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初夏の明晰夢

 夜の間に熟れた草木の、緑のが、朝露に慰められたようなかおりが鼻腔をくすぐった。


 昨晩は、野宿でもしていただろか――寝ぼけ眼で思わず考えていたが、少しだけ意識が冷めれば、そういった境遇に置かれていたのはだいぶ昔であることを思い出す。


 起きる。


 窓を開けて眠っていたらしい。昨晩は初夏を思わせる、体をじとりと蒸し上げるような夜であったことを思い出す。しかし朝方となると、外の朝露の香は少し肌寒い。


 ベッドに寝ていた。スチールの、布団を敷いた、値が張ることはないが、立派な代物の寝具だ。

 俺も、すっかり人並みだな。

 その寝具を起きて見つめるたびに、そのように思った。


 そろそろの初夏を知らせる、じれるような蒸し暑さがそうさせたのだろうか――昨晩は妙な夢を見ていた。


 明晰夢めいせきむ、だったのだろうか?

 妙に、現実感リアリティを含む夢であった。


 その魂の芯に迫るリアリティは、起きて現世うつしよにおいても、ハッキリと細部が思い返せる。


 頭のイカした、チェーンソーを振り回す女に追いかけ回されるという夢だった。


 分類すれば悪夢であるかもしれないが、しかしそのリアリティの高揚が意識の喜ばしいところをくすぐり、気分は悪くなかった。


 いい夢だったな。


 起きて、顔を洗って――輪切りトマトとスクランブルエッグを乗せたトーストを食べている時でさえ、あの夢のことを、ずっと思い返して(リフレイン)していた。――されていたというべきか。それほど、あの夢は――視界、感覚、空気の触覚、匂いさえ確かに、全てが鮮明であった。


 夢に匂いとは奇妙だ。痛みを伴う夢は幾度かあったが――こんなことは初めてだ。


 愉快になった。


 そうして、不思議なことがあったとはいえ――今日もまた、何事もなく、学校へ通う。


 あとは、その後も夢のことが頭の片隅にあったとはいえ、何事もない日常を送っていた。逆に言えば、何事もない日常ではあったが、いつでも夢のことを思い出していたともいえる。


 数字が、何だ、と教師が言っている。

 かと思えば、古語こごがどうした、とつらつら述べる教師が、ふと教壇へ気を向けると、わるわる、現れている。

 そういった普通だった。


 そうするうち、教室から眺める、外の様子が変わる。雨が降ってきた。


 霧雨だ。


 絹のような柔らかで、音もなく軽い雨粒がグラウンドを濡らし始めた。


 夢中に見た学校舎とグラウンドを、霧雨の景色に思い重ねる。あれはこの学校の外観ではなかった。見たこともない想像上の景色であったが――それにしても、現実的な光景だった。


 窓を閉めていたので、柔い雨に濡れた外の匂いは香ってこない。そうした教室にいると、昨晩の夢のほうがむしろ、現実的リアルなように感じてくる。チェーンソーの、油が潤滑しながら燃える機械臭が、鼻腔の奥で思い出されるようだ。


 とにかく、折に触れて思っていたのだ。


 今日はそのような時間を過ごした。


 挨拶を交わし、なんとなしで昼食を共にする程度の友好はあるが、放課後につるんで遊びに出るような関係となると、とんと無い。いつものように、いくつかの挨拶を交わしたのちに、そのまま帰路についた。


 教室をあとにしようというその時、女子生徒の一人に声をかけられる。


天藤てんどうくん。科学のレポートがまだ、出ていないけれど」

「ああ、ありがとう、悪い――。はい、煩わせて悪かった。…………」


 クラスの委員長である彼女の名前が、とっさには出てこないことが、表情で露見してしまったようだ。彼女は少しだけ困ったようにクシャリと笑んだ。


かのうだよ。かのう 紫子むらさきこ


 手を煩わせたうえに気分までかげらせてしまって、恐縮する、そんな一場面をあとに、学校を出た。


 ロッカーに置いていた折り畳み傘を広げて帰宅路を歩いていると、名を知らぬも嗅いだ覚えのある、雨に濡れた緑の様々な匂いが記憶を刺激して、その頃には、鮮明な夢のことも頭の片隅から薄れつつあった。


 



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