ストーカーは公爵令嬢とデートする
『変態には侯爵令息がお似合いだ』のその後の話です。読まれていない方は、『ストーカーには公爵令嬢がお似合いだ』→『変態には侯爵令息がお似合いだ』の順でお読みください。
「ふ~ふん、ふふ~ん」
聞こえてきた鼻歌のあまりの可愛さに、僕は悶絶して持っていた工具を落とした。鼻歌の主は、僕ジャック・シュトラインの婚約者アルス・リーライ公爵令嬢だ。
彼女の部屋にある盗聴器の拾った音が、僕の部屋にある受信機から流れ続けている。アルスの部屋の様子を映した鏡からも、ご機嫌なアルスがよく分かった。
アルス公認の監視魔道具が設置されてから約二週間後、僕は自分でも驚く程の早さで、盗聴器を完成させてしまった。盗聴器を設置した当初は、アルスの生活音を聞くのにそれはもう夢中になった。アルスが知ったら、さすがに引くんじゃないかと思うぐらいに、自室にいる間は受信機の前に張りついていた。
夜中に聞こえるアルスの寝言はとっても可愛くて、朝まで一睡もせずに聞きたくなるほどだった。『むに~』とは何事。寝言で僕の名前を言われた時には、つい叫び声をあげてしまい両親から苦情が入った。生暖かい目で見られて、ちょっと目が覚めた。
盗聴器を設置してから三週間、今僕は程々に盗聴ストーカー生活を楽しんでいる。
アルス公認の盗聴器は、アルスの金髪とエメラルドグリーンの瞳を模して、僕が作ったクマのぬいぐるみだ。アルスの自室では、僕っぽいクマとアルスっぽいクマが、手をつなぐように並べて置かれている。
そして僕の部屋にも、アルスっぽいクマは置かれている。盗聴器と受信機がお揃いのアルスっぽいクマになっていることを、アルスは知らない。
「ねえジャック」
アルスからの呼びかけに、僕はアルスクマの頭を撫でてから返事した。
「アルス、どうかした?」
最初は単なる盗聴器だったけれど、改良を加えて僕の声も届けられるようにした。クマの頭の部分がスイッチになっていて、僕の頭を撫でたい願望が丸出しになってると思う。
「私の鼻歌も聞かれてたかしら。あぁ堪らないぞくぞくする」
アルスの変態ぶりも丸出しだ。
「私そろそろ寝るわ。おやすみなさい、ジャック。明日のデート楽しみね」
僕が盗聴器を改良して以来、アルスは毎日就寝の挨拶をしてくれる。
「僕も楽しみにしてるよ。おやすみ」
明日はアルスとのデートの日だ。僕はアルスクマの頭をもう一度撫でて、スイッチを切った。落としたままになっていた工具を拾って、中断していた作業を再開する。バラバラだったパーツをつなぎ合わせている間に、寝つきが良いアルスの寝息が聞こえてきた。
最後の金具を取り付ければ、完成だ。明日のデートに間に合ってよかった。出来上がったものを小箱に入れて、リボンを結んだ。
アルスは喜んでくれるだろうか。たぶん喜んでくれると思うけど、だんだん自信がなくなってきたかも……。
眠るアルスの姿を鏡で確認してから、不安から逃げるように僕も眠りについた。
翌日いつもより早く目が覚めた僕は、普段着ではなくお忍び用の服に着替えた。おかしいところがないか、近くにいた使用人に確認してもらう。変なところは無いとお墨付きをもらって、僕は約束の時間までをそわそわしながら過ごした。
落ち着きなく屋敷内を歩きまわる僕に、ものすごく視線が刺さる。最近は両親だけでなく、使用人たちにも生暖かい目で見られるようになった。何でなんだろう?
アルスの屋敷まで向かう時間を考慮すると、そろそろいい時間だ。昨日準備したプレゼントを忘れずポケットに入れて、僕は出発することにした。
「行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
裏口から出た僕は、リーライ公爵家の屋敷に向かった。お忍びで街に行くのだから、もちろん正面ではなく裏口の方へ。
僕が呼び鈴を鳴らすと、すぐに開いた扉からアルスが勢いよく飛び出してきた。
「ジャック! おはよう」
僕を心待ちにしていてくれたみたいで、とっても嬉しくなる。輝かんばかりの笑顔で、シックなワンピースに身を包んだアルスに、見とれずにはいられなかった。
「おはよう、アルス」
「行ってくるわね」
「行ってらっしゃいませ、アルス様」
公爵家の使用人たちに温かく見送られて、僕とアルスはデートに出発した。僕たち二人とも自分の身ぐらい自分で守れるので、今日は護衛なしの二人きりだ。
「今回の試験も貴方に負けちゃったわね。今回は勝てると思ったのだけれど」
昨日の夕方に筆記試験の結果が張り出され、アルスは僕の次の順位だった。入学以来僕とアルスは微妙に僕の方が上で、同じぐらいの成績を維持している。最近僕は自分の成績が、ぱっとしないと言うのを止めた。僕がそう言うと、アルスもぱっとしないことになってしまうと気付いたから。
「アルスの勉強時間が分かるから、それ以上勉強してるだけだよ」
「そういうことだったのね。勉強時間まで把握してくれているのは嬉しいけれど、ちょっとずるいわ」
「でも僕が手を抜くのは駄目なんだよね」
「ええ、もちろん」
二人で顔を見合わせて笑った。
「どこか見たいお店ある?」
「そうねえ、それなら本屋さんに行きたいわ」
「うん。じゃあ本屋に行こう」
王都で一番の大通りにある本屋が、最初の目的地に決まった。のんびりと歩きながら貴族の屋敷街を抜け、まずは大通りを目指した。
「本は直に見て選ぶのが良いと思うの。思がけない出会いが会ったりするでしょ。表紙が好みではなくても、開いてみたら一行目から引き込まれることもあるじゃない?」
王国内でも有数の広さを誇る店内に足を踏み入れ、アルスは本に対する持論を語り出した。
「私とジャックの出会いみたいにね。入学した時には気にも留めなかった貴方が、今や私の最愛の人よ」
「アルス~」
「私はミステリーのコーナーにいるわ。ジャックは好きなところを見ていて」
「僕も見るならミステリーだから、一緒に行こ」
推理小説のコーナーで僕とアルスは、おもしろそうな本を探して回った。棚に並べられた本の背表紙に、『今日も今日とて~』と気になるタイトルがあったので、僕は手を伸ばす。アルスも同じ本が気になったらしく、僕の手とアルスの手がぶつかった。
「あ、ごめん」
「だ、だ、大丈夫よ」
「あれアルス、顔赤くない? もしかして熱でもあった? 大丈夫?」
「熱じゃないのよ。…………ちょっと照れちゃって」
頬を朱に染めたアルスにつられて、僕も顔が赤くなった。照れたアルスを見たのは初めてだったし、僕もこんな赤面は初めてだ。少し時間が経ち、僕とアルスは元通りの顔色に戻った。
アルスは先程の本を開いて眺めると、すぐに購入を決めた。読み終わったら僕に貸してくれるそうなので、今から楽しみだ。僕とアルスは本屋を出て、次の店を見ることにした。
本屋を出た瞬間の違和感は、気のせいだと思いたい。
二人並んで大通りを目的無く歩いていると、アルスが一つの店の前で足を止めた。
「このお店見たいわ」
「魔道具屋だね」
店内には所狭しと、安価なものから高価なものまで魔道具が置かれていた。高価なものはショーケース内に入れられ、部品やパーツ取り用と思われるジャンク品は、ガラクタ同然にまとめて木箱の中だ。
掘り出し物が無いか、僕が木箱の中を漁っている間、アルスは気の向くままに店内の魔道具を見たり、試しに使ってみたりしていた。僕がめぼしい古魔道具を見つけアルスの元に戻ると、アルスはある魔道具の説明書を熱心に読んでいた。
「魔力効率がいまいちかしら?」
アルスが見ていた魔道具は、僕たちが持っているアルスクマのように、互いの声を届けられる魔道具だった。
「僕のがおかしいだけで、魔力効率自体はこれが普通だと思うよ」
「ふふふ、ジャックが作った魔道具の質が高すぎて、目が肥えてしまって駄目ね。もう行きましょうか」
「ちょっと待ってて。これだけ買ってくるよ」
その後も気になる店を二人で見て回り、昼食は僕が予約しておいたレストランで食べた。僕の両親もよく利用しているお店で、お忍びでも上手く対応してくれるから、貴族の間でも評判が良いレストランだ。
「美味しかったわね」
「うん、そうだね」
レストランを出た瞬間、また違和感に襲われた。気のせいだとも思いたいけど……。
僕が現実と向き合いたくなくて辺りを見回すと、視界に眼鏡屋が飛び込んできた。
「眼鏡か。そろそろ新調しようかな」
「見ていく?」
「いつも贔屓のお店で買ってるから、大丈夫だよ」
「良さそうなデザインを探すぐらい、良いんじゃないかしら?」
僕はアルスに引きずられるように、眼鏡屋に入っていった。アルスは手近にあったリムレスの眼鏡を手に取って、僕に見せた。
「ねえジャック、これはどう?」
アルスは僕の眼鏡を奪い取り、手に持っていた眼鏡を僕にかけた。クマのぬいぐるみをプレゼントした時と同じことをしてもらい、僕は感無量だった。僕はアルスにまた眼鏡をかけて欲しいとは伝えていないのに、どうしてアルスはこう、僕の心を的確に鷲掴みしてくるんだろう。
その後も僕は、アルスに眼鏡をつけられては外され、つけられては外されを繰り返した。僕にとっては幸せな時間だったけど、アルスにとっても幸せな時間だったようで、アルスの声は常に弾んでいた。
「アルス、結局どれが良い? 次の眼鏡は似たのにするから」
「う~ん、これが良いかしら?」
アルスが選んだ黒フレームの眼鏡は、僕がいつもかけてるのとそう変わらない。
「あんまりおしゃれなものにすると、貴方のかっこよさに気付いてしまう人がいるかもしれないものね。貴方のかっこよさを知っているのは、私だけでいいわ」
僕はアルスの言葉に、何だか引っ掛かりを覚えた。
「アルス、何か僕に言いたいことない?」
「あのねジャック、本音を言うと、レンズ越しではなく私を見て欲しいわ。貴方の視線を、もっと直に感じたい」
僕の次の研究テーマが決定した。視力向上の魔法だ。あとアルスが眼鏡屋に来てまで、僕の眼鏡を外そう外そうとしていた理由が分かった。
眼鏡屋に入ったのに、結局眼鏡はいらないという結論に達した僕とアルスは、眼鏡屋を出ることにした。眼鏡屋を出て数歩歩いた瞬間、アルスが僕の袖を掴んだ。
「三人」
アルスは聞き取れるギリギリの声量で言った。気のせいだと思いたかったけど、やっぱり気のせいじゃなかったか。僕はアルスに目配せをした。
目の前にあった人通りがない脇道に入り込み、僕とアルスは駆け出した。
「私が囮になるから、制圧を」
「え!? そんなことできないよう」
「大丈夫よ」
相談している時間は無く、アルスに合わせるしかない。僕は腹を括った。
「強化」
十字路で突き当りに続く道に向かったアルスと別れ、僕は強化魔法を使った。壁の出っ張りをうまく利用して、すぐさま建物の屋根の上に辿り着いた。上から確認すると、アルスが言っていた通りに、僕とアルスの後をつけていた不審者は全部で三人だ。
不審者たちは僕とアルスの姿を見失って、慌てているようだった。しかしすぐに突き当りに佇むアルスを見つけ、じわじわとアルスを追い詰めていく。罠だとは分からないように、アルスが三人を上手く引き付けてくれていた。
僕はアルスに気を取られた不審者どもの背後に、音も無く降り立った。そのまま助走をつけて一人に上段回し蹴りをお見舞いし、勢いを利用してもう一人にも回し蹴りを食らわした。勢いよく壁にぶつかった二人は無力化完了だ。
袖口に隠していた護身用のナイフを、最後の一人の喉元に突き付けた。
「動くな」
不審者たちはあまりにお粗末だった。実力があるなら、そもそも僕やアルスに気付かれることも無いか。
「束縛」
ナイフを突きつけている間に、アルスが魔法で身動きを完全に奪ってくれたので、僕は首の一部を圧迫して残った一人の意識を刈り取った。不審者から手を放して、僕は急いでアルスに駆け寄った。
「アルス! 何ともない!?」
「ええ、何ともないわ」
「相談も無しに、勝手に囮になんかならないでよう」
「ジャックのことを信頼してるからよ」
「そう言われたら、何も言えないよう」
言いたかったことはたくさんあったけど、僕は何も言えずに終わった。
「こいつらどうしよう」
「そんなの決まってるわ」
アルスがスカートの中から革ベルトを取り出し、手際よく一人ずつ拘束していった。
「アルスはそんなのいつも持ってるの?」
「これぐらい普通よ?」
普通って何だろう。アルスの手際が、とてつもなく良いのも何だろう。不審者三人を地面に転がして、アルスはようやく一息ついた。
「やっぱりアルス目的だよね。僕なんか襲っても何の得にもならないから」
「またそんなことを言って。貴方はシュトライン侯爵家の一人息子なんだから、侯爵家の跡取りがいなくなれば得する人もいるのよ?」
「そんなことないよう。僕が狙われるとすれば、僕を亡きものにして、アルスの婚約者に納まろうとかだよ」
「もう、ネガティブなんだから。まあいいわ、はい、もうこの話はお終い」
愛しさがこもった声でそう言うと、アルスはぱちんと両手を打ち鳴らした。
「伝令、三番」
アルスが詠唱と同時に左腕を前に出すと、腕の上に白いタカが現れた。そのまま飛び立ったタカは途中で姿を消し、羽ばたきの音だけが路地裏に響いた。
「回収部隊が来るまで、少し待ちましょ」
「はぁ~、折角のアルスとのデートだったのに~」
「そんな顔しないで。公爵家の狗は優秀よ。すぐに来るわ」
アルスの言葉通り十分も経たずに、黒ずくめの集団がどこからともなく現れた。あまりの気配の無さに、本当に人間なのか疑わしく思えたほどだ。
「後は頼むわね。私とジャックの楽しいデートの邪魔をしたんだから、それ相応の報いを」
にこやかだったアルスの顔から、一切の表情が抜け落ちた。
「はっ」
公爵家の狗といえば、精鋭揃いで有名だ。その精鋭達に緊張が走ったのが、僕にも伝わってきた。
うん、今後アルスのことは、絶対怒らせないようにしよう。
「さあジャック、デートを再開しましょ」
あの無表情が幻だったかのように、アルスは僕に笑いかけた。
「うん」
アルスと僕は、路地裏を後にした。声にならない悲鳴が後ろから聞こえてきたのは、きっと気のせいだ。
「少し休憩しよっか」
「ねえジャック、行きたいカフェがあるの!」
アルスの案内に従って、僕たちはアルスが行きたかったというカフェに向かった。大通りから裏道に入り裏道から裏道を渡り歩き、ここに本当にカフェがあるのかという場所に、そのカフェはあった。
「ここのケーキがとっても美味しいらしいって、お姉さまが言っていたのよ」
こじんまりとしていて、知る人ぞ知る穴場という様相だ。一つだけ置かれた看板だけが、そこがカフェなのだということを主張していた。
店の中に入ってテーブル席に案内された僕とアルスは、店員からメニューを渡された。メニューを見るアルスは、とても悩ましげだ。
「どれもおいしそうね」
「アルスはケーキが好きだもんね」
「ええ、ケーキは何でも甲乙つけがたいぐらいに大好きよ」
「え? そんなことないよ。君が一番好きなのはモンブランだね。平均して一割ぐらいは、モンブランを食べる時間が早いよ」
「貴方は私よりも私のことを、よく分かってるわね。次からは一番好きなのはモンブランって言うわ」
悩んだ末にアルスはモンブランと紅茶を、僕はイチゴのタルトとコーヒーを注文した。運ばれてきたモンブランを一口食べて、アルスは幸せそうな表情になった。
「美味しい~。こんなモンブランは初めて! ものすごく栗々しいわ」
たぶん栗の風味が活きているとか、そういうことを言いたいんだと思う。僕もイチゴのタルトを一口食べて、アルスが言いたいことが分かった気がした。
「ねえジャック、そっちのタルトは美味しい?」
「うん、美味しいよ。はい、あ~ん」
僕がタルトを一口大に切り分けてアルスに差し出すと、アルスはそれをパクリと食べた。
「これも美味しいわ! って今私……」
ケーキに浮かれていたアルスが、急に冷静になった。アルスの顔が、徐々に赤く染まっていく。僕もアルスにつられて赤面した。僕何てことやってんのと思っても、後の祭りだ。
お互い気を紛らわすために、どうでもいいことを話しながら、ケーキと飲み物を口に運んだ。ケーキを楽しんで一休みし終わった僕とアルスは、カフェを出て今日最後の目的地に行くことにした。
「あそこで今日は最後だね」
「あそこに行くのよね」
一度空を見上げてから、アルスは僕の方を見た。
「私あそこには行ったことないの。ジャックは初めてではないのかしら」
「シュトライン侯爵家がメインで出資してるから、僕は何度も行ってるよ」
僕も空に目をやった。そこにあるのは、空に浮かんだ大地だった。
今日最後の目的地は、王都で人気のデートスポット空中庭園だ。浮島を利用して作られた、文字通り空に浮かんだ庭園で、季節を問わず花が咲き乱れる素敵空間になっている。
空中庭園といえども、入り口はちゃんと地上にある。カフェがあった裏道から再び大通りに戻り、緑に覆われた建物を目指した。多くの花と植物で彩られた建物には、空中庭園の看板が掲げられている。ここの中にある転移陣を利用すると、空中庭園内部に入ることができる。
「今日はお忍びだから、ちゃんと並んで入るね」
一般客と同じように受付前の行列の最後尾に並ぶと、従業員の一人が僕の方に近づいてきた。僕のことを知っている人かもしれない。
「ジャック・シュトライン様、ようこそおいでくださいました」
小声で話す彼は、やっぱり僕を知っている人だった。
「今日はお忍びだから、あんまり仰々しくされるのはちょっと」
「婚約者様とデートですかな」
「うん、そうだよ」
「こちらへどうぞ。ではお二人で、ごゆっくりお楽しみくださいませ」
もうばれてしまったし、行列も結構長かったので、その言葉に甘えることにした。僕とアルスは案内された通路を通り、転移陣がある広間に向かう。
「ふふふ、ジャックは顔パスなのね。でも私の入場料は良かったのかしら?」
「アルスは僕の婚約者なんだから」
「そうね」
辿り着いた広間には、いくつかの転移陣が設置してあった。それぞれが空中庭園内の別の場所につながっていて、どれを選ぶかはその人次第だ。
「アルスはどこに行きたいとかある?」
「ここに来るのは初めてだから、まだよく分からないわ」
「じゃあオーソドックスに順路通りで行こっか」
僕とアルスは左端にある転移陣の中に、足を踏み入れた。次の瞬間には、緑あふれる空間が目の前に広がっていた。花々が咲き乱れ、小鳥がさえずり、蝶が舞い踊るこの場所は、楽園と呼ぶ人がいるほどに美しい。これを維持するためにどれほどの労力がかかっているのか、手入れするに庭師たちには頭が下がる思いだ。
「こんなにきれいな場所だったのね」
数歩足を踏み出して、スカートを翻してくるりと回ったアルスは、まるで花の妖精みたいだった。
「でも、こんな素敵な場所なのに、ここでデートすると別れるとも言われるのは、何故なのかしら?」
アルスは心底不思議そうに首を傾げた。
空中庭園はデートの人気スポットである反面、デートをすると別れる場所としても有名だ。元々がただの浮島であるこの場所自体に、そんな呪いめいた力はない。そんな呪われた浮島だったら、そもそも空中庭園にしようとは思わないわけで。
「ものすごくたくさんの人が来るから、一部の別れた人が話題にされてるだけだと思うよ。あとたぶんだけど、デートに浮かれた一部の人が迷子になるから、っていうのもあるのかも」
空中庭園は四つの浮島に分かれていて、それぞれでコンセプトが違う。四つのエリアは多くの転移陣で結ばれており、迷宮庭園の要素も含まれている。一般的な順路に沿っていけば、迷子になることはまずない。しかしデートに来た勢いで迷宮ルートに挑戦し、迷子に陥るカップルが少なくないのだ。
「二人で迷子になって喧嘩したり、それで恋が冷めたりするのね。迷子程度で揺らぐ愛なんて、愛じゃないと思うわ。私ならここでジャックと迷子になったら、さらに愛が深まっちゃう」
「僕は絶対アルスを迷子になんてしないよ? 最短経路ぐらいすぐに分かるし」
「最短経路なの? 来た道を戻るとかではなくって?」
「この庭園の移動陣の配置は僕が決めてるから、全部頭に入ってるよ」
「百単位であるはずよね?」
「うん、あるね。三か月に一度は配置換えしてるけど、それでもちゃんと覚えてるよ」
五年程前に遊び感覚でやらせてもらって以来、そのまま僕が移動陣の配置を請け負っている。迷宮ルートガチ勢から、かなり好評だったらしい。人の動きを予測して、迷いやすいように転移先を決めていくのはおもしろいので、僕も結構楽しんでやらせてもらっている。
「僕が担当するようになってから、迷子になる人が増えたらしいね。あれ、カップルが別れるって噂は、もしかして僕のせい?」
「気にしなくていいんじゃないかしら。ふふふ、ジャックはやっぱりすごいわね」
話しながら一通り庭園の中を見て回った後、少し奥まった場所のベンチに二人で腰かけた。ここはあまり人が来ない穴場だと、僕は知っている。そろそろ頃合いだと踏んで、ポケットに入れていたアルスへのプレゼントを取り出した。
「アルス、これもらってくれる?」
「ありがとう。何が入っているの? 開けていいかしら?」
僕は頷いた。アルスが小箱を開けると、中から黒い魔石のネックレスが現れた。
「また貴方が作ったの? 本当にジャックは器用ね」
「うん、作ったのは僕だよ」
僕が作った時点で、ただのネックレスであるはずもなく。
「それ実は発信機になってるんだ。アルスが身に着けていてくれれば、この国の中ならたとえどこにいたとしても、アルスの居場所が分かるようにしてみたんだけど」
「私がどこにいたとしても、ジャックは必ず見つけてくれるのね」
アルスが目を輝かせて、ネックレスを眺めている。愛しげに魔石に触れたアルスは、うっとりとした表情になった。
「やっぱり貴方の愛は堪らないわ。貴方以外の愛では、私は決して満たされないもの」
アルスは器用に自分でネックレスを着けた。アルスの胸元で、黒い魔石が輝いている。
「本当はアルスに似合う色は、もっと他にあるよね。ごめんね、そんな暗い色の魔石で。贈るなら僕の色を贈りたかったんだけど、僕の色だと黒しかなくって。黒以外考えられなくて」
弱気になった僕に、アルスはにっこりと笑いかけてくれた。
「似合うかどうかは、どうでもいいの。貴方の色だから私は嬉しいのよ。でも贈り物をもらってばかりで、なんだか悪いわ。私何もしてないじゃない?」
「八十七枚もハンカチもらったから、そのお返しだと思って」
「貴方からのプレゼントに比べれば、大した労力かけていないもの。私もちゃんと、貴方のために何かしたいわ」
眼鏡は今日のデートで、頼まなくてもかけてもらえた。他にアルスにしてもらいたかったことが、実は今一つだけある。アルスにあのクマのぬいぐるみを贈ってから、ずっと思っていることが一つだけ。
「じゃあ、アルスに一つお願いがあるんだ」
「何かしら? 貴方からのお願いは初めてね」
僕なんかのわがままに、アルスは嬉しそうに言った。
僕の願いはアルスが期待するようなものじゃない。こんな下心に満ちたお願いを、アルスに言って良いのだろうか。アルスの瞳にはきっと、真っ赤になった僕が映ってる。握りしめた自分の拳を見ながら、僕は意を決して言った。
「僕のこと抱きしめてほしい。あのぬいぐるみばっかり、良い思いするのは、嫌だから」
アルスは何も答えてくれなくて、無言のままだった。僕なんかのこんなお願いは当然駄目だったのかと、アルスの方をちらりと見た。
「お、お、お、お安い御用よ! ハグね、ハグぐらいなんてことないわ」
顔を赤くして声が裏返ったアルスは、ものすごく動揺していた。やっぱり僕は、まずいことを言ってしまったのかもしれない。
「ごめんね! そんなに動揺するなんて、思っても無かったから。嫌なら聞かなかったことにしてくれていいよ!」
「嫌じゃないの! 嫌じゃないから! さあ、来るがいいわ」
僕の方に両腕を広げるアルス。僕もアルスの方に向き直った。
「失礼します」
アルスに近寄って、その華奢な身体に腕を回した。アルスもそれに答えてくれた。アルスの柔らかい感触と良い匂いに、僕の理性が揺さぶられた瞬間、アルスの身体から力が抜けた。
「え! アルス、アルス!?」
気を失ったアルスを、なんとかベンチに横たわらせる。僕は上着を脱いで畳み、アルスの頭の下に敷いた。盗撮で見るいつもの寝顔と違って、どうしてこんなにも目が離せないんだろう。決して冷めない熱が、僕の中でぐるぐると渦巻いている。
気を失っていたアルスは、しばらくして意識を取り戻した。
「ごめんなさい。私気絶するなんて」
起き上がりながら、アルスは視線を彷徨わせた。
「嫌とかそういうのじゃなくて、えっと、あのね、私、えっと、何て言えばいいのか」
言いたいことがまとまらないアルスに、僕は首を振った。赤い顔のしどろもどろなアルスを見れば、何が言いたいのかすぐに察することができた。
「気にしないでいいよ。僕も顔が熱いままで、たぶん同じ気持ちだから。そろそろ帰ろっか」
アルスが返してくれた上着に袖を通して、僕は立ち上がった。暗くなる前に、アルスを屋敷まで送り届けないといけない。
「ええ、そうね。帰りましょ」
アルスに手を差し出そうとしたけれど、考え直してやめた。今のアルスはきっと僕の手を取れなくて、申し訳ないと思うだろうから。
空中庭園を出た僕とアルスは、お互い氷魔法で自分の赤い顔を冷やしながら、ゆっくりと帰路に着いた。どれだけ冷やしても、赤みは治まってくれなくて、アルスが近くにいるだけで胸がいっぱいで。
「ねえジャック」
「何?」
「……やっぱり何でもないわ」
行きに比べれば言葉少なではあるけれど、決して嫌な空気じゃない。心は何だか温かくて、どこかふわふわしている。名残惜しい帰り道はあっという間で、すぐにリーライ公爵家の屋敷に到着した。
「送ってくれてありがとう」
裏口の扉を開けたアルスは、僕に振り返った。
「ねえジャック、あのね。今日だけは……、今日だけは、見ないでもらってもいい? ジャックに見られたままだと、顔の赤みが引きそうになくって。自由にストーカーして良いって、前に私言ったのに、ごめんなさい。こんなこと言ったら、幻滅しちゃう?」
顔を赤くしたままで不安げなアルスは、やっぱり世界一可愛い。
「幻滅するわけないよ。僕も同じだから大丈夫。今日はちょっと見てられそうに、ないから」
「ありがとうジャック。また明日、学園で」
「うん、また明日」
きっちり扉が閉まるのを確認してから、僕はその場を離れた。足早に歩きながら、叫びだしたい衝動をぐっと堪えた。僕の腕には、身体には、アルスの感触が残ってる。別れてもなお、熱さが治まらない顔を手で覆った。
ますます君のこと大好きだよ。
かくして侯爵令息と公爵令嬢のデートは幕を閉じ、翌日からは元通りストーカーと変態な日常に戻るのでした。
シュトライン侯爵「愚息よ、顔真っ赤にして帰ってきてどうした。何、アルス様を一瞬抱きしめた? 一瞬だけでまだそんなに顔赤いの? アルス様は気を失った? 何でそんなところは、二人共純情なの?」
続きのお話投稿しました。『変態は侯爵令息が大好きだ』は作者ページかシリーズページより、どうぞよろしくお願いします。