6.
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近藤の背後の花壇に、校舎の陰がかかる。そろそろ日も傾いてくる時間だ。
学校は「中庭」と言い張っているが、実際はコンクリートの基礎に土をまぶしただけの、狭い坪庭でしかない空間は、実に静かだった。
四面楚歌の校舎が、四角く区切った空を見上げて、近藤がつぶやく。
「まさか、こんなシール一つで、全部が見破られちゃうなんてね」
オレの持った種の袋に、近藤は目を落とす。
「私の担当科目は国語ですからねぇ……種の発芽実験っていうのは、さすがに無理があったか」
「嘘を認めるんですか」
「うん、ごめんね」
穏やかな調子で、近藤はオレの推理の内容を認めた。
「それで、私が種を植えた本当の理由、だったっけ」
「オレの連れのためにも、教えてくれるとありがたいっすね」
「……黄色いマリーゴールドの花言葉を、知ってるかい?」
突然、近藤はそんなことを言い出しやがる。
「オレがそういうの、知ってるタイプに見えますか?」
「君が所属してる団体、緑化サークルって名前だって聞いたけど」
「うちは花言葉とともに、お花を贈り合って耽美にひたるようなグループじゃないんで」
「そうかい」
特に興味もなさそうに言って、近藤はオレから背を向ける。その視線の先には、彼がさっきまで水をやっていた花壇がある。
「私にはね、娘がいるんです」
これまた急な話だった。
「娘はね、今年で六才。この春から、小学校に上がる年なんだ」
「そーですか」
「あの子は今、病院にいる」
「……え?」
思ってみない話に、思わず近藤を見返す。彼の曲がった背中がそこにはある。
「先月までは、別になんともなかったんです。だけど今月の初め、急に意識を失って倒れた。幸い、あの子は助かったけど、病院では『手術をしないと発作が一生続く』と言われた。その場で入院になって、入学式なんて行けるわけがなかった。……可哀想に」
最後の一言には、怒りがにじんでいた。
オレは、教師が怒る姿にはずいぶん慣れている。まだ東香と出会う以前、乱闘事件を起こしたときなんか、生徒指導の教師の怒声で、学校中が揺れたもんだ。
だが、近藤の言葉に込められていたのは、そういう爆発的な、正義の怒りではなかった。一人の人間としての、どこにも向けようのない、不発弾のような冷たい怒りだった。
肩を震わせながら、近藤は話を続ける。
「あの子の発作の原因は、脳にあるらしい。手術というのは、問題が起きている部位を切除するってものだという。だけどそんな恐ろしいことを……まだ五才のあの子の頭にメスを入れるなんてッ……どうしてそんなことをしなくちゃいけないんだ!」
オレには言葉もない。彼の慟哭をひたすら見てること以外、できることはなかった。
「最後にはね、手術を受けることを決断したよ。親である私たちが勝手に書類にサインして、まだ事情もわかってない娘を、危ない手術に送り出すことに決めたんだ」
近藤はそこで一度言葉を切った。気持ちを落ち着かせるためか、何度も荒い深呼吸をする音が、こっちまで聞こえてくる。
ふう、と大きく吐き出してから、近藤は話を再会する。
「黄色いマリーゴールドには『健康』という花言葉があるらしい。だから私は、この花壇に種をまいて、育てようと思ったんだ」
「先生の娘さんの、健康を祈って、ですか」
「私だって、くだらない願掛けだと思いますよ。でももう、そういうのにすがるしかなかったんだ」
彼の動機は、思っていたよりもずっと壮絶なものだったらしい。
ただ、疑問はまだ少しだけ残っていた。
「先生の自宅で、マリーゴールドを育てるのでは、駄目だったんですか? 先生があんな嘘をつかなきゃいけなかったのは、わざわざうちの学校の花壇を使ったからですよね」
「うちのマンションのベランダは狭いし、あまり日当たりがよくないって問題があったんだ」
花壇の方を向いていた近藤が振り返る。そこには、憔悴した様子ではあるものの、ずいぶんと穏やかな表情があった。
「あの子のために、なるべく大きな花壇で、たくさん育ててあげたかったんです」
それは、拍子抜けするくらい単純で、それでいて、今まで彼が口にしていた詭弁なんかよりもずっと納得できる言葉だった。
確かに、いかに娘の病気のためだろうと、私的な理由で学校の花壇を使うことはできないだろう。教務にだって報告しにくいはずだ。だから彼はもっともらしい嘘をついて、黙ってこの花壇を使う大義面分を仕立て上げたのだ。
しかしその「緑化」を肯定するのに、オレにはなんの躊躇いもない。
「話を聞かせてくれてありがとうございました。悪かったっすね、根掘り葉掘り聞いちゃって。オレたちはもう、花壇に口出しなんてしませんから」
「……本当かい? 学校に私のことを報告すれば、この花壇を君たちが使うことだってできるかもしれないのに」
「そんなことしても、うちのサークル長は喜びませんよ。それに、あくまで緑化サークルの目標は、この灰色の島に緑を増やすことであって、自分たちでやるかどうかは重要じゃないんで」
手にしていた種の袋を、近藤に手渡す。
「これ、返します。公共施設を自分のためだけに使うなんて、えらく特大な〝自分勝手〟で、オレはかっこいいと思いますよ」
「あ、ああ……」
「娘さんの手術、成功することを祈ってます」
「……ありがとう!」
力強くうなずいた彼の手元には、赤い値引きシールの張られた種の袋がある。今回ばかりは、その値引きシールが解決に役に立った。しかし、それが値引きされていようと、いなかろうと、彼は黄色いマリーゴールドの花を買っただろう。
この事実をうまく総括するのは、オレの国語力では難しいところだが、真実とはつまるところ……こうやって繋がっているようで繋がっていない、けれどもやっぱり繋がっている、そういうものなんだ。きっと。
「――なるほどね、それが近藤の真実だったのか」
帰り際、涙橋水門のところにまだ東香がいたので、オレは一応の報告義務として、今回の顛末を話してやった。
「いやぁ、急に出てっちゃうから何事かと思ったけれど、まさかその足で全部解決してきてしまうとは……なんで私も連れてってくれかったんだぁっ!!!」
「うわっ! 急に大声出すなようるさいな。お前がいると、話がこんがらがりそうだって思っただけだ」
「なーんだね、その言い方は! 私、こう見えても寂しがり屋なんだぞ? 急に一人ぼっちにされたら……悲しいじゃないか」
「悪かったって」
ここは謝っておくことにする。実際、さっきの説明不足で突飛な行動は、自分でも反省していたところだ。
謝罪の後で、オレは一番気にしていることを尋ねてみた。
「ところで東香……花壇の件の真相は、お前の望むようなものだったか?」
この時のオレは、どんな顔をしていただろう。
あからさまに良い答えに期待するような、ひどいものじゃなかったことを願うが、それは向き合っている東香にしか、知りようもない。
ただ彼女は、頬をほころばせ、顔の横に沿った編み込みの髪をゆすぶって、さっぱりと笑ってくれた。
「ああ、満足だった! いい緑化の話を聞かせてもらえたよ」
――そうだ。
オレの世界は、きっと激しい温暖化の途中にある。
だからこんなに、胸の中が暖かいのだ。
異常気象に見舞われた心中を見透かされないよう、どこかそっぽへ言葉を飛ばす。
「お前が満足なら、オレはそれでいい」
「おー、関心な態度じゃないか。それでこそ、我が緑化サークルの部員第一号だよ!」
「そんで、第二号以降の部員は何してるんだ?」
「今日はもう帰ったよ、きゅうり畑に水やるだけだし」
「ならオレも帰るか」
「だーめ」
橋の方へ歩き出そうとしたところを呼び止められる。
「なんだよ、まだ仕事が残ってるのか?」
「全然そんなことはないんだけど、ちょっと思いついたことがあって」
「核ミサイル系か?」
「どんな系統の話さ!? まったく、私が提案することはいつだって、平和のための活動なんだから」
東香は両手を前に出し、それぞれの指をぴんと伸ばす。
「私たちで、マリーゴールドを育ててみないかい?」
身振りと内容はまったく連動していなかったが、その意図はさすがにわかる。
「近藤の娘のためにか?」
「そうさ! 彼のお嬢さんの健康を祈って、我々もひと肌脱ごうじゃないか」
「……。」
オレは少し考える。この水門付近の秘密の場所に、もう一つ植物を追加するのに、どんな物資が必要なのだろうかと。
鉢植えに、種に、水やりの労力。
「……安いもんだな」
「えっ、何か言ったかい?」
「別にいいって、そう言ったんだよ。種は、いつものホームセンターで買ってくればいいか?」
珍しく前向きなオレの対応に、東香の瞳がキラリと光る。
「うん、うん! これから一緒に買いに行こう」
「りょーかい。お供させてもらいますよ」
もう見飽きた行動力の部分は諦めて、とりあえず店に行ってからのことを考える。
「せっかく買い出しに行くなら、ついでに足りない道具も買おうぜ。土とか肥料とか、まだあったっけ」
「そういうのは、先週花の鉢を買ってきたときに、私が揃えてしまったから大丈夫だと思いたいな。――それよりも!」
東香が急に大きい声を出す。気がついたら、ずいぶん鼻息が荒く、両目が大きく開かれている。
オレはとても、嫌な予感がした。
「ついで、というなら広くん! 普段からお世話になっている私に、花の一つでもプレゼントしてくれたらどうかな? 別に開花したものでなく、種でもいいよ!」
「なんでそうなるんだよ!? ただでさえ、こっちはお前の活動に付き合わされて金欠だってのに」
「そんなぁ、人のためを想って花を用いることが、どんなにプレシャスなことか、今回の件で学習してくれたと思ってたのに!」
「お前の人間性についてなら、常日頃から学ばせてもらってるがな」
呆れつつも、一応は聞いておく。
「それで、例えばどんな花が欲しいんだ?」
「えっ? やったぁ! えーっとねぇ……」
「勘違いすんなよ、あげるって約束したわけじゃないからな」
うっとり考え込んでいる彼女に、その言葉が届いているかは、まったくもって自信がない。
しばらく思案した後で、東香はオレの目を見ながら答えを出す。
「せっかくマリーゴールドが話題に上がったんだし、『フレンチマリーゴールド』を所望するよ」
「フレンチ? ……普通のマリーゴールドじゃだめなのか? 別に色とかも大差ないだろ」
「だーめ。それに、普通のやつはこれから買いに行くだろう。せっかくなら別の品種が欲しいよ」
「そうっすか」
あまり東香の思考回路を考察しても頭痛が起きるだけなので、オレは通学鞄を背負い直すと、今度こそ行く道の方に歩き出した。
背後から、すぐに東香が駆け寄ってきて、そのままオレを抜いていく。
いつだってこうして、背中ばかりを見ている彼女の腕には今日も、「緑化」という字が刻まれた赤い腕章が巻かれている。
前から思っていたが、どうして「緑化」なのに赤なんだろうか。
「さぁさぁ広くん、ホームセンターに向かって、マッハでダッシュだよ!」
「スローで行かせてもらうわ、転ぶから」
彼女が名付けた涙橋水門も、塔銘学園中等部も、だんだん背後に小さくなっていく。
近藤はもう、水やりを終えただろうか。
(終)