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三章

この三章と次の四章が改稿版にするか初稿版にするか迷っていた理由です。

明らかに改稿版の方がこっちはきれいにおさまっているんですが、四章のまとまりが改稿版だと悪いので初稿版にすることにしました。

 1、


 窓の外の景色を見ながら、僕は溜息をつく。運よくどこも悪くなっていないというのに、まだ外に出てはいけないというのは退屈なことこの上ない。

 うっつーのお姉さんの結婚式には出れたものの、終わった後は碌に話をする間もなく病院に蜻蛉返りさせられた。

 ごっつん。むくれる僕のいる病室の扉がノックされる。

 どうぞ、と答え、扉が開くのを待った。


「よぉ。元気か?」

「昨日会ったばっかりだろ」

「そうだったな」


 訪ねてきたのはうっつーだった。額を押さえながら入ってきたが、昨日のお姉さんの結婚式のときに僕を病院に強制送還したことを少しは嘆かわしいと思っているのだろうか。二次会で騒ぐのが楽しいというのに。

 うっつーは椅子を引っ張ってきて僕のベッドの横に座り、僕の頬を抓った。


「騒いで容体が悪化したら困るから帰したんだろうが。頭打った自覚あんのか、お前」


 威圧するように見下ろされて、思わず背を伸ばす。しかし、うっつーの方が少しばかり高く、見下ろされたままだ。座高ですら負けているなんて、悔しいにもほどがある。あと五センチ。せめて五センチあれば。


「俺百八十あるから五センチあっても届かないと思うぞ」

「で、今日は何で来たのさ」


 面白くない方向に話が進んで行きそうだったので、話題をすり替えてやる。

 僕のその問いに、うっつーは不満げな顔を見せた。まるで理由がなきゃ来ちゃいけないのか、とでも言いたそうである。


「……いや、全くその通りなんだがな。別に友達の見舞いに来るのに理由なんていらねぇだろ」

「はぁ、うっつー。世間体っていう言葉を知ってるかい?」

「見舞いに行く理由なんて友達だっていうだけで世間体は取り繕えるんだよ」

「……………………」


 当然のことだが、入院している間は『カミサマ』について調べることができていない。真弓先輩が走り回ってはいるようなのだが、受験真っ只中でそれどころじゃないってことも考えられる。一応、あの人は東大志望らしいし。

 だから頼れるのはなごさんだけなのだが、約束をすっぽかしてしまったからか、あのあと一度もチャットルームに姿を見せていない。なごさんの正体も考えてみてはいるのだが、情報が少なすぎて判断ができない。


「あいつは、来たか?」


 うっつーのいうあいつとは、のっちゃんのことだろう。彼女は僕が階段から落ちていく姿を見ていた。少なからずショックを受けているのだろうと思う。

 だからかどうかはわからないが、僕が入院してから一回もお見舞いに来てくれていない。他の部員は全員来たというのに、だ。

 その話をうっつーが出すということは、部活にも顔を出していないのだろうか。

 そう尋ねると、うっつーは黙って頷いた。それから、真剣な目でこちらを見てきた。話せ、と言われている気がした。そういえば、うっつーには何も話していない。あの場には真弓先輩とのっちゃんがいたから、話す必要はなかったが、うっつーは話が違う。

 僕はそのときのことをこと細かにうっつーに話して聞かせた。

 全て話し終えると、うっつーは呆れたような声音で言った。


「お前、馬鹿だろ」

「ごもっともです」


 そう言い、二人で笑い合う。

 そして、うっつーは途端に表情を変え、真っ直ぐな表情をみせた。


「あいつには俺から言っとくよ。寂しがってるから会いに行ってやってくれってな」

「何それ。献花した恋人じゃあるまいし」

「いまの発音だとお前死んでるぞ」


 ふざけたことを言ううっつーに安堵する。他の人は僕を気遣いすぎて、まるで腫れもの扱いだから居心地が悪い。

 ちなみにさっきのボケの解説をすると、普通なら喧嘩と言うところを、あえてイントネーションの違う献花という言葉を使い、仲直りしてくれ、という意味での「寂しがってる」を、死んでしまったけどまた会いに行ってあげてくれ、という意味での「寂しがってる」に変化させるという高等テクニックを使ったのだ。

 それをこの僅かな時間で考えついた僕もなかなかだが、そのボケに一瞬で気付いたうっつーも称賛に値するだろう。

 そんなこんなで持つべきものは友人だと再確認して、うっつーを見る。

 その視線に気付いたうっつーは、あっち行けとばかりに手を振り、顔を顰めた。


「なんだよその親が子を見るような視線は。せめて俺じゃなくて俺の姉に向けてやれ」

「それ何か失礼じゃない?」

「だってあいつの頭は小学生並みだぜ?」

「うっつーより良い高校出てるのに?」

「おいおい、学歴と精神年齢は比例しないんだぜ?」

「あ、ほんとだ。目の前にその権化がいる」


 手を出してきそうだったので、慌ててその手を掴む。睨み合う。意地の悪い笑みを浮かべて見つめあっている僕らは、傍から見れば密談しているかのように映るのだろうか。

 そして次の瞬間、僕らは豪快に破顔する。これもいつもの調子だった。

 いつまでもうっつーとはこんな関係でいたいものだ。そう思っていると、コンコン、とまた病室の扉がノックされた。


「誰か来たみたいだし、俺はそろそろ帰るわ」

「ん。じゃあね」

「早く戻ってこいよ。あと、あまり激しく動くんじゃねぇぞ」

「わかってるって」


 そう言って、うっつーが病室の扉を開ける。

 出て行ったうっつーと入れ違いに真弓先輩が入ってくる。ぺこりと頭を下げた。


「おはよう、ってもうそんな時間じゃないか」

「まあ、もう昼過ぎてますしね。こんにちはでいいんじゃないですか?」


 そんな言葉を交わしつつ、真弓先輩がさっきまでうっつーが座っていた椅子に座る。

 忙しいはずなのに来てくれた真弓先輩に感謝を伝えておく。


「受験勉強は大丈夫なんですか? 来てくれるのは嬉しいんですけど」


 僕のその言葉に、先輩は苦笑する。

 そして厳しい現状を隠すかのように不器用な笑みを浮かべた。


「まあ大丈夫だよ。一浪ぐらいは元々覚悟してるし」

「ならいいんですけど」


 言ってから、違うだろ、と自分に文句をつける。

 それを僕は、ちゃんと口に出して伝えることにした。


「いえ。よくは、ないですね。先輩はもっと、自分のことを考えるべきです」

「考えてるよ。私は自分の幸せを一番に考えてる。自己中心的な人間だから、それで他の人に迷惑がかかっても気にしない」


 即座に切り替えしてきた真弓先輩は、どうだと言わんばかりに笑みを見せてきた。

 自分の幸せを考えているなら、まあいいのだが。

 それに違和感を感じ、さっきの先輩の言葉を思い返す。


「それは……、それはそれでよくないですね」

「あ、確かに」


 周りの人に迷惑がかかっても気にしないって、どんな横暴な人間なんだ。真弓先輩はどちらかというとその被害に遭うタイプのような気がするのだが。

 僕なんかも結構自己中心的で、周りに迷惑ばかりかけているけれど、一応気にかけてはいるのだ。あまりそれで周りにかかる被害が軽減したかと聞かれれば、首を振らざるを得ないが。

 しかし、先輩が自己中心的だったからといって何が変わる訳でもない。自分のことをちゃんと考えてほしいということが伝わればそれでいいのだ。


「ともかく、いまは自分のことに集中してください。僕のせいで大学に落ちたとなったら、悔やんでも悔やみきれませんから。先輩も不完全燃焼は嫌じゃないんですか?」

「確かに心残りがあるのは嫌だけど、あ、もちろん落ちるのも嫌だよ? でも、それが可愛い後輩のために時間を使った上での結果なら、私はちゃんと納得するよ。それを受け入れるよ」

「先輩じゃなくて僕の問題ですよ。僕が面白くないんですよ、そうなると」


 僕のせいで先輩が落ちたら、真弓先輩は何とも思ってなくとも僕が周りから大目玉を食らってしまう。真弓先輩も嘘を吐くのが苦手なタイプだから、僕に付き合って『カミサマ』を探していたってことは、すぐに広まってしまうだろう。

 そうなると先輩、同級生、先生。いろんな人からねちねちと言われるんだろうなぁ。いじめに発展しなければいいけれど。

 真弓先輩は僕と先輩の両方が納得できる方法を模索しているのか、目を閉じ、腕を組んで考えている。暫くして、妙案を思いついたのか目をパッと開き、人差し指を僕に突き付けながら言った。


「うーん、じゃあ早く『カミサマ』を見つけて全部終わらせちゃおう!」

「そう簡単に言われても、判断材料が足りませんよ」


 冷静に、無鉄砲な先輩の作戦に切り返していく。まだ『カミサマ』を見つけるのに必要な情報は十分とは言えないのだ。

 真弓先輩は僕の反論をものともせずに、ドヤ顔で言いきった。


「でも私、実は『カミサマ』の正体に心当たりがあるんだ」

「へぇ。何を根拠に?」

「神社に行った日に教えてくれたこと、かな?」


 あの日に伝えたことといえば、その前日になごさんから教えて貰った情報だろう。


「というと、『カミサマ』の正体は人間、っていうとこですか?」

「そう。その時点で、私は確信を抱いたよ。この人しかいない、って」


 僕は次の言葉を待つ。


「私はね、『カミサマ』は――」


 ガラッ。その言葉を遮るかのように、病室の扉が開かれる。

 僕たちは何事かと思い、扉の方を向いた。


「もう、やめて下さいっ! それ以上踏み込むと、本当の本当に、火傷します……」


 彼女のその表情を見たのはまだ記憶に新しい。思い出すのにすら激痛を要するであろう心の傷を抉り出すかのような苦悶の表情。

 一度も僕の許へ来なかった少女が、ついに姿を現した。

 のっちゃんが僕のいるベッドに、ゆっくりと近づいて来る。



 2


 中川は出て行った先輩をまるで親の仇を見るかのような眼で見送って、椅子を持って窓側に移動し、座った。

 それについて疑問を呈すと、同じ方向にばかり身を捻っているのはよくないから、という答えが返ってきた。確かに右に捩ってばかりだったから、いざ左に体を曲げると違和感を禁じ得ない。

 場が沈黙する。病室で二人きりで誰かが助け船を出してくれるでもない。気まずかった。何か話を振ろうとすると、中川が頭を下げた。

 驚いて声を失う僕に、中川は言う。


「来るのが遅れて、すみませんでした。だけどどうしても、やりたいことがあって。あと、猫に餌あげてました」


 やりたいこと。何だろう。思えば僕は中川のことを、ほとんど知らない。何が好きで、何が嫌いで、どんな趣味を持っていて、どんな信念を持っているのか。学年も違ってあまり話さなかったし、少しツンとしていて近付き難かったからだろう。

 猫を飼っていると言うのも初耳だった。中川の飼っている猫のことだ。きっと本人に似て優秀なのだろう。

 僕の考えていることを悟ったのか、彼女は思考の中断を要求した。


「あ、何をやっていたかは訊かないでください。考えるものダメです。どうせそう遠くない将来、わかっちゃうと思いますし」


 そう言われると余計に気になってしまうが、いずれわかることになるなら早いも襲いも関係ないか。

 そう思い、大人しく引き下がることにする。


「わかった。気長に待つよ」

「それがいいと思います」


 中川はそう言うと、俯いてしまう。何かあったのだろうかと思い、手を伸ばして声をかける。

 その前に中川が表情を戻し、顔を上げたため、変な格好で僕は静止することになった。結果、侮蔑の目を向けられる。


「抵抗しない後輩に手を出すんですか。最低ですね」

「いや、全くその気はなかったんだけどね」


 弁解して、ふと中川の鞄に目が行った。ファイルのようなものが入っているように見える。

 僕の視線に気がついたのか、中川は黄色いファイルを鞄の中から出し、僕に手渡した。

 開けていいものか、迷う。何か変なことが書いてありはしないだろうか。本当にこれで間違っていないのだろうか。


「見ていいですよ。その中には見られて困るものなんて入ってませんし、第一――」


 中川の言葉を訊きながら、ファイルを開く。

 その内容に、僕は愕然とした。なぜなら。


「――そこには、何にも書かれてませんから」


 白紙。元からそうだったのか、何か書いた後に消したのかはわからないが、そのファイルに入っている紙はその全てが真っ白で、何の記述もされていなかった。

 だったらなぜ、僕にこのファイルを渡したのだろう。これがなにか、重要な証拠になるとでも言うのだろうか。

 中川は僕の不思議そうにしているであろう顔を一瞥した後、説明を始めた。


「私が先輩に協力すると言った夜のこと、覚えていますか?」

「部活の皆に振られた日だよね。覚えてる。協力してくれるって言ってくれたのは、本当に嬉しかった」

「そう言ってもらえるなら、私もあの日電話した甲斐があったというものです。とまあ、それはさておき、先輩は私に全て情報を渡してくれましたよね。二十年前、そして情報が特にないことについて」


 僕は頷く。僕が自分で入手した情報なんて、それぐらいだろう。他の情報は全部、電話で中川から教えて貰ったのだ。

 そういえば、僕を神社に呼んだ理由は何だったのだろう。問うてみる。


「何で中川は僕を神社に呼んだんだ?」

「その理由がこれなんですよ。そして、これは真弓先輩がいると話し辛い」

「それはなぜ?」

「私は――真弓先輩が『カミサマ』だと思っているから」

「――っ!」


 声を失った。考えてもいない可能性だった。まさか、身近な人が『カミサマ』だなんて、考えもしなかった。いや、目を背けていただけなのかもしれない。それはないと、そう思いたかっただけかなのかもしれない。

 頭が真っ白になる。いままで真弓先輩と行動してきたことが思い浮かびは消え、思い浮かんでは消えていく。幾度となくそれを繰り返した後、それに終止符を打ったのは耳を劈くかのような怒号だった。


「しっかりしてください!」


 気が付くと、中川がベッドの上に乗り出して僕の肩をゆすっていた。その瞳には、いつになく真剣な光が宿っている。その姿が、その僕を見る目が、目に焼き付いたいつかの父の姿と重なった。涙が零れそうになるのを堪え、前を向く。

 目が合った。思ったよりも顔が近い。中川もそれに気付いたのだろう。赤面しつつ椅子に戻った。誰かが入ってきていたら、変な誤解をされていたかもしれない姿勢だった。

 中川は恥ずかしさが抜けないのか、目を伏せたまま、しかし諭すように力強く言う。


「あの日言ってたじゃないですか。『たとえ『カミサマ』の正体が何であろうと、僕は『カミサマ』の存在を否定する。もしそれが僕の心を壊そうとも、この身が壊れるとしても、それでも僕はやるんだ』って。あれはウソだったんですか? そんなわけないですよね? 私の知っている先輩は、『カミサマ』の正体が何であろうと、立ち向かうんですよね?」


 思い出した。中川には僕の意思を伝えたのだ。『カミサマ』を探すのをやめろと言われたから、そう返したのだ。決意を見せつけたのだ。その結果、中川は僕に協力してくれると約束してくれた。

 だというのに、僕はいま、迷ってしまっている。こんな状況になって、もう少しで手が届きそうだというところで、本当に『カミサマ』を止めるのが正しいのか、わからなくなってしまっている。

 俯いていた顔を上げる。正直にいまの心の内を話してしまおうかと思ったのだ。

 ……それなのに。


「どう、して……」


 どうして、そんな顔をしているんだよ、中川。まるで僕に懇願するような目だ。それも自分の言葉を肯定してほしいわけではなく、否定してほしいという想いがこもっている。中川は、この目の前の少女はどこまでも、僕を止めようとしてくる。

 だからこそ疑ってしまう。中川が――『カミサマ』なんじゃないか、と。

 その思いは溢れ出て、止め処なく流れ続ける。聞いてはいけないような気がする。でも、それでも訊かずには、いられなかった。


「中川が、『カミサマ』なのか?」


 静寂が病室内を満たす。時が止まったのではないかと錯覚するぐらい、その空間は音がなかった。

 目を丸くする中川と、上目遣いでそれを見つめる僕。その間には、重く苦しい空気が流れる。

 息が詰まりそうな空間に音を持ってきたのは、他でもない、僕自身だった。


「やっぱり――」

「違いますよ。私はただ先輩の言葉が的外れすぎて驚いていただけです」


 僕の言葉を遮って、中川が言った。しかし、口ではそう否定していても、本当にそうなのかはわからない。簡単に信用できるはずもなかった。

 それをわかっているのだろう。中川は続けた。


「私が卓先輩を止めようとしているのは、先輩に傷付いてほしくないからです。いまこうして入院しているのだって、『カミサマ』を追っていたからかもしれないですし」

「いや、それはないと思うけど」

「本当に、そう言い切れますか?」


 答えられない。根拠がないから。僕の母、角山奈緒が『カミサマ』と繋がっていなかったと証明するものは、どこにもない。


「私が真弓先輩を怪しいと思う理由もそこにあるんです。卓先輩が階段から突き落とされる前、真弓先輩は電話をしていました。真弓先輩が電話を切ってこっちに来るのと、本殿のところから卓先輩のお母さんが先輩に近寄るのはほぼ同時だったんですよ。そこに何か関係があると思っても、別におかしくはないですよね」


 確かに。僕はそれを否定できるカードを持っていない。しかし、それは、そんなことは……。


「目を背けないでください。私の疑いも、真弓先輩の疑いも、捨てないでください。判断するのは、証拠が集まってからでいいんです」


 それを聞き、僕は一つ深呼吸をする。一旦、落ちついて話を進めるべきだ。『カミサマ』が中川だった場合、このままペースを取られ続けるのは危険すぎる。

 気を引き締めて、再び中川を見る。中川も間があって少し落ち着いたのか、いつもの無愛想な表情に戻っていた。

 それを見て、僕は中川に問うた。


「もし仮に真弓先輩が『カミサマ』だとして、どうして僕に協力しているんだ?」


 中川は腕を組み、考えるような素振りをした。

 訊きっぱなしでは悪いし、僕も考えてみる。僕に協力するメリットは何だろう。僕がどれだけ『カミサマ』に近付いているかを知れること、だろうか。だがそれを知ってどうする。知ったところで、どうにもならないような気がするのだが。


「情報を撹乱させるため、でしょうか」


 中川の言葉を聞き、納得してしまう。

 確かに撹乱目的なら、あえて懐に入り込むっていうのは有効かもしれない。岡野さんの態度も真弓先輩から強要されていたとすれば納得ができるし、電話の相手が真弓先輩だとするならば、角山奈緒のおかしな挙動も全て説明ができた。

 ということは、


「近くにいることでミスリードもできるってことか」


 考えが口に出てしまう。


「そういうことですね。そして恐らく、最初はそれが狙いだったんでしょう」

「でも、予定が狂った」


 中川の言葉に導かれるように、思考が繋がり始める。点々が繋がり始める。まだ確証がないというのに、真弓先輩を『カミサマ』だと決めつけてしまっている。

 これは危険だ。危険すぎる。これでもし中川が『カミサマ』だとしたら、全部中川の思うつぼじゃないか。

 そんな僕の考えなど知るはずもなく、中川は続けた。ぼろを出してくれれば、本当に楽なのに。


「恐らく私が卓先輩に伝えた情報を、そのまま真弓先輩に教えてしまったことが原因でしょう。自分の知らないところで卓先輩が『カミサマ』に近付いていると知って、どうにかそれを止めようとした」

「それで、僕を殺そうとした?」

「いえ、本来は脅かす程度だったんだと思います。真弓先輩の顔を見たでしょう。驚いていました。恐らく、そこまでするとは思っていなかったんじゃないでしょうか。やるにしても家の近くで襲うとか、あまり高低差のないところから突き落とすとか、その程度だったんだと思います。まさか病院送りになるとは思っていもみなかったんでしょう」


 それだけ角山奈緒は僕のことを恨んでいるということなのだろう。父を、角山真織を奪った僕のことが、憎くて憎くて仕方がないのだろう。その思いは僕を殺しかねないほどには大きくなっていた。いままで殺されなかったことが、奇跡なのかもしれない。

 しかも、あの神社は市外だ。普通に人も死ぬし、犯罪事件も起こる。もしかしたら僕は死んでいたかもしれない。

 そう思うとゾッとした。目的を果たせずそっちに行ったら、父はどんな顔で僕を見るのだろう。やっぱり、と呆れられるのだろうか。仕方ない、と苦笑されるのだろうか。呼吸が早まっていくのがわかる。

 父が僕のことを失望した目で見ているところが頭に浮かび、呼吸が上手くできなくなる。苦しい。苦しいっ……!

 背を向けて父が歩いて行ってしまう。僕は必至でそれを追いかける。しかしどれだけ走っても、追いつけそうにない。それどころか瞬く間に距離は離れていき、その背中は小さくなっていく。

 待って。お願いだから。僕を、僕を置いて行かないで――

 次の瞬間、何かに包み込まれるような感覚に襲われた。

 どこからか、声がする。


「私は、あなたを置いて行きません。私は、ここにいます……」


 その声に不思議と安堵し、心が落ち着く。逸っていた呼吸も落ちついてきて、視界に色が戻ってくる。慣れない感触に気が付けば、中川が僕のことを抱きしめていた。

 かなり恥ずかしいのだろう。離れた後も、目を逸らしてこっちを見ようとしない。

 でも、そうまでして僕を現実に引き戻してくれたのだ。しっかりと感謝を伝えなければならないだろう。

 今日はもう既に、二度も失態を見せてしまっている。中川がいなければのどか先生のように気を失っていたかもしれない。それは僕の敗北を意味する。それだけは避けなければ。

 そう思うと、中川の態度は妙だ。僕を助けたり、『カミサマ』と関わるなと言ったり。何がしたいのか、何を思っているのか、全く読めない。いや、わかっている。僕はもう既に、彼女の気持ちに気付いている。それを認めようとしないだけ。気付いていない振りをしているだけ。自分の勘違いだと、そう思いたいだけ。でもそうならば、なぜ。

 僕は首を振った。それはいま考えるべきことじゃない。


「ありがとう。落ちついた」


 ひとまず感謝を伝える。中川は一瞬目を丸くしたが、すぐにいつもの表情に戻った。

 中川は一つ溜息を吐き、さっきのファイルをこちらに突き出してきた。


「話を戻しますよ。最初に連絡したあの夜、情報がないと言った先輩の言葉を、私は信じていませんでした。調べ方が悪いと思っていたんです。でも調べてみたら、そうじゃなかった」

「記録がどう足掻いても残るであろうネットには、全くといって情報がなかった」

「そうです。疑ったことについては、本当に反省しています。じゃあ、私はどこから情報を入手したのか」


 そこだ。それがわからなかった。いつもいきなり電話をしてきて、僕に『カミサマ』についての情報を教えてくれていた。だけど、その情報元がどこか、僕は知らない。 

 中川が『カミサマ』だというのならそれで納得がいくのだが、違うというのなら一体どうやってそれを得ていたのか。

 考えたが思い当たらない。中川の知り合いに二十年前から生きていて、『カミサマ』について詳しい人がいたのだろうか。


「相手を教えることはできません。だけど、直接会って少しずつ、訊き出していました。相手の人は結構まずい状態なので」


 期待はずれな答えに、不満な顔を隠せない。表情を騙るのがどんどん下手になっている気がする。気のせいならばいいのだが、残念ながらそうではないようで、中川は僕の顔を見て、スマートフォンを取り出した。


「相手の希望です。最初のメールのやり取りだけは見せますね」


 そう言って、中川は僕にスマートフォンの画面を見せてきた。


「これが一件目です」


《                                                                                  》


 何も書かれていない。空メールだろうか。しかし、それにしては少し空白の部分が多すぎる。

 そんな僕の思考を読み取ったかのように、中川は件名のところを指さした。

 空白なのに、件名なしと書かれていない。それはつまり、件名が存在したということだ。それなのに、いまはない。

 これは一体……。いや、待て。空白を打った場合もこうなるのではないだろうか。しかしそうだとしても、どういうつもりなのだろうか。わざわざそんなことをする必要が。


「気付きましたか? これは、元々あった字が空白に置き換えられているんですよ」

「確かめたことはあるの?」

「はい。あります。じゃあ、いまからそっちにメールを送りますね」


 中川が本文を打ち込む。


《『カミサマ』の正体は人間だ。》


 中川はそれを僕の目の前で送信した。空白で埋め尽くされてなどいない。普通のメールだ。

 ピロロン、という音がなる。メールが届いたのだ。すぐさまメールを開いて内容を確認する。


《              》


 僕は驚いて中川の方を向く。中川は送信済みメールの欄を開いて先程のメールをこちらに見せてきていた。見れば、全て空白になっている。いつの間にすり替えたのだろう。

 中川はファイルを僕の手からひったくり、鞄から筆記用具を取り出した。一体何をしようというのだろう。


「わかりましたか? 『カミサマ』に関わる情報は、文字にすると全部消えてしまうんです」


 白い紙に大きな文字で「『カミサマ』は代償と引き換えに願いを叶える都市伝説」と書いた中川は、その紙一枚だけをそこに置き、ファイルを自身の鞄にしまった。

 それに気が取られていた。再び紙に目を戻した時にはそこに書いてあった文字は消えていた。


「とまあ、これはたまたま見つけた小ネタみたいなものなんですけど」   


 そう言いつつファイルに紙をしまい、こちらに向き直る。

 拍子抜けだった。いまのが何か、『カミサマ』に近付くための手がかりになるのかと思っていたのに。しかし、目の前で中川が実演してみせてくれたことで、前に問い合わせをしたときに言っていたある日を境に情報がきれいさっぱりなくなったということの意味がわかったような気がする。


「これも『カミサマ』の力ってことか」

「いえ、これは恐らく誰かの願いによるものだと思います」

「というとは、協力者がいるってことも考えられるのか」

「はい。充分あり得るかと」


 ということは、真弓先輩が『カミサマ』で、中川がその協力者ってことも考えられるということか。いや、逆の方がまずいのかもしれない。中川が極度に真弓先輩を疑って、真弓先輩がぼろを出すことで真弓先輩を『カミサマ』に仕立て上げる。そんなことをされているとしたら、僕は簡単に引っかかってしまいそうだ。

 しかし、ここまで熱心に動いてくれている二人が『カミサマ』の正体を隠そうと考えているだなんて、本当にありえるのだろうか? わからない。こんな状況になっても、まだまだわからないことばかりだ。

 くそっ。一体どうすればいい。どうすれば、『カミサマ』を追い詰められる。

 最善の一手は、盤面をひっくり返す妙手は、どこにあるんだ。

 中川は僕のそんな葛藤を知ってか知らないでか、新たな情報を投下した。


「三島先生は、真弓先輩を避けていました」

「…………!」


 知らない情報だった。のどか先生が真弓先輩を避けていただなんて、全然気がつかなかった。

 しかし、僕でも気付かなかったことを、どうして中川が知っているのだろうか。

 それを問うてみると、中川は案外素直にそれを白状した。


「私、三島先生とは仲が良かったんです。ちょっと個人的に相談事がありまして……」


 どうやら触れられたくない様子なので、相談事については踏み込まないでおく。しかし、中川がのどか先生と交流があったのいうのは意外だ。タイプがまるで違うから、共通の話題でもないと噛み合わないと思うのだが。


「そのときに愚痴っていたんです。三島先生は、真弓先輩が苦手だと、ちょっと避け気味だと、そう言っていました。そしてこれが、私が真弓先輩を疑う一番の理由です。誰に対しても等しく態度を変えない三島先生が唯一苦手とする相手である真弓先輩と、何があっても動じない心を持つ三島先生の心を折り、気を失わせるほどのトラウマである『カミサマ』。この二つに関係があると思うのに、そう時間はかかりませんでした」


 少し強引な気もするが、とりあえず中川が真弓先輩を疑っている理由はわかった。それだけでも良しとしよう。

 コンコン、とノックの音がした。「どうぞ」と声をかける。


「夕食をお持ちしました」


 そう言われて、部屋の時計を見る。もう既に六時半を回っていた。

 窓の外を見ると、茜色の空に星が瞬き始めている。

 長居していたことに気付いた中川は鞄を持ち、席を立った。


「塾があるので、もう帰りますね」


 そう言い残して、病室の扉へ向かっていく。

 病室から出る直前に足を止めた中川は、いま思い出したと言わんばかりの表情で言う。


「あ、そういえば調べていて気になったんですけど、三月の十七日。その日って、確かこの街で珍しく死亡事故が起こってるんですよね。で、その日って将棋の全国大会の日なんですよ。それってちょっと、気になりませんか?」


 不気味な置き土産を残して、中川は去って行った。

 中川の言わんとするところはわかった。三月の中旬に死亡事故があったということは隼人さんから聞いていた。しかし僕はどうしてそんな大事なことを忘れていたのだろう。のどか先生が倒れたことで、そんな重要な手掛かりを忘れるほど焦っていたのか。何と不甲斐ないことだ。いや、不甲斐ないのは元々だけれど。

 ともかく、三月の十七日は確かに将棋の全国大会があった。そこには、真弓先輩も出場している。この街から、出ている。そのときにこの街で死亡事故が起こったとなれば、当然真弓先輩が『カミサマ』である疑いは大きくなってしまう。

 この街で起こっている現象は、『カミサマ』が街にいないと起きないのだろうか。確証はない。しかしそう考えるのが妥当かもしれない。

 これは偶然なのだろうか。そう考えるには、あまりにも状況が出来過ぎていた。



 3、


 退院の日。母親が一応手続きをしたらしいが、あの精神状態だ。何を間違えているかわからない。そう思って確認をしに行ったのだが、驚くべきことにどこも誤った箇所はなかった。

 荷物を持ち、先生に礼を言って病院を去ろうとしたとき、出口に母親の姿が見えた。

 その見違えるほど変わった姿に、僕は驚きを隠せず、立ちつくす。つい二週間前は申し訳なさそうな顔をして、髪も肌も手入れもしていなかったために酷い姿だった。それがいまでは誰がどう見ても疑いようもなく美人である。僕が血の繋がった息子でなければ、それが彼女だと気付かなかったかもしれない程の変わりようだ。

 一体僕が入院している間に何があったというのだろう。

 母親は僕に近付き、「ちょっと待ってて」と言うと、先生の方へ近付いて行った。


「息子をどうも、ありがとうございました」


 そう言い、頭を下げる姿はいつかの父が自殺する前の母親の姿を思い出させた。

 ああ、良かった。本当に良かった。母親は、僕の母親の丸尾綾乃は、父の死を克服できたのか。僕にはできなかったことを、誰かがやってくれたんだ。

 そう思うと悔しい部分もあったが、それ以上に母親が元に戻ったことが嬉しかった。

 頬を涙が流れる。退院したら、すぐさまのっちゃんに連絡をするつもりだった。そしてどうにかして情報を引き出して、『カミサマ』を探そうと思った。

 でもいまは、この喜びに浸ろう。今日一日ぐらいは休んでも、罰は当たらないはずだ。

 だって、時間はいくらでもあるのだから。


「――――」


 母親が僕の名を呼ぶ。ずっとそう呼んでほしかった。そうやって、泣きじゃくる僕に優しい笑顔を見せてほしかった。

 僕は涙を拭いた。僕も、いつまでも泣いてはいられない。


「帰ろう」


 そう言うと、母親は頷いた。隣に並んだ母の背丈は小さいのに、その存在はとても大きく感じられた。

 病院を出ると、まずタクシーを探した。そしてそれがないことに気付き、ハッとする。

 母親は本当の本当に元に戻ったのだ。ということは、甘えてタクシーに乗ってくるなどあり得ない。電車を乗り継いでここまで来たのだろう。

 僕の様子に気付いたのだろう。母親が声を掛けてきた。


「ごめんね。この半年間、凄い迷惑かけちゃったね」

「いいよ。大切な人を失う感覚は僕にはわからないけど、それでも理解はできるつもりだから。それがどれだけ辛いのかはわからないけど、辛いってことだけはわかるから」

「やっぱり、――――は優しいね。本当に、ごめんね」


 その声音に悲壮感はない。悪いとは思っているが、必要以上に罪悪感を感じているわけではないようだ。そのことに安堵し、溜息が漏れる。

 しかし、母親はどうやってこの状態に戻ったのだろう。何かきっかけがあったのではないだろうか。一体誰が、どうやってこの母親を正常にしたのだろうか。

 その答えは、母親自らが教えてくれた。


「わたしの壁を壊してくれたのは、――――なんだよ」


 僕の名前が出てきて、目を丸くする。一体僕が何をしたというのだろう。僕はただ風に煽られて階段から落ちて、入院していただけだというのに。

 それがどうやって、母親に父の死を乗り越えさせる力を与えたのか。


「僕が? 一体なんで僕が母さんの心を動かしたのさ」

「あなたが落ちて救急車で運ばれたと聞いたから」


 確かに連絡は行っただろう。しかし、それがどうだというのだろう。


「真弓さん、だったかな? それはもうすごく慌てていてね。それで結構ひどいのかもしれないと思った。その状況を聞いて、わたしはあなたが自殺しようとしたんじゃないかと思ったんだ。それがわたしには許せなかった。澄夫さんのときだって、わたしは一番近くにいたはずなのに、その話を聞くことさえできなかった。その心を癒してあげることができなかった。そしてまた、あなたまでもがわたしが不甲斐ないせいで死んでしまったら。そう思ったら、居ても立っても居られなくなった。でも、やっぱり自分のしてきたことを思えば顔を合わせるのが怖くて、全然面会に行けなかった。そのことだけは、許して」


 一息にそう言った母親は、妙にすっきりした様子だった。きっと心の内に溜まっていたものを吐き出して、楽になったのだろう。

 澄夫というのは僕の父の名前だ。警察官で、とても正義感の強い人だった。結果的には、その正義感が仇になったのだが。

 それにしても、僕が自殺、か。到底有り得ない話だ。第一、僕はそんな勇気を持ち合わせていないのだし。父の姿を見て、死というものが軽いトラウマになっているというのもあるから、そんなことはできそうにない。


「実際はどうなの? 自殺、じゃないんだよね?」


 母親は心配そうに僕に聞いて来る。その目は本気だ。本気で僕のことを案じていた。


「馬鹿言え。風に煽られて体勢崩しただけだよ」


 僕がそう言うと、母親は笑いだした。それも、大声を上げて。

 何だよ、と不満げな目を送ってみる。一体どこがおかしいんだ。


「いや、バランス感覚ないんだなぁって思って」


 悪かったな、運動音痴で。


「あと、心の声漏れてるよ。昔の澄夫さんとそっくり」

「…………!」


 やっぱり、直っていないらしい。どうにかしないと、本当にまずい気がする。迷いとか焦りとかが相手に伝わってしまうのだ。誰かと対することになった時、僕はちゃんと隠すことができるのだろうか。

 その心の声も漏れていたのだろう。母親は不思議そうな顔でこちらを見つめていた。

 何だろうと思い、尋ねてみる。


「どうかした?」

「ああ、いや、別に本音をぶつければいいんじゃないか、って思ってね。駆け引きとか、嘘とか、ハッタリとか、――――には向いてないだろうし」

「それはたぶん遺伝だよ。両親ともに馬鹿正直だ」

「うん。まあ、その通りだね」


 そんなことを離しながら帰路を進む。

 突然、母親が足を止めた。何だろうと、その視線の先を見る。

 赤めの長髪をなびかせた少女がそこに立っていた。そして僕は、その人物を知っている。


「のっちゃん……」


 声が零れた。

 一昨日は時間が遅く、病院側から帰れと言われてすごすごと帰って行ったけれど、この時間に来ているということは、やはり僕に言いたいことがあるのだろうか。

 何だ。僕が彼女に何かをしただろうか。いや、のっちゃんが『カミサマ』だって言うことも考えられる。彼女は一昨日、真弓先輩の言葉を遮って入ってきたのだし。

 思わず身構えた僕に、のっちゃんは見向きもしなかった。

 ただ目を丸くして、僕の母親を見つめている。そんなに驚くことだろうか。そう思って思い返す。僕はあの部活の日に全部話したのだから、当然その場にいたのっちゃんもそれを知っている。だから僕の隣にいる女性が母親だと、信じられないのだろう。僕は母のことを、こっぴどく非難しながら話したから。隣いる姿が想像できなくても仕方がないと言える。


「よかった……ですね」


 のっちゃんはそう言い、ゆっくりと僕の目の前まで来た。不器用に微笑み、目に涙を浮かべていた。

 僕は母親に目を向けた。のっちゃんと二人だけで、話がしたかった。


「わかった。先に帰ってる。あんまり遅くならないでね」 


 僕の意思をくみ取り、母親は去って行った。その背中を目で追うようなことはしなかった。

 のっちゃんはこうして僕に会いに来てくれた。その真意はわからないけれど、僕ももう、迷ってはいられない。


「少し、歩こうか」

「はい」


 来た道を戻るように、僕は歩き出す。少し歩いて、のっちゃんがちゃんとついてきているかを確認するために振り向く。彼女はちゃんと、そこにいた。

 何から話そうか、と思案する。思えば僕からのっちゃんに聞くようなことはほとんどないように思われた。聞くことと言えば彼女の過去に何があったかだけだろう。


「のっちゃん、君に一体、何があった?」


 口に出して、なかなかアバウトな質問になっていることに気付くが、時すでに遅しと言うやつである。補足で何かを言おうとしたが、その前にのっちゃんは答えた。どうやら、ちゃんと質問の意図を理解できていたようだ。


「友達が、死んだんです」


 そう言うと、のっちゃんは柵に背中を預け、こちらを向いた。

 その表情は一昨日とは違う、どちらかといえば追悼の念を抱いてるかのような表情だった。


「小学校、中学校と一緒で、とても仲の良かった幼馴染でした。高校は別々になってしまったんですけど、それでも月に二回ぐらいは会って話をしていました。だから、久しぶりに会おうって言われたその日も、私は喜んで会いに行ったんです」


 そのとき、のっちゃんの顔が悲痛に歪んだ。

 声をかける間もなく、言葉が続く。


「私の目の前で、突然その子は倒れました。何の前触れもなく、その一瞬前まで私と話していたのに、です」

「………………」

「その日はその子の誕生日でした。だから私は、プレゼントを準備していたのに……」

「渡せなかった」

「はい。その通りです。死因は不明。もちろん私に疑いが掛かりました。でも、それを証明する手段はなかった。その捜査の中で、彼女の遺書が見つかりました」


 遺書。その響きに、心が揺れているのがわかる。

 落ちつけ、落ちつけ。深呼吸をして、再び耳を傾ける。


「彼女の遺書には、『カミサマ』にお願いをした代償に寿命を差し出したと書かれていました。彼女が何を願ったかはわかりません。でも、もっと他のやり方だってあったんだと思うんです。何で、どうして自分を犠牲にするような真似をしたんでしょうか。そこまで守りたいものなんて……」

「あるよ」


 僕は呆けるのっちゃんに真っ直ぐに視線を向けた。

 その思いはもう既に彼女に伝えたはずだ。ということは、のっちゃんにはそう思えるほど大事なものがまだ見つかっていないと言うことなのだろう。命を投げてでも守りたいものに、まだ巡りあえていないのだろう。


「やっぱり、私にはわかりません。薄情と言われるかもしれませんが、私は自分が一番大切なんです。死ぬぐらいなら、願いなんて叶わなくていいんです。それが普通じゃないんですか。それで良いんじゃないんですか。……こんなことを言っているから、私は火傷したんですね」


 彼女の痛みが、わからないことはない。父を失ったときに空いた心の穴とよく似ているように思えた。なぜ、どうして、そんな考えたちがぐるぐると渦巻いて、引き込もうとする。逃げようとしても絡め取られる。

 幸い、僕は母親がああなったせいでそんなことを考えている暇もなくなってしまったからいいものの、のっちゃんのように抜け出せない場合はとことん抜け出せないのだろう。それこそ、トラウマのようなものに昇華してしまうかもしれない。僕にできることなんてたかが知れているから、こうやって話を聞くぐらいしかできないけれど、どうにかトラウマにならずに済めばいいのだが。

 あれ? 待てよ。この話、どこかで聞いたような気がする。こんなに詳しくはない。けれど、大筋は違っていないはず。友人が死んだ。『カミサマ』の代償で。

 そして、脳裏によみがえったのは赤い文字列。


《なごさん:私の友人はその代償によって――死にましたから》


「その様子だと、気付いたみたいですね」


 のっちゃんは顔を伏せた。伏せて、呟くように言う。


「私が『なごさん』です。全て話す約束を、果たしに来ました」


 そうだ。僕はなごさんと直接会って話をする約束をしていた。しかし、階段から落ちた僕はその約束を果たせていなかった。しかも、なごさんは僕の正体を知っていると言っていた。

 こういうことだったのか、と納得するとともに、疑問も湧いてくる。


「どうして僕に直接言ってくれなかったのさ」


 そう問うとのっちゃんは申し訳なさそうにこちらを見て、目を逸らした。


「言いにくかったんです。部活で話しているのを聞いたとき、すぐに『まるるん』さんが先輩だということはわかりました。でも、あんな話したばかりだったので言い出し辛かったんです」

「じゃあ、神社のときは?」


 僕と真弓先輩が願掛けのために神社に行った時、たまたまのっちゃんに出会った。そのときに声を掛けてくれれば、別に良かったんじゃあないだろうか。

 それにものっちゃんは首を横に振った。


「できませんよ。あんな啖呵を切ってしまった後で、おずおずとやっぱり協力しますだなんて、言えません。でも、チャットのときに先輩のメッセージを見て、わかったんです。ああ、この人の覚悟は本物なんだなぁって。だからこうやって、私がなごさんであることを打ち明けようと思ったんです」

「そっか」


 その勇気を出してくれて本当に助かった。こんな僕に協力してくれるだなんて、本当に僕の周りは物好きばっかりだ。

 まあ、一番の物好きは僕か。何でわざわざ『カミサマ』を探しているんだって話だ。都市伝説を追うだなんて、本当に馬鹿のやることだろう。

 川の柵に寄り掛かり、川に泳ぐ魚に目を向けた。


「そういえば、なごさんっていうハンドルネームの由来ってどこから来てるの?」


 僕の問いかけに、後ろから声がかえってくる。


「私の名前って、漢字で書くと和っていう字なんですよ。それで、和っていう字は和やかとか、和むとか、そう言う読み方がありますよね? そこから取ってます」

「へぇー、僕のは本当に適当だからね。名字からとって、まるるん。安直だよ」

「でも、そのおかげで先輩に辿り着きました」


 そう考えれば、悪くはないのか。単純に協力してくれる人が増えただけだと思えば、そう悪くはないのかもしれない。

 一つ溜息をついて、問うべきことを探す。何かなかっただろうか。『カミサマ』にぐんと迫れるようなものは。

 考えている内に、のっちゃんに問われた。


「最後に、確認です。本当にいいんですか? あなたの願いは、その代償できっとあなたの命を奪います」

「わかってる」

「あなたの命だけでは足りないかもしれなません。中途半端な結果で終わるかもしれません」

「わかってる」

「それでも、やるって、そう言うんですか?」

「うん、そうだ」


 僕の決意は固い。僕の願いがどれだけ荒唐無稽で、為し得ないことだとしても。たとえその結果がどうなろうと、僕は歩みを止めることはない。それが僕の、けじめだ。

 その心の声は漏れていたのだろう。のっちゃんは悔しそうに顔を歪めた。できれば、僕に否定してほしかったのだろう。しかし、彼女もまた、けじめをつけようとしている。

 いつかのチャットでの会話を思い出しながら、僕は問う。


「のっちゃん、『カミサマ』は誰だと思う?」

「昨日の真弓先輩の言葉で確信しました。『カミサマ』は――」


 その瞬間、突風が吹いた。とてつもない勢いの風が僕らに襲いかかる。だが、のっちゃんの声は、確かに届いていた。

 そうだったのか。あいつが。

 考えないようにしていた可能性だった。しかし、確かにあいつ以外はあり得ないだろう。そうでなければ、あそこであんな反応をするはずがないのだ。

 携帯を取り出し、電話帳を開く。真弓先輩の名前を探し、連絡をした。


「もしもし。僕です。『カミサマ』の正体が、わかりました」


 あとはもう、面と向かって話をするだけ。



 4


 家に戻ると、リビングの椅子に母がいた。手続きだけはしていたようで、何の苦もなく退院することができた。

 だが、こんなことになっている以上、もう何もしないわけにはいかないだろう。僕は母の正面に座り、真正面から母を見据えた。


「さあ、話をしよう。角山奈緒」


 僕のその声は僕が想像していた以上に、冷え切っていた。僕は相当、この人に怒りを覚えているらしい。

 母の体が揺れる。怯えているのだろうか。自分が殺しきれなかった人を目の前にして、殺されているとでも思っているのだろうか。

 馬鹿な考えだ。すぐに捨ててしまえ。そんな考え。

 口に出そうになった言葉をなんとか飲み込む。感情的になってはいけない。それで罵詈雑言を吐きでもしたら、この人とやっていることが同じになってしまう。

 まずは事実確認をするべきだろう。


「角山奈緒。あなたは僕を階段から突き落とした。間違いはないよね?」

「でも、それは……!」

「言い訳は後で聞く。やったのか、やってないのか。はっきりしてよ」

「…………。やり、ました」


 オーケー。言質は取った。念のため、一応録音もしてある。言っていないとは言わせない。

 さて、次だ。動機でも聞いておくか。


「何で、僕を突き落としたの?」

「それは、やれって、言われたから」

「誰に?」


 そう問うと、母は口をつぐんだ。どうやら言わないつもりらしい。

 それならそれで構わない。僕が勝手な解釈をするだけだ。


「わかった。あなたは僕を恨んでいて、だから僕をあの大階段から突き落として殺そうとした。これでいい? いまの状況だと、こうなっちゃうけど」

「ち、ちが――」

「どう違うんだよ。言ってみてよ。実際あなたは僕を恨んでいただろう? 角山真織じゃなくて僕が死ねば良かったって、言っていたじゃないか。唆されたかどうかはいまは置いといて、それでも自分の息子を殺そうとしたことは、まぎれもない事実だろう?」


 僕のその言葉に、母は目を丸くした。図星だったのだろう。悔しそうに俯いた。

 しかしどうしてだ。どうして、そんな悲しそうな顔をするんだ。今更、いまになって、自分が取り返しのつかないことをして、それでようやく自分の過ちに気付いたとでも言いたいのか。

 そんなのは偽善だ。そんなことを言える段階は、もうとっくに既に過ぎているのだ。


「言ってみろよ。何か言いたいことがあるなら。言ってみろ! あんたは一体、何がしたかったんだ!」


 思わず叫んでしまった。怒りが抑え切れない。このふつふつと湧き上がる怒りを、ぶつけることができない。そのもどかしさすらも、怒りに変わっていく。

 ドンッ! と机を叩いて立ち上がる。そして、歯を食いしばったまま角山奈緒を見下ろした。

 その音に驚いたのか、また母の体が揺れた。そしてゆっくりと、その口を開いた。


「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。取り返しのつかないことをしてしまった。周りに流されてたとか、そんなのは言い訳にしかならない。だけど、本当に本当に申し訳ないと思ってる。この通りだから。どうか、どうか……」

「許して、とで言うつもりかよ?」

「え?」


 地に頭を付け、許しを乞う母の姿に、怒りが増していく。

 謝って許されるなんていうのは、幻想だ。たった一言、ごめんなさいと言ってくれれば気が済むだなんて、有り得ない。人の持つ負の感情は、そんなものでは抑えきれるわけがないのだ。


「土下座して! 泣きじゃくって! そんなんで許されると思ってんのか! お前は、僕を、殺そうとしたんだぞ! わかってんのか! 本当に、自分のしたことを理解してんのか!?」


 母の方が揺れる。ずっとその調子だ。怯えて、相手の様子を窺って、相手の都合のいいように取り繕うとする。

 まるで自分を見ているかのようで、嫌気がさす。


「大体なんだよ! 流されたって! お前の意思じゃねぇのか!? お前に少しでもそうだと思う気持ちがあるから、それに同調してたんじゃねぇのか!? そこにお前の意思は一欠片もなかったって、言いきれんのか!?」


 そう言った瞬間、父と母の夫婦喧嘩がフラッシュバックした。夜にトイレに起きた時に、その声を聞いたのだ。

 そのやり取りの一つ一つの言葉が、脳内に響き渡る。


《あの子は何なの? 別にあなたの子じゃないんでしょ? 何で私たちが預からなきゃならないのよ。本当の父親に渡してくればいいじゃない》

《何を言ってんだよ! 俺の話を聞いてなかったのか!? あの子の父親は、虐待をしていた! だから美菜さんは逃げたんだ! あの子を守るために! あの子をあの父の元に戻すって言ったか? あの暴力的な父の元に? それはあの子の心も未来も壊れてしまうかもしれないんだぞ! それを考えて喋ってんのか!》

《だって、だってあの子は、何もできないじゃない!》

《だから何だっていうんだ! 勉強ができないのが悪いことか? 運動できないのが悪いことか? 違うだろ! 人間は、そんなもんじゃねぇだろ! 確かにあの子は、卓はちょっと不出来かもしれない。だけど、あの子はいい子だろう? 人の気持ちを考えて、言葉を選べる優しい子だろう!? それでいいんじゃねぇのかよ! 心のない言葉を掛ける人形みたいな人間よりかは、ずっとマシだろうが! それに、勉強のことだってそうだ! 俺はあの子は伸びると思ってる。伸びて伸びて、どこまでも高いところまで行ってくれていると信じている。親って言うのは、子を信じるものなんじゃねぇのか? お前も血は繋がってないって言っても、母親だろ! あの子の親だろ!》

《わ、わたしはただ……、周りの人がそう言うから……》

《周りの人に流されてたんだろ! そこに微塵もお前の意思がなかったなんて言わせんねぇぞ! お前に少しでもそう思う気持ちがあるから同調したんだろうが! そんなんで言い逃れできると思うんじゃねぇ! 言い逃れしようとするんじゃねぇ! 親なら真正面からその子を受け止めて、その成長を助けてやることが大切なんじゃねぇのか!》


 初めて聞く父の大声だった。自分のことを俺という父は、僕の知る温厚な父ではなかった。それでも、酒に酔って暴れるのとは違う。ただ家族のことを想って、その純粋な愛が、父を叫ばせていた。少なくとも僕にはそう聞こえた。

 それからだ。僕が父に歩み寄り始めたのは。僕が周りに目を向け始めたのは。

 深呼吸をした。見れば、母は僕のことを唖然とした表情で見ていた。僕と同じように、昔の記憶でも甦ったのだろうか。まあそれを思い出せるぐらいには、僕の言葉は父の言葉に似ていたのだが。

 首を振る。無駄な考えを捨て去った。いまは母の、角山奈緒の言葉を聞いてやるべきだ。


「何か、言いたいことはあるか?」


 そう訊くと、角山奈緒は正座して、僕に向き直った。

 そして、再び頭を下げた。


「お父さんが死んだのに、泣こうともしないあなたが嫌だった」

「あなたの様子を見れば、心が麻痺してしまっていることぐらいわかったのに」

「お父さんが死んだ直後だというのに、冷静に轢いた車のナンバープレートをメモしていたあなたが憎かった」

「どうしてこんな奴が生き残ったんだって、そう思った」

「だから真弓さんから電話が来て、あなたがこの街を壊そうとしていると知った時、殺さなきゃって思った」

「真弓さんは脅かす程度でいいって言っていたけど、そんなんじゃダメだと思った」

「確実に殺さなきゃって、そう思った」

「だから、あなたをあの大階段から突き落とした」

「だけど、あなたは死ななかった。それどころか、大した怪我すらもしなかった」

「それを知った時に、不思議と安心した」

「それと同時に、自分は何をやっているんだって、思った」

「私が憎悪を向けるべき相手はあなたじゃないって、気付いた」

「だから、許されないとわかっていても、謝らずにはいられない。本当に、ごめんなさい」


 僕は目を閉じ、黙ってそれを聞いていた。全てを聞き終えて、僕は言う。


「馬鹿じゃないの?」と。


 その言葉に母は顔を悲痛に歪めた。

 見るに堪えない表情をしている母から目を逸らし、背を向けた。


「お前がしたことは、決して許されることじゃない。もちろん、許す気もない」

「でも、お前はちゃんと話した」

「自分の言葉で、自分のその口で、僕に本音を吐き出した」

「それでいい。別にお前を訴えようとか、そんな気はないし」

「僕もお前がいなくなってしまうと、少しばかり面倒なことが多いからさ」

「それに、いままで育てて貰った恩もあるしね」

「僕はお前を許さない。だから、お前も僕を許さなくていい」

「僕がいなければ、もう少し父は長生きしていたかもしれない」

「『カミサマ』のせいで死んだなんていうのは、ただの思い込みかもしれない」

「僕と話していなければ、父はきっと迫ってくる車に気付いて、それを避けることもできたかもしれない」

「自分か、僕か。僕がいなければ、その二択は発生しなかった。それは、紛れもない事実なんだよ」

「でも、互いが互いを許さなくても、歩み寄ることぐらいはしてもいいとは思う」

「だから、この事に関してはもうこれで終わり」

「それでいいんじゃないの」


 言葉を選んで掛けられるぐらいには、落ちついてきた。ヒートアップしていた思考も、ちゃんと冷却されつつある。。

 母は、角山奈緒は再び泣き始めた。掛ける言葉が見つからない。掛けていい言葉がわからない。

 僕はそっと、その場を離れる。あの人の泣き顔など、見たくなかった。

 自室に入り、スマートフォンを取り出す。


「もしもし、丸山です」

《もしもし。中川です。どうかしましたか?》

「母と話をした。真弓先輩は――黒だ」


 母が漏らした情報を、僕は聞き逃してなどいなかった。

 やっと。やっとだ。もうすぐ僕は、『カミサマ』に手をかける。

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