一章
投稿内容の誤りに気付いて書き直しました。手早く終わらせるために一章丸ごとまとめました。
1、
僕の話をしようと思う。
身長は百七十三センチ、体重は五十三キロ。痩せ気味の男子高校生。部活では部長という立場にいるけれども、垢抜けているだなんて口が裂けても言えないような立ち位置だ。
成績は良くも悪くもなく、学年順位は大体三百人中百五十位前後。
特技と呼べるようなものがあるはずもなく、唯一個性を叩き出しているのは囲碁部に所属しているということだろうか。三年二人、二年五人、一年五人の計十二名の極小部活動だ。この人数というのはかなり少なく、同好会であるクイズ研究同好会に十人以上の大差をつけられているほどである。そんな部でも部長というだけでなぜか名が知れ渡るのだから、おかしな話だ。一応、兼部もしているというのに。
しかし不思議なことに、極小だからと言って弱小という訳でもない。高校から始める人が多いというのに、大会では毎度毎度それなりの結果を残しているのだ。今年だって夏の大会で他のメンバーと共に準優勝をもぎ取っている。と言ってもその大会は勝ち数を競うだけで、段級位は全くもって関係しないのだが。
閑話休題。これは部活の話だ。
運動は中の下ぐらい、芸術科目は基本的にお情けで単位を貰うぐらいの惨状で、得意なことと聞かれれば、人の意見に従うことと無駄に頭を働かせることだろう。その相反する二つによって文句を垂れ流しながら作業をすることが多々あるので、周りからの心象もすこぶるよろしくない。
後者の行為はいつでもできるので暇があればやってみている。その最たる例が自問自答や自分語り、つまりこれ。
最近自問自答してみたことと言えば、「世界を救えるとしたらあなたは自分の命を差し出すことができるか」というものだろうか。ちなみに僕は即決でイエスと答えた。もちろん、声には出していない。いきなり自分の隣の人がイエスと言い出したら変な人だと思うのと同じで、僕のただでさえ良くない評判が下降の一途を辿ってしまう。それは避けたいので、間違っても自問自答の答えの部分は心の中に留めておく。
イエスと答えた理由だが、そんなのは明白だ。なぜなら、僕みたいな何の取り柄もないような人間の命を対価に世界を救えるのなら、それは世界にとって大きなプラスになることはほぼ確実だからだ。僕がいなくなったところで、大したマイナスはないだろう。むしろ僕がいることで生まれていたマイナスを帳消しにすることができるかもしれない。僕の存在がマイナスだというのは考えたくないのだけれど。
しかし、いざそのときになって命を差し出せと言われたときに「はいそうですか」と言って差し出すかと聞かれれば、首を横に振らざるをえない。なぜなら、僕が命を差し出したところで本当に世界が救われるかどうかなんてわからないからである。どうせ中途半端な結果になっておかしなことになるだけだろう。
そんな具合に、僕はいつも何かと理由を付けて行動を起こすことを躊躇うような臆病な人間である。何も成すことのできないまま中途半端な人生を送るのであろうことが、難なく想像できた。
だからといって立ち止まってはいけない。いまは行動を起こさなければいけないのだ。
父が僕に託した願いを、叶えてあげるために。
動くと決めた僕は、まずネット検索を利用することから始めた。
家には一台しかパソコンがないので、亡き父のパソコンを使わせて頂く。幸い死ぬ前にロックを解いてくれていたらしく、すんなりとログオンすることができた。
さっそくインターネットを利用させて貰おうと、そのタブをクリックする。
……動かない。どうやらフリーズしたらしい。そういえば、起動が完全に終わってない段階で操作をするとフリーズすることがあるのだったか。
失敗した。仕方がない。一度電源を落としてから再起動してみよう。文章作成中じゃなくて良かった。いままで書いてきたデータがすべて消えるというのは、どうにもやるせない気持ちになるものだ。
父は僕がこう動くと予期していたのだろうか。元々僕と同じように頭だけは働いていた人だから、あながち否と断言できないのが難しいところだ。
だが、全てを思い通りにできると思ったら大間違いだ。なぜなら――
ガチャン!
大きな音が耳に飛び込んでくる。ほら、やっぱり思い通りじゃない。この状況は簡単に予期できたはずなんだ。その悪いところが僕に受け継がれてなければいいけれど。
音がしたのは階下から。そんなのは考えるまでもないし、確かめに行くまでもない。
しかしだからと言って何もしないと僕が怒られることになるので、様子を見に行くは見に行くが。
階段を降り、リビングの扉を開ける。いない。何かが割れたような音だったから皿を割ったのかと思ったが、どうやら違うようだ。割れるもの、その他に何かあるだろうか。
ぐるりと部屋を見渡す。窓に僕の姿が映っていた。どうにも不景気そうな顔をしている。笑えよと言いたいが、いまはそんなことをしている場合ではない。窓、そして鏡。その二つがあるのは母の部屋だ。鍵が開いているかはわからないが、とりあえず向かってみよう。
ドアノブを回す。開いた。しかし、そこには誰もいない。何かが割れた形跡もない。だとすれば、残る部屋は洗面所とバスルーム、父の部屋なわけだが、あるとしたら恐らく父の部屋だろう。いつも使っている場所でああなるとは思えない。
父の部屋の扉を開ける。そこにいたのは、呆然とした表情で手を血に染めた母親。散らばっているのは、父の大事にしていた花瓶の破片。父が亡くなってからは僕がほぼ毎日水を替えていたのだが、仕方がない。こうなることも予想できたのに見えるところに置いておいた僕にも非はある。
ペタンと力が抜けたように座り込んでいる母親が見ているものが何なのか、それはわからない。母親は父の死後度々こうなってしまう。愛する人を失うということがどれほど痛いものなのか、いまの僕にはわからない。しかし、自分が同じ状況に置かれたときに正気を保っていられるかと聞かれたら、僕は答えに詰まるだろう。人を愛したことのない僕に答えられるはずもないのだ。
母親は目線を自分の手に落とし、その顔に色が戻ってくる。まずい、と思った僕は、母親に駆け寄る。血を見ると母親はおかしくなってしまうのだ。恐らく、死んだ父の姿がフラッシュバックするのだろう。
「落ちつけ!」
僕の声に母親は肩をビクッと揺らし、ゆっくりと首をこちらに向けた。その目には涙が浮かんでいた。
ここで気の利く声の一つでも掛けてやればいいのだが、僕には残念ながらそんな頭は備わっていない。そこが父の最大の誤算だろう。僕に母を救ってやることなどできはしないのだ。
「立てる?」
僕の言葉にコクリと頷いた母親はもう自分が何をしたのかに気付いているのだろう。顔を伏せて、僕と目を合わせようとしない。それは恐らく罪の意識から来ているのだろうが、そうされると逆にこっちがやり辛い。肉親なのだから、もう少し頼ってくれてもいいというのに。
手は花瓶の破片が刺さっていて危ないと判断し、腕を持って立ち上がらせた。幸い深い傷はないようなので、手に刺さった破片を処理すればどうにかなるだろう。
玄関まで連れて行って座らせ、家の電話で先生へと連絡する。
「はい、いえ、今回はそこまでじゃないです。あ、わかりました。ありがとうございます」
先生というのは、いつもお世話になっている母親のかかりつけ医だ。救急車を一応呼んでくれるということなので、来るまでに必要なものを準備しておこう。保険証と診察券、治療にかかるであろうお金と寒くないように上着を持たせる。上着は袖を通すと危ないので羽織らせるだけだが。
今日は母親も自我を取り戻しているので、僕が同伴する必要はないだろう。
「自分で言える?」
僕がそう問うと、母親は力なく頷いた。多少不安は残るが、恐らく大丈夫だ。
「片付け……」と不安そうにこちらを見てきたが、後片付けは僕がやっておくから、と母に言い聞かせ、送り出す。
後片付けは案外早く終わった。気分転換に外でも行こうと靴を履く。パソコンを再起動していたことは、すっかり忘れていた。
2
ふらりふらりと街を歩いて気付いたことといえば、思ったよりも街の人たちは『カミサマ』という単語を口に出しているということだろうか。
やはり母が轢かれたときに思った通り、この街の人にとって死ぬということは日常茶飯事らしい。それをおかしいと思っていない人が多いというのは、どうにも頷きかねるが。
あの人が死んだ。あの人の元に盗まれたものが返ってきた。自分はもう既に十回は死んでいる。馬鹿げた話だが、そのほとんどが事実なのだろう。多少の誇張が含まれているのは否めないだろうが。
どこまで、許されるのだろうか。死ねる回数の制限の有無。修復可能な傷の範囲。盗まれた金額。疑問は尽きないが、まだ答えを出すべきではない。いまは情報を集めることに集中するのだ。答えを出すのは全てが集まってからでも遅くはない。
宛てもなく歩いていると、一際大きな建物が目についた。警察署だ。何か有用な情報はあるだろうか。そう思って考えを巡らす。そして、この街の実態、先の疑問の答えを得られるかもしれないという結論に至り、訪ねてみることにした。
警察署に入る。まずは交通事故についての情報を聞こうと思い、交通課の字を探す。どうやら二階らしいので、階段へと向かった。
「あれ? すぐるん?」
声を掛けられた。それが聞き覚えのある声だったので振り向く。ハスキーな声、僕より少しばかり高い背丈、剃り残しがあるのに似合っている顎鬚。どれを取ってみても僕の知り合い、内山隼人だった。そういえばこの人、一応警官だったか。
隼人さんは面白いものを見たと言わんばかりの表情で僕に近付いて来る。手付きが女を襲うときのそれに似ていて気に入らなかったので、嫌悪感丸出しで一歩足を引いた。
「何したんだ、すぐるん? ついに犯罪に手を染めたのか? あれほど悪いことしちゃダメって教えたのに、俺は悲しいよ。ちゃんと犯した罪は償うんだぞ」
「いや、僕何もしてませんよ」
「え、じゃあ何しに来たんだよ」
まるで僕が昔から犯罪者予備軍だったとでも言いたげな言い草だ。僕はそんな考え方に問題があるような人だっただろうか。いや、そんなことはないはずだ。前に鏡を見たときもそこまで犯罪者面ではなかったし、一体この人はどこで僕を判断しているのだろう。
でも、いまは気兼ねなく話が出来るような人がいてよかったと喜ぶべきだろう。いま時間はあるかと尋ねると、「すぐるんという面倒なお客様の対応をしなければいけないので忙しい」と言われたので邪魔するのも悪いと思って帰ろうとしたら全力で引き留められた。不思議なことだ。一つ仕事を減らしてあげようとしたのに。
「で、本当に何しに来たんだよ。早く吐いた方が楽になれるぜ? ほら、ほらほら」
「だから何もしてませんってば。僕はちょっと知りたいことがあって来たんですよ」
「何だ? 内容によっては教えてやらねえこともないぞ」
「この街で起こった死亡事故とか、死者が出た事件がどのくらいあるか知りたいんです」
僕がそう言うと隼人さんはあからさまに嫌そうな表情をした。いや、どちらかといえば怪訝そうな表情だ。当然の反応だと思う。目的もわからず、ただその情報だけを欲しいと言われても、納得などできるはずもない。
僕が口を開こうとしたとき、ふっと隼人さんの顔に笑みが戻る。
「まあ、すぐるんが何か事件を起こしたりするとは思ってねぇよ。そんな度胸もないだろうしな」
反論できないのが痛いところだ。僕には人殺し何かする勇気なんかない。いや、事件は殺人に限ったことではないとは思うけど、ともかく僕は事件を起こしてまで何かを為そうだなんて思わないだろう。
そうだとわかっていても、度胸がないなんて言われて不満を持たないほど僕も大人ではない。口にこそしないが表情に出ていたのだろう、隼人さんに指摘されてしまった。
「はっはっはっ。この程度で心を乱しているんじゃあこの世の中やってらんないぞ」
それを朗らかな顔で言うのだから、隼人さんも人が悪い。僕も物事を冷静に考えられると自負はしているのだ。ただ考えていることが顔に出てしまうだけで。それをどうにかしないと社会に出たときに苦労することになりそうだが。
隼人さんはその朗らかな顔から表情を一転させ、見定めるかのような眼でこちらを見た。
その眼光にあてられ、若干身を引いてしまう。それがいけなかったのだろう。隼人さんは一歩距離を詰めて訊いてきた。
「何かやましいことでもあるのか? 実際、その情報を何に使う気なんだ? それによっては情報を渡すことはできねぇよ。あと、お前の嘘は見抜きやすいからな、嘘が通じるだなんて思うなよ」
その声も眼差しも真剣そのもの。ここで逃げようものなら余計に怪しまれてしまうだろう。かと言って、本当のことを言っても信じてもらえるかどうかは未知数だ。いや、信じて貰えないと考える方が妥当だろう。逃げる? 足の遅い僕では追いつかれて組み伏せられるのが関の山だ。じゃあ正直に『カミサマ』について調べてるって言うか? ダメだ。隼人さんが『カミサマ』だったら理由を付けて情報提供を拒まれるかもしれない。
真意を隠したまま、事実と虚偽を織り交ぜる。虚偽といっても本心じゃないだけ。それでも疑われるかもしれない。だけど僕の足りない頭で考えられるのはそれぐらいだった。
そうして話す内容を考えに考えた末、僕は言った。
「父が死んだんです。旅行先で。交通事故でした」
それを聞いた瞬間、隼人さんの目が開かれた。どうやら知らなかったらしい。しかし、表情をすぐに戻した。さすがはプロと褒めればいいのか薄情者とけなせばいいのか判断がつかないが、いまはひとまず話を続けることにする。
「父を轢いた人はすぐに捕まりました。そしてこの街で、葬儀が行われたんです」
いまの僕は、ちゃんと俯いているだろうか。悲しいと思っているような表情を、作ることができているだろうか。それを隠そうとする素振りを、見せることができているだろうか。
鏡がないここでそれを確認する術はない。隼人さんの反応を見れば少しはわかるかもしれないが、それをするのは自ら嘘を吐いていると言っているのと同じ。いまは騙り抜くしかないのだ。
「その葬儀の後、母が車に撥ねられました。結構な距離を飛んでいたし、血も相当な量が出ていて、死んだと、そう思いました」
僕は顔を上げた。真っ直ぐに隼人さんを見つめる。この情報は知っていたのだろう。その表情に先程のような動揺は見られない。僕は続けた。
「でも、違った。母は死んでなどいなかった」
「それは――」
「わかっています。母は死んでいないのではなく、生き返ったんです。目を疑いました。おかしな方向に曲がった腕も、叩き付けられてできたであろう顔の傷も、その全てが綺麗さっぱりなくなっていたんです。
僕は『カミサマ』なんていうものを信じていません。でも、その存在を認めなくてはいけないような事象を目の当たりにさせられた」
隼人さんは何も言わなかった。いや、何を言っていいのかわからないというのが妥当かもしれない。
ここまでは完全な事実。ここからは真意を隠しつつ、どうにか理由を繕わなくてはいけない。そこに少しでも嘘が混じれば全てを否定される可能性がある以上、言葉は選ぶべきだ。しかし、あまりにも考えるのに時間を掛けすぎるのは怪しまれてしまうので好ましくない。
疑いの余地を生まない程度の最小限の時間の中で理由を紡ぎ出す。そんなことを考えるのは僕の頭にはひどく荷が重いような気もするが、代わりに考えてくれるような人などいないのだ。
考えろ。考えて、考えて、考えるんだ。
「隼人さんは、いまのこの街をどう思いますか?」
僕がそう問うと、隼人さんは少し思案顔になった後、ちらりと一度僕の顔色を伺ってから、言った。
「正直、俺はこの街はこれでいいと思ってる」
「どうして?」
「あんまり理由とかはねぇよ。ただ、なんとなくいまのこの街は、誰かの強い思いが込められていまの状態になってる気がするんだよ」
僕は隼人さんの言葉に黙った。言葉を失ったわけではない。考えていたのだ。
この街に強い思いが込められている。それが仮に本当だとしたら、一体誰の思いだというのだろう。やはり、『カミサマ』のだろうか。しかし、まだ『カミサマ』がどういうものかすらわかっていない状況で、そう判断するのはあまりにも早計すぎるだろう。人なのか、それとも妖怪じみた何かなのか、そもそも意思があるのかすら判然としていないというのに、一体どうしろというのか。
しかしなぜか、僕にはその思いを込めたのは『カミサマ』ではないという確信があった。隼人さんの言葉を借りなくとも、理由などない。なんとなくだ。それでも不思議と、その思いを込めた人物は僕に少し似ている気がした。
隼人さんに気付かれないように、一つため息を吐く。気合を入れ直して、言葉を続けた。
「僕はこの街を変えるべきだと思います。事故にしろ殺されたにしろ、死んだ人はちゃんと死ぬべきだ。と、そう思うんです」
隼人さんの顔色が変わった。少し強張っているように思える。素直に話すという選択を選んだのは、失策だっただろうか。いや、そんなことはないはずだ。相手が他の人だったのならば話は別だろうが、隼人さんに限ってはそんなことはないはずだ。
無言の時間が過ぎる。隼人さんは何も言おうとしない。
足りないのなら、もう一押しするまで。
「僕はいまのこの街の現状が知りたい。だから、事件や事故で人が死んだことがどれくらいあるのかを知りたいんです。どうか、教えてください」
筋は通っているはずだ。これでダメだと言われたら、仕方がないと諦めるしかない。
僕は隼人さんに懇願するような眼を向けた。
隼人さんは僕に品定めするような眼を向けた。
ここで引くわけにはいかない。ここで引いてしまったら負けなのだ。そう思ってじっと、隼人さんの瞳の奥を見つめた。
それは三十秒も経っていない短い時間だったのだろう。しかし僕には二十分、いやもっと経っているんじゃないかと錯覚する程度には長い時間に感じられた。
先に目を逸らしたのは、隼人さんの方だった。
「やめだやめ。野郎二人で見つめあっても気持ち悪いだけだからな。あと、お前の欲しい情報はたぶん全部ホームページに載ってるぞ」
じゃあそれを先に言ってくれればいいのに。と声に出そうになる言葉をなんとか飲み込んで、ちょっと困り顔を作ってみる。
それに釣られたのか隼人さんも笑みを見せ、僕に言った。
「だがまあ、一応俺の口から言ってやる。ゼロだ」
それがなにを意味するのか考えて、気付く。
ゼロ、ということはやはり、死亡事故や死者の出る事件は起こっていないのか。
予想はしていたから驚きこそしないものの、これは大きな進歩だと言える。
そう思っていた僕の耳に、寝耳に水な情報が入り込んで来る。
「ついでに言うと、この街での犯罪行為は一切成立しない」
犯罪行為が成立しない? 死人が生き返るだけじゃなく、そもそも犯罪行為自体が成立しないのか。それならば、先程街で聞いた盗まれたものが戻ってくるということも頷ける。
だとするならば、『カミサマ』はこの街の犯罪行為をなかったことにしている、と考えられる。
考え込む僕を無視して、隼人さんは続けた。
「実を言うとだな、この街での犯罪発生件数は他の県とかと比べてみても群を抜いて多いんだ。さっきのを正確に言うと、事件や事故が起こってもその被害のない状態に戻るってことだ。
お前がさっき言ってた通り、これには『カミサマ』とかいう都市伝説が関わっているっていう噂だが、実際のところはどうかわかんねぇよ。俺らの仕事は別に減ってねぇし、むしろ事件をどう扱うに困ってんだ。迷惑なことだよ、ったく。このままでいいと思うとは言ったが、『カミサマ』がいるのなら、ぶん殴ってやりたいね。こんな街にしやがって、ってな」
そのあまりの言い草に、思わず笑いが零れてしまう。それを見た隼人さんは、僕に「笑うなよ」と言ってきた。
そういえば、隼人さんの話の中で少し気になる点があった気がする。『カミサマ』を都市伝説だと言っていたような。
「隼人さん、『カミサマ』は都市伝説なんですか?」
「ん? ああ、そうだったはずだ」
なるほど、『カミサマ』は都市伝説なのか。一体どんなものなのだろう。
「隼人さんは何か『カミサマ』について知っていることはありますか?」
「いや、正直俺も全然知らねぇんだよ。知ってることといえば、文字にして書いたときにかぎかっこつけてカタカナで『カミサマ』だっていうことぐらいだな」
かぎかっこにカタカナ、か。文献やネットで調べやすくなるからありがたい。
一体『カミサマ』はどんな存在なのだろうか。僕にその正体が暴けるのだろうか。わからない。だが、やるしかない。そして、止めるんだ。何がなんでも。
「この街がこの状態になったのは、いつからかわかりますか?」
「いつだったかな。確か俺が高校にいたときのはずだ。二十年前ぐらいじゃないか?」
二十年前。それがわかるだけでも、大きな進歩だ。気分転換にと外に出てきてみたが、想像以上の成果だ。
また何か困ったことがあれば、隼人さんに相談させて貰うことにしよう。
礼を言って警察署を後にしようとしたとき、後ろから呼び止められた。
「待ってくれ。思い出した。一件だけだが、三月の半ばぐらいだったか、交通事故で一人死んでる。確かその日だけ、何でも事件が起こってたはずだ」
目を瞬く。とんでもない情報だった。
都市伝説。それならばネット上に少しぐらい情報があってもいいだろう。通信速度制限にイライラとしながらも、スマートフォンを操る。
………………。
これは一体どういうことだろう。こんなことがあり得るのだろうか。
一つ街を作り変えてしまうぐらいの都市伝説のはずなのに、どうしてどこにも情報がないのだろう。
わからない。わからないことだらけだ。
それでも諦めようとは思わない。この街を、この狂った世界を正さなければいけないから。『カミサマ』の正体を暴き、止める。
そのためならば、何を失ったとしても構わない。落ちこぼれの僕の命一つで世界を変えられるのなら、喜んでこの命を差し出そう。そのためなら、僕は悪魔にだって命を売れる。
全く馬鹿げた話だと思う。この街の現状も、『カミサマ』という存在も、僕がやろうとしていることすらも。
僕は自身のお気に入りの場所で、そんなことを考えていた。
気分が暗くなったとき、悩み事があるとき、僕はいつもここに来た。そして、いつも父が僕を探しに来た。ここで父と話したことはほぼ全て覚えている。
山あり谷ありのこの街で、この場所は街の大部分を見下ろすことができた。特に夜なんかは綺麗で、その雄大さと共に悩みを吹き飛ばしてくれる。自然に囲まれたこの場所はいつもおいしくて、僕の心を和ませてくれる。
僕が涙を流すのは、いつも決まってこの場所で、父の前だ。
だが、もう父はいない。この場所に父は来ない。僕の涙を受け止めてくれる人はもういないのだ。
だから、僕も泣くわけにはいかない。僕が死んで、父の前に行って初めて、僕は泣く。大声を上げて、子供のように。
僕のことを認めてほしいなんて思わない。僕のやることの正しさを認めさせようだなんて思わない。
それをやっていいのは、この場所に僕を探しに来たあの人だけだ。
「父さん。僕は、父さんが誇れる僕になるよ」
言葉にして、意思を固める。
深呼吸をした。新鮮な空気が肺に取り込まれて、頭に酸素が行き渡る。
考えろ。相手の手を読んで、一手一手詰めていくんだ。どうやって『カミサマ』を崩していくのか。
まだ、情報が足りない。だけどまだ、動き始めたばかりだ。
見ていろ、『カミサマ』。僕はお前を一手ずつ確実に、詰めていく。
3、
やっとのことで『カミサマ』について書いてあるサイトを見つけた僕は、すぐに友人であるうっつーに連絡を取っていた。
呼び出し音が鳴り響く中、僕はサイトをぐるりと見回し、情報を頭に叩き込む。
《もしもし?》
「もしもし。僕だよ」
《新手の詐欺か?》
「いやいや、僕だってば」
いつものようにくだらない問答から始まったことに若干安堵しつつ、話を切り出す。
「うっつーは最近何か面白いことあった?」
それはいつかの父の言葉。僕が言うのもどこかおかしいような気がしたが、とりあえず返事を待った。
十秒ぐらいの沈黙の後、返ってきたのは辛辣なセリフだった。
《お前、頭でも打ったのか?》
失礼な、とは思ったが口には出さない。相手の機嫌を損ねたら聞きたいことも聞けないまま電話を切られてしまう可能性だってあるのだ。
しかし一応心の中で反論をしておくとしよう。頭など打っていない、僕は元からこんな人間だ、と。
《一応言っとくが、心の声もれてるぞ》
「まあいいや。うっつーは何か『カミサマ』について知っていることはない?」
《なんだ? 『カミサマ』について調べてんのか?》
「ん、まあね」
さすがうっつーである。僕の考えることなどお見通しというわけか。先程心の声がもれているというハッタリをかまされたが、そこは華麗に無視しておこう。
さて、うっつーは何か知っていることがあるのだろうか。正直あまり期待してはいないのだが、少しでも情報は多い方がいいはずだ。アドバイスをもらうのは後にして、いまはうっつーの情報を聞き逃さないようにしよう。
《いや、本当に声もれてるからな? 気をつけねぇと大変なことになるぞ。あと『カミサマ』については知らねぇよ。都市伝説の類だったっけか》
「そっかぁ。うっつーは何も知らないかぁ。残念だなぁ」
《嘘つけ。さっき「正直あんまり期待してない」とか言ってただろうが》
なぜ僕の考えていることがうっつーに筒抜けなんだろう。その理由はわからないが、いまはとりあえず相談だ。
『カミサマ』について記載のあるサイトを見つけた。しかし、そこには『カミサマ』という名前が載っているだけで、その他の情報が一切載っていないのだ。これは一体どういうことだろうか。
それをうっつーに聞いてみようと思っていたのだ。
「どう思う?」
そう問われたうっつーは、「んー」という唸り声を上げながら考え込んでいるようだった。受話器越しでは顔が見えないから何を考えているかがわかり辛い。
僕も何か情報を得る方法はないかと頭を巡らす。
やがて考えがまとまったのか、ずっと聞こえていた唸り声が鳴りを潜めた。
《お前、問い合わせとかしてみたか? 個人でやってるサイトでも、一応はあるんじゃねぇの?》
問い合わせ、か。思いつきもしなかった。確かに考えてみれば、問い合わせをしたらもう少し情報を落としてくれるかもしれない。
ナイスアイディアである。うっつーに感謝の言葉を述べて電話を切ろうとすると、うっつーの方が「ちょっと待った」とそれを引きとめた。
うっつーも何か僕に用があったのだろうか。そう思って尋ねてみる。
「何かあるの?」
《一応な。結構忙しくて掛ける時間がなかったから、そっちから掛けてきてくれて助かった。俺の姉のこと、覚えてるか?》
「ああ、あの小さい人」
《小さい人って言うな。で、その姉なんだが、この度結婚することになってだな》
へぇー。良かったね。おめでとうございます、と素直に賛辞を述べさせてもらおう。それで、それがどうしたというのだろう。
祝電ぐらいなら送るし、金を出せって言うなら出すけども。一体僕に何をやらせようって言うんだろうか。裸踊りをしろとか言われたらさすがに怒るよ。
僕がそれをやんわりと伝えると、うっつーは呆れたように言ってきた。
《一応言っとくが、やんわりと言ってねーぞ。そのままド直球だったじゃねーか。ってか、マジで心の声もれてるから気ぃつけろ》
了解。次からはちゃんと口を塞いでおこう。そうすればきっとだれにも心の内を読まれることはないはずだ。
《ああ、そうかもな。でだ、お前、結婚式来る気あるか?》
「へ?」
間抜けな声が出てしまう。本気で驚いたのだ。まさか、一度や二度じゃないとはいえ、そこまで大量に顔を合わせたわけではない人の結婚式に誘われるだなんて、夢にも見ていなかったという言葉すら出てこないぐらいには想像だにしていなかったというのに。
しかし、本当に僕が行っていいのだろうか。みすぼらしい服を着た男子高校生が一匹混じるだけで、華やかさにはかなりの違いが出てきますぜ?
《何だよそのへんてこな口調は。いいんだよ。うちの姉がさ、お前のこと結構気に入ってるみたいでな。ぜひとも来てほしいんだと。服がないならこっちで貸すとまで言ってる》
それは魅力的な提案だ。どうしよう。予定なんてほとんどないようなものだから、大会とさえ被らなければたぶん大丈夫だと思う。
別に僕はうっつーのお姉さんのことを嫌いだとか思っているわけではないから、結婚式に出席することに何も不満はない。
「ちなみに、結婚式はいつ行われる予定なの?」
《確か来月の第一土曜日、先勝の日だって言ってたな》
「え、結構早いね」
《お前に招待状送るかどうかを迷ってただけだ。だからこうして電話で聞いてる》
「それって礼儀としてどうなの?」
《内心を垂れ流してるお前の言えたことじゃねぇ》
仰るとおりです。はい。
ええっと、来月の第一土曜日って言うと、二月六日か。うん、確かその日は空いていたはず。
折角だしうっつーのお姉さんの晴れ舞台に立ち会わせて貰おうかな。
「わかったー。行こうかな」
僕がそう答えると、うっつーはまたまた電話越しに聞こえるぐらいはっきりとため息をついた。でも、これは呆れじゃなくて、安堵のため息だ。なんとなくだが、それは理解できた。
《了解。そう遠くない未来にお前の家に招待状が届くはずだ。覚悟しておけ》
「何で変な言い方してるの?」
《うっせー。放っとけ》
そのままうっつーが雑に電話を切った。特にそれ以上話すこともなかったので、文句などは出ない。
さて、うっつーに折角教えて貰ったのだし、問い合わせといこうか。
サイトに目を落とし、問い合わせの文字とフォームを探すが、見当たらない。またうっつーに尋ねてみようかと思って携帯に手を伸ばしかけたが、何とか踏みとどまった。
たまには自力でやってみるのも悪くないと思ったからだ。
大体、問い合わせができないサイトというのはどういう了見なのだろう。一体どうやって閲覧者の疑問に答えるつもりなのか。僕にはその答えがわからないし考えると迷宮入りしそうなので深く考えるのはやめておく。
ひとまずそのサイトのトップページに飛んでみることにする。
すると突然、画面が暗転した。
「あれ?」
何事かと思ったのも束の間、突然髪の長い女の人の顔がどアップで出てきた。
なんだなんだ、ついにこのパソコン壊れたか? 残念だ。まだ買って一年も経っていないし、結構高かったというのに。高いのはデスクトップパソコンだからということもあるのだが。まあ、お金を出したのは僕ではないけれど。
そんなことを考えていたのだが、どうやら杞憂だったようだ。
思わず身を引いてしまうような怖い女の人はただの演出だったようで、いまはちゃんとトップページらしく各ページの紹介や管理人の紹介などが為されている。
どれどれ、とそのページを見て、そこにも問い合わせのページがなかったので、管理人のページへと飛んだ。
目立つところには問い合わせできるような旨は書いていない。なので、管理人の自己紹介の文をちまちまと読み進めていく。
すると、その四分の三ぐらいしたところに、やっと「気になることがあったらこのアドレスにメールしてくださいね~」と言う文言を見つけ、ひと安心する。
そのアドレスがフリーメールのアドレスだったこともあり、連絡にフリーメールを使うという案はすぐに思いついた。
しかし、ここまでしないと問い合わせができないというのはどうなのだろうか。もう少し閲覧者に対して優しくしてくれればいいのに。
そう文句を垂れながら、手早くなくとも新しいフリーメールアドレスを作って、書いてあったアドレスへとメールを作る。
さて、何を書こうか。シンプルに『カミサマ』というのはどんな都市伝説なのか聞けばいいのだろうか。
文章に落として、うん、悪くないと頷く。
《はじめまして。
突然のメール申し訳ございません。まるるん(仮名)と申します。
質問なのですが、「都市伝説」のページにあった『カミサマ』とは、具体的にはどんなものなのでしょうか。
差し支えなければ教えていただけると嬉しいです。お返事待ってます》
こんなのでいいだろうか。問い合わせのやり方がわからなくてかなり雑なのだが、単刀直入に聞いた方がわかりやすいだろう。
五分ぐらいメールを見直して、「まるるん(仮名)と申します。」の文を消して、最後に「まるるん」と自分のハンドルネームを置くことにした。
なぜ「まるるん」なのかとい言えば、単純に僕の苗字に丸の字が入っているからで、ちょっとだけふわふわっとした感じにしようとした結果、「まるるん」になったのだ。
メールを送信し、とりあえずはひと段落。メールの返信は待つとして、なにをしようか。
最近サボりがちだった塾に行くのもいいかもしれない。
そう思った僕はすぐに荷物の準備をした。そこに、僕の携帯電話から展覧会の絵のメロディが鳴り響く。音量設定を間違えたのか、馬鹿みたいに大きな音だが。近所迷惑もいいところなので、ちゃんと後で設定を変えておかなければ。
電話に出ると、病院の先生からだった。まとめると、母親を迎えに来いということだった。その声音から、僕の見立て通り重傷ではなかったようだ。まあ、僕の見立てなんて素人もいいところだから、ちゃんと先生に診てもらった方がいいに決まっているのだが。
病院があるのは歩いて行くには辛い距離なので、いつものようにいつもの如くタクシーを呼ぶ。
父が警官だったこともあり、貯金は結構あったため、そこまで贅沢をしなければ充分に暮らしていける金はあった。母のおかげで大分すり減ってはきているが、僕が働き始めるぐらいまではなんとかなってくれると思っている。
手元の金を見る。明らかにタクシー代には足りない。
僕は一つ溜息を吐くと、大急ぎで最寄りの銀行まで走り、タクシーに飛び乗った。
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この街で犯罪が成立しなくなったのが二十年前。それが『カミサマ』と関係しているというのならば、二十年前に少しでも『カミサマ』の話題が出ているはずだ。
そう思って通信速度制限と戦いながら調べ続けて、やっと見つけた『カミサマ』が話題に上がっているチャットルームでは、『カミサマ』についてのログが一切残されていなかった。
僕はそのことについて気になって問い合わせたのだが、返ってきた返事は「わからない」。
何でもある日突然、『カミサマ』に関する全ての情報が、ネットの世界から消えてしまったのだという。書き込んでみてもすぐに消えてしまうし、コピーして文書として保存しておいたデータすらも、その日を境にただの白紙に。
それによって一時は『カミサマ』の怪奇現象として話題になったそうだが、そのデータすらも消えてしまったという。
となると、僕がここのチャットルームを見つけることができたのは、運が良かったということになる。たまたま『カミサマ』が都市伝説の一例として上がっただけだったからだ。僕が来たときにはもう既にそのメッセージは消えてしまっていたし。
どういうことなのか、よくわからない。
恐らく、これも『カミサマ』の力の一部なのだろう。この街だけでなく、インターネットという莫大な量のデータすらも捻じ曲げてしまうという化け物っぷりとは、見せつけてくれる。一体、僕は何を相手に戦っているのだろうか。
しかしこうなると、本当に手がかりがない。手探りでやっていくしかない。
僕はそこのチャットルームの管理人さんに誰かがログを持っていないか聞いてみてほしいとお願いして、いつも使っているダミーのメールアドレスを教えた。
スマートフォンを机に放り、ベッドへと頭からダイブする。
考えれば考えるほど、どうにかなる気がしない。恐らく一人でやれるのはこのぐらいまでだろう。僕一人で全てを片付けるのには、重すぎて、大きすぎる。
僕には仲間が必要だ。信用できて、一生懸命動いてくれる仲間。
そう考えたときに、思い浮かぶのはやはりうっつー。うっつーならばきっと、動いてくれる。口ではさも悪い奴ぶっているが、性根は良すぎる善人。悪人になろうとして、なりきれなかった善人だ。
対して僕は偽善者。正義を振りかざし、周りの人間を傷つける。僕を指さして善人だと言うやつもいるが、そいつはきっと僕のことなんか何にもわかっちゃいないのだ。というか、誰も救えていないのならば僕は偽善者ですらなく、ただの悪人だ。
皮肉なことだ。悪人になろうとした者が善人になり、善人になれないとわかっていて偽善者になろうとしたものが悪人になる。
本当に世界は理不尽で、そして、滑稽だ。この街は、そんな世界の縮図なのだろう。
だから、僕はこの街を変えてやりたい。いや、変えなければならないのだ。
父が誇れる僕になるために、まずは一つ、友人の手を借りるとしよう。
「というわけで来ました、のどか先生」
「どう言うわけだ」
一蹴されてしまう。のどか先生には何も話していないので、当然といえば当然だ。友人に頼ると言って塾の講師のところに来ている以上、おかしいことを言っているのはわかっているのだが。
それでも、僕はこの先生のことを信じたいと思う。圧倒的なまでに善人で、それでもまだ善人になろうとしている、善人になるべくして善人になった、三島のどかという一人の人間を。
「手伝ってほしいことがあるんです」
「それは中身によるが、一つ言わせてくれ」
ビンタでも飛んでくるのだろうか。まあ二週間も塾を休んでいればそうなるだろう。弁解をさせて貰うと、連絡は入れていたのだ、最初の一週間は。
後の一週間はというと、無断欠席ですごめんなさい。調べ物をしていました。勉強そっちのけで隣町の馬鹿げた現象について考えてました。これから頑張るから許して下さい。
そう脳内で言い訳ばかり考える僕に襲いかかったのはビンタではなく、抱擁だった。
「大丈夫だったか?」
一瞬、頭が混乱する。しかし、すぐに当たりがついた。父のことだ。恐らく、母があることないことを吹き込みながら連絡したから、のどか先生は僕がその罵詈雑言の嵐に耐えかねているんじゃないかと心配してくれていたのだろう。
……本当に僕は馬鹿だ。どうしてもっと早くこの善人のところに来なかったのだろう。元気な顔を見せて安心させてあげればよかったというのに。
若干抱きしめる力が強く、痛いと思いながらもそれを口に出すことはなかった。それはいま言うべきことではないはずだ。
ならばいま言うべきなのは「大丈夫」の一言だ。
「大丈夫ですよ。通夜と葬式で親族たちから散々言われて、もう慣れちゃってますから」
全然大丈夫じゃないと、自分で言った後に気付く。
当然のどか先生は深読みして、さらに抱きしめる力が増す。そしてその豊満な胸部が僕に押し付けられていた。全く気が散ってしょうがない。
「のどか先生、当たってます」
「知ってる」
知ってるならとっと話してくれませんかね。そう思ったが口にはしない。
やっぱり言った。
それを聞くとのどか先生はムッとしたような様子で一層強く押し付けてくる。
「何がしたいんですか。ここ入り口なんで邪魔になりますよ」
「ここは面談室だ。問題ない」
「『○○塾の講師が生徒を面談室に連れ込み、抱きしめるなどして関係を迫った』ってニュースになりますよ」
「事実誤認だ。関係を迫ってなどいない。あと、大人をからかうんじゃない」
頭をチョップされた。痛い。暴力反対。体罰ダメ、絶対。
それを口に出すと、もう一発貰うという悲劇を生んだ。
「で、何の用だ。この馬鹿」
「ほう、この僕をバカ呼ばわりと?」
ちょっと挑発するような口調で言ってみる。
のどか先生は呆れたような溜息を吐き、腕を組みながら言った。
「へぇ、中学校の成績はオール五ぐらいあったのに、高校に入って一年の内申はほぼオール三で二がちらほら、二年に上がってからは三すらも消え失せてお情けで二をもらうような落ちこぼれが馬鹿でないとでも?」
「うっ」
「おまけに塾に入ったときは一番上のクラスにいたはずなのに、ずるずると落ちていまや下から二番目のクラスに所属しているやつが馬鹿じゃない?」
「ぐっ」
「さらには底辺校に入って真面目に勉強してるやつらと同じ模試を受けて、塾の平均点を下げる要因になっているやつが、まさか自分のことを馬鹿じゃないと思っていると? そう言いたいのか?」
「すみませんでした。僕が悪かったです」
僕の落ちこぼれっぷりを散々言葉の暴力で諭されたところで、別件の用事を思い出した。
これについては本当に伝えるのが忍びない。
「のどか先生。僕、先生に言わなきゃいけないことがあります」
「何だ? 愛の告白か?」
そんなわけないでしょう。とは言わない。突っ込むとさらにボケる気がしたから。
「僕、この塾やめるかもしれないです」
「えぇええええぇ!」と大袈裟な反応をしてくれるかと思いきや、実際は目を丸くするだけ。
予想よりもあっさりとした反応に、逆にこっちが驚いてしまう。それでもやはり驚いてはいたのか、僕の視線に気付いて我を取り戻したような様子を見せた。のどか先生が絞り出すように零したのは、たった一言。
「……そうか」
かなり残念そうな顔をしているが、その心中は読めない。僕にはそんな技術も共感できるような善人の心も持ち合わせていない。
「ちなみに、その理由を聞いていいか?」
のどか先生は僕より頭一つ分ぐらい小さいから、俯かれてしまうとその表情を見えなくなる。
だから僕ができるのは想像を働かせて最良の言葉を探すことだ。
「本当のことを言ってくれ!」
びくっと自分の体が揺れたのがわかった。僕は音に弱いのだ。突然の大きな音とか大声とか、そう言うのは苦手だ。体が勝手に跳ねてしまう。のどか先生のこんな怒声を聞くのは初めてで、体が過剰に反応してしまったようだ。
そんな僕の様子を見て、のどか先生は僕のことを心配してくれた。
「あ、いや、別に怖がらせようとしたわけじゃ……」
「大丈夫です。音に弱いだけなんで」
そう言って笑ってみせる。ちゃんとフォローできただろうか。
のどか先生は優しい。優しいが故に厳しいことを言うこともある。
「おまえのそういうとこ、良くないぞ」
「…………」
「そうやって人の機嫌ばかり気にして、人に気持ちのいい言葉ばかり聞かせて。確かにそれをやってもらえると、こっちの心は楽になるよ。けど、そればっかりで、それ以外のことを考えられないのは、自分の思うままに生きれないのは、やっぱり悲しいことだと思う。おまえはそれで、本当にいいのか?」
「……………………」
なにも言い返せなかった。わかっていたことだから。僕の人生はいつだって僕を中心に回ってなどいなかった。他人に頭を下げ、機嫌を取り、情けをかけて貰ってどうにかこうにか生き残る。それが僕のスタイルだった。
それをいま、生れて初めて否定された。そこに怒りはなく、ただ受け止めることしかできない。それがのどか先生の言葉だからということもあるだろう。でも僕はきっと、この生き方を否定してもらいたかったのだろう。だって、いまの僕の心はこんなにも安らかだから。
きっと、僕の性質に気付いている人は大勢いる。でも、それを僕に言おうとした人はいなかった。だから、のどか先生はすごいのだ。どこまでも善人の道を歩けるのだろう。
全てを飲み込んだ上で、僕は言う。
「僕は――父さんのために生きるから」
のどか先生がまた目を丸くした。
僕はいま、どんな顔をしているのだろう。たぶん、今までに見たこともないぐらい、穏やかな顔をしているのだろうと思う。
のどか先生はふっと笑って、言った。
「馬鹿じゃねぇの?」
自分でもそう思う。でもなぜか僕の生き方はこれでいいのだと、ほんの少しだけ認められた気がした。
久しぶりののどか先生の授業はいつも通り面白可笑しくて、笑ってしまった。
のっちゃん先生と皆から呼ばれるその姿は、どこまでも頼もしく見えた。
そして待っているのは、再びの面談室である。
「そういえば、のどか先生はどうしてのっちゃん先生って呼ばれてるんですか?」
「ん? 高校のときに部活でそう呼ばれてたんだよ」
なるほど、そういうことか。確かに呼び名が同じだと言われる方も楽だろう。
「のどか先生は何の部活に入っていたんですか?」
「囲碁だ」
へぇ~、囲碁かぁと感嘆する。そんな渋いことをやっていた人には見えないからだ。もっと教室の中心で皆とワイワイやっているタイプの人間かと思っていたが、どうやら違うらしい。
僕がそんなことを考えていると、のどか先生は言った。
「さっきの続きだ。なんだかんだで結局聞いてねぇぞ、お前がやめる理由。先に言っとくがお前の嘘は秒でばれるから、ちゃんとホントのこと言えよ」
突然の話題の振り戻しに頭が置いて行かれそうになって、手動で直す。五時間も前の記憶を手で引っ張って強制的に思い出させる。
僕の嘘はそんなにばれやすいのか、そして、僕は嘘つきだと思われているんじゃないか。二つの疑問が浮かび上がっては消え、浮かび上がっては消えを繰り返す。なぜなら、すぐに答えは出るから。僕の嘘はばれやすいか。イエス。僕は嘘つきだと思われているのか。思われている以前に僕は嘘吐きだ。イエス。でも心の中のどこかにそれを認めたくない自分がいて、永遠のループに僕を誘おうとする。
「勝手に自問自答して馬鹿なことやってんな」
頭にチョップが入って、思考が強制終了される。痛い。恨みがましくみつつ、気になっていたことを口にする。
「そういえば、母はどんなことを言っていましたか? 僕について」
それを聞くと、のどか先生は何でそんなことを聞くんだと言わんばかりに首を傾げ、こちらを不思議そうな表情で見てきた。
「いや、ただ単に気になっただけですよ。あの母が僕のことをどんなふうに伝えてるのか」
のどか先生は言った。
「ああ、一言で言うとね。モンスターペアレントぽかった」
「え?」
「なんかね。ここの塾に対するクレームじゃなくて、ホントにただお前の悪口しか言わねえの。あいつのせいで、あいつのせいで、みたいな感じ。そんなに鬱憤が溜まってるならどっかで吐き出しちゃいな、って言ったんだけど、止まんなくてさ。一時間ぐらいずぅっとお前の悪口聞かされてね。気が狂うかと思ったよ。ホントに大丈夫だったか?」
「ええ。ホントに慣れちゃったんで」
「それもそれでどうかと思うけどな。それにしても凄いのよ。一時間喋ってたら一個ぐらい同じこと言うと思うだろ? それが全部違うんだよ。あれだけ並べ立てれる頭があるのはすごいと思ったね。何でこんな馬鹿息子ができたんだか」
はいはい。バカ息子で悪かったですね。でも母みたいに性格が悪いよりかはまだましだと思いますけど。
「まあでも最後の十分ぐらいはただただお前を褒め称えてたな。まるで宝物みたいな口ぶりだったぞ。子宝って言うし、ホントに宝物なのかもな」
「無いと思います」
血が繋がってませんし。
「まあまあそう言うなって」
「大体まだ結婚もしてない三十代後半の女性にそんなこと言われても」
「うるさい! わかってるよそんなの。絶賛婚活中だよ」
「誰も絶賛してませんよ」
「私がしてるんだよ! それでいいだろ!」
のどか先生が泣き出しそうになったので打ち止める。こういう場合、適度にやめないとあとあとになっても恨みがましく言われることになるのだ。
それにしても、母が僕のことを褒め称えるとは。天変地異の前触れか? いや、実際僕はこの街を変えようとしているわけだから、あながち間違っているわけでもないか。しかし、母が僕のことを宝だと、そう思っていると? そんな馬鹿なことがあるのだろうか。
「母はきっと塾の費用を出してくれません。だから、たぶん続けることはできないと思います」
「…………まじか」
のどか先生が直談判しそうな勢いで部屋を出て行こうとしたので、それを大慌てで止める。
「止めてくれるな!」
「いや、止めますよ、普通」
「普通止めないだろ。塾やめてぇのか?」
「いえ、やめたくないですよ?」
「だったら」
「だからいま行ってもダメなんですよ。一月ぐらいして、母の気持ちが落ちついてきてからじゃないと。いまのままじゃ、絶対に無理です」
「……………………わかった」
渋々とはいえ納得してくれたようだし、そろそろ帰ろうかな。もう十二時過ぎてるし、補導されちゃあ堪らない。明日はなんたって学校なのだ。
そう思っていたらがしっと腕を掴まれ、引きとめられた。
「何ですか」
「最初に言おうとしてた頼みってなんだ?」
そう言えば『カミサマ』を探すのを手伝ってもらおうとしてのどか先生に話をしたんだった。別に隠すつもりなんてないし、言ってしまおうか。
でも、さすがに変なやつだと思われるか? それはもう手遅れだろう。
「のどか先生に、『カミサマ』の力を止める手伝いをしてもらおうと……、あれ? どうしたんですか、のどか先生!」
そんなのどか先生は、初めて見た。僕でさえわかるぐらい、その表情が何かに脅えるように、だんだんと冷え切っていく。絶望がそこにあるかのように。
「…………ダメ」
その声は小さい。しかし、はっきりと聞こえた。ダメ、という強い否定。有無を言わさないような、そんな声色だった。
のどか先生の体が震えている。それに共鳴するかのように、僕の体も震えていた。
踏み込んではいけないと、脳内で警鐘が鳴り響く。しかし、聞かずにはいられなかった。
「先生は、のどか先生は、一体何を知っているんですか?」
こちらを見た先生の、その生気のない瞳を見てようやく、僕は失敗を悟る。
それは、過去のトラウマ。触れてはいけない傷。
たった一回で、たった一度だけで、たった一瞬で、それだけのことで、人を壊すのに容易に事足りるほどの致命傷。
のどか先生は、三島のどかは気を失うことで、それを免れた。
もしこのままのどか先生が目を覚まさなかったら、疑いようもなくそれは僕のせいだ。
人を一人壊してしまうほどのトラウマは、一体どれだけのことが起きれば植えつけられるのだろう。
わからない。わからない。わからないことだらけだ。僕にはどうしようもないことなのかもしれない。
でも、知るのだ。知らなければいけない。できるできないの話ではなく、やらなければならないのだ。
そうでなければ僕はもう二度と、あの恩師の前に姿を見せることはできはしない。
そう思うと自然と足はこの公園に向かっていて。
街を見下ろすこの場所で、僕は深く、唇を噛みしめる。
ここから見える夜の街は美しい。けれど、それが見えなくなることを覚悟してでも、僕は動かなければならないのだ。
唇に痛みが奔る。強く噛みすぎたようだ。舌を這わせる。血の、味がした。
矛盾点に気づいた方はそのまま読み流していただけると幸いです。後日活動報告等で解説を入れる予定なので。