第七話 毒喰らわば皿まで
前回のあらすじ:
型破りな公爵令嬢ぶりを発揮するクラリーシャに対し、ジャンが改めて婚約できないと言い出して……?
ジャンが男爵家を継がないと密かに決心したのは四年前――十二歳の時分だ。
もっと幼いころは無邪気に、立派な武人である父親と美人で有名な母親を慕っていた。
二人にいいところを見せたくて、剣や乗馬の稽古、読み書きや簡単な算術などなど、ちゃんと頑張っていた。
しかし母が流行り病で急逝し、全てがおかしくなった。
ジャンもひどく悲しんだが、父の消沈ぶりは輪をかけていた。
そんな父を励ますために、ジャンは涙を拭いて立ち上がり、それまで以上に稽古や勉学に打ち込む姿勢を見せた。
そのジャンの心が通じたか否か――やがて父も涙を拭いて立ち上がってくれた。
だがその時には、人が変わってしまっていた。
普段は大らかで思い遣りのある、昔からよく知る父のまま。
だがジャンを鍛える時は、鬼と化すようになってしまった。
「人は永遠には生きられない――その当たり前のことを、オレはようやく実感させられたよ。オレだってある日いきなり、病気でポックリ逝くかもしれないんだ。ジャン、明日にはおまえがフェンスの家督を継ぐことになるかもしれないんだ。いつまでも子供気分でいてはいけない」
そう口を酸っぱくして、恐ろしく厳しい修業をジャンに課してきた。
ジャンも初めはその期待と重圧に応えようとした。
しかしいくら発奮しても、結果がついてこなかった。
剣の腕前は大して上達しなかったし、馬をまともに走らせることもできなかった。
まるで才能がなかった。
父も厳しいだけで、良い教師ではなかっただろう。
そもそも父は天賦の才を持って生まれた武人であり、ジャンのような「できない人間」の気持ちや上達しない理由がわからない。
逆に学問や教養、貴族の作法に関しては父も疎いので、自分を棚に上げてやれやれ言うばかりで、手本にさえならない。
ジャンもだんだんと腹が立ってきて、しまいには真面目にやらなくなったという経緯だ。
思春期特有の反抗期なのも手伝い、家督なんかもうどうでもよいと思うようになった。
父の跡を継がないと決断したら、気が楽になった。
否――
楽になったと自分に言い聞かせ続けているだけで、本当はコンプレックスに苛まれていた。
自分はなんてダメな人間なのだろう、家督を継ぐに値しない人間なのだろう、と嘆いていた。
でも自分が継がなかったから男爵家はどうなるのか、仕えてくれる郎党たちはどうなってしまうのか、その恐ろしい未来から目を逸らし、考えないようにしていた。
そんな愚にも付かない自分の元へ、高名なクラリーシャ嬢が嫁いできたのだから青天の霹靂というしかない。
そう、彼女の名前はこんな辺境にも届いている。
タイタニア一番の美姫で、才女で、あふれる教養や歌舞音曲にも通じた、完璧な淑女。
王太子レナウンの許嫁で、ベストカップル。
彼女を褒め称えるありとあらゆる言葉を、様々な方面から聞き及んでいた。
そして実物の彼女と出会ったほんの数日で、それらの一端をまざまざと実感した。
噂に違わぬ、溌溂とした笑顔と輝くような美貌。
噂からは想像もしなかった、窓から突入してくる行動力に野外で見せたヴァイタリティー。
心根だって素晴らしい! 貴族失格のジャンや格下の男爵家に対して、見下すような態度が皆無だった。
噂以上に完璧な淑女だと思った。
そんなクラリーシャが、こんな情けない男と結婚だなどと、あってはならない。
犯罪的とすらジャンには思える。まして父が武功を盾に、無法な要求をしたとあっては。
最初は同情からだった。
本人と会って、話して、ますます考えを強くした。
驚くべきことに彼女自身が結婚に前向きだったわけだが、だからといって甘えてはいけない、と――
クラリーシャはもっと彼女に相応しい青年と結ばれるべきだ。
そして幸せになるべきだ。
あんな素晴らしい女性が、不幸な結婚などしてはいけない。
(だから僕は、彼女と結婚できない。してはいけない)
これからも心を鬼にして、クラリーシャとは壁を作っていくべきだ。
それから他の良い縁談を探すように、彼女自身と父を根気強く説得していくべきだ。
◇◆◇◆◇
窓から朝日が差し込み、ジャンは頬を撫でる温かい感触に辟易した。
ベッドの上で、半ば夢現で考え事をしているうちに、夜が明けてしまったらしい。
幸い週末のことで、今日も学校は休みだ。
このまま起きるか。二度寝するか。
迷っている間に、懐かしい音が階下から聞こえてきた。
母が生前によく弾いていた、鍵盤楽器の優しい音だ。
亡くなって後はもう誰も弾き手がおらず、ずっと耳にしていなかったのに。
(いったい誰が弾いてるんだ……?)
と疑問に思って、答えなどすぐに出た。
外から来たお客――クラリーシャ以外、考えられない。
(きっと母さんのチェンバロだと知らずに……っ)
ジャンはベッドから跳ね起きると、急いで自室を出る。
チェンバロは一階の談話室に、母が使っていた時のままに置かれている。
けたたましく階段を駆け下りていくその間も、チェンバロの音はずっと耳に入ってくる。
早朝の空気に相応しい、清々しいメロディだ。
複雑な鍵盤タッチをしているのに、それがちっとも嫌味に聞こえない。
どれだけ優れた奏者なのか、これ一発でわからされる。
だが問題なのは、腕前の良し悪しではない。
人には誰しも、触れられたくないものがあるのだ。
ジャンにとっては、生前の母が愛したチェンバロがそうだ。
サロンの窓辺で楽しげに演奏する母の姿――幼少のころの大切な思い出を、決して他人に踏みにじられたくはないのだ。
もちろん、クラリーシャに悪気があるとは思っていない。
しかし、心がざらつくのは抑えきれない。
(やっぱり、あんたか……)
サロンに突入したジャンは、演奏中のクラリーシャを発見する。
今すぐ演奏を中止して欲しい――そう声をかけ、事情を説明しようと息を吸い込む。
否――吸い込もうとして、失敗した。
体が、固まった。
意識が、止まった。
目が、楽しげに演奏しているクラリーシャの姿に釘付けになった。
早春の朝日が差し込む、窓辺のチェンバロ。
そよぐ純白のカーテン。
そして、陽光と微風をたっぷりと浴びながら、伸びやかな仕種で打鍵するクラリーシャ。
きらめくような笑顔。
それらの光景が、その姿が、生前に母が演奏していた情景を彷彿とさせたのだ。
重なってさえ見えたのだ。
(あり得ないっ……)
ジャンは内から湧き上がる感動を、必死に否定しようとした。
思い出は美化される。
母が亡くなったのは五年も前、ジャンの記憶にある母の姿はこの世の誰よりも美しいはず。
にもかかわらず、クラリーシャの美しさはその美化された母に匹敵した。
だからこそ、チェンバロを演奏する彼女に母の姿が重なったのだ!
クラリーシャの演奏姿にどれだけの間、見惚れていただろうか?
「まあ、ジャン様。おはようございます」
談話室の入り口で立ち尽くすジャンに、クラリーシャの方から挨拶してきた。
演奏の手を止め、律儀に椅子から腰を上げて。
「それは……母さんが大切にしていたチェンバロなんだ……」
ここに来た本題を思い出したジャンは、挨拶を返しもせずクラリーシャの元へ向かった。
しかし口調にキレがない。
さっきまで抱いていた心がざらつくような気持ちも、どこかに行ってしまった。
「だから勝手に触れないでくれ」と、その最後の台詞が喉から出てこない。
ジャンがまごまごしている間に、クラリーシャが返事をした。
「はい、お義父様からお聞きしました。今でもどれだけ大切にされているか、弾く方はいなくなったのにちゃんと調律されているのをみれば、窺えます」
「っ……それがわかってるなら、なんで勝手に……」
「えっ。お義父様が弾いてもよいと勧めてくださったんですが……?」
「マジかよっ」
きょとんとなったクラリーシャの言葉に、ジャンは愕然とさせられる。
(父さんは、母さんの思い出が大切じゃないのかよ。僕だけかよ)
親子の心が離れてしまっていることを、改めて痛感させられる。
一方で重ね重ね、クラリーシャに罪はない。
「ごめん。独り合点で、あんたに不当な言いがかりをつけてしまった」
気持ちを切り替え、真摯に詫びる。
「わたくしこそ申し訳ございません。ジャン様にもちゃんと許可をとるべきでしたね」
あちらも椅子の上でジャンに向き直ると、深々と頭を下げてくる。
「いや、あんたは何も悪くない。悪いのは言いがかりをつけた僕だ」
「ではお互い様ということで、このことは水に流しませんか?」
「あんたはそれでいいのか? ぶっちゃけムカついただろ?」
「構いませんし、ちっともムカついておりませんわ。むしろジャン様の家族想いな一面を見ることができて、得したとさえ思っています」
クラリーシャはそう言って、口元に拳を当てクスリと笑う。
その愛らしい仕種と彼女の台詞に、ジャンは照れ臭くなった。
そっぽを向いて、「続けてくれ」と中断させてしまった演奏の再開を促す。
(母さんの姿と重なって見えたなんて、何かの間違いだ。それを確認するだけだ)
と、誰にする必要もない言い訳まで胸中でする。
「はい、ジャン様。ではお言葉に甘えて」
クラリーシャは再び腰を下ろすと、さっきとはまた別の曲を爪弾いた。
気持ち良い目覚めを促すような、快活なメロディだ。
彼女の指もまた軽快に躍り、先の曲よりさらに複雑な鍵盤タッチで、流れる音を紡ぎ出す。
「……あんたは本当になんでもできるんだな」
「チェンバロに関しましては淑女の嗜みですし、富裕層の生まれならば大抵の方は弾けると思いますよ? お母様だってそうでしたでしょう?」
嘆息混じりにジャンが言うと、クラリーシャがこちらを向いて、こんなのなんでもないことのように答える。
だがその間も、手だけがまるで別の生き物のように超高速打鍵を続けている。
「母さんは下手の横好きだったよ。あんたみたいな才能は欠片もなかった」
「あら。わたくしだってチェンバロの才能はございませんわよ? 教師の皆様に口をそろえて言われました」
「は!? これだけ弾けて!?」
「それはただの修練の成果ですわ。いわばゼンマイ仕掛けのオルゴールみたいなもので、楽譜をなぞるだけの面白味のない演奏です。本当に才能のある方々は、音に情感が宿ります」
「僕にはあんたの演奏も、気持ちが伝わってくるように思えるけどな」
「それはこの曲を作った方の、曲想が優れているからです。だからそれを再現するだけで、ジャン様には特別に聞こえてしまうのですわ」
「あんた、知ってるか? 謙遜もすぎれば嫌味になるんだぜ?」
完璧令嬢の言葉がいちいち鼻についてきて、ジャンは憎まれ口を叩く。
するとクラリーシャが演奏を止めた。
今度こそ怒ったのかと思った。別に構わないとジャンは強がった。
しかしクラリーシャに腹を立てた様子は別段なかった。
ただ何やら考え事を始めていた。
「ジャン様。少しお恥ずかしいのですが……」
「……なんだよ」
はにかみながら手招きするクラリーシャに、ジャンは素直に従った。
いったい何事か? 興味があった。
隣に立つと、クラリーシャは椅子に腰かけたまま、打って変わって開き直った態度で、ズイと両の掌を広げて見せる。
さすが上位貴族の令嬢らしい、あかぎれ一つない真っ白な手――には程遠かった。
あかぎれどころか擦り傷だらけ、癒え切っていない生傷だらけ。
またあちこちに肉刺ができているのが見える。
皮膚も分厚そうで、ところどころ角質化して胼胝になっているところも。
「男の手みたいでしょう?」
「っ……」
苦笑するクラリーシャに、ジャンは唖然となったまま答えられない。
考えてみれば、貴族令嬢の手が綺麗なのは、自分では何もしないからだ。身の回りの清掃はおろか、服の着替えさえ侍女にやらせるような生活をしているからだ。
対してクラリーシャは綱登りはする、釣りはする、料理はする、しかもそれを幼いころからと、たおやかな手をしていよう道理がなかったのだ。
「チェンバロの才能のないわたくしが、人並み以上に弾けるようになったのは、ただ単に人一倍弾き込んで、錬磨を重ねたというだけですわ。来る日も来る日も弾いていると、ここに打鍵タコができるのです。ここ見てください、ここ」
うりうりと指し示すクラリーシャの迫力に呑まれ、ジャンは生唾を呑み込む。
「才能がないってわかってるのに、どうしてそこまでやり込んだんだよ? それも王子サマを守るためか?」
「仰る通りです。王族や貴族は『舐められたら負けな稼業』ですから」
といつもの、まるでヤクザみたいなことを言うクラリーシャ。
「泰平の世ならば、なおさらそうです。王権という実体なき力を維持するためには、一人でも多くの尊敬を、陰に日向に勝ち得なければならない。ゆえにわたくしは、タイタニア中のあらゆるご令嬢よりも優れていると、実証する必要があったのですわ」
「だからって、別にチェンバロが弾けなくたって立派に王妃は務まるだろ?」
クラリーシャの言うことは極論すぎると思った。
あるいは理想論だと思った。
「現に今の王妃サマだって、そんななんでもかんでもできる人だなんて聞いたことも――あっ」
しかしジャンは反論を口にする途中で、自分で気づいた。
公爵令嬢クラリーシャがどれだけ優れているか、その風聞はこんな田舎にも届いている。
一方、現王妃の名声は、とんと聞いたことがない。
そしてジャン自身がまさに今、そんな王妃を侮るような発言をしかけたではないか。
「普通、こんな手をした令嬢は嫁の貰い手がないんですよ?」
もうかく恥もないとばかりに、ズイズイと両手を見せつけてくるクラリーシャ。
「だけど、わたくしはレナウン殿下との婚約が決まっておりましたため、両親とお祖母様からありとあらゆる技術や教養、作法を叩き込まれました。こんな手になっても構わないからと、それはもう容赦なく。社交の場に出る時は、手袋で隠せますしね」
「そして、あんたものその期待に応えた、と……」
自分とは大違いだと、ジャンは思った。
才能がないからと、稽古も勉強も全て投げ出した自分とは。
如何にもお坊ちゃん然とした、生白い手をした自分とは。
(どうしてこんなにも違うんだろうか……)
ジャンは自分と彼女の手をまじまじと比べる。
無意識のうちに、突きつけられたクラリーシャの掌に、自分のそれを当てる。
「あらあら、未婚の淑女の手を許可もなくとるだなんて、本来は家族か婚約者しかやっちゃダメなことなんですよ?」
「わ、悪いっ」
我に返ったジャンは、慌てて手を引っ込める。
「うふ。そこは『僕は婚約者だろ』ってツッコミ待ちだったのですが」
しかし今度はクラリーシャの方が手を伸ばし、素早くジャンのそれをつかみとる。
互いの掌をより密に触れ合わせるように、指と指をからめてぎゅっとにぎってくる。
「ジャン様の手は温かいですね」
クラリーシャが屈託のない笑みを浮かべて言った。
女性に免疫がなく、また母親以外の手をにぎったことのないジャンは、たったこれだけのことでカーッと赤面してしまう。
「ふふっ。もっと温かくなりました」
「からかうなよっ」
「これでさらに温かさ倍ですっ」
クラリーシャに逆の手もとられ、これで両手ともつないだ格好に。
しかもこの状態だと、真っ直ぐに見つめてくるクラリーシャの眼差しや、黒真珠の如き綺麗な瞳を、よけいにでも意識させられる。
その視線から逃れようと思えば、不自然な体勢で身をよじらなくてはいけない。
だからジャンは別の手段で、この気恥ずかしい拘束から逃れることにした。
「……曲のリクエストがあるんだけど」
「まあ! ええ、ええ、なんでも仰ってくださいませ。わたくし、レパートリーなら二百曲ほどございますので!」
「それはまたべらぼうにすごいな。……いや簡単なのでいいんだ。『野ばら』とか」
「わたくしが三歳の時、最初に習得できた曲ですわ!」
(母さんが唯一、まともに弾けた曲だけどね……)
自称才能ナシの三歳児に弾ける曲を、母は自慢げに弾いていたらしい。
亡き母にそんな可愛い一面があったことを知って、しばし懐旧の情が募る。
その間にもクラリーシャの手が離れていき、彼女の演奏が始まる。
母が弾いていたのとは似ても似つかない、技巧の極致を尽くした『野ばら』。
ジャンはしばし耳を傾け、目が覚める想いだった。
母は母。クラリーシャはクラリーシャ。
全くの別人で、先ほど重なって見えたのが嘘のようだ。
(僕がどうかしていたんだろうか……)
あるいは、初めて目の当たりにしたクラリーシャの演奏姿が、それだけまぶしかったか。
多分この先もう二度と、彼女に母の面影を覚えることはない気がする。
「ずっと失礼なことばかり言って、悪かったな。……クラリーシャ嬢」
「初めて『あんた』ではなく名前で呼んでくださいましたね、ジャン様」
演奏の手を止めず、クラリーシャがうれしそうに笑った。
ジャンは逆にばつが悪くて、目を逸らして頬をかいた。
「僕も改めるから、クラリーシャ嬢もこの際『ジャン様』はやめてくれないか?」
「では少し気が早いですが、『旦那様』とお呼びしましょうか」
「勘弁してくれ! ただの『ジャン』でいいって言ってるんだよ」
彼女はもっと相応しい相手と結婚すべきだという考えは変わらない。
それはクラリーシャのことを知れば知るほど、今なお強く募る。
(……でも……ああ、僕はやっぱり意志の弱い人間だな……)
クラリーシャとの間にこれ以上、壁を作り続けるのは不可能だと痛感した。
歩み寄らずにはいられなかった。
彼女への好奇心を抑えきれない――否、人間としての魅力に抗えなかった。
婚約を拒むなら親しくなるべきではないと、心を鬼にすべきだと、頭ではわかっているのだが、その心の方が先に音を上げてしまった。
「承知致しました、ジャン。ですがそれなら、『クラリーシャ嬢』も他人行儀ですよ?」
「……わかった。……クラリーシャ」
「もう一声! いっそ愛称で呼んでみませんか?」
「………………わかった」
毒喰らわば皿までの精神で、ジャンは彼女を愛称で呼ぶ。
「クララ」
――と。
クラリーシャの人間的魅力の前にはジャンも徹底抗戦を続けられず!
明日もぜひお楽しみに!