正体不明の少年との遭遇
西村俊介はアパートの一室に佇んでいた。小さな化粧台の前に立ち、何度も鏡を見つめたが、自分自身の姿がそこには映らないことに困惑していた。「うーん、何度鏡を見ても髭を剃ることができないなぁ」と、彼は小さな呟きを漏らした。
すると、まるで風がそっと耳元をかすめるかのように、10代ぐらいの少年の声が聞こえた。「そうだね、僕も顔を洗う時に困るんだよね」と、そっと囁く声が彼の耳に届いた。しかし、彼が正面の鏡を見ると、そこには誰の姿も映っていない。不思議な感覚が彼の背筋をゾクッとさせ、振り向く瞬間、目が覚めた。
「夢だったのか」と、西村はため息をついた。
例の事件以来、西村はこの夢を毎日のように見るようになった。今日は木曜日で、朝の8時に特運三課の方が訪れる日だった。慌てて時計を見ると、9時を過ぎていることに気づいた。西村はバタバタと支度をし、すぐに「ピンポーン」というチャイムの音が響いた。
西村は慌ただしく玄関に向かい、ドアを開けた。そこにはラフな格好をした20代ほどの女性が立っていた。彼女は焦った口調で言った。「ごめんなさい、電車が遅れてしまって、それでバスにも乗り遅れちゃったし、さらに目覚まし時計も壊れちゃって…」
西村は思わず笑ってしまった。「それって結局、僕と一緒に寝坊したってことじゃないのかな?」と心の中で思った。
西村は女性に声をかけた。「特運課三課の方ですか?」
女性は顔を真っ赤にして、「あ、そうそう、ご挨拶まだでしたね」とセカンドバッグから名刺を取り出し、差し出した。「特運三課の小林奈々です。よろしくお願いします」と、ペコリと頭を下げた。
西村が小林に話しかけると、「実は、まだ特運課に入るかどうか悩んでいて、アルバイトも辞めていないのですが」と告白した。
小林は優しい笑顔で答えた。「あっ、大丈夫ですよ。特別職公務員なので、辞めなくても大丈夫です。私もバイトをしているし、特に三課は緩いんですよ」
西村は小林の優しい声に安心感を覚え、彼女に笑顔で頭を下げた。今日から彼は小林と共に特運課三課で働くことになるのだった。
アパートを後にして、二人は駅に向かうために歩いていた。西村は小林に向かって興味津々に「小林さん、これからどこに行くんですか? 何の仕事をするのですか?」と尋ねた。小林は微笑みながら、「特運課のみんな、私を奈々って呼んでいるんですよ。名前で呼んでくださいね」と答えた。西村は、「はい、分かりました。では、奈々さんと呼ばせてもらいます」と答えた。奈々は笑いながら「じゃあ、私は俊介くんって呼びますね!」と言った。
西村は心の中で「警察関係の仕事をしている人とは、ちょっと違う感じがするな」と思った。
しかし、奈々は重い表情で話し始めた。
「今から向かう場所は、自殺未遂をした女性の自宅です」と言った。奈々によると、その女性は17歳で、ストーカー被害に苦しんでいたそうだ。彼女は恐怖に怯え、自暴自棄に陥り、自殺を試みてしまったのだと話した。西村は奈々の言葉に心を痛めた。彼女が語る若い女性の悲しみが、胸に響いた。しかし、二人が目指すのは、その女性を救い出すことだった。
二人は電車に乗り、駅の改札を出ると、タクシーで約10分ほど走った場所にある、かなり大きなマンションの前に到着した。
西村がそのマンションを見上げていると、「奈々ちゃん、西村くん!」と呼ぶ声が聞こえ、以前河川敷で会った二課の神谷将太が駆けつけた。
西村は驚きの表情で「え⁉ 神谷さんも一緒ですか?」と尋ねると、神谷は「僕は別行動で張り込みと護衛をしているんだよ。とりあえずここで話すのも何なので、僕の車の中で話をしよう」と答えた。
車の中で神谷が語り始めた。17歳の少女、森田あやめは普通の高校生活を送っていた。ある日、部活の帰りに同じ年頃の少年が現れた。彼は制服が違っていたため、違う学校の生徒だと思われた。
そして、彼は笑顔で森田あやめにこう話しかけた。「君の運をもらうね」と。森田あやめは怖くなって逃げ出したが、その日、恐怖と自暴自棄に陥り、このマンションから飛び降りてしまったのだ。奇跡的に無傷で助かったのが最初の自殺未遂だった。
西村は驚いた表情で「え⁉ 無傷で!」と言った。神谷が車の中で「そう、それから2回も起こっているんだ。そして、特運課が駆り出された」と語った。
神谷が「今回二人の任務は森田あやめの心のケアで、僕は引き続きこの車の中で監視しているね」と話すと、二人は早速マンションの入り口のインターホンを鳴らし、森田あやめの母親がインターホン越しに声を出した。
小林奈々が「こんにちは、奈々です」と挨拶すると、森田あやめの母親は「奈々さん、いつもお世話になっています。どうぞお入りください」と言って二人を招き入れた。
エレベーターで12階に上がり、廊下を歩いていると、向こう側のドアが開き、森田あやめの母親が出てきてお辞儀をした。
奈々は「こちらは私の同僚です」と言い、西村が会釈した。二人は森田あやめのいる部屋に向かった。奈々が部屋をノックして、「あやめちゃん、奈々よ」と声をかけると、突然ドアが開き、「奈々ねえ!待っていたのよ!」と満面の笑顔で奈々に抱きついた。振り向いて西村を怪しげに見つめ、「この人は誰?」と聞いた。
奈々は、「彼は私たちのチームメンバーで、今回の任務であなたを守るために来たのよ」と紹介し、あやめは驚いた表情を浮かべて礼を言った。
一方、西村は、あやめの明るい振る舞いに戸惑いを隠せなかった。彼女が心に抱える悩みや苦しみを想像していたため、彼女の明るさに対して違和感を抱いていた。しかし、あやめの話を聞いていくうちに、彼女が抱える問題の深刻さを知ることになった。
あやめは、あの少年と会ったところから自分の記憶がなくなり、気がつくと自宅マンションから飛び降りていたと話した。医師からは、ショックから自暴自棄な状態になったと診断されていたが、奈々は、あやめが強い暗示にかけられた可能性があると推測していた。
すると、突然、奈々のスマホが鳴り響いた。神谷からの着信だった。
「今すぐこの場から逃げろ!」と言葉を残して、急に着信が途切れた。
奈々は事態を察し、3人を連れて玄関から出ると、向こうの廊下から人影が歩いて近づいてくるのが見えた。奈々は反対方向に走り、階段に誘導した。そして10階まで降りて渡り廊下を出て、偶然にも他人の家のドアが開いていたので、手招きして中に入った。西村は「えっえ⁉」と訳も分からずに入ったが、運よく家の人がいなかった。
奈々は、小声で西村に囁いた。「私は、気づかれずに他人の家に入ることができる運(能力)を持っているのよ」と説明した。
しかし、しばらくすると足音が近づいてきて、隠れている家の前でピタッと止まった。
少年の弾む声が聞こえた。「どうやら僕の方が、運(能力)上だったみたいだね」と言われ、奈々は慌てて鍵を閉めようとしたが、鍵もドアロックも壊れていた。「とにかく奥へ逃げましょう!俊介くん、早く!」と奈々が叫んだ。
しかし、西村俊介はこんな時に足がすくんで動けなくなってしまった。ドアが開き、マスクをつけた少年が現れた。すると、少年は西村の顔を見て急に青ざめて叫んだ。
「き、君も写っていないのか⁉」と意味不明な言葉を残して慌てて逃げて行った。
その後、警察と特運課が駆けつけたが、少年を見つけることはできなかった。
神谷も無事であった。少年に気づいて車から出ようとしたが、車のドアロックが壊れて開けられず、スマホも突然圏外になってしまった。しかし、少年の気配がなくなると同時にドアロックが解除され、スマホも通信可能に戻った。
この日は警察と特運二課の数人が森田あやめの護衛についていた。西村と奈々は神谷の車で帰宅することになった。帰宅後、西村がスマホの録画記録を確認したが、今回は何も記録されていなかった。
この日の夜、助手席には小野寺彩香が座っていた。神谷はハンドルを握りしめながら、ため息をついた。少年について語り出した。
「あの少年、一課クラスの中でもトップクラスの運(能力)を持っていると思うんだよね。」
小野寺は興味津々の表情で頷いた。「ふ~ん、そうなの。あの少年が西村君を見て逃げたのね」と彼女は微笑みながら言った。
その後、二人はしばしの沈黙に包まれた。車の窓の外に広がる夜景が静かに流れていく。
特運課の存在は、普通の人々には知られていない。しかし、運命に弄ばれる人々を救うため、特運課は常に活動している。その中に入ることは簡単ではないが、特運課の一員となることは、特別な力を持つことを意味している。西村も、そんな力を身につけることができるのかもしれない。彼は、未来への可能性に期待を抱きながら、寝静まる街を眺めた。