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幽導灯火伝  作者: 惟霊
81/82

81 座敷牢




 どれほどの時間が経過したのだろうか。重く淀んだ闇の中で光太郎の意識がゆっくりと浮上していく。瞼を開けるとおぼろげな視界に飛び込んできたのは古びた木の格子だった。体を起こそうとすると鈍い痛みが全身を走るが、どうやら大きな怪我はないようだ。薄暗い空間の中でジジジと灯明皿の灯芯が燃える音だけが寂しく響いている。


 座敷牢――そう呼ぶにふさわしい古めかしい牢獄の中に自分達三人が閉じ込められていることを光太郎は即座に理解した。


 六畳ほどの狭い空間は湿気を含んだ重くカビ臭い空気に満たされ、壁には黒い染みがいくつも浮かび上がっている。床は冷たい石畳で、その上に薄い藁が申し訳程度に敷かれているだけだった。天井の隅には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされ、長い間使われていなかった場所であることを物語っている。


 

 耳を澄ませると時折、壁の向こうから小さな音が聞こえてくる。カサカサという小動物が這い回るような音だ。鼠だろうか。いや、普通の鼠にしては音が大きいような気がする。


 光太郎が腰元を確認すると案の定、海王丸の姿はどこにもなかった。敵もさすがに灯士の武器を奪うことは忘れていないらしい。薄暗闇の中で龍次と悠人の姿を探すと、二人とも床に倒れたままだった。光太郎が近づいて肩を揺すると、まず龍次が、続いて悠人が目を覚ました。


「うお! なんだここは! どこなんだ!」


 悠人が飛び起きて周囲を見回す。その顔には困惑と恐怖が入り混じった表情が浮かんでいた。


「落ち着け悠人、怪我はないか?」


 龍次が冷静に状況を把握しようとする。さすがは灯士誕生以前から妖魔と戦ってきた名門天堂家の血筋というべきか、このような状況でも取り乱すことなく仲間の安否を気遣っている。


「ええ、まぁ」


 悠人が自分の体を確認しながら答える。大きな外傷はないようだが、顔色は青白く、額には冷や汗が浮かんでいた。悠人の脳裏には凛の姿が浮かんでいた。彼女も同じような牢に閉じ込められているのだろうか、あるいはもっと酷い目に遭っているのか。考えれば考えるほど不安が募る。


「光太郎は?」


「僕も大丈夫だよ、でもまんまとしてやられたね」


 光太郎の落ち着いた様子に悠人が苛立ちを露わにする。凛のことが心配で仕方ないのに、この状況で冷静でいられる光太郎が理解できなかった。


「おいおい光太郎、これ大丈夫なんだよな!」


 悠人が光太郎の肩を掴んで揺さぶろうとしたその時、光太郎は静かに右手の人差し指を立てて口元に当てた。そして格子の向こうに視線を向ける。


 薄闇の中から足音が近づいてきて、やがて見覚えのある老人の姿が現れた。先ほどまで恭しく頭を下げていた使用人だったが、その表情は一変していた。慇懃な笑みは消え、代わりに嘲笑を浮かべている。


 老人が近づくにつれて牢内の空気がさらに重くなり、息苦しさが増していった。壁の染みがじわりと動いて広がったような気がして悠人は思わず壁際から離れた。


「おやおやお可哀想に龍次様、天堂家の遺産に欲をかいてこんなところまで来なければ、ご友人共々こんな目には遭わなかったでしょうに」


 老人の声は今までとは違い、ねっとりとした不快な響きを帯びていた。まるで腐った果実のような甘ったるい悪意が言葉の端々から滲み出ている。その声を聞いた瞬間、屋敷のどこかでカサカサという音が激しくなった。赤い目が闇の中で一瞬光ったような気がしたが、すぐに姿を見失った。


「なにを企んでやがる! 親父達はどこだ!」


 龍次が格子を掴んで怒鳴りつける。その手に力が入り、木製の格子がギシギシと音を立てた。


「じきに会えますとも。もうすこしで術式は完成し、我らの悲願が一つ達成するのです。くくく!」


 老人の笑い声は常人のものとは思えないほど不気味で、まるで地の底から響いてくるような禍々しさがあった。その笑い声に呼応するかのように、牢の周囲から小さな笑い声が響いてきた。壁の向こう、床の下、天井の上――あらゆる方向から不快な忍び笑いが聞こえてくる。


「てめぇ、人間じゃねぇな! このままじゃすまさねぇぞ!」


「えぇえぇ、どうぞお好きなように。幽導灯の無い灯士など赤子も同然。せいぜい生贄となるその時が来るまで残り少ない人生をお楽しみあれ」


 そう言い残すと老人の姿はスッと闇に溶けるように消えてしまった。まるで最初から実体など持たない幻のように跡形もなく姿を消したのだ。老人が消えた後も、邪悪な気配だけが濃厚に残っていた。


 老人が消えた途端、悠人が頭を抱えて床にへたり込んだ。先ほどまでの強がりは消え、絶望に満ちた表情を浮かべている。凛の笑顔が脳裏に浮かぶ。彼女を守ると心に決めて同行したのに、こんなあっさりと捕まってしまうなんて。自分の無力さが情けなくて仕方なかった。


「ああ! どうしたらいいんだ! 降魔灯がなきゃなにもできねぇ! 犬死だ!」


 悠人の声は震えていた。灯士にとって幽導灯を失うことは手足をもがれるに等しい。ましてやこのような魔界の中では、それは死を意味するも同然だった。凛を助けられないどころか、なにもできずに死ぬなんて、そんなことは絶対に受け入れられない。


「悠人君、付いて来たことを後悔しているのかい?」


 光太郎の静かな問いかけに悠人が激昂する。


「あ、あたりまえだろ!? なんだよ光太郎、偉そうなこと言いやがる割にはあっさり捕まりやがって!」


 悠人が立ち上がって光太郎の胸倉を掴む。その手は恐怖と怒りで震えていた。なにもできない自分への苛立ちと、この状況でも冷静な光太郎への八つ当たりが入り混じっていた。しかし龍次がすかさず二人の間に割って入り、悠人の手を引き離した。


「いい加減にしろ! 危険なのはお前も承知の上だったはずだぞ!」


 龍次の一喝に悠人がたじろぐ。


「そうですけど、このままあっさりやられちまうなんて、俺は嫌ですよ……」


 悠人の声が次第に小さくなっていく。強がってはいたが、心の底では現実となって迫ってくる死の恐怖に震えていたのだ。悠人は光太郎が一人で全て上手くやってくれるものだと勘違いしていたのだ。彼の脳裏にかつて班友だったころの凛の叱責、時折見せる優し気な表情や励まし、そんな記憶が次々と蘇っては消えていく。


 光太郎は乱れた制服の襟を正しながら、二人に向かって冷静に語りかけた。牢の中の邪気が次第に濃くなっていくのを感じながらも、動揺を見せることはない。


「状況を整理しよう。僕達は敵の魔界に捕らえられた。相手はなにやら術式を準備している最中で、僕達はそのうち犠牲になる。ここまではいいかい?」


「おう」


 龍次が頷く。その表情には憤りと怒りが入り混じっていた。


「考えるに、敵の術が完成してない内は龍次君のお父さんや凛さん達も無事なはずだ。恐らくどこかの座敷牢に同じように捕らえられているんだよ」


「だからそれが分かったってどうしようもないだろ! なにもできないんだからよぉ!」


 悠人が再び声を荒げる。凛が今この瞬間も恐怖に震えているかもしれないと思うと、いてもたってもいられなかった。しかし光太郎は鋭い眼光で悠人を見据える。


「なにもできない? ほんとうに?」


「だ、だってそうだろ? お前だって幽導灯がなきゃどうしようもないはずだぞ! くそぉ!」


 悠人が拳を格子に叩きつける。鈍い音が響くが、太い木材で組まれた格子はびくともしない。悠人はそのまま格子を掴んで力任せに揺さぶるが、長年の歳月を経て固く締まった木組みは微動だにしなかった。


 その様子を見ていた光太郎がゆっくりと歩みを進め、格子の前に立った。そして静かに手のひらを木肌に当てると、目を閉じて何かを念じ始めた。


「光太郎、お前それ、なにしてんだ?」


 悠人が訝しげに問いかける。


「悠人君、割りばしを名刺で真っ二つにする手品を知っているかい?」


 唐突な質問に悠人が困惑する。


「は? なに? それって宴会芸で見るやつか?」


「うん。あれはつまりコツもあるんだろうけど、薄い紙でも割り箸を切れると確信することで、思いもよらない力を引き出すことができるんだ。大げさに言えば阿頼耶識(あらやしき)の力。わかりやすく言うと、できるはずがないという観念を越えた確信力の強さだね」


 光太郎の説明に龍次が理解を示す。


「なるほど、唯識論(ゆいしきろん)か」


「うん。二人とも再確認してほしいんだけど、ここは既に霊界の中なんだ。霊界それ即ち心の世界。つまり通常の物理法則を越えて事象に干渉することができるのさ、こんな風にね」


 光太郎が軽くコンコンとノックするように格子を叩いた。その瞬間、信じられない光景が展開された。光太郎の指先が触れた箇所を中心に青白い波紋が広がり、堅牢だったはずの格子が音もなく崩れ始めたのだ。まるで幻のように太い木材が細かく白い粒子となって床に散らばっていく。


 龍次も悠人も目を見開いて驚愕した。幽導灯無しでこのような芸当ができるとは思ってもみなかったのだ。格子が完全に崩れ去ると、牢の外からは冷たく不穏な風が吹き込んできた。


 光太郎は崩れ去った格子の残骸を踏み越えて牢の外に出ると、振り返って二人に告げる。


「さぁ行こう、まずは幽導灯を取り戻さないとね」


 その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。


「おっ、おう!」


 悠人は凛を救うという思いを新たにし、龍次と共に光太郎の後に続いた。


 牢の外には長い廊下が続いており、その先は深い闇に包まれている。壁の奥からは相変わらず異音が聞こえ続け、時折赤い目がちらちらと闇の中で光っていた。





阿頼耶識

唯識論では人の心を8つの層「八識」に分けて考える。阿頼耶識はその最も深い第8番目の層で、「蔵識 ぞうしき」とも呼ばれている。阿頼耶識はいわば「心の貯蔵庫」のようなもので、今まで経験したすべての記憶、無意識の習慣やクセ、前世からの因縁、まだ表に出ていない可能性、これらがすべて(しゅうじ)として蓄えられている場所である。本文では人間本来の持つ未知の可能性を指す。


唯識論

唯識論は大乗仏教の一派である唯識派の教えを指す。これはインド仏教において3〜4世紀頃に興った思想で、すべてが存在するものは「唯 ただ 識 こころのはたらき」のみであり、外界の事物は心の投影、表象であるとする唯心論的な哲学である。つまり私達が「現実」だと思っているものは、実は心の働きによって認識されているに過ぎないという思想である。唯識派は無着とその弟である世親によって大成したとされている。


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