エピローグ
最後は改稿バージョンを使いました。
ほぼ初稿版と内容に変化がないので。
母に一度顔を見せて、もう一度外に出た。最後に見ておきたい場所がいくつかあった。
警察署。図書館。竹林。一通り歩いていたら、いつの間にか十一時半を過ぎていた。
いろんなことを思い返しながらゆっくり歩いていたから、まあ当然といえば当然か。
思い出が意外とあったことに驚いている。僕はすぐに忘れてしまうような薄情者だと思っていたのに。やはり、状況が状況だからだろう。
最後に来たのは言わずもがな、この公園。
死に場所が選べるとするのなら、僕は迷わずここを選ぶ。実際、ここに最後に来るのは決めていたことだった。
こんな真夜中に子供がいるはずもなく、ここにいるのは僕一人だけ。
美しい夜景だ。街の明かりが瞬いている。
それを見て、全てが終わったのだということを改めて実感した。
自分の命が尽きることよりも、この街の異常な事態を終わらせることができたことの喜びがとてつもなく大きく、死に対する恐怖など生まれていない。
まさか自分の命より他の命を優先するような日が来るだなんて思わなかった。まあ、落ちこぼれの僕が死んだところでこの世界は何も変わらないだろう。きっと、大丈夫だ。
でも結局、あんなことを言っておいて、最後の最後まで何もできなかった。
過去を捨てることなんてできなかった。自分の気持ちに振り回されたままだった。それはおろか、『カミサマ』を止めることを諦めようとさえしたのだ。
まあそれでも、最終的に目的は果たしているのだから、悪くはないのだろう。
自分を犠牲にして人を救う。そして『カミサマ』も止まった。いや、止まってはいないけれど、あの二人が今度誰かの願いを叶えようと思うことはないんじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、突然ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。うっつーが何か画期的な案を思いつきでもしたのだろうか。
画面を確認すると、中川ののか。
少しだけ期待をしていた部分もあるので、違ったかと落胆しつつも、何の用だろうと思い、電話に応じた。
「もしもし」
《もしもし。内海先輩と真弓先輩を見つけました。たぶん大丈夫です。二人とも泣いてはいましたが、もう何かしようとは思っていないでしょう》
「そっか」
《…………卓先輩、嬉しいですか? 『カミサマ』を止めることができて》
「もちろん」
《……………………》
中川が電話越しに押し黙った。一体何が言いたいのだろう。
「どうかした?」
そう問うと、暫しの沈黙の後、訴えるような、すすり泣くような、そんな声が聞こえた。
「じゃあどうして――どうして卓先輩は泣いているんですか?」
これは電話からの声じゃない。いま声がしたのは、後ろだ。
そう思って振り向く。
中川ののかが、そこに立っていた。
言われて、頬に触れる。確かに、そこには大量の涙が溢れ出てきていて。
でも、どうして。どうして、僕を見て中川が泣く必要がある。
「本当は、悲しいんじゃないんですか? もっと、もっと生きたかったんじゃないんですか?」
そんなことはない。そんなことはないはずだ。だって僕は覚悟を決めたのだし。
僕の言いたいことが伝わったのだろう。中川は不満そうな顔をした。
そして、堪え切れなかったのか、声を上げた。
「そんなんで、割り切れるわけがないでしょう!」
いや、それは僕のセリフだろう。なんでそれをお前が言うんだ。
戸惑う僕にずかずかと歩み寄ってきて、胸倉を掴んで、中川は泣きながらも怒っていた。
「言ってしまったから後戻りはできないとか、そう考えていたんじゃないんですか?」
図星だった。何も答えられなかった。何も言えなかった。
中川は正しい。正しすぎる。そしてそれでいて、強い。
一体その強さは、どこから来ているのだろうか。
「後戻りはできないからといって、悲しくないわけないじゃないですか? 死ぬんですよ? 全部それで、終わっちゃうんですよ? それが悲しくないわけないじゃないですか!?
ふざけるのも大概にして下さい! 人の気持ちっていうのは、生きたいっていう気持ちは、そんな簡単に捨て切れるんですか? 違いますよね? そんなわけない!」
圧倒された。痛いほどわかっていることを、そのままぶつけられて、それでもなお、それを認めたくない僕がいる。
でも、わかってしまった。僕は確実に、悲しんでいる。
「胸は貸しますよ。まな板のように小さくて、柔らかくもない胸ですけど」
わざわざ言わなくてもいい。そう言おうとしたところで、小さな腕が無理やり僕の頭を抱え込んだ。
その押しつけがましい優しさに、いまは甘えることにした。
「丸山卓はとっても強い人です。じゃなきゃ、こんなこと、できるはずもありません。でも、だからって自分の心を我慢する必要なんてないんです。悲しいときは泣けばいいし、どうしたらわからないときはちゃんと人に相談すればいいんです」
その言葉が胸に突き刺さる。中川は欲しい言葉を痛いほど投げかけてくれる。
頭を抱える腕の力が弱くなり、僕の頭が解放された。
中川は一歩下がり、姿勢を正す。
その告白は、突然だった。
「丸山卓さん、私はあなたのことが好きです。付き合って下さい」
何を言われているのか、わからなかった。頭が真っ白になった。何と返せばいいのか、全く思いつかない。
答えないうちに、また頭を抱えられた。
「昨日と同じです。いまはとりあえず全部吐き出しちゃって下さい。自分が死ぬことを忘れるぐらい、全部。苦しかったことも、楽しかったことも、悲しかったことも、迷ったことも。全部私が受け止めてあげます」
真っ白な頭の中で、その気持ちに少しだけ気付いていた後輩の、ほんの少しだけ柔らかな胸の中で、ひねり出した言葉は、一つ。
「……ずるいよ」
「自覚してます。でも、卓先輩のことを純粋に愛している人がいることを、忘れないでください」
胸に響く。痛いほど、深く入り込んでいく。
でも、それでも、僕にもうそんな資格はない。だって――
「いまも、生きたいと思いませんか?」
「――っ!」
目が覚めるような言葉だった。涙が更に溢れてくる。
生きたい。できるなら、もっと生きたい。
僕の様子を見て、気付いたのだろう。中川は言った。
「良かったです。先輩がそう思ってくれて」
「……ごめん」
不甲斐ない先輩で、ごめん。こんな僕を好きになってしまった中川は、本当に物好きで、不幸だ。
「謝らないでくださいよ。好きじゃなかったら、こんなことしてませんから」
「……ありがとう」
「いえいえ、これぐらい当然ですよ、後輩として」
後輩として、か。当然といえば当然だ。僕は結局、中川の想いに答えていないのだから。
ちゃんと返事をしなければいけないのはわかる。けれど、ここで軽率に答えを出していいものなのかどうか、迷ってしまう。残された時間は、あと僅かだというのに。
悩ませて欲しい。そう言おうとして口を開けたら、遮られた。悩ませての「な」を言うか言わないかぐらいの早さだった。
「別にいいですよ。答えはいつでも。私、待つのは得意なので。あ、でも卓先輩は待たせるのは好きじゃないんですっけ。でも、悩んで下さい。悩んで悩んで悩み抜いて、その上の答えをください。私はそれが欲しいです」
いいのか。それで。答えが出ないかもしれない。答える前に、僕は死んでしまうんだぞ。
そう言いかけて、やめた。それは中川もよくわかっていることだろう。
「あ、でも最後に言わせてください」
中川は僕を開放し、僕の肩に手を置いた。その瞳が真っ直ぐにこちらを向いている。いやに真剣な表情で見つめられ、困惑する。
そして、何を納得したのか手を離し、一回転して一歩下がり、姿勢を整えた。
ぺこりと頭を下げる。上げた顔には、包み込まれそうになるほどの穏やかな笑みが浮かんでいて。
「お疲れさまでした」
出し切ったと思っていた涙がまた流れてくる。やりきったという想いが、溢れてくる。やめたかった。逃げてしまいたかった。でも、逃げなかった。やめなかった。たった一言で、認められたような気がして。これで良かったんだと思えて。いままで生きてきたことを、労われたような気がした。
零れ出るのは、一言。小さく、どこまでも弱々しい声で、僕は言う。
「…………ずるいよ」
「わかってます」
そっと、中川は僕を抱きしめてくれた。その体は小さく、力を込めたらすぐにでも折れてしまいそうなのに、いまはそんな彼女の体がとても頼もしく思えた。
「……ずるい」
「わかっています」
「……ずるい」
「わかってますとも」
「ずるいよ」
「わかってますよ」
「ずる――」
言いかけた僕の唇を、柔らかい感触の何かが塞ぐ。何事かと思ったが、その答えはすぐにわかった。目の前に、中川ののかの顔があったから。
「わかっていますよ。私が、ずるい女だなんてことは」
キスをされた。ファーストキスだ。頬にされたことはあっても、唇はなかった。それを、中川ののかは奪っていった。
上気する。目を合わせられなくなる。だけどそれは、向こうも同じようで。
僕らはただ黙って目を閉じ、もう一度、唇を重ねた。
中川がこちらに体重を乗せてきたので、それを何とか支える。
目を開くと、中川を支える僕の左手にある腕時計が見えた。
その時計は十二時を回っている。それはつまり、日付が変わっていることを示している。
中川が落としたのだろうか。足元に、手紙が落ちていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
あなたに読んでいただけただけで、この作品を供養した甲斐がありました。
今週中には活動報告で作品の解説をしようと思っていますので、興味があれば覗いていただけると嬉しいです。
改めて、お読みいただき、ありがとうございました。