その2
木枯らしが吹きすさび、デルロイの沃野は色あせて、枯れ果てた植物が寒そうに身を震わせはじめました。やがて雪が舞い落ち、寂しい風景を塗りつぶしてゆきます。わたしたちは雪原に目を細めつつ、ため息をつきました。長い長い冬がきたのです。
わたしの身辺はだいぶ変わりました。
狩猟の季節が終わると、貴族の方々のほとんどは領地で冬を越すために里帰りなさいます。お城は静かになりました。仕事も楽になり、わたしたちは暖炉に集まって栗を焼く時間が増えました。どうでもいいことを何時間も話しました。雪かきの応援を求めて哀れな下男がやってくると、わたしたちは栗の皮を投げつけて、騒ぎながら追い返したりしました──もっとも、アナーリアが友愛について一席ぶつまでには、誰かが犠牲になって除雪に出向かなくてはなりませんでしたけど。
ザビール様はしょっちゅうお城にやってきます。領主の方々の冬の暇つぶしはなんといっても賭博で、みなさん城に集まって札を引くのです。そんな時はルカがお供についてきます。厩舎で馬にブラシをかけているかれを見かけると、わたしは、
「ルカ」と声をかけました。ルカは、ああ、とかなんとか返事をします。
反対にかれがわたしを見つけると、「シアラ」と声をかけてきます。わたしも、ええ、とかなんとか返事をして、やがて二言、三言会話を交わすようになり、いつしかわたしたちは話しこむようになりました。
ルカはわたしのことを聞きたがりました。たいして長くもない生い立ちをわたしは話しました。厩舎の隅っこで、火の気がないのに寒いとも感じませんでした。
「きみ、苦労したんだね」ルカはわたしを見つめています。
「ルーウィーはみんなそうだわ。あなたは?」
「ぼくは幸運だった」
ルカは例の疫病で両親を亡くしていました。
「それまでは放浪してたんだ。スケーシアやギュア国や、マルファ市のにぎわいも知ってるし、カーナインの豪壮な聖堂も見たよ。船に乗ったこともある。両親が死んでからはエナガモ人たちの隊商に拾われてさ。そこにザビール様が現れたんだ。羊の世話のできるやつが欲しいってね。エナガモ人なんてのは、根っからの商人だろ? 連中がぼくにいくらの値をつけたか神のみぞ知る、だね」
「ザビール様に助けられたの?」
「どうかな。ぼくを買い取ったとき、あの人は酔っぱらってたと思う。だいたい、しらふでいることなんかないんだから。ぼくがルーウィーだって気づいてたかどうかも怪しいね。とにかくザビール様は羊番ができるやつが必要で、金を支払った以上、ファジオ様にぼくを引き渡してみすみす殺させたりはしなかった。ぼくはザビール様の領地、カスケスに隠れて生きのびたんだ」
カスケス伯領というのはデルロイのお膝元といっていいほどの所にあります。ルカはルーウィー狩りの本拠地のすぐそばで息をひそめていたのでした。
「それって、すごいツイてるわね」
「でも一度だけヒヤっとした。ザビール様はひょうきん者だからね、そこが気に入られてファジオ様の側近の末席に名を連ねてたんだけど、あの人、おっちょこちょいだろ? ある晩、ザビール様は飲みすぎて、ファジオ様の御前でルーウィー迫害のやり口を手ひどくからかったんだ。それがファジオ様のお怒りに触れてザビール様は二週間も入牢した。あの時はカスケス領にいつファジオ・トーラの兵が入ってくるかと気が気じゃなかった」
ルカは肩をすくめて笑いました。
「もっともそのおかげで、サリア様の治世になってからも、ザビール様はおとがめを受けずにすんだ。ファジオ・トーラの政治を真っ向から批判した唯一の側近だと思われたんだ。本当はただの飲みすぎなのに、ザビール様らしいよ」
笑いあった後で、しんみりしました。わたしたちの話は生々しさをまだ残しており、どんな笑いをまぶしても覆いつくせない無力感を思い出させました。運命は確かに、わたしたちにとって過酷だったのです。
「シアラ、噂を知ってる?」ルカが話題を変えて重い雰囲気をふりはらいました。
「どんな?」
「ファジオ様を暗殺した刺客。ルーウィーだったって」
「聞いたことある」
そういう噂があるのです。
──暴君ファジオは、ルーウィーに殺された。
この噂は、噂とはそういうものですが、馬鹿に細部が凝っていて、そのルーウィーの名前までささやかれています。しかし、あくまで噂。噂、噂、噂はルーウィーの世界の通貨のようです。
「でももし、その噂が本当なら、あの魔王を刺し殺したのがわたしたちの仲間なら、わたしは自分の血を誇りに思う」
「ぼくもだよ」
サリア様とわたしの関係も変化しました。お着替えや、給仕、庭園のお散歩のおともなどの用事で、サリア様はたびたびわたしをお呼びになられました。サリア様の口述の筆記をまかされたことさえあります。ありていにいえば、わたしは下女のなかでもお気に入りになったのです。
サリア様をとりまいている侍女たちはわたしに冷淡でしたが、それは望むところでした。侍女たちに好かれるより、下女仲間から嫌われないことのほうが大事です。実際には、仲間はずれにこそされませんでしたが、溝のできてしまった友達も少なくありません。サリア様に贔屓されていて、人気者のルカを独占しているわたしは、別格、とでもいうべき立場を与えられました。ありがたかったのは、エステルが以前と変わらない態度でいてくれて、時にわたしをかばってくれたことです。
「あなたの味方をしてるわけじゃないよ」
わたしがお礼をいうと、エステルはそう返します。
エステルはなにも特別なことのない女の子──いっけんそう見えます。エステルは、特別な存在になるまい、と自制している非凡な女の子です。独立心が強く、依頼心が見当たりません。エステルが人間関係で悩むところなんて想像も出来ません。エステルはさばさばしすぎていて、ふと不安をおぼえることもあります。
「あなたのことがわからない」ある晩、わたしは彼女にいいました。
「眠たいわ」
「あなたは、明日にでもこういい出しかねない。悪びれもせず、まるでわたしたちに友情なんてなかったみたいに。『ねぇシアラ、わたしここを出る。旅に出るの』」
「旅? こんな寒いのに?」エステルは笑いました。「でも、また放浪できたらきっと楽しいわね。……その時はもちろん、あなたも誘う。一緒に旅するの。このまま出世して、あなたがお城を乗っ取ってなければね」
「やめてよ。わたしはいかない」
「薄情者。いいわ。ルカをさらっていくから」
「エステル、あなたって、まるでルーウィーそのもの」
「よくわかってるじゃない」エステルはいいました。「じつをいうと考えることがある、この生活はわたしたちにとって幸せなのかって。決まった食事、決まった仕事、決まった寝床に決まった毎日。そんなものに満足するのがルーウィーっていえる? もちろん、サリア様には感謝してる。けどね、デルロイ女候ですら支配しえない物がある、それはわたしたちの血。わたしたちは翼。わたしたちは自由な風。忘れないで、シアラ。あなたには、わたしと同じ血が流れてる」
儀式を受けると決めた日から、ときどき襲ってくる頭痛が、この時もズキッ、ズキッと頭蓋のなかで脈打ちました。エステルの口から出ると、流浪の旅も悪くないように聞こえるからふしぎです。
「エステル、どこにもいかないよね?」
「馬鹿だな、シアラは。明日、ルーウィー全員に号令をかけて、この城から出ていくつもり。あなたのことは縛ってでも連れていくから安心して」
エステルの素敵な冗談はもちろん、実行されません。あくまで冗談だからです。なのにちょっとだけ、気持ちのどこかで失望していました。わたしの血がおめきをあげていました。変な気分でした。
そもそも馬鹿な空想です。
わたしはサリア様を裏切れません。
サリア様のお側で仕えさせていただくのは素晴らしい体験です。サリア様はぐずぐずしたのがお嫌いで、どんなに難しいご決断でも一日以上の留保を見たことはありません。貴族の方々の意見の取りまとめも、一週間以上長引くと、目に見えてイライラなさいます。わたしはその呼吸をすぐに飲みこんだので、うまくやれたほうだと思います。小会議の椅子並べにせよ、お茶の準備にせよ、サリア様のご命令を先取りして動けたときは自分が本当に優秀だと信じられました。サリア様が他の侍女たちに聞こえないよう、小声でわたしを褒めてくださった時は、天にも昇る気持ちでした。
数日前。ルカと話していた時のことです。
「ファジオ様のやった大弾圧には、それなりの正当性があると思う」ルカはいいました。
「なんてこといい出すの?」
「まぁ、最後まで聞いてなよ。このシディムではね、ロマ教こそが法律なんだ。ありとあらゆるものの善悪の基準なんだよ。ロマの戒律はこの国の秩序の基盤だ、ロマ教を信じてないヤツっていうのは──つまりぼくらのことさ──『法律を守りません』って大声で宣言してるようなもんなんだ。そんな連中がのうのうとしてれば、領民にしめしがつかないよ。だからファジオ様はぼくらを罰したんだ。果断だよ。でも偉大じゃない。サリア様は──」
と、ルカは続けます。「偉大だ。ルーウィーを城に住わせてる。サリア様はロマ教によらない、新しい法律を作ろうとしているんだと思う。宗教から分離した、明晰な法をね。デルロイには強大な軍事力がある。その軍事力がロマ教会に牛耳られるようなことがあれば、またいつか痛ましい大虐殺が起きるかもしれない。シアラ、わかるかい?」
「ええ」と答えましたが、本当にわかっていたか自信はありません。
「サリア様はぼくらに機会を与えてくださった。ご期待に応えなくちゃいけない」
わたしはルカの横顔を見ていました。謎めいて見えました。それに魅力的です。『サリア様のご期待』が何なのかはわかりません。聞き返そうとも思いませんでした。気がつくとわたしたちは見つめあっており、お互いに求めあってることがわかったので、キスしました。くちびるでは初めてです。精神が高ぶると生ずるいつもの頭痛がありました。それだけの淡いキスでした。
宮廷に出入りするようになって、わたしの耳は不謹慎な噂をとらえるようになりました。例の「ファジオ様を殺害したのはルーウィーらしい」という噂が発展したもので、下々のほうには決して降りてこない流言でした。
その一、ファジオ様は、ただ暴漢に殺されたものではない。陰謀があった。
その二、首謀者はサリア様である。
その三、刺客に選ばれたのはルーウィーの青年である。
わたしは不愉快でした。サリア様が誹謗されているからです。あの人たちは高位にありながら、真剣にその手の話を論じているのです。サリア様がそんなことをなさるお方かどうか、普段の言行をご覧になっていてわからないのでしょうか。
サリア様はルーウィーを暗殺の道具のように使ったりなさいません。サリア様がどれほどルーウィーのことを気にかけ、考えておられるかわたしは知っています。あれは、シディム主教猊下がたくさんの随員をおともに連れてデルロイ城にいらした日の豪華な晩餐でした。その大切な晩、わたしはサリア様をカンカンに怒らせてしまったのです。
蝋燭の照らす典雅なテーブルと、地獄の劫火が吹き荒れる厨房との往復で、目のまわる忙しさでした。シディム主教猊下はサリア様と何か話しておいでです。葡萄酒を注いでテーブルをまわっていた時、ひとりの司祭の方がわたしを見て目を丸くなさいました。
「変われば変わるものだ。ルーウィーの娘がこんなところにいる」
「ああ」とお隣のお客さまが応じます。「気をつけろ。財布を隠したほうがいい」
差別はわたしたちにとって、ヤブ蚊や蝿みたいなものです。うるさくて決して慣れることはできませんが、死滅させられるわけではありません。お二人の司祭様は、ルーウィーに銀食器を数えさせると、数えるたびに枚数が減っていく、というような小話を始められました。わたしはお酒の壜の口をあげ、次の方へ向かおうとしました。そこでテーブル越しにわたしを見つめる、サリア様の怖い顔に出会ったのです。
サリア様が何かおっしゃって、シディム主教様のお話をさえぎられました。席をお立ちになり、わたしのほうへ近づいてらっしゃるのです。怒っておいででした。なにか粗相をしたらしい、きっと打たれるに違いないと、わたしはおびえました。サリア様はわたしの手から葡萄酒を取り上げてテーブルに置きました。みなさんの注視するなか、
「シアラ、いらっしゃい」
と、歩いていかれます。わたしはサリア様の後につづいて、寝室までついていきました。後ろから見ていると、サリア様の細い肩が呼吸にあわせて上下しています。怒りを鎮めていらっしゃるのだと思いました。
「あなたは泥棒なのですか?」寝室の窓辺で、サリア様はわたしのほうを見向きもされず、かさねておっしゃいました。「あなたは盗むのですか?」
「いいえ」
「ではなぜ、さっきの無礼な言葉に迎合するようなほほえみを浮かべていたのですか。なぜきっぱりと否定しなかったのですか。あなたは泥棒ではない。なぜそうはっきりいわなかったのですか?」
サリア様はわたしのほうへ体を向けられました。
冷たいものを噛んだような痛みをわたしは感じました。
「あなた方はいつまで、そうやって暴言を許しておくのです。いったいいつまであのような侮辱に甘んじているのです。いつまであんなことを続けさせるつもりなのです」
「サリア様……」
「あなた方が変わらなければ、何も変わりはしない、シアラ。繰り返されるのですよ」
その言葉は、わたしの耳にジンと残りました。
一個の煉瓦が抜け落ちて、それがきっかけで壁が崩れました。わたしは見たのです。サリア様のおっしゃることを理解したというより、この目で見たのです。ルカのことを思い出しました。かれの言葉、かれの理想が、サリア様によって息を吹きこまれました。
「わたしは自分を恥じます」茫然とわたしは答えました。「わたし……わたしはわかりました」
サリア様は逡巡なさってから、悲しそうなお顔でわたしの髪に触れてくださいました。
「わたくしは少し性急すぎたかもしれません。あなたはまだ、こんなに幼いのに」
「いいえ」わたしは言い切りました。「いいえ、サリア様。わたしはすぐに大きくなります。きっとサリア様のご期待に応えます」
わたしは本当にわかったのです。目が開いたのです。
翌日をわたしはジリジリとすごし、翌々日、ザビール様が城にいらしたと聞くと、ルカのところへ飛んでいきました。わたしは飢えたようにルカと唇をかさねました。そうせずにはいられなかったのです。唇の触れた部分から燃え上がり、わたしは炎になりました。血が、ルーウィー族の血が、熱くたぎり、突き上げてきます。頭痛がうしおのように頭を満たして、退いてゆく、その反復がめまいするほどの快感でした。陶然となりながらルカを見て、わたしはサリア様に叱られたことを話しました。
「わたし、わかったの」
「なにがだい?」ルカの顔も上気してます。
「わたし、わかったの。あなたが何と戦ったのか。あなたが馬上槍試合の時、なにを証明したのか。わたしたち、誰からも差別されるいわれはない、わたしたちは、もう二度とあんな迫害を許してはならないんだって。サリア様は機会を与えてくださった、あなたはそういったの、おぼえてる?」
「うん」
「その意味がやっとわかった。わたしたちはデルロイに、ルーウィーが幸福に暮らしていける居場所を築かなくちゃならない、今がその時で、やるのはわたしたちなんだって」
興奮していました。熱に浮かされていました。景色が波打って動いて見えるほどに。
ルカはまじまじとわたしを見ていいました。「きみは素晴らしいよ」
わたしたちは飽かず口づけを交わし──いつもならこの気持ち良さがどこか後ろめたいのですが、この日だけは雑念が燃焼しつくされ、灰のなかから水気をおびた若芽が震えながら伸びてくるような、官能の霊的な高まりしかありませんでした。思えばなんと幼かったことでしょう。硬くてもろい、なにか結晶のような一瞬だったのです。
「いつかの話、覚えてる?」
エステルの声でわたしは我に返りました。窓が凍って割れそうなくらい寒い夜です。わたしたちの言葉は氷の炎になって、外から差しこむ雪明かりに反射していました。わたしもエステルも、圧死するくらい毛布をかさねていましたが、それでも冷気は布団のなかに忍びこんできます。
「いつかの話って?」
「この城を出て、放浪する話」
「ええ」わたしは用心深く答えました。
「ランセルがね、春になったら城を出るって。エーベルにいくんだって。わたし、誘われたわ。一緒に城を出ようって」
「いくの?」
「いくつもり」
「笑えないわ」わたしはビクビクしはじめながら、エステルを見ました。
「冗談でいってるんじゃないの。シアラ、あなたもわたしたちと──」
「わたしはいかない。あなたも出てゆくべきじゃない」
「なぜ?」
「あなたたちが出ていけば、人々はルーウィーの無責任さをなじる。連中はひと所にとどまっていられない、根無し草の浮浪人だって。残されたわたしたちは肩身がせまくなるし、サリア様だって、わたしたちに失望なさるに違いない」
「シアラ、わたしたちは根無し草の浮浪人なのよ。ルーウィーだもの。ルーウィーは放浪の民、故郷も家も持たないの」
「サリア様がこのデルロイを故郷にと提供してくださってる。そのお気持ちを無為にするの? 恩知らずだと思われる。わたしたち、食べさせてもらってるのよ?」
「そうかもしれない。でもね、お仕着せの幸せより、わたしはルーウィーでいたい。あなたと話していると、まるでシディム人と話しているようだわ」
「わたしだってルーウィーよ。エステル、わたしはルーウィーのためにこの土地に残りたいの。この土地にルーウィーでも幸せに暮らせる場所を築きたいの」
「あなたと同じことを考えたルーウィーがたくさんいたのよ。でも誰もそれをなしえなかった。それに土地に縛られたら、それはもうルーウィーじゃない」
「だからといって、わたしがあきらめなくちゃいけない理由にはならない。聞いて、サリア様はわたしたちを優遇してくださってる──」
「サリア様には秘密がある。この平和だっていつまで続くかわからない」
エステルの言葉に、わたしはひるみました。
「誰がそんなことを?」
「みんながいってるわ。サリア様が夜ごと、地下牢に降りてゆくという人もいる。サリア様には何かある──シアラ、気をつけて。あなたはサリア様の側にかたよりすぎてる。サリア様からご覧になったら、わたしたちはただの安い労働力かもしれないのに」
「ランセルに入れ知恵されたのね」
「みんながいってるわ」
「エステル、お別れなの? 本当に?」
「それはあなたが決めることよ、シアラ」
「サリア様に秘密なんてない」
「おやすみ、シアラ」
しかし、エステルの疑惑はもっともなことでした。
──最低限の賃金。
ルーウィに支払われる金額を表現すれば、そうなる、とエステルはいうのです。
信じがたい安月給。
ある日の昼食のことです。エステルは、いつものサバけた口調でいうのです。
この不当はサリア様の指示、というのがエステルの主張でした。サリアさまは、小銭で不穏分子たるルーウィーを縛り、奴隷あつかいしている。これはある意味、ファジオ様を上回る悪行ともいえる。
「そういう声をあちこちから聞いていてね」エステルは少し顔を伏せていいました。「ね、シアラ。あなたいくら持ってる?」
「──そんなの、いえないよ」わたしはいいました。「わたし、貯金なんてないもの、でねも……はっきりいっていい?」
「いって」エステルの目元に、真剣さが凝り固まって見えます。
「ルーウィーに説明するのは難しいけど、土地ってタダじゃない。わたしたちはデルロイ城にタダで住ませてもらってる」
「タダじゃない。クソほど働かされてる」
エステルの汚い言葉づかいに衝撃を受け、わたしは黙りました。
「シアラ。わたしは幸せじゃない」エステルは周囲をうかがいつつ、いうのです。「それに、あなたは間違えてる。サリア様は恐しいひとよ? あのファジオ様を殺して、悠然とするくらいに」
「──それは、真実じゃない」
わたしは自分の胸のうちに湧いた不安を悟られないよう、横を向きました。
そう、わたしは不安でした。
ファジオ様の死には、謎が多すぎるのです。
ある僧侶はこういいます。ファジオ様刺殺の現場にいあわせたのは三名だったと。ある伯爵夫人はそれを否定します。いや四人だったと。侍従筆頭の城代クロンサム様はその場にいあわせたともっぱらの噂でした。当のクロンサム様は首を横に振ります。
「わたしは知らない。しかし宮廷侍医のヴェロキウスはファジオ様の傷口を見て、なにか異変を感じたらしい。それを口止めされているのだ」
医者のヴェロキウス師は憤慨して反論します。
「わたしはそのころ、宮廷侍医ではなかった!」
しかし宮廷侍医になるために、頻繁に城に出入りしてらしたのも事実でした。
これだけ情報が錯綜していながら、貴族の方々が「最も真実に近い」と信じてらっしゃる筋書きがひとつありました。
ファジオ様を殺した犯人は「セルジェク」というルーウィーで、かつてサリア様の下僕をつとめていた青年である。サリア様はセルジェクと身分を超えた恋に落ち、かれの子供を身ごもったことさえある。そのことがファジオ様のお耳に入り、セルジェクは投獄され、ルーウィー迫害の始まりになった。その「セルジェク」が脱獄に成功し、ファジオ様に刃の復讐を果たしたのだ。
あまりにも馬鹿らしくて、話すほうも聞く方も、どこまで本気かわからなかったと思います。しかし、少なくとも「セルジェク」なる人物が実在したのは確かなようでした。その「セルジェク」の脱獄を手引きしたのが、ザビール様だというのです。
ザビール様は、ファジオ様の暗殺現場に居合わせた数少ない証言者のお一人でした。酒太りしたお腹を揺すっておっしゃるには、
「ああ、確かに見た。おれはファジオ様の後ろで、練兵場から御殿へむかう廊下を歩いていた。そしたら、こぎたない男が柱の影から現れて、ブスリとやらかしたんだ。いや、ルーウィーじゃない。アレンだったか、ウォズだったか誰だったか忘れたが、なにか叫んでその暴漢を殺したよ。セルジェク? 違うね。暗殺者の身元は結局わからずじまいさ。嘘じゃあない」
嘘じゃない、といわれても、疑いの声は絶えませんでした。ザビール様は、サリア様の政権奪取に加担した、という声です。
いわく──。カスケス伯ザビールは投獄され、名誉を傷つけられたことで、ファジオ様に怨恨を抱いていた。だいたい警戒厳重なデルロイ城に、どうして暴漢が忍びこめる? セルジェクとザビールは、獄中で知り合ったのだ。見よ、アレン卿もウォズリック卿も、その他ファジオ様の側近はみな、サリア様の粛正を受けた。なのに、ザビールだけがそれをまぬがれている。おかしいではないか。
政権を委譲された際、サリア様はファジオ様の側近を厳しく処罰なさったそうです。ファジオ様の死亡した当時を知っている方々はみな、この世にいないか、修道院に入れられて俗世と引き離されてしまっています。
──口封じのためだ。
という声もあります。わたしは反発をおぼえました。ルーウィーの迫害が始まる前の話とはいえ、ファジオ様がご健在の時にルーウィーの下男が城で働いていたとは思えません。ましてサリア様と恋に落ちるなんて、ちょっと想像がつかないのです。「セルジェク」という人物がいたとしても、本当にルーウィーだったのでしょうか。おそらくザビール様のおっしゃる「公式見解」が真相に一番近いのでしょう。噂はサリア様を不当におとしめています。候位を奪うため、恋人と謀って兄を殺した毒婦──どう考えてもサリア様にはあてはまりません。
なのに、もしかしたら……という想像がわたしを誘惑するのです。
疑惑とも呼べない、夢幻的な考えがやってきては、去ってゆきました。
なぜ、サリア様はあれほどルーウィーにお優しくしてくださるのでしょう。下男や下女に見せてくださる親しみは、以前から持ち合わせてらした物ではないでしょうか。それに背中のあの傷。ファジオ様は、どのような怒りに駆られて、サリア様をあそこまで打ちすえられたのでしょう。サリア様は兄君を深くうらみはしなかったのでしょうか。広い城です。もしかしたら、ルーウィーの血を持つ下働きがいたかもしれません。恋が火花を発するための必要条件はわずかです。そこに身分の差は含まれません。サリア様の黒い瞳が、特定の男性を見てうるんだことがないと誰にいえるでしょう。身分の違う恋なら熾烈な相克を体験なさったことでしょう。噂はたちまち宮廷にのぼったでしょう。そして噂は、扇情的であればあるほど、人々の記憶に残るのです。「セルジェク」の名は降ってわいたものではなく、それなりの根拠があるのかもしれません。サリア様と下賤のルーウィーが愛しあったとすれば、これは醜聞です。そのことがファジオ様にルーウィー狩りを決意させた一因であるという考えは、本当に馬鹿馬鹿しいことでしょうか。
エステルと相談できたらどれほど良かったでしょう。悔やんでも悔やみきれません。わたしは黙っていたのです。サリア様の不名誉になる流説を自分から広めることはないと思ったのです。
それに──どんな顔をして話したらいいのでしょう。あまりにも馬鹿げていました。
さらに馬鹿げていたのは、わたしがその噂を信じてしまったことです。