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五章

ここも今年書き直した改稿版の方がよかった気がする。

 1


 勝てる手を、逆転の手を探していた。

 ここからどうにかできないかを考えていた。

 しかし、何百、何千とシミュレーションをしてみたところで、相手の方が先にこっちを詰めてくる。まるでそれが当たり前かのように。

 店員さんに「閉店時間です」と呼びかけられ、もう既に三人が帰ってしまったことに気が付いた。三人が置いて行ったお金と合わせて会計をし、店を出る。


 ……勝てない。

 店を出ても、どこにも行く気にもなれなかった。やり遂げられなかったという事実が僕に突き刺さる。

 このまま家に帰っても、父に見せられる顔がない。

 あれだけ母に啖呵を切った手前、こんな情けない顔を見せるわけにもいかない。

 纏まらない考えをまとめようとして街を歩く。


 ダメだ。もう、無理なのかもしれない。終わったのかもしれない。あの二人を崩すのはきっと不可能だ。

 そして、僕には戻る場所がないことに気付く。

 家にはあの母。和解したとはいえど、言い関係とは言えない。

 学校の教室は、元々僕の居場所などなかった。

 部活には、うっつーと先輩、中川。うっつーは僕を敵視してくるだろうし、真弓先輩もそれは同じことだろう。中川はあの失望したかのような目をしていたのを考えると、僕と関わりたくないと考えているかもしれない。そこに戻れるはずもない。

 塾はのどか先生がいない以上、僕を嫌う人ばかりでどうにもならない。


 ………………………………一人だ。


 そう感じた瞬間、体がひどく重くなった。立っているのも辛い。足を一つ前に出すにも気が遠くなるような作業に感じられる。

 いつもなら行きたくなるあの公園にも、立ち寄る気になれなかった。

 にゃー。にゃー。

 猫の鳴き声がして、思わず声がした方を向く。段ボール箱から顔を出して、こっちを見る猫の姿が見えた。


「お前、一人か?」


 にゃー、と鳴き声が返ってくる。

 猫の入っている段ボール箱の中に、一枚のルーズリーフ紙が入っている。

 僕はそれを拾い上げ、読んだ。


《これを読んでいる方へ。

 経済的な理由でこの猫を手放さなければならなくなってしまいました。

 心の優しい方、経済的に余裕のある方がいれば、どうかこの子を引き取ってくれればと思います。

 名前は『希望』。そう呼べば、振り向いてくれると思います》


 希望、か。その僕に当てつけたかのような名前に、さらに気分が沈んでいく。

 しかし、この猫には何も悪意はないし、そもそも言葉の意味すら理解していないのではないだろうか。

 猫を見た。白と黒のぶち猫で、体は大きい。少なくとも産まれてから三年は経っているのではないのだろうかと思う。猫を飼っていた小さい頃のことを思い出しながらその猫を見た。


「一緒に、来るか?」


 にゃー。なんとなくだが、肯定の意思が混じっているように感じられた。 

 どことなく、誰かに似ているような気がした。



 2


 家に帰り、母に猫を飼いたいと言った。母はまだ負い目を感じているのか、文句一つなく頷いた。

 部屋に連れ帰り、段ボール箱に入っていた猫缶を開ける。二日間分ぐらいは入っているから、もし拾う人がいなくても缶を開けるぐらいはしてくれるだろうと思っていたのだろう。皿も入っていて、対応に困りはしなかった。

 やがて満足したのか、ベッドにいた僕の上に乗ってくる。腹の上に乗られ、意外と猫が重いことに気が付いた。思わず体を起こし、膝に移動させる。

 大人しい猫だった。何をしても怒らないし、トイレに行きたくなったら段ボール箱の中にある砂にする。躾はちゃんとされているようだった。

 眠気も湧かず、何をする気にもなれなかったので、ひとまず横になって猫を撫でる。もう寝たのか、猫は動かない。

 僕も寝ようかと思い、布団に包まった。

 そのときだった。

 プルルルル。電話が鳴った。誰だろう。こんな僕に電話をかけるなんて。

 そこに映っていたのは、中川ののかという文字。彼女には悪いことをしてしまった。僕の不甲斐なさによって、苦労をかけてしまったのだから。

 一言謝ろうと、電話に出た。


「もし――」

《許しません》


 有無を言わさぬその口調に、僕の口から零れるのは謝罪ばかり。


「ごめん。本当に。ごめん」

《許しません》

「僕は、何もできなかった……!」


 何もできなかった。あの二人がどういうことを言って僕を潰しに来るのか、想像もできなかった。

 結果、僕はただ二人に言いくるめられただけで、まともな反論すらできなかった。

 しかし、中川は僕の言葉など知ったことではないとでも言いたげな声音で続ける。


《許しませんよ。諦めるのなんて。まだ、全て終わったわけじゃないです。まだ、やれることはあるはずです》


 その言葉に、僕は首を振ることしかできない。もう終わりだ。終わったんだ。

 僕たちにできることなんて、何も残されていない。


「いいや、終わったんだよ。全部。僕はもう、立ち上がれない。先輩や朔也を傷つけてまで、自分を貫く勇気なんか、僕にはない」


 言った後に、自分の真意に気付く。

 そうだ。結局僕は他人を傷つけるのも、自分が傷つくのも嫌だったんだ。

 その甘さが僕に付け入る隙を与えていたんだ。


《それでいいんですか》

「え?」


 しかしどうやら、中川にはそれすらもどうでもいいらしい。


《卓先輩は、その選択に後悔はないんですか?》

「あるよ。山ほどある。でも、僕にはこれしか選べない」


 あくまでも否定を続ける僕に、中川は不満そうに溜息を吐く。

 そもそも中川は、僕に失望したんじゃあなかったのだろうか。あそこで僕に見せた失望した表情は、一体なんだったのだろう。


《弱っちぃですね、卓先輩は》

「弱いよ、僕は。こんな自分が嫌になるよ、本当に」


 嫌だから、いまこうやって逃げている。目を逸らしている。

 だというのにどうして、中川は僕を逃げさせてくれない。それでいいじゃないか。元々中川は、僕に『カミサマ』を追うのをやめてほしいと思っていたんじゃなかったのか?


《じゃ、変えましょう。弱い自分を》

「そんな簡単に、できるものじゃないよ」

《できますよ。先輩なら》

「僕だから、できないんだよ」


 人が変わるのなんて、それなりの理由が必要だ。何かきっかけが必要だ。

 いまの僕には、それがない。それをやる、勇気がない。

 中川は一体、僕のどこにそんなものがあると思っているのだろう。落ちこぼれの僕に、何を期待しているのだろう。


《できます》

「できない」

《できます》

「無理だ!」


 僕は叫んだ。そんな勇気は僕にはないから。そんなことができる素質も、持ち合わせてはいないから。

 だが、中川は僕がそう叫ぶのを待っていたかのように言う。 


《ほら、簡単じゃないですか》

「どういうことだよ」


 その言葉に、少し苛立ちを覚え、少しきつく言い返してしまう。

 中川が少し息を飲んだのがわかった。しかし、怯みはしたものの、迷うことなく続ける。


《決意をするのは、こんなに簡単なんです》

「…………!」


 言われて、嵌められた、と思った。しかし同時に、気付かされた。

 僕は「できない」のではなく、「できたくない」と思っていることに。まだやってみてもいないのに、そう判断するのは早すぎる。そう、間接的に言われている気がした。


《私は、先輩のお父さんへの想いを知っています。先輩が守ろうとした正義を知っています。信じています》

《確かに内海先輩の決意も、真弓先輩の守ろうとしているものも、偉大で尊いものだと思います。眩しいくらいです》

《それでも私は、卓先輩のお父さんへの想いを捨ててほしくない。だって、卓先輩のそれも、例えようもないぐらい素晴らしいじゃないですか》

《たとえ真弓先輩の両親の気持ちを踏みにじることになったとしても、私は卓先輩の正義を貫くべきだと思います》

「――っ!」


 声が出なかった。なぜそこまで、僕のことを信じれるのだろう。なぜそこまで、『カミサマ』を倒そうとするのだろう。

 わからない。いや、わかっているけど、そんなのは認めたくなかった。認めていいとは思わなかった。それは傲慢だから。


《あなたはもうダメですか? もう、頑張れませんか?》

「僕は…………」


 もうダメだ。頑張れない。言おうとしても、言えない。言ってしまっていいのか、迷っていた。

 そんな心の内を読んだかのように、中川は言った。


《なら、休んで下さい。悲しむのも泣くのも後悔するのも、全部いまやっちゃって下さい。やり終わったら、そこでちゃんと自分に聞いてみてください。辞めたいか、続けたいか。その答えが出るまで、私は待っています》


 どこで。その言葉は出そうで、出なかった。


「場所は、言う必要もありませんね」


 そう、決まっているのだ。そんなのは。



 電話を終わり、自分に問いかける。


「なぁ、僕は、できるのかな」


 にゃーと返ってくる。お前に言ったんじゃないと言おうかとも思ったが、やめておく。

 猫を見た。さっきの鳴き声がどちらを露わしているのかは全くわからないが、きっとこいつは僕の決断を応援してくれる。そんな気がした。


「行ってくる」


 靴を履く。後ろからにゃーという声が聞こえた。振り返る。

 猫が何と言っているかなど考えたこともないが、なんとなく、本当になんとなくなのだが、「言って来い」と、そう言われている気がした。


「ちょっと待っててくれよ。ちゃんと、終わらせてくる」


 何せ一言言うだけだ。それで全て終わるのだ。何を臆することがある。

 僕と父の思い出の場所。その公園に、彼女――中川ののかはいた。

 何も言葉を発していないのに、彼女はこちらを振り向いた。


「意外と、早かったですね」


 そういう彼女の顔に張り付いているのは、緊張と喜び、そして不安。僕がどんな決断をしたのか、わからないのだろう。いや、ただいろんな可能性があると思っているだけか。


「ここ、夜は本当に綺麗ですね。知らなかったなぁ。この街にこんな場所があるなんて」


 彼女に背後に広がる景色が、彼女をより美しく見せる。その後ろ姿に、思わず見とれてしまう。


「さて、答えを聞きましょうか」


 中川ののかがこちらを向く。その姿はまるで、女神だ。選択を迫って手を伸ばすその仕草は、僕の心を揺らす。一度決めたはずの心が、揺れる。揺れる。揺れる。

 そして僕は、言っていた。


「僕は、諦めたく、ないっ――!」


 言った瞬間にわかった。これが僕の本音なのだと。諦めようと思っていたその心が揺れたのはなぜか、そんなのは、決まってる。心の中で、諦めたくないという想いが不死鳥のように生まれ続けていたから。絶対諦めたくないと、そう思っていたから。

 中川はやはりわかっていたのだろう。大人しめの笑みを見せて、優しい声音で言った。


「そう言うと思ってました。私の信じた卓先輩は、丸山卓は、ちゃんとまだ死んではいませんでしたね」


 中川は表情を引き締めた。それにつられて僕の表情も引き締まる。

 手を出してきた。握手だろうか。そう思い手を出す。

 がしっと、力強く握られた。


「さあ、行きますよ。反撃――開始です」


 そのキリッとした笑みが、僕の目にはとても頼もしく映った。



 3


 翌朝、いつもより早く目覚めた僕は、自分の部屋の扉を叩こうとして、踏み止まった。

 さすがにまだ起きていないかもしれない。昨日はかなり遅い時間になっているわけだし、そっとしておこう。まだ学校に遅れるような時間じゃない。

 うっつーに打ち負かされて、一日も経たずに立ち直れたのは他でもない彼女のおかげなのだ。彼女がいなければ僕はきっと一か月は、もしかしたら二度とあの二人に立ち向かおうとしなかったかもしれない。

 彼女が居てくれたことに、僕の味方であってくれたことに感謝する。病院のときといい、今回のことといい、中川には迷惑を掛けてばかり。そろそろ僕も恩返しをしてあげるべきだろう。『カミサマ』を倒すという目的をきちんと果たすというのが、恩返しになればいいのだが。


 昨日負けた原因を考えてみる。まず思い浮かぶのは、準備不足だ。そもそも昨日はこれからどうやって『カミサマ』に迫っていくかを話し合う予定だった。まさかそのまま対決することになるだなんて思っていなかった。

 ということは、僕はあのとき一旦退くべきだったのだろう。退いて、全部真実を洗い出してからそれの異常性を突き付けるべきだったのだ。

 そうなれば、僕たちがやることは一つ。情報収集だ。

 まだ僕たちに勝ち目はあるはずだ。全ての情報を手に入れて、そこから事実と虚偽を精査して、そして残った真実を並べていく。そしてそこにある矛盾や不可解な点をぶつけていく。

 あの二人のことだ。それは予想の範囲内のはず。まず勝ちきることはできないだろう。決定的な何かを見つけなければ、切り札になり得るものがあれば、とても楽なのだが。


 リビングに入る。キッチンを見ても母がいるわけでもなく、日の出もまだなのか外は暗い。

 久しぶりに料理でもするか、と冷蔵庫の中を見た。どれも消費期限ぎりぎり。まだ腐っていないことに感謝するほどである。角山奈緒は僕と同様外食をしていたのだろうか。

 碌なものが作れなさそうなので、普通に味噌汁を作ることにする。まあ具はお察しの通り普通のものとはかけ離れているが。

 炊飯器をセットして、適当に野菜を刻んでいく。トマト、かぼちゃ、きゅうり、スイカ……。スイカ!? 何でこんなもの切っているんだろう。まあ別にデザート的な扱いで出せばいいか。

 鍋を火にかけた段階で母が起きてきた。


「おはよう、角山奈緒」

「………………おはよう。あの子は?」

「僕の部屋。僕は父さんの部屋で寝てたから、手なんか出してないよ」

「まあ、そうよね」


 母はそう言うと、僕の手元を見た。顔を顰めてこちらを見る。

 何が言いたいのかが顔に出ていたので、求めてもいないであろう答えを返してやる。


「スイカはもう二週間ぐらい置いているでしょ。あと、食べるものがないから寄せ集めの味噌汁を作った」


 母は鍋を覗き込み、苦笑した。僕も訳がわからないので、苦笑を返した。少なくとも僕の責任ではない。いや、面倒臭がって何も考えずに放りこんだ僕も僕だが、家にこれだけしか食料がないというのはどういう了見だろうか。もし家に閉じ込められたら一体どうするつもりだったのか。

 ピンポーン。インターホンの音が届いた。誰だろう。僕と母は顔を見合わせた。

 こんな時間の訪問者はあまり良い気がしないが、居留守というのも無理があるだろう。母に火の番を任せ、玄関へと急ぐ。


「いま開けます」


 ガチャリ。扉を開ける。一応人相は確認していたから、大丈夫だろうと思っての判断だ。

 人を見た目で判断するなとよく言われるが、こういう場合は仕方がないだろう。

 スーツを着た男の人は、僕を見るなり深々とお辞儀をした。顔を上げて、僕を真っ直ぐに見つめてきた。


「あなたが、丸山卓さんですよね?」


 なぜ、僕の名前を知っている。この人は一体誰なんだ? 疑問が浮かんだが、ひとまず通すことにする。不用心だと言われるかもしれないが、リビングには母もいる。そちらの方が安全だろう。

 それにしても、この人のことを、僕は一度どこかで見たような気がするのだが。


「あの、どこかで一度お会いしましたか?」


 僕のその問いに、男の人はただゆっくり頷いた。

 スーツの黒が頭の中で何かをフラッシュバックさせる。そこで僕はこの人と会った場所を思い出した。

 葬式。そうだ。この人だけは、周りが僕に口々に罵倒をする中、ただお辞儀をして出て行ったのだ。

 ……………………そうか。あのときはわからなかったが、そういうことなのか。

 だからこの人は、僕に頭を下げたのか。

 リビングへと案内すると、男の人は母にも頭を下げた。テーブルに腰かけて貰い、お茶を出す。

 ちらりと時計を見た。まだ起こさなくても大丈夫だろう。


「今日お訪ねしたのは、やはり一度お話をしておこうと思ったからです」

「父の……ことですか」


 突然話を振られたにも関わらず、それに応じれた自分に驚く。

 男の人は少し目を伏せていた。やはり、言い辛いのだろう。ならば、僕が言うまで。


「許しませんよ」


 男の人はますます萎縮して、顔を歪めてしまう。わかっている。当たり前だ。罪悪感を感じてここに来ているというのに、「許さない」という言葉を貰えば、よりその罪悪感も重くなるというものだ。

 だから僕は、その気持ちを少しでも軽くしてあげたい。それが父の願いであり、僕の想いだ。


「許しませんけど、あなたが勝手に気持ちを吐き出して、楽になることぐらいは別にかまいません」


 その言葉に男の人は目を見開いた。驚いているのだろう。

 僕だって昨日まではこんなことを言えなかっただろう。昨日、中川に励まされなかったとしたら、ここで厳しい言葉をぶつけてしまったかもしれない。中川に励まされて、父の部屋で寝ることになって、父の遺書を読み直して、それでやっと思い出したのだ。


《お手柔らかに頼むよ》


 それが父の願いだ。僕がそれを裏切ったら、きっと向こうに行ったときに叱られてしまう。

 僕の想いが伝わったのか、男の人は深呼吸をした。話す気になってくれただろうか。

 男の人はまた僕を真っ直ぐに見た。その表情には感謝の色が表れているように見えた。


「私は山口敦也。あなたの父、角山真織の部下で、『カミサマ』に彼の死を祈りました」


 …………やはり、そうか。そしてこの人は、それを後悔しているのだろう。いや、ただ死ぬことを伝えて楽しんでいたということも考えられる。その反応を、その後の行動を。

 まあでも、この表情を見る限りはその可能性は低いだろう。本当に反省している人とそうじゃない人の違いぐらい、さすがに僕にも見分けられる。

 カラン。何かが落ちた音がした。その方を見ると、母が固まっていた。そうか、母は何にも知らなかったのか。流されたとはいえ僕が悪いと決めつけるぐらいだし、それは当然といえば当然か。

 落ちたのは恐らく味噌汁をよそうためのおたまだろう。続けて、という目線を母に送り、僕は山口さんに目を戻した。


「葬式のときに、僕に礼をしたのはそういうことでしたか」

「はい。本当に申し訳ないと思っています」

「別に謝罪が聞きたいわけじゃないです。会社での父がどんな風に過ごしていたのか、教えて下さい」


 母のときと同じだ。僕は許す気はない。だが、それは歩み寄るのを妨げる理由にはならないのだ。どうせ元には戻らない。それなら、会社での父がどんな人だったのか僕は知らないから、それを教えて貰うぐらいで丁度良いんじゃないんだろうか。

 そんな意味を孕んだ言葉の意味を理解したのか、山口さんは涙を零した。僕もつられて涙が出てしまう。

 山口さんは父に対する嫉妬と羨望、そしてその頼もしさを吐露した。

 僕も父と過ごした公園でのことを山口さんに伝えた。あの日々に戻りたいと、口が滑ってしまう。


「『カミサマ』に願ってみたらどうですか?」


 案外山口さんは気にしていないようで、そんなことを言ってきた。

 僕は首を振った。どうして、と言う山口さんに、悪戯な笑みを見せる。


「実は、僕はもう『カミサマ』を見つけているんです」


 そう言うと、山口さんは目を見開くわけでもなく、興味津津の笑みでこちらを見てきた。

 僕は自分がいまからやろうとしていることを山口さんに打ち明けた。なんとなく、山口さんはわかってくれるような気がした。

 山口さんは応援してくれると言っていた。何もできないけど、君ならきっとできると言ってくれた。


「さすがは真織さんの息子さんだ」


 帰り際、山口さんは僕にそう言った。その表情に嫉妬の色はない。羨望はあれど、混じり気のない善意からの言葉だった。悪人への道に足を突っ込んで、だけど善人の道を歩もうとしている、そんな感じだった。

 父の死が与えたものは、マイナスのことだけではない。それがわかっただけでも嬉しかった。

 山口さんを見送り、閉じた玄関の扉の前で立ちつくす僕に、後ろから声が掛かる。


「どうかしたんですか? 卓先輩」

「何でもない。朝ごはん、できてるよ」

「え、あ……」


 どうかしたのだろうか。そう思って振り向くと、猫を持った中川が涙を流していた。

 思いきり抱きつかれた猫が「どうした?」とでも言いたげに中川の方を見ている。


「ごめんね、希望。苦しいよね。下ろすよ」


 そう言って猫を床に下ろした中川はその場に座り込んだ。

 一体どうしたというのだろう。別に朝食なんていつでも摂っているだろうに。

 手を貸して立ち上がらせると、中川は自分の手と僕の手を交互に見て、恥ずかしそうに目を逸らしながら言った。


「私、家では自分で作っているので、朝起きたらご飯があるだなんて言われて、ちょっと感動してしまって……」

「…………………………」


 中川の家も、そう一筋縄にはいかないらしい。この中川の様子を見るに、恐らくそれはいまに始まったことじゃない。高校に入る前から、もしかしたら中学に入る前かもしれない。

 いまは何も言うべきじゃない。そもそも、掛ける言葉なんて見つかっていなかった。

 リビングに入り、テーブルに座る。配膳は母が終えてくれていた。母は泣いている中川を見て、キッとこっちに顔を向けてきた。


「僕のせいじゃないよ。と言いたいところだけど、まあ半分は僕のせいだ」

「何を――」

「いただきます……!」


 その中川の言葉が何をした、と言いそうになった母の口を塞ぎ、驚愕の視線をこちらに飛ばさせた。それほどまでに、その声音には想いが籠っていた。

 僕は肩を竦めて、朝食に手を付け始める。うわっ。あんまり美味しくない。やっぱり寄せ集めで作ると碌なものができない。

 ちらりと中川の方に目を向けてみた。一口一口、噛みしめて食べているのがわかる。そんなに嬉しいのか。そこまで違うものなのか。

 思えば、僕も家族の、特に母の作った――半分は僕なのだが――料理を食べたのは久しぶりな気がする。そう思うと味が――変わる訳もなかった。


「どう? 美味しい?」

「おいしくないです。でも、おいしいです」


 即答だった。まあそうだろう。美味しくないのはわかっていたことだし。美味しくないのに美味しいというのは、一体どういうことだろう。愛情補正でもかかっているのだろうか。僕はそんなものを込めていないから、母か、それとも中川のか。もしくは思い出補正といったところだろうか。

 すぐに食べきってしまい、流し台に食器を置く。


「ごちそうさま」


 中川がそう大差なく食べ終わった。

 時計を見る。まだ余裕があった。早く起きただけのことはある。

 ちらりと中川のことを見る。彼女は僕の言わんとするところを理解したのか、頷いた。そして僕は自分の部屋へ、中川は流し台へと直行しようとし、


「「え?」」


 完全に互いの思考が噛み合っていない瞬間だった。



 洗い物を終わらせ、僕の部屋。僕は自分の椅子に座り、中川はベッドに腰掛ける。

 さて、まず何から話すべきだろう。


「卓先輩、私、昨日の夜から気になっていることがあるんですけど」


 先に中川が話を振ってきた。ありがたいことだが、何か気になるようなことなどあっただろうか。考えてみる。

 しかし、特段思いつかなかったので、問い返した。


「いえ、ただ、エロ本はどこに隠してあるのかと……」

「ある訳ないだろ」

「え、ないんですか? 男子高校生なのに?」

「全員が全員そういう本を持っている思うんじゃない。そもそも僕興味ないしね」

「女の子に興味ないんですか? まさか先輩ってゲ――」

「違うよ」

「じゃあ何でですか」

「強いて言うなら余裕がないから、かな」


 何を言いだすかと思えば、そんなことだとは。真面目にやる気はあるのだろうか。ちなみに、僕の部屋と同様に父の部屋にもない。母が持っていたら驚きだが、恐らくこの家にそういった類のものはないと推察される。

 余裕がないから。これは実際事実で、そんなことにかまけている暇はないのだ。父然り、母然り、僕然り。父と母は仕事で忙しく、土日はほぼダウンしているし、僕は僕で学校のない日はほぼ塾に通い詰めだった(いまは違うが)。

 不思議そうな顔をする中川を無視して、僕は考えていたことを伝える。


「考えたんだけど、『カミサマ』は願いを叶えるか叶えないかを自分で決めれるんだと思うんだよね。うっつーも『俺は絶対に、お前の願いを叶えない』とか言ってたわけだし。僕はもしかしたらそこに勝機があるんじゃないかと思うんだ」

「というと、その判断が内海先輩の意思によるものなのか、裏腹な言葉を許さない自動的なものなのかのどちらかだとしたとき、卓先輩は後者だと考えてるってことですか」

「そうだ」


 理解が早いし、的確だ。さすがは中川。その位は考慮の内だったか。

 中川は何かを考えるように手を唇に当て、目だけでこちらを見た。目が合うとすぐに逸らされたが。


「その可能性もありますね。でも、もっと簡単な方法があるかもしれません」

「どういうこと?」


 彼女は唇に当てていた手を膝まで下ろし、こちらを見た。いまにも「わかっているんじゃないですか?」と言いげな目である。

 考えてみよう。

 二十年前、この街は変わった。犯罪が起こってもそれが無かったことになる街になった。そしてその中核にいるのは真弓先輩。真弓先輩がいることで、この街は馬鹿げた現象を引き起こしている。

 ならば、その中核を破壊したら? もしかしから、もしかするのかもしれない。

 僕がそんな考えに至ったのが見えたのか、中川は憮然とした表情で言う。


「真弓先輩を殺すのは無しです。捕まるの嫌ですし、もしかしたら真弓先輩も生き返るかも知れません。もっと、もっと簡単な方法があります」


 違う、か。他に何かあっただろうか。

 中核が壊せないとなると、やはり大本であるうっつーをどうにかするという結論に至る。しかし、僕が考えた方法以外の可能性はあるのだろうか?

 いけない。頭が固くなってしまっている。何か見落としているところはないだろうか。どこかに決定的な矛盾はないだろうか。

 考えていると、中川が痺れを切らしたかのように立ち上がった。


「今日は学校を休みましょう。行きたいところもありますし」


 そういうと、扉を開けて階下へ降りて行ってしまう。まだ返事もしていないというのに、行動の早い奴だ。

 その間に考える。一体僕はどこで間違えている? 何を思い込んでいる。矛盾を矛盾だと気付いていない箇所はどこだ。

 探せ、探せ、探すんだ。


「二十年前、内海先輩は生きていましたか?」


 戻ってきた中川がそう告げたとき、僕は思わず舌打ちをした。

 しまった。『カミサマ』が一人だと思い込んでいた。よく考えればわかったはずだ。二十年前にこの街が変わったのなら、二十年前にも『カミサマ』はいたはずなのだ。うっつーは生まれていないから、別の『カミサマ』がいたということになる。

 そして僕は瞬時に中川の言わんとするところを理解した。しかし本当によく頭が回るなぁ、中川は。


「もう一人の『カミサマ』を、見つけるってことか」

「その通りです」

「でも、どうやって?」

「それをいまから聞きに行くんですよ」

「誰に?」


 気になってはいたのだ。中川が誰から情報を仕入れてきているのか。なぜ中川に協力している人は、そんなにも『カミサマ』のことを知っているのか。どうして、僕を避けていたのか。

 その理由は全て、中川が放った言葉たちによって明らかになる。


「誰って、決まっているじゃないですか。三島のどか。丸尾廉の後輩であり、『なごさん』であり、私の協力者ですよ」


 のどか先生が目覚めていたことを、僕は知らされていなかった。否、知ろうとしなかったのだ。『カミサマ』を探すという名目で、倒れさせてしまったことから逃げていたのだ。

 行かなければいけない。会いに行かなければいけない。

 あの善人に会って、全てを終わらせるための一手を見つけるのだ。あの恩師に会って、最後のピースを掴むのだ。

『カミサマ』を倒すための、最後のピースを。



 4


 中川に連れられて、のどか先生の病室へ向かう。

 思えば、中川ものどか先生も愛称が「のっちゃん」だ。確か高校生の時の部活でそう呼ばれていたと言っていたから、もしかしたら二十年前と現在の状況はとても似ているのかもしれない。

 真弓先輩が見つけたという手紙には『カミサマ』を探した手順が記されていたのだろう。だから真弓先輩は同じように動いて二十年前と現在を重ねているのかもしれない。父と母が歩んだ道を、自分も歩きたいと思ったのかもしれない。

 僕の位置に丸尾廉――真弓先輩のお父さん、真弓先輩の位置に真弓沙羅――真弓先輩のお母さん、中川ののかの位置に三島のどか。そうなるとしたら、うっつーの位置は誰になるのだろうか。まさか二十年前もうっつーだなんていうニックネームの人がいたとは考えられないが、もしいたとしたら、それが『カミサマ』だ。もしニックネームがうっつーだったとしたら、あの人か。いや、あの人はそもそも『カミサマ』のことをよく知らないみたいだったし、それは少し無理な話のような気がするが。


「行きますよ。準備はいいですか」


 中川が一つの病室の目の前で立ち止まった。

 もしかしたら拒絶されるかもしれない。僕の顔を見た瞬間にまた気を失ってしまうかもしれない。その心の準備はできているか? そういう意味の問いだ。


「大丈夫」


 僕の答えに頷いて、中川は病室の扉を叩いた。


「どうぞ」


 間違いない、のどか先生の声だ。本当に起きていたんだ。

 先生が倒れたときに見せた、あの生気のない瞳が脳裏にちらつく。それが僕の足を重くする。あと一歩、あと一歩踏み出せば、元気な先生を見れるかもしれない。それでも、本当に僕が会っていいのか? まだ僕は『カミサマ』を倒せていないんだぞ。それで、いいのか?


「早く入って来いよ。お前の顔を見せてくれ」


 のどか先生の声がした。それでも入らない僕に痺れを切らしたのか、中川が僕の手を引っ張って部屋に入れ、扉を閉めた。

 入って右は壁。左を見た。ベッドがあって、布団があって。だんだん目線を上げていく。

 あの優しい笑みが、僕を出迎えた。


「よく頑張った。お前はよく頑張ったよ。だから――」


 のどか先生はそこで言葉を切った。何を言おうというのだろう。もうやめていい、だろうか。いや、この人がそんなことを言うわけがない。善人ではあっても、この人は正しいことをするのだ。

 僕がそうやって思考しているのを嘲うかのように、のどか先生は言う。


「――もうちょっとだけ頑張れ」


 なんだ。そんなことか。そんなの、何の励ましにもならない。ならないはずなのに、応援しているという気持ちが伝わってきて、心に染みる。

 中川は僕とのどか先生のやり取りをどこか不満げに見つめていた。自分だけ除け者にされているとでも感じたのだろうか。それなら無理やりにでも話に割って入ってくればいいのに。いや、中川はそんな無粋なことをする人じゃないのか。

 僕はのどか先生に頭を下げる。


「ごめんなさい、先生。僕の軽率な発言で、先生をこんなことしてしまった」

「謝るな。元は私がちゃんと向き合ってなかったの原因だ。それに気付かせてくれたお前に感謝したいぐらいだよ」

「何でそんなことを――」

「私は教師だ。塾講師とはいえ、れっきとした教師なんだよ。教える立場の人間が、自分のトラウマを克服できてないっていうのに、偉そうに言えるはずもねぇんだよ。私はいろいろ相談されることも多いからな。他人のトラウマとかはよく聞いた。それに対して答えを上げる資格は、私には無かったんだよ。でも、お前のおかげでその資格が貰えそうだ」


 何を言っているのだろう、この人は。本当に善人すぎるだろう。

 僕なんかより、ずっと欲しい言葉を掛けてくれるじゃないか。

 ひとまず謝罪はした。次にやるべきなのは、感謝を伝えることだ。


「中川を通じてとはいえ、僕に情報を伝えて下さって、ありがとうございます。本当に助かりました」

「気にすんな。お前に目の前で悪いものを見せた詫びだと思え」

「でも、その原因を作ったのは僕です」

「だとしても悪いのは私だ。この街にいる以上、『カミサマ』との関わりがない状態なんて作れないんだよ。で、聞きたいことは何だ?」


 すごい。感じたのはその一言で表せた。他に言葉が思い浮かばなかったわけではない。芯が強いとか、自分に厳しいとか、どこまでも善人だとか、思いつくことはいくらでもあるけど、すごい。本当にすごい人なんだ、この人は。

 本当に克服してしまったのか、トラウマを。トラウマは、簡単には克服できないからトラウマなんじゃなかったのか。

 いや、いま考えるべきなのはそこじゃない。何を聞くか。それが大切だ。

 最初の目的通りならば、『カミサマ』が誰なのか、それだけでいい。

 しかし、本当に勝ちに行くならば、二十年前の真実を知るべきだ。真弓先輩が言っていたことを嘘だというわけでもないが、少し事実と違うかもしれない。二十年前、丸山廉の後輩だったというのどか先生なら、全て知っているんじゃないのか?


「わかった。話してやるよ。真弓結すらも知らない、二十年前の真実を」


 何も言っていないのに、のどか先生はそう言った。


「顔に出てんだよ。わかりやすいところは変わってねぇな。まあ一か月も経ってねぇのに変わる訳もないか」


 やはりのどか先生は僕の表情を読むのが得意だな。変わらない。少し安心した。

 のどか先生は顔を引き締めた。目を閉じて、古い記憶を呼び覚ますかの如く深呼吸をした。


「よしっ。真弓結がどんなことを話したのかは中川から聞いてる。そこから事実と違う点を挙げていくぞ」

「まず一つ。中途半端な結果とはいえ、このおかしな状況を作るのに人二人分の命で足りるのか?」

「二つ目。丸尾廉と真弓沙羅が代償にしたのは命ではない。じゃあ何か?」


 それは岡野さんのところに行った後に考えていたことだ。

 もしかしたら僕のあの最悪の想像は、当たっているのかもしれない。そう思うと身震いしてしまう。そんな残酷な現実があっていいのだろうかと思う。

 そんな僕を見つつ、のどか先生は続ける。


「ここからは真弓結の話からは逸れるが、お前らの推測に対する疑問点だ」

「一つ。『カミサマ』は二十年前も存在していた。じゃあそれは誰だ?」

「二つ目。これは一番最初に挙げたやつと似ているんだが、この現状は、いつまで続く?」


 捲し立てるように疑問を並べたのどか先生は、それからその答えを告げた。


「……これが、二十年前の真相だ」


 そう言い終えたのどか先生は、なんとも言い難い顔をしていた。改めて思い返して、微妙な気持ちになったのだろう。

 僕が何か声をかけようとして声を出す前に、のどか先生はポツリと零した。


「二十年前、ちゃんと私が止めれてればな……」

「先生は悪くないです」

「なんだ? 励ましてくれるのか?」

「いえ、ただの事実です。誰も悪くないんですよ。ただ自分の信じる正しさを貫いた人と、貫けなかった人がいるだけ。そこに悪者は存在しない。たとえ正義を貫いた結果が中途半端な結果に終わったとしても」


 僕のその言葉に、のどか先生は涙を零し始めた。そんなに泣かれるようなことは言っていないのだが。まあ、のどか先生の心に響いたのならそれでいい。

 のどか先生の先程の言った言葉たちを思い出す。背筋が凍るかのような、丸尾廉と真弓沙羅の決意。それを打ち砕くかのように存在する『カミサマ』の願いの代償の真実。二十年前の『カミサマ』の正体。そして、理不尽な世界の理が告げる、この街の怪奇現象のタイムリミット。

 中川の視線に気づき、そちらを向くと、中川は手帳を見ていた。そのカレンダーを見て、中川がなにを確認しているのかに気が付く。


「真弓先輩の誕生日は?」

「九月二十日……」

「それって」


 僕と中川はほぼ同時にスマートフォンを取り出した。


「僕が!」

「わかりました」


 真弓先輩に電話をする。時間は十二時過ぎ。丁度四時間目が終わった頃だろうか。

 お願いだ。出てくれ。頼むから、どうか。

 背後で中川がのどか先生と話しているのが聞こえた。


「じゃあ、真弓先輩を助けに行ってきますね」

「お前まさか、やる気か……?」

「はい。もし――」


 その先は聞こえない。病院の敷地から出て、病院に振り返ったとき、ようやく真弓先輩が電話に出た。


「もしもし」

「もしもしっ。丸山です」

「どうしたの? 私は一歩も譲る気はないよ?」


 その言葉にハッとし、落ち着きを取り戻す。時間がないとはいえ、焦っては事を仕損じる。


「知ってます。別に構いません。どうか、昨日と同じように話をさせて下さい。昨日と同じカフェに、放課後すぐに。できればうっつーも連れてきて下さい」

「…………? わかった」

「じゃあ、これで」


 電話を切る。まだ気持ちが急いている。抑えなければ。

 時間は思ったよりもなかった。中川が昨日、僕を立ち直らせてくれなかったら、ほぼ確実に間に合わなかった。

 命の代償は命だけ。寿命の代償は寿命だけ。差し出すのなら、僕が適任だろう。真弓先輩を救えるのなら、それでいい。

 まさかこんな結末になるとは思っていなかった。だが、仕方がない。

 僕はただ、自分が為すべきだと思うことをするだけだ。



 5


 昨日と同じカフェ。同じ席。僕と中川は入口が見えるように昨日とは逆側に座った。

 まだギリギリ学校が終わっていないぐらいの時間だから、あと三十分ぐらいは暇だろう。

 病院から帰ってきて昼を食べて、このカフェまで来たらいつの間にかこんな時間になっていた。

 真弓先輩とうっつーに関しては心配はいらないと思う。問題はあの人だ。ちゃんと来てくれるだろうか。僕らの切り札でもあるのだ。まあ、今日は勝つ気なんてないのだけれど。


 丸尾廉は僕に似てなどいなかった。僕なんかよりもっと行動力があって、そしてその決意は固かった。

 恐らく、僕と違って迷ったことなどないのだろう。ただ純粋に父の想いに応えようとしたのだろう。父の願いを叶えてあげようとしていたのだろう。

 その熱意は尊敬に値する。僕なんかが張り合うことはできない。不可能だ。

 じゃあ誰が丸尾廉を止めるのか。世界だ。『カミサマ』というおかしな存在を、それに祈って世界を変えた丸尾廉を、世界は許しはしなかった。その結末はどこまでも理不尽だった。

 ねえ。丸尾廉。

 届かないとはわかっているけど、どうか答えてほしい。

 あなたはこうなるのがわかっていたんじゃないんですか? 僕はあなたがこうなることを予測できなかったとは思いません。

 だとしたら、わかっていてどうしてこうしたんですか? もっと違う方法を探していれば、あなたなら本当に世界から犯罪を無くせたかもしれないのに。どうしてこの結末を、選んだんですか?

 答えは返って来ない。

 その答えを、お前はわかっているんだろう?

 そう言われているような気がした。

 丸尾廉はきっと、後戻りできなかったのだ。もう言ってしまったから、後戻りはできないと、そう思ってしまったのだろう。

 なんとなく、僕はその気持ちがわかるような気がした。



 無心でお茶を嗜むこと四十分、うっつーと真弓先輩が到着した。


「何で呼び出したんだよ。昨日の今日で何か変わるとも思えないんだが。俺らを納得させられるような証拠でも見つかったのか?」


 うっつーはそう言って僕と中川に目を向けてきたが、中川が無視していたので僕も無視することにした。あの人が到着するまで待つしかないか。

 無視されたのが気に食わなかったのか、うっつーは表情を険しくする。


「もう一人呼んでるんですよ。その人が来るまではゆっくりして下さい」

「その人はいないと話が始まらないほど重要な人なのかよ」

「はい」


 中川がそう言うと、渋々と言った様子でうっつーは紅茶を頼んだ。

 カラン、扉の開く音がして、皆がそちらを向いた。一番驚いた顔をしたのはうっつーだった。当たり前といえば当たり前だが、何かこの二人に関係があっただろうか。

 僕は手を上げ、こっちですという合図を送る。


「久しぶりです。隼人さん」

「ああ、何だ。朔也もいるのか。お前ら友達だったのか」

「まあね」


 店員さんに椅子を持ってきてもらって、漸く全員が席に着く。よかった。もしかしたら来ないんじゃないかと思っていたが、それは杞憂だったようだ。

 うっつーの目線がより厳しくなっている。どういうことだとその表情が物語っている。この二人は知り合いだったのか。


「内山隼人さん」

「ん、何だ?」


 中川が口火を切る。予定通り、単刀直入に言ってもらう。


「あなたは――『カミサマ』ですよね?」


 僕と中川以外の三人が面を食らった。しかし、うっつーだけは少し違う。それを知っていたかのような、それが暴かれたことに対する驚きのようだ。

 のどか先生が教えてくれた二十年前の『カミサマ』は内山隼人さんだった。想定はしていたが、何も知らないような素振りをしてたために俄かには信じがたかった。

 そして僕と中川はのどか先生の様子を見て考えた。


「何の話?」


 隼人さんはそう返した。まるで本当に知らないかのような返答。

 僕と中川は頷き合う。推測は確信に変わった。ならば、予定通りに事を進めるまで。


「とぼけないでください」


 僕は言う。敵意を剥き出しにして、思いっきり非難の目を向ける。

 中川もそれに同調するように、厳しい言葉を吐き出した。


「わかってるんですよ! あなたが『カミサマ』だってことは! 証拠だってある! それなのに、あなたは自分は何を知らないと言う! 一体何様なんですか!」

「中川、ちょっと言いすぎじゃない?」

「先輩はもっと何かないんですか? この人はあなたが最初に頼った人なんですよね? 騙されていたんですよ? 悔しくないんですか!?」


 いまにも隼人さんに掴みかかろうという勢いの中川に、真弓先輩は声も出ずに固まっている。

 うっつーは、悔しそうにこちらを見ては逸らし、見ては逸らしを繰り返している。

 もう少し。もう少しで、うっつーが痺れを切らす。頑張ってくれ、中川。

 中川が隼人さんに掴みかかる。シャツの襟を掴んで激しく揺さぶった。


「あなたはどうして、そうやって飄々としていられるんですか?」

「俺は、何も知らないんだよ……。嘘じゃない」

「嘘ですよね? 実は内心で楽しんでるんじゃないんですか? うわー、こいつマジになってるよ、って、嘲笑っているんじゃないんですか?」


 あまりの剣幕に隼人さんも若干怯えている。もう一押しは必要だろうか。

 そう思った時、うっつーが机を叩いて立ち上がった。


「やめてくれよ!」


 ギロリとこちらを見てくる。僕はふいっと視線をずらす。

 中川は隼人さんから手を離し、その服を整える。席に座り直して水を飲んだ。大声を出して喉が乾いたのだろう。

 その様子を見て嵌められたのに気付いたのか、うっつーは悔しそうな顔をした。


「話を聞きましょう。やっぱりやめた、は許しませんよ」


 中川は至って冷静にそう言った。あれが演技だというのだから驚きだ。まあ、作戦だからやって貰わないと困るといえば、それまでなのだが。

 うっつーは座り直し、俯いて話し始めた。


「俺が、俺が叔父さんの記憶を消したんだよ」

「それは、願いとして?」

「いや、代償としてだ」


 僕と中川は最初から隼人さんは嘘をついていないと判断していた。だから、記憶を無くしているのだという考えに至った。のどか先生ですらトラウマになっているのだ。当事者である『カミサマ』がそれを気に病まないはずがない。それも、死んだのが親友だというのなら、のどか先生同様『カミサマ』という単語を聞いただけで卒倒することもあり得るだろう。

 だから僕らはうっつーに頼んで『カミサマ』に関する記憶を消したのだと思っていた。しかし、代償で消えたというのなら、本来の願いは何だったんだろう。

 その答えはうっつーがすぐに明かしてくれた。


「この世界に『カミサマ』の情報を留まらせないという願いの代償として、叔父さんは自分の『カミサマ』に関わる記憶を差し出したんだ」


 なるほど。『カミサマ』に関しての情報がネットにないのも、文章にした情報が消えるのもこれが原因だったのか。

 それにしても、情報を留まらせないというのはよく考えたものだ。消すだけならまた書けばいい。留まらせなければ、何度書いても消えるから、結果的に情報がない状態になる。思いの外、隼人さんも曲者だったようだ。


「記憶が消えたなら、元に戻せばいいですね」


 中川はそう言って、何が起こっているかわからないという表情の隼人さんに向き直る。


「恐らく『カミサマ』に関しての記憶は消えていても、その能力は消えていないはずです。記憶の対価は記憶。私は飼い猫の記憶を差し出します。あなたの『カミサマ』についての記憶を元に戻してください」

「どうすればいいの?」

「やり方はなんとなく、覚えているんじゃないんですか?」


 そう中川が聞くと、思考錯誤を始めたのか、隼人さんは難しい顔をし始めた。瞬間、隼人さんの表情が一変した。きっと記憶が戻ったのだろう。

 中川が倒れそうになったので、僕は慌ててその体を支える。


「大丈夫?」

「はい……。不思議な感じです。さっきまで覚えていたはずなのに、すっぽりと抜け落ちています。恐らく、足りなかったんでしょう。抜け落ちた部分を誤魔化せてないみたいです。隼人さんの場合は恐らく代わりの記憶があったんでしょうけど」


 僕は隼人さんの方を見る。辛い記憶を呼び覚ますのは申し訳ないと思っている。本人が忘れたいと思ってやったことなのに、周りがそれを掘り返すような真似をするのはよろしくない。だが、それでも必要だったのだ。二十年前の当事者がいることで、この場は大きく変化する。

 うっつーは鬼の形相でこちらを見てくる。その視線が突き刺さる中、僕は隼人さんに向かう。


「話せますか。僕の言葉が聞こえていますか。これから僕が話す真実を肯定する心の準備は、できていますか」

「ああ。大丈夫。でも先に言わせてくれ」

「どうぞ」


 僕は一旦アイスティーを口に含む。時間が経っているために生温かったが、それでも気分を切り替えるのに十分だ。

 ここからの流れに、うっつーと真弓先輩の手番はない。

 突き付けて、怯えさせて、終わらせる。それだけ。


「悪い。先に謝っておく。お前らには何もできない。できないから、お前らには反論のチャンスもない」


 そう頭を下げてから、隼人さんは僕の方を向いた。


「全部知ってるんだろ? こいつらが知らない、本当の真実を」


 首を縦に振る。

 それを見て、隼人さんは続けた。


「覚悟して聞いてくれ。これから卓が語るのは、残酷な現実だ」

「ハードル上げないでくれますか?」

「そうツッコんでくれると信じてた。でも、事実だろ?」

「まあ、そうですけど。でも、どうして真実を隠していたんですか? 前から知っていたら、足掻くことができたかもしれません。心の準備もできたかもしれません」

「俺は俺でいっぱいいっぱいだったんだよ。そのことについては、本当に反省してる」


 確かに、隼人さんが背負った十字架は大きすぎる。逃げたとしても許されるぐらいだろう。

 本当に、僕の周りは強い奴らばっかりだ。トラウマを克服する先生。十字架を担ぐ警察官。自分の記憶を代償に差しだすと言い張る後輩。

 僕ももう少しだけ、強くならなければ。


「まず、真弓先輩」

「何?」

「この街を変えた代償は、本当に先輩の両親の命だけですか?」

「そう、だけど?」


 やはり、真弓先輩は真実を知らない。うっつーが真弓先輩とほぼ同じ表情をしているところをみると、うっつーは真弓先輩から聞いた情報ぐらいしか知らなそうだ。

 ちらりと隼人さんを見た。こくりと頷かれた。合っているということだろう。


「そもそも、代償は本当に命ですか?」

「どういう意味だ?」


 うっつーが聞いてきた。命と、寿命は違う。同じように見えて全く別物だ。命はその場で奪われる。寿命は何歳まで、その日まで、指定できる。のどか先生がそう言っていた。その価値は似て非なるもの。そこには天と地ほどの差がある、と。

 僕はそれをわかりやすいようにそれを説明した上で、続けた。


「隼人さん、丸尾廉さんと真弓沙羅さんが『カミサマ』にお願いをしたのは二十年前で間違っていませんよね? その都市からこの街は変わったということなので」

「ああ、そうだ。先に言っておくが、そのときの中核は二人だ。結ちゃんが生まれてからは結ちゃんにその役目が移ったがな」

「ありがとうございます。二十年前、真弓先輩は生まれてません。ということは、二人が代償にしたのは寿命であって命ではないんです」


 よくわかっていないようなので、そのまま続ける。


「さっきの質問の答えは否なんですよ。本当の代償は、先輩の両親、そして先輩自身の寿命です」

「え……?」


 真弓先輩は目を丸くしてこちらを見た。理解が追い付いていないようだ。

 その様子を見て、うっつーは隼人さんに目を向けた。その表情が、その瞳が、「否定してくれ」と叫んでいる。

 隼人さんはどう答えるのだろう。僕を悪者にして束の間の安息の時間を与えるのだろうか。それとも真実を伝えて、絶望の淵に叩き落とすのか。


「残念だが、真実だ。そして、その寿命は十八歳の誕生日までしか持たない」

「嘘……でしょ?」


 隼人さんは後者を選んだ。残酷ではあるものの、正しい選択だと思う。

 十八歳の誕生日で真弓先輩の命は尽きる。先輩の誕生日は九月二十日。今日の日付は九月二十。知らずに死んでいた方が、まだマシだったかもしれないが、僕らはそれをしなかった。

 真弓先輩の顔が青くなっていく。どうすればいいのかわからないのだろう。いきなり今日死ぬと言われて、しかもそれがほぼ避けられないと知れば、パニックになるのは当然のことだ。

 先輩には悪いが、追い討ちを掛けさせてもらう。


「先輩の死に伴って、今日でこの街の現象は終了します。普通に人が死にます。普通に犯罪も起こります。『カミサマ』に甘えていた人も多いですし、いつもの調子でやっていたらかなり死者が出るんじゃないでしょうか?」


 真弓先輩の目から光が消えかけている。しかし、それでも言わせて貰う。


「それが当たり前なんです。人が死ぬのも、犯罪が起きてしまうのも、仕方がない、とは言いませんが、それが普通なんですよ」


 もともとこの街では殺されたら殺し返す、というおかしなことまで起こっていたようだ。嫌いなやつがいたら殺してしまうということもあったそうだ。でも、もうそれは不可能だ。これからはそれが許されない。どう足掻いても、殺したのなら相手の人は死んでしまう。

 それはなにもおかしいことではなくて、当然のことなのに、この街はそれを受け入れていなかった。それも今日で、終わり。

 これがこの街の真実。いや、もう一つか。最後に一つ、真弓先輩を奈落の底に突き落とすような爆弾がある。

 それをあえて落とそう。ちゃんと知るべきだと思うから。


「卓先輩、ストップです」

「ああ、それ以上はダメだ。人間やめる気か?」


 言われて、深呼吸をする。そして、真弓先輩を一瞥した。そこには壊れてしまったかのように涙を流し、虚ろな目をする真弓先輩の姿があった。

 うっつーに視線を向ける。悔しそうにしているだけかと思いきや、何やら一点を見て集中しているように見える。必死に考えてこの状況をどうにかしようと思っているのだろう。

 全く、僕らがただ傷付けるためだけにここに呼んだと思っているんじゃないだろうな。

 そこまで僕らは外道じゃない。ちゃんと先輩を助けるつもりで来てるんだ。


「うっつー、命の対価は、命だけだよ」


 その言葉でうっつーがはっと顔を上げた。実際は命ではなくて寿命なんだけれど、いまはそこはどうでもいい。言いたいことが伝わればそれで十分だ。

 僕の言わんとするところを察したのだろう。だが、どうやらうっつーには覚悟が足りないようで、顔を背けて悲痛な表情を浮かべている。

 わかっている。そんなの一瞬で決められることじゃない。

 だからそれは、僕の仕事だ。


「大丈夫。僕が代わる」

「…………………………え?」


 やっと真弓先輩が顔を上げた。


「僕は別に、先輩をいじめに来たわけじゃないです。僕は先輩を助けに来たんですよ」

「え、でも、それって……」

「お前が代わりになるなんて許さねぇぞ」

「じゃあうっつーが代わりになる? できないでしょ? だから、僕がやるんだ」


 それを予め伝えていた中川以外の三人は、僕を驚愕の眼差しで見つめていた。

 中川は静観している。何事もないかのように、さもそれが当然かのような表情だ。

 うっつーにはその様子が気に食わなかったようで、食ってかかる。


「中川、お前何とも思わねぇのかよ! 丸山が死ぬって言いだしてるんだぞ!」

「知ってましたし。それに、他に手があるんですか? あ、綾乃さんっていうのは無しですよ? あの人にこれ以上貧乏くじを引かせるのはごめんです」


 冷静に返した中川は、運ばれてきたケーキに口を付けた。いつの間に注文をしていたのだろうか。

 その様子を見てうっつーがさらに怒りを募らせてるのがわかった。


「私はいつでも卓先輩の味方です。それが卓先輩の決断したことなら、たとえそれがどんな内容だろうと私は支持します」

「それでいいのかよ、お前は」

「はい。それで先輩が幸せなら、私に口を挟む余地はありませんから」


 中川とうっつーが見つめ合う。

 珍しく視線を厳しくし、中川は低い声を出した。


「文句を言う暇があったら、何か考えたらどうですか?」


 考えても答えが出ていないから突っかかっているのだ。それをわかっての中川の言葉に、うっつーは返す言葉が見つからないようだった。


「クソッ!」


 そう言い置いて、うっつーは店を出て言ってしまう。

 僕のことを諦めたということだろうか。


「私、追いかけるね」


 うっつーと中川がやり取りをしている内に冷静になれたのだろう。真弓先輩も立ち上がり、店を出て行った。

 僕は中川と隼人さんに目を向けた。


「僕たちも出ますか」


 反対意見は上がらなかった。

 勘定は僕が押し切って払った。中川が食べたショートケーキが想定外の出費に繋がったが、そこまで高いわけでもない。交通費は定期券内なので問題なしだ。

 店を出て、駅に着いたところで、僕は切り出した。


「じゃあ、お願いします」

「本当にいいのか?」

「はい。覚悟はできています」


 真弓先輩を本来の寿命に戻す。代償は僕の寿命。一瞬、体に違和感があった。押し潰されるかのような圧力が体にかかる。いまはもう何ともないが、これが代償を受けたときの感覚なのだろう。

 僕は隼人さんに礼を言って、改札を抜けた。

 ホームに降りるとき、ちらっと中川が隼人さんと話しているのが見えたが、中川も何か叶えたい願いがあったのだろうか。

 僕はひとまず、家に戻ることにした。もう日は暮れかけていた。

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