密談
関西支店長から、穂高が大阪に戻ったという知らせを受けてほどないある日。貴美子は意外すぎる人物から、アポイントの要請を受けた。
『室長、あの』
電話を受けた総務の青木泰江が、電話主の名を言いづらそうに告げた。
『渡部、福様から五番です』
渡部福。それは、渡部薬品会長夫人にして、穂高の祖母の名であった。なぜか支店ではなく本社に、それも自分を指名しての電話だと言う。
福は、会長夫人と言えども、実際に渡部薬品を影で支える女傑として財界では通っている。現在の会長は二代目であり、創始者の軌跡を踏襲する保守派である。言い方を変えれば、時代に合わせて変化する柔軟性を持たない。故に、社長である長兄との派閥が渡部薬品に生じたという経緯があるが、その争いが表面化せずに経営が安定しているのは、彼女の影の采配による功績が大きい。八十歳という高齢にそぐわぬ柔軟な思考と型破りなまでの臨機応変さが、影で渡部薬品を支えて来た。会長の代理として動く彼女を会長さえも止められない、というのは噂の範疇で、真偽のほどは定かでないが。
そんな彼女の、異業種に属する自分への用件が、仕事絡みとは考えにくい。かと言って個人的に、となると、もっと違和感を覚えてしまう。
(あいつ、婆っ子だったっけ? 余計なことを喋ってたのかしら)
などと訝り首を傾げながら、五番の回線を繋いだ。
「お電話替わりました。久我でございます」
『お仕事中に恐れ入ります。渡部福と申します。この度は孫の穂高ともども、御社には大変なご迷惑をお掛け致しまして、えろう申し訳ございませんでした』
紋切り型ではあるが、そこに込められた思いは、電話口を通してもよく解る。慎ましやかで礼節を重んじる、彼女の人柄を窺い知れた。
「とんでもございません。こちらこそ、直々に会長夫人からのお言葉を頂戴するなんて、恐縮でございます」
無難な返答をしながら、貴美子は心の中で首を傾げる。このような用件であれば、なぜそれをするのが母親ではなく祖母なのか。それとも、渡部薬品としての儀礼と受け取ればいいのか。しかし異業種である為、こちらにそういった礼節など考えなさそうなものではあるが。
そんな貴美子の疑問を察するように、福は自宅への招待を口にした。
『この年になりますとね。めっきりお客さまも足が遠のきはるんどす。足腰が辛うならはるんどすなあ。寂しいこの頃なんどすえ。孫を引き立ててくれはる貴女に、少しお話を聞いて戴きとうございますが、お時間を頂戴しても宜しおすか?』
貴美子は訝りながらも快諾の答えを返し、その日は彼女との通話を終えた。
京都・宇治某所。貴美子は、その豪華な純和風邸宅の客室に通された。向かいのソファには、浅葱色の留袖を上品に着こなす穂高の祖母が、穏やかながらも鋭い目をして、分析する視線を悪びれもなく貴美子に注いでいた。
「お忙しゅうございますのに、ほんま、おおきに。早々に本題へ入らせてもろうた方が、久我はんにもご迷惑になりませんやろう」
そう言って、人払いをした彼女がテーブルに広げた資料は、翠に関する調査資料だった。
「!」
「このお嬢さんの、実質上の保護者に当たるんどすな、久我はんは。失礼とは思いましてんけど、内情を知られているのはお互いさま、いうことで、私も調べさせていただきました」
自分でも、血の気の引いたのがはっきりと判る。これまで、渡部薬品を影で切り盛りして来た老貴婦人の無言の威圧で、自分の身のほどを思い知る。彼女の発する自然なそれに気圧され、虚勢を張ることさえ出来ない小娘の自分がそこにいた。彼女はどこまで知ったのだろう。震える手で、資料を手にして読み始めた。その間にも、福は淡々と貴美子に語り掛けていた。
「本家には滅多に足を踏み入れへんあの子が、この春の連休にずっとここの書斎に引きこもって、何やら調べ物をしておりましてね。手伝うたろう思いまして話を聞けば、同期の方で、しんどそうな子がいる、その症状からどんな病が連想されるか、と問われましてん。えらい深刻な顔をしておりましたさかいに、少々気になっていたんどす」
開示された資料からは、福に翠を連想させる直接的な事柄を見い出せない話だった。資料の中に、信州での兄との忌まわしいことや九州での件、“彼”を臭わせる情報がなかったことも解り、貴美子の張り詰めた思いが若干ほぐれた。温和な笑みを湛えたまま、福から予想外の人物の名前が出た。
「東京の高木警視正の部下、と仰る若い刑事さんが尋ねて来はりましてなあ。その時初めて、このお嬢さんの名前を知ったんどす。三男の邦彦の死を機に、また世間が賑やかくなった頃、このお嬢さんも行き先を告げずにいなくなった、とか。それでなぜ家へ穂高の居場所を尋ねて来はったのか、と考えたら、貴女が私の立場でも、おおよその見当がつきはりますやろう?」
翠に関して高木への報告義務があった貴美子は、逐一彼に報告をしていた。あの夏翠の所在が掴めなかった時、貴美子が“彼”の暴走を恐れていたのは確かだ。自分の焦りを高木に覚られたのだろうか。
(それで、あんなにも早くふたりの所在が掴めたのね)
高木の、当時の動きの早さに感服する。同時に、別の意味での不服感も湧いて来る。渡部に無関係な人間の話題を持っていけば、訝るのは当然だろうに。翠の所在確認という実務を優先する高木の機微の疎さに、苦虫を潰す気分になった。
「そうですわね。渡部唯一の継承者に要らぬ虫がついたのではないか、とご心配なさるお気持ちはよく解ります。それで、雛に釘を刺す前に、親鳥に自重の勧告を、という意味ですかしら」
挑む瞳で彼女を見据えた。彼女が穂高の保護者として庇護しようとするのと同様、貴美子にも翠の保護者としての義務がある。渡部の事情やこの時代にそぐわぬ彼ら一族の古い家風など、こちらには関係ないしナンセンスだ。納得出来ない形で分断され、翠の症状が悪化するのは何としても回避したかった。
しかし、貴美子の険しい表情に対し、福はきょとんとした顔をして、目を大きく見開いた。次の瞬間「くす」と小さく笑うと、手にしたコーヒーを静かに置き、微笑みながら、諭す口調で招待の理由を説明した。
「せっかちどすなあ、久我はんは。お呼び立てしたんは、御礼とお願いごとの為どすえ」
「は?」
今度はこちらがきょとんとする番だった。
「下山の知らせをもろうた時に、穂高と今後のことについて話しまして。『守りたいものが出来たから、渡部の会社を継ぐ』と。あの子の活き活きとした声を聞いたのも、子供の頃以来どす。無理やり訊き出しましてん。あんたの守りたいもの言うのんは、信州でお迎えのあったお嬢さんかえ、と。えらく不自然に黙り込みまして。それがもう、可笑しゅうて可笑しゅうて……」
言葉が続かず、福はころころと袖で口を隠して笑い出す。それは、心から孫のうろたえ振りをからかいながらも寿ぐ、誰もが孫かわいさに見せる、祖母としての表情だった。
「まずは翠はんと、その後見人として彼女を育てて来はった久我はんに御礼お伝えしたいと思いまして。あの子を本来のあの子に戻していただきまして、ほんにありがとうございます」
福は、彼女から見たら小娘に過ぎないであろう自分に対し、深々と頭を下げてそう言った。彼女は恐縮する貴美子の言葉を受けてゆっくりとその頭を上げると、再び貴美子の目をまっすぐに捉えた。
「それで、お願いと言いますのんは」
そう言いながら視線を上げた福の顔からは、既に穏やかな微笑みが消えていた。
「あの子を、興研から早う卒業させてもらえませんやろうか。胸につかえておるんは、恐らくまだ会社から受けた恩義を返せていない、いうことどす。あの子に見合って、尚且つそれなりの成果を残せる仕事をさせてやってはもらえませんですやろうか」
言葉こそ婆馬鹿もいいところだが、そう打診した彼女の表情は、孫を甘やかす婆馬鹿のものではなかった。企業を経営する立場として、自分に設計士としての穂高の器量を問う一面と、見様によっては、「行く行くは渡部薬品が穂高を連れ戻す」と明言した、挑戦状とも受け取れる冷ややかさだった。響く彼女の声は、企業を背負う『孤独な経営者』のそれであった。
「……私は一従業員の立場ですので、即答致し兼ねますわ。経営陣に打診致します」
「貴女は(・・・)、どないに思うてはります?」
問われた言葉に息を呑む。穂高を図っているのか、上司としての自分を図っているのか、判り兼ねる物言いだった。どこか裏を感じる問い掛け。ぼんぼんをよいしょしておくべきか、正直な見解を述べるべきか、貴美子はしばらく答えに詰まった。
「上司としては、手離し難い可能性の大きな逸材と認識しております。ただ、個人としては、人に使われることの出来ない、潰しが利かないタイプか、と。……申し訳ありません、率直にしか言えないもので」
考えた末、貴美子は後者を選択した。彼女の鋭い眼光を、口先で凌げるとは思えなかった。
そうどすな、と、福は笑って貴美子の言を肯定した。
「穂高に任せられるのは、お仕事だけ、とお思いにならはります?」
「は?」
「翠はんも、やはり興研さんには必須の人材、なんどすか?」
「……それは、どういう……?」
貴美子は、食えない老貴婦人のひと言ひと言に疲れを感じ始めていた。公私を織り交ぜて考えた上での答えを求められているのが嫌というほど解る。自分の言に自信が持てない。上司としての意見なのか、翠の保護者としての感情的な言葉なのか、自分でも解らなくなって来たところで、その話は尻きれとんぼのままに終わった。
窓から見える庭園の、紅葉の最後の一葉がはらりと落ちた。同時にその微かな気配に気づき、ふたり揃ってそちらを見遣る。
「もう冬どすなあ。この時期が一番好きなんどす。一番温かな思い出がある時期なんどす」
呟くように福が言った。
「千草の――娘のお腹に穂高がおって、伯父になるはずだった邦彦もようここに顔を見せに来てくれて。お陰でその嫁や穂高の従姉になるはずだった薫にも頻繁に会えて、ほんまに、皆が笑えていた時期でしたんえ。皆、あの子の生まれて来るのんを心待ちにしておりましたのに、私らでは、それをあの子に巧く伝えられなかったんどす。――翠はんは、随分過酷な経験をしてはるんどすな。お母さまは心を病まれて生んだ子らを忘れてしまい、お父さまは自ら命を絶たれた、とか。お兄さまは目の前で不慮の死を遂げられたんどしたな。私ども以上に、家族を切望してはるのんが、穂高の共感を呼んだんかも知れません」
視線を合わせず俯く彼女に、貴美子は「そうですね」としか答えられなかった。
「あの子も……翠も、母親と同様心の弱い子供です。まだ、父親が亡くなったことを知らせていません。どうぞ内密にお願いします。穂高……さんにも」
「ギブ・アンド・テイク、どすな。貴女も、私が貴女をお呼び立てした理由、穂高には秘密どすえ?」
そんな小洒落たことを言って微笑む彼女は、渡部薬品の経営を担う男性陣より余程柔軟性があり、思考も若々しいものだった。
「女は損ですわね。ただそれだけで、上り詰めることが出来ない。会長夫人も、夫人ではなく会長そのものである方が会社としてもよいのでしょうに」
つい不毛なぼやきを福に零してしまう。そんな貴美子に彼女は笑って言った。
「私の代わりに、穂高が成し得てくれるらしいどす。私の親族に、養子縁組しましてん。渡部を名乗らず、渡部に入る。新しい風を入れて世襲を崩し、ほんまに病める人を救いたいという意志を持つ人材だけを集める、言うとりました。どれだけ自信過剰なんでっしゃろうか、家の孫は」
そう言って、また「ほほ」と笑った。
そんなところまで先を考えていたのか、と内心驚く。一年半前は、そんな変化を想像させぬほど、無気力で澱んだ目をしていたのに。少し暴走気味の嫌いはあるが、穂高の場合、むしろそれに見合うだけの自分であろうと向上していくタイプだろう。
「若いというのはいいですわね。恋で盲目にもなれますし、失敗することを恐れもしない。私には考えられませんわ」
「危なっかしいですよってに、穂高をあんじょう、よろしゅうお願い致します」
絶やさぬ福の笑顔に、初めて貴美子も釣られて笑った。
宇治の邸宅をあとにする。タクシーに揺られながら、貴美子を敗北感が蝕んでいた。
幾ら周囲に優秀だと謳われ、自らもそう豪語して虚勢を張っても、自分はしがない凡人だと思い知らされた。割り切りよくさばけた渡部会長夫人、その血を受け継ぐ穂高の本来の姿を知って、しみじみ貴美子は痛感する。
同時に、女として翠に羨望を抱く。かつて自分が唯一愛した非凡な人を、未だこの世界に引き止め続けている翠。あの非凡な渡部の面々を動かしてしまう、強烈に保護欲を刺激する非力な存在。
かつて、翠の心友が彼女を比喩してこう言った。
『翠は、傷だらけの天使』
だと。
関わる人を、よくも悪くも変えてしまう。その度に自分も傷つき痛みを伴うのに、己の意思に関わらず、周囲の心を変えてしまう。
「自分の存在感がどれだけ大きいのか、どうしてあの子には自覚がないのかしら」
貴美子の独白が、溜息とともに漏れた。