文芸「一瞬」ショートムービーシリーズ ――どこかの誰かが見た風景
赤、緑、青、シアン、マゼンタ、イエロー
「何やってんの?」
「あー……、塗り絵?」
初夏の大学、とある空きコマの空き教室。
就活が終わって、単位もほとんど取り終わって、あとはほぼゼミと卒論のみ。大学に来るのが必須なのは週に一回とか二回とか。
周りのみんなは、卒業旅行に向けてバイトしまくったり、熱心な部活に入っていた人はそっちに顔出したり、思い思いのモラトリアムを謳歌している。
私はまあ、最低限の授業とかバイトしながら一旦ゆっくりしようかなって。
好きに起きて、撮り溜めてたドラマとか観て、乗り換え駅のショッピングモールぷらぷらしたりとか、授業出たりバイト出たり、特にやりたいこともないながらまあここならなんとかやってけるかなって感じで滑り込めた卒業後の就職先のことを時々思い出したりしながら、ただ息を吸ったり吐いたりしている。
「大学行くならついでにあれ買ってきてよ、塗り絵。あと絵の具もね」
母に頼まれて、大学前にショッピングモールへ寄った。
どこから聞きつけたのか、最近ちょっとした流行りの? 大人の塗り絵なるものをやってみたいらしい。カラーセラピー効果でストレス発散がどうのこうのとか。
「いつものドレッシング、今日二割も安いってほらチラシ! 昨日二本も買い溜めたばっかりなのになんで今日なのよ、やんなっちゃう」、それが本日最大の悩みだと言わんばかりの朝の第一声には、そんなに切迫したストレスがあるようには思えなかったけど。
ある程度子の手が離れた母親というものは、いつでもちょっとした趣味を探しているものだ。ご家庭によるかもしれないけど。
今時、絵の具といっても手軽に使える、筆ペンタイプのものが売っている。どうやら百円ショップでも買えることがわかって、基本っぽい色を一通りカゴに放り込む。
大学に着いて、ゼミまではまだ時間があった。
ふと思いつきで自分用にも買ってみた塗り絵のテキストを開く。母のより薄くてさらに初心者向けのやつ。
細くもはっきりとした黒い均一な線で、白地に花びらの一枚一枚が繊細に描かれている。細胞の一つみたいなその区切られた平面の上に、恐る恐る筆を置いてみる。色がのる。それを繰り返す。
いつしか無心で、ああセラピー効果っていうのもわかるかも、なんて、筆を動かす手は自動で、今までのこととかこれからのこととか考えている脳みそもまた自動で、誰もいない空きコマの空き教室には、ただカラフルな沈黙だけが流れた。
「何やってんの?」
ハッと顔を上げると、同じゼミの男の子がいた。
三年でゼミに入ってはじめて顔を合わせた。そこそこ少人数の授業、一応申し訳程度の親睦会みたいなイベントも時々あるから、学内で偶然会えば世間話くらいはする。特段仲が良いわけでもないけど。
なんて形容すればいいのか。平凡。中肉中背。髪型や服装や角度によってはかっこいいといえなくもない。いやめっちゃ失礼。向こうもきっと似たようなこと思ってるだろうし。
「あー……、塗り絵?」
「ふーん……」
私の手元をチラリと窺って、彼は、一度入ってきた教室から出ていった。
ゼミの開始まではあと二十分といったところ。微妙な待ち時間ではあるけど、二人きりがそんなに嫌だったか。
特段仲良くはないと思っていたけど、そこまで嫌われていたとは。空気読まずに話しかけたりとかしないよ。各々の沈黙の二十分を守るくらいの弁えはあるよ。
そんなふうに若干の気まずさを覚えつつ彼の背を見送って、ふと自分の手の下にあった紙の上に視線を落として、ギョッとする。黒い。
手に任せて色とりどりの絵を描いていたつもりが、気づけば一つの枠の中に節操なくいくつもの色が塗り込められていて、一番ぐちゃぐちゃに重なり合ったところはもはや真っ黒になっていた。
うーん確かに、一人こんなものを描いている女と二十分間二人きりはキツいかもしれない。自分では無意識だったんだけどね。もっと怖いか。なんかごめん。
だから、ゼミが終わって彼に呼び止められたときには耳を疑った。
「ちょっと待ってて」
他の生徒が続々と部屋を出ていく喧騒の中で、彼は一人椅子に戻って黙々と何かを始めた。
おそらく買ったばかりに思える未開封の折り紙のようなものと、小さい懐中電灯三本。
懐中電灯の頭のフタ? 部分を一度外して、中の銀色みたいな部品を抜いて、フタを戻して、黒い紙と色の付いた透明の、あれなんて言うんだっけ、セロハン。それらをこう、なんやかんやして。わく○くさんさながら、手際良く三つの装置を完成させた。
それから窓辺に寄って、授業で映像作品なんかを観るときのための黒いカーテンを引いて。懐中電灯三本のスイッチを入れるとその光を黒の帳に向けた。
赤と、緑と、青。
暗闇にくっきり浮かぶ原色の光は、季節外れの花火みたいに小さくも鮮やか。
なんか綺麗かも。基本の色をぽんとそこに置いただけなのに。
けれどもそうやって、独立して映された三つの色を、彼はあろうことか徐々に近づけていった。
いやいやちょっと待って。それ、さっき私がやってたやつじゃん。無意識だったとはいえ、下手に重ねたら真っ黒になっちゃうことくらい、もう十分解ったんだから。
こんな仕打ちを重ねられるくらい、意図せず見せてしまった私の心の内は不快だったか。ごめんて。
不意にいたたまれない気持ちが襲って、思わず目をそらす。色が重なって黒くなったら、この部屋は真っ暗になるのかな。
真っ暗闇を覚悟しながらその瞬間を待つ。けれどもそれは一向にやってこない。
不思議に思っておずおず顔を上げると、黒いカーテンの上には真っ白い光があった。
「え? なんで?」
「知らない? 光の三原色。俺もちゃんと説明できるほど知らないけど、光は混ぜたら白になる」
「……知らなかった。化学? 物理? とか苦手すぎて」
「まー、だから。もっとテキトーでいいんじゃない?」
「え?」
「絵の具は混ぜたら黒だけど、光は白だし。そんなもんなんだから。テキトーにやればいいんだよ」
「…………」
なんかよく分からないけど、励まされた。たぶん。
そんなにヤバかったのかな、さっきの私の絵。なんだこの女、放っておいたら次のゼミで机くらいひっくり返しかねないぞとか思われたのかな。
まあ、でも、……嫌ではない。言ったら嬉しいかも、ちょっとだけ。ヤバいやつのこと心配して声かけてくれる人なんて、普通そうそういないし。
「……アイス好き?」
「え? うん、まあ」
「じゃあ奢らせて、その、お礼に」
きょとんとしながらも彼は、咄嗟に口からこぼれたアイスのお誘いにのってくれた。
いやいやよく考えたら、仲良くもない同窓生のために二十分間で夏休みの自由研究セットみたいなの買ってくるきみも相当変だけどね?
某アイス屋さんにて、私が注文したのはいつものトリプル。トロピカルブルーハワイとベリベリラズベリーとゴールデンパインレモン。ついつい目移りしてどの味も欲しくなっちゃう私は、子どもの頃からいっつもこれ。
奢るからって言うのに頑なにバニラ一つを注文した彼は、私のカップを見るなり吹き出した。
「……なんか、わかった気がするわ。紙の上が黒くなるの」
その後何度か、何色なんだかよく分からない色のアイスを一緒に食べて。
いつの間にか、アイスなんて口実がなくても一緒にいるようになって。
茜色と、宵色と、暁色の空を同じ部屋から眺めて。
勢いよく飛ばしたカラフルな風船が舞った先は広がる花色、黒留袖の母に意外と似合うわなんて。
改めて掌に置いてみれば思ったより淡い桜の花びらも、暑すぎてさっさと撤退してきた紺碧の海も、ヘアピンカーブに酔いそうになった照紅葉の山も、音のない夜みたいな銀世界の朝も。
何色だってよかった。
混ぜても、混ぜなくても、何色にだってなった。きみとなら。
「ねーママー、アイス黒くなっちゃった」
「食べるの遅いのに、欲張って三つも味選んだからでしょー」
「んーでもー、味はおいしいよっ。ほらっ」
「ん……、確かに、常夏トロピカルって感じだわ。見た目はアレだけど」
「きゃははっ」
何がツボに入ったのか、来年小学校入学を控えた娘はスプーン片手に爆笑を始めた。
一通り気が済むと、もはや何色なんだか分からない、そもそもアイスだったのかも分からない液体を、彼女は器用に掬ってせっせと口に運んでいる。
もう飽きたからと途中で投げ出さないで、きちんと食べ切るところがまあ偉いというか、食い意地張っているというか。お行儀良いとはお世辞にもいえないけど、家の中なのでよしとしよう。
口元を押さえ、小刻みに肩を震わせながら、なんとか静かに一連を見物する夫。チラリと窺い目が合えば、堪らないといった様子で吹き出した。
「…………何?」
「いや、遺伝て恐ろしいなって」
「なんのことかしら? 私は先ほどあなたと同じくバニラを優雅に堪能しましたけれど」
おどけた返事とともに知らんぷりを決め込むと、彼は一層楽しそうに笑った。
そりゃあねえ、私だってもう大人ですから。欲張って色んな味のアイスを注文したりしません。定番のバニラ一つで十分。
……でもまさか、娘が迷わずトロピカルブルーハワイとベリベリラズベリーとゴールデンパインレモンを選ぶとは思わなかったけれど。何も言ってないのに。
久しぶりに見たな。あの、なんともいえない色。
まあでも確かに、味は美味しかった。わざわざ混ぜて作るものでもないけどね。混ざっちゃったときには、それはそれで。
「パパー、あれやってー。リカのジッケン」
「ん? 懐中電灯のやつ?」
「そう! 色かわるやつ」
娘は既に、世界に溢れる色が、黒にも白にもなることを知っている。
そして私は、その色がどちらでも良いのだということも知っている。
自分のことがひどく嫌いで、ぐちゃぐちゃに塗り潰してできた黒は、数年後、幸せの黒になった。
でも、ぐっちゃぐちゃに塗り潰すような時間だって、あったっていいと思う。あれでもないこれでもないって手持ちの色を全部混ぜて、こりゃ駄目だってぽっきり折れたりしても、見方を変えればそれは白だったり、黒だって口に入れてみれば美味しかったり、結局なんだっていいんだってことを、私は知ったから。
え? だいぶテキトーに纏めたなって? いいのよ、たまにはテキトーに生きたって。
絵の具は混ぜれば黒になる。光は混ぜれば白になる。きっと世界なんてそんなものだから。
むかし、色彩検定なるものの勉強をしていたことがあります。
厳密に色を重ねて黒を作るには……とか専門家の方から見れば要補足の点も色々あるかとは思うのですが、短いお話として、さっくりゆるっとテキトーにお味見いただければ幸いです。
アイスの味はフィクションです。
あと、未就学児にアイストリプルはさすがに多い気がしてきました。多少はママも手伝ったのでしょう、たぶん。
最近なんだかちょっと落ち込んだり凹んだり詰まったりしがちだったので、色と光の三原色のお話を思い出し、半分自分を励ますために書きました……
(一応の簡易補足)
・光の三原色:RGB(赤Red・緑Green・青Blue)、混ざると明るくなり白に近づいていく。加法混色。
・色の三原色:CMYK(シアンcyan・マゼンタmagenta・イエローyellow)、混ざると暗くなり黒に近づいていく。減法混色。
光の実験はこちらを参考にしました↓
https://global.canon/ja/technology/kids/experiment/e_06_01.html
お読みいただきありがとうございました!