい。長く使われていなかった部屋を、急いで整えたような印象を受けた。
「こちらが奥様のお部屋になります。ご不便がありましたら、何なりとお申し付けください」
「ありがとう。……あの、旦那様にご挨拶をしたいのですが」
ハンナの表情が、一瞬だけ曇った。
「旦那様は本日、軍務でお忙しく……夜になれば、執務室でお会いになれるかと」
「わかりました」
それ以上は聞かなかった。聞いても、答えは変わらないだろうから。
ハンナが下がった後、私は窓辺に立った。
外は雪。灰色の空から、絶え間なく白いものが降り続けている。
——前世で死んだのは、過労だった。
保育園で十年働いて、休みなんてほとんどなくて、気づいたら心臓が止まっていた。三十二歳。まだまだやりたいことがあったのに。
目を覚ましたら、この世界の没落貴族の赤ん坊になっていた。
理由はわからない。神様がいるのか、たまたまなのか。考えても答えは出ないから、考えるのはやめた。
与えられた環境で、できることをする。
それが、私の生き方だ。
「……さて」
窓から離れ、荷解きを始める。
少なくとも、衣食住は保証されている。借金取りに追われることもない。前の人生を思えば、ここは天国かもしれない。
自分にそう言い聞かせながら、私は最初の夜を待った。
---
夜。
執務室の前で、私は深呼吸をした。
扉の向こうに、夫になる人がいる。顔も知らない。声も聞いたことがない。ただ、「氷の辺境伯」と呼ばれているらしいことだけは、道中で御者から聞いていた。
ノックをする。
「……入れ」
低い声が返ってきた。
扉を開けると、広い部屋の奥に、男が座っていた。
銀灰色の髪。深い青灰色の目。彫りの深い、精悍な顔立ち。
——綺麗な人だ。
それが最初の感想だった。同時に、「近寄りがたい」とも思った。
彼は書類から顔を上げたが、立ち上がりはしなかった。
「エレナ・フローリアか」
「はい。本日より、お世話になります」
「……必要なものがあれば侍女に言え。生活に不自由はさせない」
事務的な声だった。私を見ているようで、見ていない目。
「ただし」
彼は一度、言葉を切った。
「俺に妻としての役割を期待するな。触れるつもりはない」
——ああ、なるほど。
「白い結婚」というやつか。名目だけの妻。体の関係はなく、跡継ぎを産む義務もない。
驚きはなかった。むしろ、予想通りだった。
借金返済の道具として連れてこられた女に、愛情を期待するほうがおかしい。
「わかりました」
私が頷くと、彼の目が——ほんの一瞬だけ、揺れたように見えた。
何かを言いかけて、飲み込んだような。
でも、それは気のせいかもしれない。すぐに彼は視線を書類に戻した。
「下がっていい」
「はい。おやすみなさいませ、旦那様」
私は一礼して、執務室を出た。
廊下を歩きながら、考える。
「触れるつもりはない」——つまり、干渉もされないということだ。
私に自由がある。
この広い屋敷で、私は私のやりたいように動ける。
「……悪くない、かもしれない」
小さく呟いて、私は自室へ戻った。
---
翌朝。
朝食を簡単に済ませた後、私は屋敷の中を歩いてみることにした。
「奥様、ご案内いたしましょうか」
ハンナが声をかけてくれたが、私は首を振った。
「一人で歩いてみたいの。この屋敷に慣れておきたいから」
「……かしこまりました。何かあれば、呼び鈴でお呼びください」
一人になると、足取りが軽くなった。
屋敷は広い。石造りの廊下は冷たいが、要所に敷かれた絨毯が足元を温めてくれる。窓からは雪景色。魔導炉のおかげか、廊下でも凍えるほどではなかった。
主棟、客棟、使用人棟。厨房、大広間、図書室。
一通り歩いて、構造を頭に入れていく。
そして——気づいた。
西棟の奥に、明らかに使われていない区画がある。
廊下の絨毯が途切れ、壁の燭台に火が灯っていない。他の場所と比べて、空気が違った。
「……何があるんだろう」
好奇心ではない。屋敷の管理者として、把握しておくべきだという判断。
私は足を踏み入れた。
---
その部屋を見つけたのは、偶然だった。
廊下の突き当たりにある、大きな扉。取っ手に触れると、鍵はかかっていなかった。
開けた瞬間、冷気が頬を撫でた。
暖炉に火が入っていない。
部屋の中は薄暗く、埃の匂いがした。カーテンは閉じられ、わずかに漏れる光だけが、室内を照らしている。
——子供部屋だ。
小さなベッドが二つ。壁には色褪せた絵。棚には古びた玩具。
そして、ベッドの上に——。
人がいた。
小さな体が二つ、薄い毛布にくるまって眠っている。
「……っ」
息を呑んだ。
近づいて、よく見る。
銀灰色の髪。幼い顔。五歳くらいだろうか。双子のように見える。
枕元には、冷え切ったスープの皿が置かれていた。パンの欠片が残っている。誰かが食事を運んではいるらしい。
でも——この部屋は、冷たすぎる。
暖炉に火がない。毛布は薄い。子供が過ごす環境じゃない。
私の中で、何かが軋んだ。
保育士として十年働いた本能が、警鐘を鳴らしている。
これは——。
「……誰?」
低い声に、私は顔を上げた。
片方のベッドで、銀髪の男の子が目を覚ましていた。
紫色の瞳が、警戒をあらわにして私を睨んでいる。
「あなたは……」
「出ていって」
遮られた。
「僕たちに構わないで」
五歳児の声とは思えなかった。大人びた抑揚。感情を押し殺した、冷たい響き。
「僕たちのことは、放っておいて」
私は何も言えなかった。
彼の目には、五歳児が持つべきではないものがあった。
諦め。拒絶。そして——かすかな、怯え。
「……ごめんなさい。起こしてしまったわね」
私は一歩下がった。
「また来てもいい?」
「来なくていい」
即答だった。
「誰も来なくていい。僕たちは——僕たちだけでいい」
その言葉が、胸に刺さった。
私は何も言わず、部屋を出た。
---
夜。
自室のベッドに横たわっても、眠れなかった。
あの子供たちの顔が、頭から離れない。
「僕たちに構わないで」
その言葉の裏にあるもの。
どれだけ傷ついたら、五歳の子供があんな目をするようになるのか。
——私は知っている。
前世で、似たような子供を見たことがある。
虐待を受けていた園児。親に愛されていなかった子供。私は気づいていたのに、証拠がなくて、何もできなかった。
結局、あの子は親に連れ戻された。
その後のことは、わからない。
わからないまま、私は死んだ。
「……」
天井を見つめる。
この屋敷で、私に何ができる?
名目だけの妻。権限なんてない。あの子供たちの養育に口を出す立場じゃない。
でも——。
「見なかったふりは、できない」
呟いた声は、思ったより強かった。
前世で後悔した。同じ後悔は、もうしたくない。
立場がどうとか、権限がどうとか、そんなことは後から考える。
今、目の前に、凍えている子供がいる。
「……明日、もう一度行こう」
決めた。
何をするかは、まだわからない。
でも、まずは——知ることから始める。
あの子供たちのことを。この屋敷のことを。
私にできることを、探す。
窓の外では、雪が降り続けていた。




