表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
シアラおやすみ  作者: 雨猫
1/3

その1

 ひとりの人間がその生涯で犯す殺人、ひとりの人間が殺すことのできる人数に、神が上限をもうけておられなかったのは、まことに残念に思われます。ファジオ・トーラという男はなんと多くのルーウィーを殺害したことでしょう。天が我々をお試しになるためにかれを使わしたのでなければ、かれこそが悪魔だったに違いありません。ルーウィー、生まれながらの放浪者、生まれながらの道化、教会の大楯から落ちこぼれたはみ出し者がその悪魔に打ち勝ったという事実は、ひとつの皮肉であると同時に、勇気に関するあらたな洞察を我々に与えます。猊下、詳細はこういうことなのです……。


 ──デルロイ司教より

 シディム主教へ宛てられた手紙からの抜粋。



「では最後の質問です」サリア様はおっしゃいました。

 サリア様の瞳は黒く、星を散らしたように輝いています。くちびるは今にもクスクスと笑い出しそうでした。

「緊張していますか?」

「はい」

「あなたは、今までの質問を大変上手に答えました。わたくしはとても満足しています、今のところはね。最後の質問は簡単です。神を信じていますか?」

 わたしは正しい答えを知っていました。それを口にすべきでした。

「いいえ」

 けれど、口をついて出てしまったのです。わたしはあわてて付け加えました。

「母はむごい殺され方をしたんです。わたしの目の前で、一瞬で、その……でも母はまだマシだったと思います。わたしの父と兄は……その、投獄されて、時間をかけて、わたし、あの……」

 喋れば喋るほど、自分を窮地に追いこんでいました。混乱していました。

 サリア様がふわっと浮きあがりました。そう見えたのです。立ち上がってわたしのそばに舞い降り──いいえ、しゃがみました。貴婦人が身に付けた、はじめて見る優雅な物腰でした。わたしは椅子に腰掛けており、サリア様は膝を床におつけになったので、顔の位置はわたしのほうが上になります。サリア様はほほえんで、わたしの手を優しくたたかれました。心の扉をノックするかのようでした。

「トーラ家の一族は、兄の所行を深く恥じています。あなた方、ルーウィーの民を、兄は激しく迫害し、むごたらしく虐殺しました。あなたのような孤児をたくさん作りだしてしまいました。兄のしたことと比べたら、どのような謝罪も追いつくことがないでしょう」

「いいえ、わたし……」

「兄の仕業によって、あなたが信仰を失ってしまったのだとしたら、わたくしは大変に申し訳なく思います。シアラ、あなたは、あなた方の神、コライコの神を信じてよいのですよ。ロマの教えに無理に従わなくてもよいのです。兄は死にました。あなた方の受難は終わったのです」

 母のことなど、いい出すべきではありませんでした。サリア様のお声は深沈としてらして、胸にくいこんできました。わたしは母のことを思い出してしまったのです。家族でひと固まりになった温かくて貧乏臭い生活。ごわごわした母の衣服。頬と頬がふれあう恥ずかしいような甘い時。麦の香りが鼻をつきました。気がつくとわたしは、げっくげっくと変な声で泣いていました。

 ですからわたしは、初対面でサリア様に面倒をかけてしまったことになります。サリア様はわたしを抱きしめ、慰めてくださいました。

「アナーリアがあなたの部屋を割り当てるでしょう。アナーリアはまた、あなたに仕事を教えるでしょう。あの人は言葉が足りないけれど、考えはある女ですから、いうことを聞くのですよ。信仰を取り戻せると良いですね。わたくしにそのお手伝いができたら、なお良いのですけどね」


 下女頭のアナーリアがわたしを女中部屋のひとつに案内しました。相部屋になったのはわたしと同じ十一歳の、灰褐色の髪をした綺麗な女の子です。

「エステル・ミーズ。あなたは?」

「シアラ・マーテル」

「ルーウィーね」

「ええ」

「じゃあ友達になれるわ」 

 エステルも孤児でした。サリア様は、わたしやエステルのようなルーウィー族の孤児をみずから面接し、仕事のお世話をしてくださるのです。

 エステルとはすぐに友達になれました。お城の仕事は掃除、洗濯、食事の支度、お風呂の用意、駄馬や豚などの家畜の世話、なんでもやらされます。監督のアナーリアは四十歳くらいの太った人です。機嫌のいいときは鼻歌も歌いますけれど、ちょっとしたことでぷんぷん怒る癖がありました。わたしもよく叱られましたが、どうということはありません。エステルは影でアナーリアの物まねをやっては、わたしたちを笑わせました。

「あらあら、どうしてコレがここにあるんだろう。どうしてあるんだろう。どうして? なぜなの? 誰か返事なさい!」

 わたしは三、四日でやるべきことと、してはいけないことを覚えました。一、二週間後にはお城になじんでいたと思います。それでも恐怖の日々は、亡霊のようによみがえってわたしを苦しめました。


 鋼鉄と炎の夢から目覚め、わたしは長年の習性ですぐさまベッドを抜け出し、窓の外をのぞきました。美しい夜で、森閑としています。

「夢?」

 狭苦しい部屋ですから、エステルがすぐにわたしの様子に気づきました。

「ええ。ごめんなさい。起こしてしまって」

「別にいいわ。わたしもよく見た。ここは平和よ、シアラ。おやすみ」

「おやすみ、エステル」

 彼女のいう通りでした。窓の外にそびえるのはデルロイ候サリア・トーラ様の居城。

 デルロイ城は大きい城です。天を衝く巨塔が立ち並ぶ大要塞です。シディム王国西部最大の軍事基地で、隣国のプシャン王国、エーベル王国をにらむ、国境城塞線の中心です。デルロイ領は北辺に内海の港を有しておりますので、サリア様は海軍の総帥でもあられます。尚武の気風を尊ぶこのデルロイを、かつて領してらしたのが、サリア様の兄君にあらせられるファジオ・トーラ様でした。

 ファジオ様は俊英の聞こえ高いお方でしたが、わたしたちルーウィーには厳しい政治をなさいました。ルーウィーは放浪の民です。歌や踊り、曲芸を売り物にして町を渡り、諸国をめぐって生きてきました。むかしから迫害の対象になりがちでしたけれど、ファジオ様のそれは徹底しておいででした。

 デルロイの領国に入ったルーウィーは例外なく殺されました。そればかりか、ファジオ様はシディム王国全域に追跡の手の者を放ち、ルーウィーを狩りあつめては串刺しになさいました。理由は、ルーウィーの民が邪教を奉じているからとか、ルーウィーが隣国と通じてシディムを諜報しているからだとかいわれています。しかし一番の理由はそのころ蔓延していた流行病のせいだったでしょう。たくさんの人が熱病で死んだのです。人々はそれをルーウィー族の妖しい魔術のなせる業と信じていました。

 ルーウィーのなかには、わたしの家族のように土地を買ったり、開墾したりして畑を耕す権利を持った者もいました。ファジオ様はそういった定住するルーウィーさえ捕えて殺しはじめたのです。わたしの家族は土地を追われました。噂と中傷がわたしたちをいぶり出したのでした。

 ファジオ様統治下のデルロイの様子を、おさな心に覚えています。街筋に死体が捨てられていました。街道には裸の死体が山になっていました。疫病の感染が恐ろしくて誰も片付けられないのです。四ツ辻には、ルーウィーの処刑者がさらし者になっていました。胴体を貫通した太い串が林立して、眼のない眼で道行く生者を見下ろしていました。カラスが真っ黒にたかり、蝿がかすみのように舞い、狼が死体を噛みちぎっていました。森の動物は人の姿におびえるものですが、当時の獣は逃げ出すそぶりもなく我が物顔で死体に群がりのさばっていました。誰もそれを、どうすることもできずにいたのです。一度など、大きな熊が屍肉をあさりに市内に入ってきたと聞きます。それでなくとも街は、人の住処というよりネズミの巣でした。

 動物ならマシでした。夜になると、濁りきった血をすするために森の妖魔が這い出てくるという話でした。なるほど魔界の光景だったと思います。地獄でした。わたしたちルーウィーにとっては特にです。軍馬は魔獣でした。騎乗する兵は死神です。わたしたちを捜していました。熟睡は許されません。一刻の気のゆるみも。人間が妖怪に見えました。化け物に見えました。『どうして?』わたしは出会った大人たちの瞳に訊ねました。『なぜあの人たちはこんなことを?』

 大人たちの灰色の瞳は同じ問いを反射していました。『なぜだろう? なぜかれらはこんなことをするのだろう?』。驚くべきことですが、迫害者の人々も同じ問いを瞳に揺らめかせていました。『なぜだ? いったいどうしてしまったんだ?』。誰も答えを知りませんでした。わたしたちはやり方を教えられていない遊戯のまっただ中にいました。死をもてあそぶ遊戯のなかに。虫の足をちぎって、もがくのを楽しむファジオ様の世界に。死と苦痛がわたしたちを侵していきます。はじめは眼に、続いて耳に、鼻に。死臭は肌に染みこむのです。死は皮膚から入りこみ、いつしかわたしたちと同化します。同化できてしまうのです。すると、どうなるか。何も感じなくなります。

 ファジオ様の統治は、唐突に終わりました。警備の厳重なデルロイ城にひとりの暴漢が忍びこみ、物陰から飛び出して、ファジオ様の心臓を短剣で刺し貫いたのです。ファジオ様はその場でお亡くなりになり、やがて厳粛な葬儀がおこなわれました。高官の方々は、候位の継承順序を調べて驚かれたと思います。法によれば、トーラ家の家督を継ぐのはファジオ様の妹君、サリア様ということになっていました。サリア様がシディム国王陛下から正式に侯爵を授与されると、奇跡がおきたのです。

 ルーウィーの迫害がはたとやんだのでした。死体が片付けられ、長く猛威をふるっていた疫病が終息したのです。街はきれいになりました。道もです。動物は森へ帰りました。粘る腐臭が、清涼な風でぬぐわれました。獄から放浪の民が解き放たれ、処刑者は丁重に葬られ、四ツ辻には花が植えられました。

 ルーウィーの信仰とは疑うこと、などとむかしの僧侶が諷刺したように、わたしたちはなかなか人を信じません。実際わたしは、面接で泣き出すまで人を信じる気持ちを忘れていたと思います。

 サリア様のおそばにおつかえさせていただいて、それを取り戻せそうでした。

 今や、ルーウィーを傷つけるファジオ様の命令は、サリア様によってことごとく撤回されています。それどころか、サリア様はわたしたちに非を詫びる布告にすら署名なさっておいででした。

 エステルのいう通りです。外はおだやかでした。


 わたしたちは巨大な機構の歯車のように駆動して、大要塞に清潔と快適をもたらしました。春と夏は体にあわなくなった服とともに過去となり、わたしは十二歳になりました。

 うすら寒い秋風が、ひとつの懸念を運んできます。ルーウィーの女子にとって十二歳は儀式の時期のはじまりなのです。相談相手ならたくさんいます。特に同じ部屋で暮らすエステル・ミーズとは互いを相棒と認めあう仲になっていました。しかし、エステルにはいえません。信仰上の問題なのです。

 エステルは純朴に小人神コライコを信じています。コライコの信者は十二歳から十五歳までの春に一度、祝宴をもよおす習慣があります。ルーウィーの女子はみな、その時の儀式で『祝祭の女王』と呼ばれる五月の精霊を身体にむかえて、子供から女になるのです。

 エステルは勘のいい女の子ですし、一緒に暮らしている以上、いつまでも悩みを隠し覆せません。ある日の夜です。

「シアラ、あなた祝宴を恐れてる?」

 わたしには不安があったのでしょう。うなずくしかありませんでした。

「もったいない。わたしは去年すませたけど凄く楽しかったよ。なんでも楽しまなきゃ」

「うん」

「心配なんていらない。準備はみんなが勝手にやってくれるし、日時だって、月神の運行と照らし合わせて水晶師が決めてくれる」

「そうもいかないの、エステル。わたしの秘密を聞く?」

「悪魔の秘密以外はどんな秘密も聞くよ。秘密と流説はルーウィーの糧」

 ことわざで答えるエステルに、わたしは打ち明けました。

 わたしはロマ教徒なのです。

 わたしの父はデルロイのある村に土地を買って農業をいとなんでいました。村に早くとけこめるよう、父はコライコへの信仰を捨てて、国教であるロマ教に改宗したのです。これはルーウィーであることをやめるに等しい行為です。シアラというわたしの名前もロマ教の司祭様につけていただいたものなのです。

「でもあなた、ロマ教の礼拝に出てないよね?」

「熱心な信者ってわけじゃないから」

「じゃ、いい機会だよ」エステルは眼を輝かせました。「シアラ、あなたはわたしたちの祖神、コライコのところへ帰ってくるべき」

「そうかしら」わたしの気持ちは重いままです。

「ルカはコライコの信者なんだよ?」

 ──ルカなんて別に。

 といいかけて、わたしは黙りました。


 ルカはわたしより二歳年上で、わたしたちの年代のルーウィーのなかでは花形といっていい、人気のある男の子でした。かれはカスケス伯ザビール様の従士なのです。将来は騎士になるかもしれません。これはとんでもないことでした。ルーウィーが騎士になるなんて、ほんの数年前までは考えられないことだったのですから。

 そもそもザビール様が変わり者でらっしゃいます。お年はもう五十を越してらしたでしょう。小柄で、短足で、お腹が突き出ていて、ヒゲは黒々として、頬と鼻が赤くなってらっしゃいます。ルーウィーを低く見たりせず、また身分にこだわったりもせず、要するにシディム語さえわかればロバにだって話しかけるようなお方でした。

 よくお酒の匂いをただよわせて厨房に迷いこんでらっしゃいます。

「ばあさん」アナーリアのことをそう呼ぶのです。「おれたちに何か喰わせてくれまいか。残り物でかまわん。簡単なものでいいんだが、たしか帆立貝の残りがあるよな?」

 おれたち、とおっしゃるのは他でもありません。ザビール様はどこへでもルカを連れてゆくのです。ルカは堂々としていました。ルーウィーが生来もちあわせている卑屈さを産湯で流してしまったに違いありません。あつかましく、図々しく、どこかとぼけていました。

 ザビール様はルーウィーの少年を四、五人は召し抱えてらしたでしょう。なかでもルカを可愛がっておられるのは明らかでした。ルカは馬と槍と弓矢を習っていて、今年の夏におこなわれた馬上槍試合の年少の部に出場しました。革鎧を身につけ、木製の槍を水平にかまえたルカが出てくると、会場は笑いにわいたものです。わたしたちは、身内が恥にさらされているような思いでした。ルーウィー族の武者姿にはそれほど違和感があったのです。ザビール様の悪ふざけがまた始まったのだと思いました。世界でただひとり、ルカだけが晴れの舞台を楽しんでいました。

 相手はさる貴族の子弟です。始め、の声とともに二頭の馬が互いにむけて突進します。槍が交差し、馬がすれ違ったとき、金髪の少年がぽーんと宙を舞い、地面に落ちました。誰もが息をのみました。切り取って教本にしたいような鮮やかさでした。ルカが勝ったのです。

 不満の声がいっせいに飛びました。同時にわたしたちは、あらんかぎりの賞賛を拍手にしてルカに送りました。騒然とした会場でルカはゆうゆうと馬を返し、みょうな仕草をしました。手をひらひらさせて、腕をまわすような。あっけにとられて野次と罵声がやみました。見物人を意のままにするのは、曲芸を生業にするルーウィーにとってお手の物です。ルカはわたしたちに拍手をやめるよう合図し、素早く馬をおりました。そして尻をついている、負けた少年に手をさしのべたのです。その動作があまりに自然だったせいでしょう、金髪の少年はルカの手をとって立ち上がり、きまり悪そうな顔をしました。

 ルカは頓着せず、わたしたちのほうへ走ってきました。なんだろうと思いました。わたしのほうへ向かってきます。わたしを見ていました。

「勝者にむくいの口づけを」かれの顔が目の前にありました。「さぁ早く。もたもたしてぼくを困らせないでくれ。ほんの形式なのだから」

 わたしはルカが好きでした。恋してたかもしれません。しかしこれはあまりに無法でした。勝者の口づけは騎士が貴婦人に申しこむもので、従士の分際でそんなことをする人はありません。こんな型破りに加担できない、と思った時、何本かの手がわたしの背を押しました。わたしは困った挙げ句、意を決して、ペロリと前髪をめくったルカの額に少しだけくちびるをあてたのでした。

「ありがとう」ルカの赤くほてったあの顔。

 思い出すと、わたしはかすかに震えます。これが恋愛だとしたら、わたしの恋は戦慄に似ていました。感情というよりは身体の小さな反応にすぎないもの。一方で、かれに愛されたがっている自分がいるだろうか、と考えると、わたしの思考は深みにはまります。戦慄とともに生じる、胸のなかの甘美な高まりを認めないわけにいかないから。わたしはコライコのもとへ転向すべきでした。儀式を受けるべきでした。かれの精神とわたしの精神にかさなりあう部分があれば、わたしはどこかへ踏み出せそうに思えました。

 けれどそうなってしまえば、引き返せないような気もしました。わたしはロマ教徒で、ファジオ様の統治時代は教会に助けられて生きのびました。ロマ教は清潔な一神教です。冷ややかで、美しいのです。ロマ教徒は肉と血にまつわる猥雑なものを捨て去り、不純な欲望を剥離して魂の純化につとめ、天なるお方に近づこうと努力します。わたしの目指す頂にサリア様がいます。月のように澄みきったお姿があります。ルカのことを考えて身体がカッカするときは、サリア様を思い浮かべると、わたしの心は清らかに安らぐのでした。そんなときは男の子のことで高揚していた自分が恥ずかしく、けがらわしく思えるのです。

 わたしはコライコの儀式を受けることで、サリア様を裏切ることになりはしないか心配なのでした。それでいて熱心にお祈りを捧げるわけでもないわたしは、どっちつかずな何者かでした。わたしはルーウィーでありながら放浪した経験もないのです。


 翌日の午後、磨き粉をつかって家具にツヤを出していたとき、アナーリアに呼ばれました。

「サリア様がおまえをご指名だよ」

 わたしは驚きました。

「どうしたんだい? 着替えのお手伝いだよ」

「やったことありません」

「おやまぁ、なんだろうね、この娘は。おびえてるのかい?」アナーリアはあきれ顔です。「シアラ。おまえはただ、サリア様のおっしゃるとおり、裾をおさえたり、留め金をかけたり、帯を結んだりすればいいのさ。さぁ、いっといで」

 拒むわけにはいきません。わたしは歩き出しました。番兵に来意を告げて御殿に入りました。サリア様は大広間にいらして、男の方々に囲まれてらっしゃいます。地図らしい物をみなさんと眺めておいでです。サリア様のお声は指揮官以外の何者でもありません。わたしの姿をお認めになり、

「来客に備えて着替えます。きょうはここまで」

 と、おっしゃったとき、男の方々がさっと道を開けたのが印象的でした。ザビール様が物珍しげにわたしを見て「やぁ」と気安い声を投げかけてくださいます。

「いきましょう」

 わたしはサリア様のあとに続きました。大広間には騎士や司祭や領主の方々がおおぜい参集なさっておられます。そのお一人お一人が、サリア様のために立ち上がり、あるいは黙礼して、デルロイ女候を軽んずるお方は誰もいらっしゃいません。サリア様は冷然と広間をすぎ、私室に入り、さらに奥の寝室にわたしを招き入れました。

「あなたのことが気がかりでした。城には慣れましたか?」

「はい」

「そこの引き出しに肌着があります。持ってらっしゃい」

 いわれた通りにし、振り返ったときわたしは目を見開きました。サリア様はご自分のことをやりすぎでした。つるつると裸になっていくのです。こういった仕事はそもそもわたしのような下女のものではなく、侍女たちのものですし、高貴な女性は侍女にすべてを任せなくてはいけないのです。自分でやってしまえば侍女たちの仕事を奪うことになります。彼女らの誇りを傷つけてしまいます。

 サリア様がそういった考えを馬鹿げたことと見なしてらっしゃるのは明らかでした。たちまち裸になるとわたしから肌着をお受け取りになられました。サリア様の裸身は彫像のように美しく、わたしは将来、自分の胸がふくらんで腰が張れば、こんなふうになるのだろうか、と疑わしく思いました。

「同じ引き出しに靴下があります」

「はい」返事をしてから、あっと息を飲みました。サリア様が背中をむけ、わたしの眼に醜い傷痕が飛びこんできたのです。ほとんど背中一面、腰のあたりまで幾筋もありました。今にも動き出しそうに生々しい、直視するのがはばかられるむごいものでした。

 サリア様はふしぎそうにわたしを振り返り、「ああ」とおっしゃって、

「兄にやられたのです」とご説明くださりました。

 わたしは顔をふせ、命ぜられるままに衣装を次々と運び、アナーリアのいう「裾をおさえたり、留め金をかけたり」という作業のために手を動かしました。

「兄は乱暴な人で──」サリア様が腕をあげるたびに、ハーブに似た香りが飛び散ります。「わたくしを傷つけることを無上の喜びとしていました。悪い人でした。暴君でした。そのことは、わたくしよりあなた方のほうがよく知っているでしょう」

 人魚のつまびくという竪琴を思わせる、お優しい口調でした。

「いつか兄を許せたらと思います。そしていつか、兄がルーウィーの人々に許される日がくればいいと──でもそれは星をつかむより難しいでしょうね」

 歌うようにおっしゃって、サリア様はほほえみを向けてくださりました。少なくともひとつ、わたしとサリア様には共通点があったのです。ファジオ様に傷つけられた、いや、人生を台無しにされた、という。

「あなたは礼拝に顔を見せませんね」

 あまりにも気さくにお訊ねになるので、わたしは自分の問題を切り出していました。

 自分が不熱心なロマ教徒であること、コライコに帰依するかもしれないこと。サリア様は身をひるがえされました。膝をついてわたしの肩をつかみ──お召し替えが完全ではなかったので、わたしはサリア様の乳房がはだけないよう、服を押さえていなくてはならない始末でした。

「シアラ」きっぱりしたお声です。「よく考えなさい。自分で決めるのです。わたくしには確実に保証できることがあります。あなたがロマ教を選ぶなら、教会はあなたを歓迎するでしょう。天主さまの御前ではみな平等です。もしコライコの儀式を受けるなら、そのときは祝福しましょう。コライコを邪神と断じていた兄の時代は終わりました。そして永久にやってこないことを約束します。コライコの信者になったからといって、わたくしの態度が変わるなどと考えてはいけません」

「わたし……儀式を受けるかもしれません」

「それでいいのです。そうなさい」

 あっと思う間にサリア様の腕が、わたしを包んでくださいました。サリア様の御ぐしは花の香りがします。ズキッズキッと脈拍にあわせてうずく頭痛を感じました。ふしぎと痺れるような心地いい痛みでした。


 翌年の春、わたしは儀式を受けました。

 城の中庭の隅をちょっとだけ借りて、ルーウィーが野営に使う天幕を張り、その周りに集まれる人だけ集まるのです。儀式自体は一時間かかりません。わたしは自分を誇らしく思いました。

 アナーリアはシディム人でロマ教徒ですけれど、当然のように儀式に参加し、むしろ仕切っているのが自分でないことを疑問に感じているかのようでした。わたしを呼びつけ、

「あたしはルーウィーの習慣には少しも通じていないけどね」と前置きして話しはじめました。「女だから多少のことはわかる。おまえはね、ますます綺麗になるだろうよ。だから注意しなくちゃいけない。男の子はみんな目的をもってやってくるからね」

 鶏肉をほおばっているルカに眼をやって、アナーリアはお説教を続けました。わたしは嬉しくてたまらず、アナーリアに飛びついていました。普段はこんなことしません。わたしは舞い上がっていたのです。

「ありがとう、アナーリア。大好き」

 アナーリアは困惑したでしょう。

 やがて、天幕のなかに呼ばれました。水晶師と呼ばれる霊媒の女性がふたりいます。球形の水晶を置かれてあり、それを見つめ続けるよう指示されました。十五分も目をそらさずにいたでしょうか。霊媒たちが祝詞のようなものを捧げています。意識が朦朧としはじめ、水晶の内部で白くうごめく靄が、わたしを取り巻き、わたしを沈めてゆきます。ふっと意識が途切れ、気絶しかけました。

「五月の女王はわたしたちのなかに。わたしたちは雪どけのまえぶれ。わたしたちは翼。町を渡る自由な風」

 水晶師たちは最後に歌い、足もとのふらつくわたしを外へ連れ出しました。

 夢から醒めたような気分でみんなの顔を見渡しました。ルカの顔がまず飛びこんできました。エステルもいます。アナーリアやほかの仲間、サリア様もおいでです。サリア様。光芒を放つかのようなお姿がそこにありました。夢でないのを確かめて、わたしは自分からサリア様に近づいていきました。サリア様は、場違いに感じてらっしゃるのか、照れくさそうでした。

「縁故のある者なら誰でも参加できると聞いたので──」と、もじもじしてらっしゃいます。「あなたのお友達のエステル・ミーズと相談して、彼女の手ほどきを受けながら作ったのですが、うまくできたかどうか」

 そうおっしゃりながら、サリア様は背中に隠してらした花冠を見せてくださいました。ヒメムラサキとわたしたちが呼ぶ、野菊の花冠でした。そのつむぎ目は、サリア様がこういった手作業に慣れてらっしゃらないことを瞭然と示しています。子供の作った花冠のようでした。サリア様の白い指が、飛び跳ねがちな茎を編みこんでいく、その不器用さが見えるようでした。あんなにお忙しいサリア様が。

 なにをいったのか覚えてません。胸がつまって何もいえなかったのかもしれません。とっさにひざまずきました。そっと頭に載せられた花の重みを感じました。歓呼の声が沸き立ちました。

 わたしはルーウィーになったのです。わたしたちは、ルーウィーであることを許されたのです。デルロイ女侯閣下その人がわたしたちの習慣を認めてくださった、偉大な瞬間でした。この日が永遠でありますように。わたしは祈ります。永遠でありますように。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ