前編 突然の婚約解消
私には尊敬して止まないお姉様がいる。
まるで、女神か天使みたいな風貌で、誰もが見惚れ憧れるお方。
容姿端麗、眉目秀麗、頭脳明晰、あの方を褒める言葉はいくつも浮かぶけれど、口に出せば出す程、その言葉がすべてが陳腐になってしまう。
そんなお姉様が、本当のお姉様だったらと何度思った事か。
だけど、残念ながら私と血の繋がりはない。遠縁ですらなく、悲しいくらいに赤の他人だ。
しかし、心の中では常に“お姉様”と呼ばせていただいている。
心で何と呼ぼうと、誰にも咎められないからだ。
そんなお姉様は、いつ見ても可憐でため息が漏れる。
太陽も霞むくらいの眩い笑顔。たまに怒気を孕んだ表情を見ると、煮えるマグマ溜まりに沈められたかの様に、胸が熱くなる。
何かに憂いている姿はキュンとして、思わず抱き締めたくなるくらいだ。
満天の空にある一番星よりも輝き、いつも私の星、それがお姉様だった。
そう思っているのは私だけでないはず。
だって、性別や身分関係なく、皆が自然と慕う方……それが私のお姉様である。
そのお姉様の姿を、今日まだ見ていなかった。
もう学園の卒業は間近だというのに、一日一秒でもあの方の御尊顔を拝めないだなんて、有り得ない。マーガレットは卒業前のパーティ会場で、必死にあの方を探した。
お姉様とマーガレット。
今は生徒会長と、生徒会の会計係という近い関係がある。
しかし、来春、高等部を卒業してしまえば、その貴重な繋がりさえなくなってしまう。
せっかく生徒会に入れたのに緊張のあまり、お姉様とは必要以上の会話をしてこれなかった。なので、友人という立場を築く事が、出来なかったのである。
それが、ずっと口惜しくて泣きそうだ。過去に戻れるなら今度こそ、もっと積極的に関わっていくのに……と。
マーガレットはただの子爵令嬢、あの方は王族だ。
卒業すればマーガレットの前から、まるで天女かのごとく、雲の上と戻ってしまうのである。
これからもお姉様と繋がりを持つのであれば、お姉様の役に立つ方法しかない。あの方は身分など関係なく、能力を買ってくれるからだ。
側に行くならばもっと勉学に励み、自分は役に立つのだとアピールするしかないだろう。
しかし、お姉様の隣はいつも激戦地。
男も女も側にと競い合う場所だ。そんな場所は、男でさえ大変だというのに、女だてらに彼女の側に立つは相当に難しいだろう。
何故なら、貴族に生まれた女性は大抵の場合は結婚させられる。結婚すれば夫を支えるのが仕事とばかりに、外で働く事は許されないという家庭も多かった。
高位貴族であれば、家政をやらずに済む事もあるだろう。しかし、未だに女性が外で働く事を良く思わぬ者もいるので、人の集まる場所に出向く機会が少なくなってしまう。
出るとしたらせいぜい、夫のパートナーとして参加する夜会か、夫人達を集めたお茶会くらいだ。
せめて社交で会う機会があれば嬉しい話だが、嫁ぎ先がお姉様と関わりがなければ、その場にすら呼んでもらえない。
マーガレットは今日も悲しいため息を吐いた。
そんなマーガレットには、幼き頃に結んだマイクという婚約者がいる。
王命とは関係なく、両親達が勝手に決めた婚約だ。
マイクは見目は良いが性格は最悪で、いつもマーガレットを蔑ろにし、会うたびに違った女性を連れている。
父にその話をしても、自分も愛人がいるためか「浮気は男の甲斐性」「貴族なら当たり前」とマーガレットとは倫理観がズレていた。
なので、いくら言おうとあちらを有責にして、婚約破棄などしてくれる事などないだろう。
マイクの浮気癖はともかくとして、せめて自分を少しは見てくれたらなと思った。
マーガレットも彼を好きではないし、彼に好きになって欲しい訳ではない。だが、その事で周りからバカにされるのは、どうにも堪える。
しかもその事をマイクにやんわり言えば、うるさいとばかりに激昂するだけだった。
ただ、身分は伯爵と良かったので、結婚後に何とか理由を付けて夜会に出席は出来そうだ。
お姉様に会えるかもという希望だけで、マイクとの結婚を諦めてやっていたのである。
ただそれだけの理由で、マイクのやる事を我慢していたマーガレットは、突如フラリと現れたマイクにこう言われた。
「婚約を解消してくれ」と。
しかも、隣にはこの前いた女性とは違う人を連れて。
マーガレットはマイクの言葉に驚いたものの、ショックはなく溜め息が出そうだ。
マイクが不貞行為を行なったのだから、“解消“ではなく、あなた有責の“破棄”の間違いではないの?
マーガレットは内心そう思ったが、破棄にするか解消にするかは、マーガレットの決める事ではない。ましてや、マイクの決める事でもないし、こんな場所で告げる話でもないのだ。
「……解消」
親に相談してから決める事だろうとか、こんな人が大勢いる場で何故言うのだろうとか、マーガレットは思うところはあったがーー
真っ先に頭を過ったのは、“お姉様との繋がりが絶たれてしまう”……だった。
自分が長子だったのなら実家を継げるし、頑張って名を馳せられれば、お姉様に関わる機会もある。しかし、悲しい事にマーガレットの上には兄がいた。
マーガレットより、兄が優れているかいないかはともかくとして、長子である兄が子爵家を継ぐ。それは決定事項だ。
となると、マーガレットがお姉様との接点を持ち続けるには、貴族であるか名を馳せる事。後者はなかなかハードルが高い。
だが、前者もそう簡単ではないのだ。
なにせ、学生時代に婚約して当たり前。周りの皆もすでに婚約者がいる。そんな中、婚約を解消されては、自力で次を探すのはなかなか難しい。
不良物件なら残っていそうだが、マーガレット自身がどこまで妥協し耐えられるかにかかってくる。
両親は基本、娘に興味がない。
政も積極的に関与したくないタイプなので、娘を貴族に嫁がせるために躍起にはならないだろう。
そんな父が気合いを入れて、婚約者など探す訳はないし、むしろ家にずっといられるのは面倒だと、残りモノにマーガレットを嫁がせる(押し付ける)可能性の方が高い。
だが、大抵の場合は残るのには訳がある。
訳あり物件に嫁ぐのは、どうだろうか? とマーガレットは内心唸る。
貴族ならばワンチャンありか? とお姉様との接点を考えるが、会える可能性が低いなら、家を出て働いた方が良さそうだ。
そんな邪な考えを持つマーガレットにとってマイクは、マーガレットの中では割と優良物件だった。
マイクは女癖は最悪だし性格も屑。だが、継ぐ爵位と仕事を放棄しないところは、マーガレット的には良かった。
特に彼を好きじゃないので、お姉様との繋がりを持つためなら、マイクが愛人を数人持つくらい容認するつもりだった。
女遊びを続けたいマイクにとっても、関与してこないマーガレットは都合のいい相手だったハズ。
それなのに、何故、婚約を解消する話になっているのだろうか。
マーガレットにとって、今の状況は非常事態である。
「……解消だなんて」
これから、大好きなお姉様に会えなくなるかもしれない。
そう思ったら、マーガレットは悲しくなり、思わず涙声になっていた。
マイクなら社交場に行かせてくれただろう。むしろ、勝手にしろというタイプだった。
だが、マイクに解消され、次に収まる婚約者は、女は家にいるべきだと言う人かもしれない。
そんな事になったら、愛するお姉様に会えなくなってしまう。そう思ったら、マーガレットはますます悲しくなってきた。
だが、そんなマーガレットを見て、気分を良くしたのはマイクである。
「今更、そんな姿を見せても遅いぞ?」
自分に捨てられて悲しんでいるとでも、思ったらしい。
確かに、マーガレットはマイクに捨てられて悲しんでいる。だが、マイクにフラれて嘆いている訳ではないのが、奇妙なところ。
マイクへの愛など微塵もなく、マイクの立場を利用してお姉様に会おうとしていただけ。そこにあるのは、お姉様への愛だけだった。
だが、その願望が無残に散ったと、マーガレットはガックリと項垂れる。
「初めから、そういう態度を見せていたら、愛人くらいにはしてやったのに」
浮気の事は何も言わないクセに、領地の事になるといつも小言を言うマーガレットに、マイクは辟易していたのだ。
特に、イラついたのは、資金繰りを気にし散財を注意された事。
愛人にはお金が掛かるのは決まっている。愛人を容認するのだから、そこに掛かる金も容認するのは当たり前だろうと、マイクは常々思っていた。
結婚したら、それを毎日のように言われるのかと思ったら、この婚約は解消した方がいいなと感じたのである。
しかし、婚約を解消すると言われたマーガレットは、マイクが想像したよりも悲壮感漂っていた。
それが何だか気分良くて、マイクは嘲笑う。
自分の意見に逆らわず、何でも首を縦に振って従っていたら、愛人くらいにはしてやったのにと。
「愛人だなんて」
マイクの言う愛人とは、本来の愛人の意味とは真逆だ。
女主人としての面倒事を愛人にやらせ、夜会など楽しいイベントは、本妻と二人でやるという、いいとこ取り。
本妻という立場すら与えてくれないなら、マイクの愛人だなんてやる意味がない。
「妻になるランの仕事を受け持つなら、愛人にしてやろうか?」
「あぁそうだわ。子供も産ませてあげるわ。だって、痛いのも嫌だし、体型が崩れるのも嫌だもの」
背後でそんな屑みたいな事を言う声が聞こえたが、もはやマーガレットの耳に入っていなかった。
ーーお姉様との接点がなくなる。
ただただ、それだけが頭の中をグルグル回り、一人でフラフラと会場から出て行った。
マーガレットはこの時、何を思って中庭に出たのか記憶にない。
だが、まだ頭の片隅で、お姉様に会うまではここにいたいと願っていた。それが、すぐに帰路へは向かわせなかっただけ。ただ、それだけだ。
斜め上に落ち込んでいたマーガレットは、中庭のベンチに腰をかけ項垂れていた。
(お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様)
マーガレットの頭の中は、お姉様との繋がりをどう保つかで、いっぱいだった。
「マーガレット!」
そんなマーガレットを呼ぶ声が聞こえる。
お姉様? と一瞬思ったが、声は女性でなく男性。
悲しみに暮れるマーガレットは、お姉様ではない声にさらにガックリとしていた。
「マーガレット」
側に寄る気配と見知った声に、マーガレットはゆっくり顔を上げた。
「チャーリー」
もう一度呼ぶ声に振り向けば、そこには幼馴染みのチャーリーがいた。
一代限りの準男爵の長子。継ぐ爵位がないから、平民になるのだと言っていた幼馴染みだ。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
心配そうにマーガレットを覗き込むチャーリー。
そんなチャーリーにマーガレットは、思わず涙がホロリと溢れる。
(お姉様に会えなくなるかもしれないの!!)
学園でも令嬢達に何か言われると、いつも颯爽と現れて、慰めてくれる存在が彼だった。その慰めの言葉に、マーガレットは何度救われた事か。
(お姉様に会えなくなる事も、慰めてくれるかしら?)
「マイク卿に何か言われていたが、大丈夫か?」
いつも優しく話を聞いてくれるチャーリーに、マーガレットは絆され、話し始めたのである。
「あいつ!」
婚約を解消されたと知ると、まるで自分の事の様に憤慨するチャーリー。
そんな姿に、マーガレットは少し救われた気がした。
しかし、話をしたところで、チャーリーに出来る事はない。現状は変わらないだろう。
「僕に身分があったら!」
そう言ってチャーリーは口惜しそうにする。
伯爵令息に、準男爵の息子が太刀打ち出来る訳がないのだ。むしろ、綺麗な返り討ちで終わる事だろう。
「あぁ、好きな人さえ守れないだなんて」
チャーリーが唇を噛み、そう呟いた。
「え?」
今、チャーリーが何と言ったのか分からず、マーガレットは目を見開いた。
「あ、いや、その」
顔を真っ赤にして、顔を逸らすチャーリー。
「チャーリー?」
自分を好きだとか聞いた気がしたが、自ら「私が好きなの?」と聞き返すのは勇気がいる。
間違いだったら自意識過剰で、恥を掻くだけだ。
もう一度、チャーリーに聞き返せば、チャーリーはチラッと恥ずかしそうにこちらを見た。
「マ、マーガレットが好きなんだ」と。
そんな素振りを感じた事のなかったマーガレットは、さらに目を見張る。
だが、真っ直ぐなその視線に嘘はないと気付く。
ーーチャーリーが自分を好き?
思わぬ告白に、マーガレットは感情が追いついていなかった。
お姉様に会えない衝撃。マイクからの婚約解消宣言。そして、チャーリーからの告白である。
起伏が激しい出来事に、チャーリーの告白を素直に喜べなかった。
「あんな事があった後で……その」
「……」
「僕と結婚……してくれないかな?」
マーガレットが混乱していれば、チャーリーがそう言って膝を曲げた。
突然のプロポーズである。
「も、もちろん、マイクみたいに浮気はしない。絶対にマーガレットを大切にするから……っ!」
マーガレットの目を真っ直ぐ見て、そう言ったチャーリーはいつも以上にカッコよく見えた。
きっとこのまま家に帰れば、両親や兄にただ冷たい目で見られるだけだ。
それどころか解消なんてされやがってと、罵られるかもしれない。
チャーリーを恋愛対象に考えた事はなかったけれど、真っ直ぐに自分を見る彼の真剣さは伝わる。
「返事はすぐではなくてもいい。だけど、考えてくれないかな?」
恥ずかしそうに言うチャーリーに、マーガレットはドキドキした。
浮気性のマイクより、一途なチャーリーだ。
どの道このままでは、まともな結婚は出来なさそうだし、万が一父に追い出されたら行く場を失う。
だが、そんな打算でチャーリーと結婚しても良いのだろうか?
「結婚を前提に付き合ってほしい」
そう必死に真剣な眼差しで言われれば、さすがのマーガレットも絆されていく。
マイクはこんな真剣な目で、自分を見た事はなかった。
お姉様にはもう会えなくなるだろう。ここで踏ん切りをつけてキッパリと、違う道を考えてもいいかもしれない。
お姉様に見た未来とは違うが、チャーリーとなら良い家庭を築いていける……そんな気がしたのである。
結婚を前提が嫌なら、まずは付き合う事からでもいいと、グイグイと押され、マーガレットが「はい」と頷き掛けた時ーー
「おやめなさい」と、凛とした声がマーガレットの耳に響いた。




